伝説伝承の山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

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1080号秩父・三峰山の神話と伝説

【説明略文】
秩父の三峰山は、かつては奥多摩の雲取山と、白岩山、妙法ヶ岳
(いまの奥宮)の三山を指していました。しかし、いまは妙法ヶ岳か
ら、北への三峰神社、その先端のピークをいっています。三峰神社
から配布されるオオカミのお札は火事や盗難から家を守ってくれる
とされています。
・埼玉県秩父市大滝

1080号秩父・三峰山の神話と伝説

【本文】
 秩父の三峰山とは、かつては奥多摩の最高峰雲取山から北へ、
白岩山、妙法ヶ岳(いまの奥宮)のことを指していたといいます。
しかし、いまは妙法ヶ岳から、さらに北へのびた尾根の先の三峰
神社、その先端のピーク1120mをいっているようです。

 秩父神社奥宮妙法ヶ岳は三峰神社の南東にあり、拝殿から徒い
て1時間ほど距離。明治初年の神仏分離、廃仏毀釈のあとも仏教的
な山名が残っています。奥宮妙法ヶ岳にについては、山旅通信【ひ
とり画っ展】579号参照。

 さて、山からの帰りなど、よく山里の民家の門口に、三峰神社
から配布されたオオカミのお札が貼られているのを見かけます。
お札は、火事や盗難から家を守ったり、「狐つき」を離してくれる
(『埼玉県伝説集成・中』)のだということです。このお札を村の
代表が、三峰神社にもらいに行く時、帰りは必ず夜の山道を歩く
ことになってしまいます。

 しかし村人は、お使いのオオカミが、また天狗が暗闇を明るく
してくれるので安心だといっています。別のむらでは、お札を田
んぼや畑に立てておくと、オオカミが毎日見回りに来てくれ、お
札の所に足跡を残していくなどといっています(『日本石仏事典』)。
このような三峰神社とオオカミの関係にはわけがあります。

 その昔、日本武尊(やまとたける)が東征(とうせい・東の国
々を征伐)の途中、奥秩父の雁坂峠(かりさかとうげ)で道に迷
ってしまいました。その時、どこからともなく白いオオカミがあ
らわれ、三峰山まで案内してくれたのです。武尊は、その山に伊
弉諾尊(いざなぎ・男神)・伊弉冉尊(いざなみ・女神)をまつっ
たというのです。

 その後、武尊の父の景行(けいこう)天皇が、東国各地を見回
って歩き、三峰山にも登り、お宮に「三峰之宮」の名前を与えた
(『山岳宗教史研究叢書17』「武州三峰山・当山大縁起」)そうです。
そんなことから、オオカミは三峰神のお使い(神使・眷属:けん
ぞく)になっています。

 お使いのオオカミはお犬様とも呼ばれます。そのお犬様が子ど
もを産むことを「おぼだて」といい、その時には遠吠えが聞こえ
るということです。遠吠えがすると、神社の人は、その遠吠えの
したあたりに赤飯を持って行き、お神酒とともに供えます。やが
て子どもが生まれると、お犬様がそれを食べ、赤飯はなくなって
いるそうです(『奥秩父の伝説と史話』)。

 話を戻して699年(文武(もんむ)天皇3)というから飛鳥時
代、奈良一言主神の讒奏(ざんそう)のため、伊豆に流されてい
た役小角(えんのおづぬ・役行者)が三峰山にもやってきて修行
をはじめました。これを伝え聞いた関東の行者たちが、われもわ
れもと集まってきて、三峰山は修験の道場として発展します。そ
して修験道の本地仏(ほんじぶつ・神の本来の姿の仏)がまつら
れ、仏堂が建てられるようになりました。

 さらに平安時代になると、弘法大師空海も来山、本堂を建立し
たということです。養和2年(1182・平安時代後期)には、鎌倉
源頼朝の重臣で武蔵国の豪族、畠山重忠(はたけやましげただ)
が三峰山に願文を捧げ、のち方十余里の社領を寄進したと伝えま
す。

 また正平7年(1352・南北朝時代)新田義興(よしおき・南朝
方)が、この山に籠もり、足利基氏(もとうじ・尊氏の子・北朝方)
と戦ったという話もあります。その時、怒った基氏は三峰神社の社
領を奪ってしまいました。結果、神社は衰退、山主も絶えてしまい
ます。かつて神社の領内にあった「馬場平」は、その時の義興に
ちなむ馬場(ばば・馬術練習場所)の跡といわれています(『新編
武蔵風土記稿』)。

 つづいてのち、文亀2年(1502・室町後期)中興の祖と呼ばれ
る行者道満(どうまん)という人が、荒廃した社殿、お堂などをな
げいて再興に努力。同じ室町時代の天文2年(1533)、新社殿を建
て神社は繁栄、聖護院宮(しょうごいんのみや・本山修験宗の総
本山)から「大権現」の号を受けました。そして「三峰大権現」
というようになり、観音院高雲寺(三峰観音院)と名のりました。
その後再び、衰退をくり返します。

 江戸時代の享保(きょうほう)6年(1721)日光法印という人
が、いまの長瀞町の寺から三峰観音院に入り、やがて住職になり、
三峰山を再中興することになります。何とかこの寺を繁栄させよ
うと考えていた時、こんなことがありました。

 享保 12(1727)年の秋の夜のこと、日光法印が三峰観音院の寺
の庭に座っていると、「五丁四方」にオオカミが群がって来ている
ではありませんか。このオオカミの威力で、イノシシやシカの害を
除けるお札ができないものか。日光法印は、早速お犬様のお札をつ
くり村人に配布しました。

 これにご利益があったのか、村人の間で評判になったのです。
山神信仰である眷属(オオカミ)信仰を導入のはじまりでした。
やがて三峰山は、火難・盗難除けの神として、庶民の崇敬を受け
るようになり、関東、東北、信越の各地方にまで三峰講が組織さ
れるようになったのでありました。

 『三峰山観音院記録下書』という古文書にも、「狼二疋宛(にひ
きずつ)雲採山(雲取山)に住し、其(その)眷属九万八千疋有
之由(これあるよし)、人々不思議のおもひをなし日光法印の代に
至りて甲州辺にて悉(ことごとく)信仰あって拝借之札、当代よ
り始ル」とあります。どんな霊山であろうと、やはり民衆の力な
しでの繁栄はないのですね。

 明治初年に入り、例の神仏分離思想が台頭してきます。とどの
つまり、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)によって仏道は廃止とい
うことになり、三峰大権現から三峰神社に改称させられたという
いきさつがあります。

 さてがらりと話が変わって、この山にはこんな伝説があります。
人が住むには水が不可欠です。三峰観音院は、山の頂上にあるの
に、仁王門の前にある池がいつも満々と水をたたえ、水には不自
由しませんでした。一方、南東山腹にある「天空の寺」とか「東
国の女人高野山」とも呼ばれ、当時から人気のあった太陽寺(臨済
宗建長寺派)は、いつも水に不自由していたといいます。

 こんな状態なのに、お参りに来る人の数はまるで逆で、太陽寺は
「女人講」の人たちが大勢きて大にぎわいなのに、三峰観音院の
方は修験道場のせいか、あまりにぎわいませんでした。そこでふ
たつの寺は、話し合い「水と客との交換条約」を結びました。そ
の後は三峰の方も参拝者が大勢来るようになり、太陽寺も水に不
自由しなくなったということです。条約というのはどんな内容だ
ったのでしょうか。

 その太陽寺の話です。太陽寺は江戸時代には、女性たちを救う
「駆け込み寺」でした。その寺の開祖・鬚僧大師(ひげそうだいし)
のところに、ある日美しい娘さんがやってきて、泊まるところがな
いといいます。大師はそれは困るだろうと、お寺に泊めてやりまし
た。朝になり、昼になり、夕方に……。

 娘は働き者でした。そしていつしか寺に住みついてしまいました。
やがて大師は娘といっしょに住むようになり、結婚しました。しか
し妻は自分の身元については名にも話しませんでした。やがて身ご
もり、臨月になりました。そして大師に向かい「7日の間、決して
私の姿を見ないで下さい」といって産室に入ってしまったのです。

 このような話は大体話が決まっています。やはり、3日目に大師
はとうとう我慢ができず、そっと産室をのぞいてしまいました。わ
ッ。そこには大蛇が、赤ん坊をあやしながらとぐろを巻いているで
はありませんか。驚いたのは鬚僧大師です。ただうろたえるばかり。

 すると妻は、「本当の姿を見られたのでは、仕方ありません。も
うここにいられません。この子は人間ですから人間のあなたが育て
て下さいますよう……」。そう言いのこし、妻はいずこかへ去って
いきました。大師は懸命にこどもを育てました。やがてその子は成
長し、鎌倉の源頼朝に仕える名将・畠山重忠(はたけやましげただ)
になったということです。

 またこんな話もあります。南部山城守重直(なんぶやましろの
かみ・江戸前期の盛岡藩(岩手県)2代め藩主)の姫が、病気にな
りました。山城守は病気回復祈願のため、姫の櫛(くし)や笄(こ
うがい・髪を掻き揚げて調える道具)を溶かして大きな釣り鐘を
つくり、三峰観音院に奉納しようとしました。

 三峰観音は東北にまで名前が知られていたのですね。できあが
った鐘を東北南部から運搬、群馬県神流町と埼玉県小鹿野町との
境にある杉ノ峠(父不見山の東にある)まで来た時、姫が亡くな
ったという知らせ。山城の守は、がっかりして鐘を坂道で転落さ
せたしまいました。

 鐘は峠の坂道をゴロゴロふもとの村まで転がっていきました。
村人は、それを動かそうとしましたが、あまりに重く、ビクとも
しません。仕方なくそこにお堂を建て、鐘を安置し、その場所を
堂平(どうだいら)と呼んでいました。そうこうしている間、村
に疫病が大流行。

 三峰観音に祈ったところ、「堂平にある鐘を、三峰観音まで持ち
上げたら病気を鎮めよう」とのお告げです。さあ大変、村中総出
で、鐘を動かしに取りかかりますが、どうしても動きません。そ
こへちょうど、二人の行者が来て呪文を唱えながら、鐘を三峰山
の観音院まで軽々と持ち上げてしまいました。その後は、疫病は
消えたということです。

 もうひとつ、秩父市大滝の三峯神社の姉妹宮とされる[両面神社]
にはこんな話が残っています。両面神社は、秩父(甲州)往還の栃
本から分岐し、十文字峠に抜ける山道にあります。その昔、信州
から姉の神と弟の神がやってきました。疲れた2神は栃本のむら
で一休み。ふとあたりを見回すと、彼方に見える美しい3つの峰
があります。弟神は行ってみたくなりました。

 姉神をそこに休ませて登っていきました。そこは三峰という山
で、景色がよく居心地も抜群。すっかり気に入り姉神のことを忘
れて、腰を落ちつけてしまったのです。残された姉神は、いつま
で経っても帰ってこない弟神に怒りに怒りましたが、やがて亡く
なってしまいました。そのためか、姉神をまつった両面神社のお
祭りには必ず雨が降る(『三峰神社誌』)ということです。

 ある年の5月、三峰神社から奥宮、雲取山をめざしました。天
空のパワースポットとか、何とかパワーとかにぎやかな奥宮ですが、
妙法ヶ岳山頂はいたって静かな空間。ピークには三峰神社奥宮と、
秩父宮登山記念碑も建っています。木製風なベンチからは大展望が
広がっています。丁重に参拝して雲取山をめざし、白岩小屋のテン
場に幕営しました。

 別の年の4月、こんどは太陽寺から妙法ヶ岳、雲取山を歩いたこ
とがあります。太陽寺には、閻魔堂(十王堂)があって、13体の
仏像群があり、とくにエンマ様が大きな口を開けて迎えてくれまし
た。天狗と間違うような鬚僧大師のお面もあります。畠山重忠はこ
の人に育てれたのでしょうか。

 そこから秩父神社奥宮経由で雲取山へ。ここの周辺の山行ではど
うしても白岩小屋のテン場泊まることになります。ここでの夜はに
ぎやかで、暗くなるとシカがたくさんあらわれます。暗闇の中、光
った目だけがあちこちにうごめいています。テントから出ると、や
はり子どものシカが興味ありげに集まってきました。


▼三峰山・神社【データ】
★【所在地】
・【三峰山・神社】埼玉県秩父市大滝(旧秩父郡大滝村)三峰。秩
父鉄道三峰口駅の南西6キロ。秩父鉄道三峰駅からバス三峯神社

★【位置】
・北緯35度55分31秒、東経138度55分50秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図「三峯(甲府)」

★【山行】
・某年5月25日(土・快晴)

▼【参考書】
・『奥秩父の伝説と史話』太田巌著(さきたま出版会)1983年(昭
和58)
・『角川日本地名大辞典11・埼玉県」小野文雄ほか編(角川書店)
1980年(昭和55)
・『山岳宗教史研究叢書14』「三峯信仰とその展開・横山晴夫」(名
著出版)1980年(昭和55)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『図聚天狗列伝・東日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・「日本神社総覧」(新人物往来社)1991年(平成3)
・『日本石仏事典』庚申懇話会(雄山閣)1979年(昭和54)
・『日本の民俗11・埼玉』倉林正次(第一法規)1977年(昭和52)
・『日本歴史地名大系11・埼玉県の地名」(平凡社)1993年(平成
5)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成21

 

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【とよだ 時】山の伝承探査
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 漫筆画文・駄画師・漫画家
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