伝説伝承の山旅通信【ひとり画っ展】とよだ 時

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1072号山の妖怪・天狗とはなんだ?

【説明略文】
平安時代中期ごろまで木霊のようなものと思われていた天狗が、次
第に修験道と結びつきます。落ちこぼれた山伏くずれが、山から下
りて一般民衆の中に入り込みます。そうした連中の中にも一通りの
苦行、ある程度の行力のある山伏がいて、加持祈祷、揉み療治、薬
草施与、中には恐喝や、押し売り、女性を拐かしたりし、天狗のせ
いにして山に逃げ込んだりしたらしい。

1072号山の妖怪・天狗とはなんだ?

【本文】
 いまさら天狗なんてといわれそうですが、ま、少しの間お付き合い下さ
いませ。あちこちの山々を歩いていると、天狗山、天狗岳、天狗岩、天狗
平などの天狗の文字がつく地名が目につきます。山名事典には、70もの
文字がならんでいます。地名の由来は、地形や岩の形が天狗面に似て
いるものもありますが、なかには実際天狗さまがすんでいると伝承される
山もあります。

 しかし、天狗の文字がついていなくても天狗がすむいう山は数多くあり
ます。たとえば富士山には陀羅尼(だらに)坊(太郎坊)、長野県木曽御
嶽山の六尺坊、富山県立山には縄乗坊(しじょうぼう)という名の天狗、
愛媛県石鎚山(いしづちさん)には法起坊(ほうきぼう)などがいるといい
ます。そんなことから興味を持ち、各地の山々の天狗めぐりがはじまりま
した。

 国語辞典には、「天狗は深山に棲息するという想像上の怪物。人のか
たちをし、顔赤く、鼻高く翼があって神通力を持ち、飛行自在で羽団扇
を持つ」などとあります。そして天災・人災を起こすことなど自由自在、人
間同士のけんか、いたずらが大好きな魔物でもありますから困ります。こ
んな天狗にも階級があるといいますから愉快です。上から大天狗、中天
拘、小天狗、木の葉天狗、カラス天狗、白狼(はくろう)とならびます。

 江戸古川柳に、「ありそうでないのが中天狗」というのがありますが、中
天狗はいるそうです。そしていちばん下に溝越天狗(みぞこしてんぐ)が
いるのだそうです。この溝越天狗というのはまだろくに空も飛べず、溝を
飛び越すにもときどき落ちるという。いちばん上の大天狗でも、名前がな
い天狗が多く、ある天狗はそれこそ大物の天狗なのです。そのほかの下
っ端はとるに足らない「ゴミ天狗」、ただいたずらをしてるのみ。

 いままで木霊(こだま)のようなモノだといわれていた天狗が、次第に修
験道との結びついていきました。そして修験者の移動とともに各地の山
々に広がっていったらしい。その証拠に、吉野の金峰山を模した東京奥
多摩の御岳山のように、奥の院に吉野の天狗の弟分の天狗がまつられ
ていることでも分かります。修験道の祖といえばあの役行者(えんのぎょう
じゃ)。あちこちの山を開いた人物として知られ、開山した山は記録に残
るものだけでも約80座を数えます。

 この役行者が起こした修験道は神道と仏教の両方をとり入れ、山や谷
を巡りながら苦行するもの。小角は少年時代から大の山好きで、山に入
っては自然と一体となり、次第に家に帰らないようになり、ついには神通
力を得て、17、18歳のころには、すでに山の神である一言主命(ひとこと
ぬしのみこと)を自由に扱い、前鬼、後鬼を水くみや、まき割りに使って
いたというからうらやましい。のちに前鬼、後鬼は天狗に昇格します。

 この修験道が盛んになり各地の集団が統一され、身分が確立されてく
ると、山伏になりたいという志望者が急増します。各集団には苦行を積ん
で呪験・行力に秀でた行者が次々にあらわれます。そんななか、その能
力に限界を感じてあきらめたものや、落ちこぼれた山伏くずれが、山から
下りて一般民衆の中に入り込みます。

 そうした連中の中にも一通りの苦行、ある程度の行力のある山伏がい
て、加持祈祷、揉み療治、薬草施与、中には恐喝や、押し売り、女性を
拐かしたりし、天狗のせいにして山に逃げ込んだりしたらしい。そんなこと
から天狗とは恐ろしいバケモノだという風潮が根づいていきます。

 しかしまた、山伏として山中を駆けめぐり心身を鍛え、険しい岩場で行
を練り、岩屋に籠り、法験・行力をそなえた呪験師となった山伏も多くい
ました。葛城山高天坊、白峰大僧正、白山正法坊、大峰前鬼・後鬼、愛
宕山太郎坊、飯綱三郎、古峰ヶ原隼人坊、筑波法印などなど、古くから
知られた天狗は、その山を本拠とした大行者、または行者たちによって
まつり上げられた天狗です。もちろん、法験(ほうげん・超能力)によって
名声をうたわれた名僧がなった天狗も多くいます。そして各地の天狗の
活躍ばなしが人々の噂になると、天狗そのものが次第に神格化されてい
くのでした。

 さて日本での天狗の最初の記録は、『日本書紀』(巻第二十三)の記
事(637年・舒明9)です。そのころは天狗と書いて「あまつきつね」読ませ
ていたという。それからしばらくは天狗の文字が文書、記録には出てきま
せん。平安時代中期になり『源氏物語』(第五十四帖 夢浮橋)や『宇津
保物語』(俊陰)などに「天狗」の文字がちらほら。

 平安末期になると『今昔物語集』などで天狗が俄然活躍をし始めます
(巻第二十)。一方、こんな話もあります。平安後期、父鳥羽法皇の長い
院政で、実権がなく不満を感じた崇徳上皇は、保元の乱(1156年)を起こ
しますが失敗、讃岐(香川県)に配流(はいる)。失意のどん底にいる崇
徳院をなぐさめるため、毎晩のように現われる天狗がいました。

 その天狗は、自分は相模という名前だと名のっており、まさに丹沢の
大山から来た相模坊です(『雨月物語』巻の一)。一説には、生きながら
魔界に入った崇徳院だとする説もあります。その相模坊天狗はいまのよ
うな姿ではなく、鳥の姿のカラス天狗です。天狗はもともと、すべてカラス
天狗だったということです。天狗が活躍し出すのは、グーンと下った室町
も南北朝あたり、朝廷がふたつに分かれ政情が不安定になるとイタズラ
天狗は喜びます。

 『太平記』(巻第五)の中に「高時天狗舞い」という記述があります。北
条八代執権の北条高時は、天下の不安の声も聞きもせず、「田楽舞い」
にうつつを抜かし、上方から家元を呼び寄せて手習い、日夜宴舞に日を
暮らすというていたらく。ある夜、酔ってひとりで舞台で踊っていると、どこ
からともなく田楽法師たちがあらわれ、舞いはじめました。そして「天王寺
のや、妖靈星を見ばや」と歌い囃したてます。

 あまりに賑やかなので、ひとりの侍女がのぞいてみると、ナント!北条
高時と踊っているのは、くちばしとがり、羽の生えたカラス天狗の山伏た
ちでした。高時は酔っぱらって、髻(もとどり)をつかまれ引き回されたり、
吊り上げられたり、さんざんになぶりものにされています。侍女はあわて
て秋田入道(安達時顕)に知らせました。

 駆けつけた秋田入道の足音に、天狗の山伏たちはたちまちパッと消
え、畳の上には鳥の足あとだけが残っていたといいます。天狗たちが歌
っていた「天王寺の妖靈星」の歌は、聖徳太子の『未来記』という本にあ
る北条氏滅亡の時期の予言。天狗法師はいまその時が来たことをうたっ
ていたのでした。

 かつてNHKで放映された『太平記』という大河ドラマがありました。こ
のドラマの舞台になったのは南北朝時代のまだ鼻が高くないカラス天狗
であらわされていた時代。物語には天狗の陰謀が数多くからんでいま
す。なかでも有名なものは京都仁和寺(にんなじ)の六本杉の梢で行わ
れた「天狗評定」です。夕立のため仁和寺の六木杉のかげで雨やどりし
ていた禅僧が、たいへんなものを見てしまいました。

 雨がやんで月明かりのなか、ふと杉の梢を見上げると、大物天狗がズ
ラリならんでなにやら相談中。一段高い上座には、後醍醐天皇の皇子大
塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)。護良親王はもと建武
新政府の征夷大将軍でしたが、「中先代の乱」のときに足利尊氏の弟・
直義に殺された皇子です。そのわきには、これも後醍醐天皇の外戚(が
いせき)にあたる峰僧正春雅。さらに左右には南都の僧・智教上人、浄
土寺の忠円僧正など。いずれも眼が金色で羽のはえたカラス天狗の姿。
怨念から天狗になったという面々ばかり。

 このときの会議は、足利家に内紛を起こさせようというもので、内容は
「まず、尊氏の弟・直義の妻のお腹を借り、大塔宮が生まれる。次に尊氏
が帰依(きえ)している禅僧・夢窓国師の弟子で野心家の妙吉侍者の邪
心にとりつく。そして上杉重能、畠山直宗に邪法を吹き込み、高師直、師
泰兄弟を滅亡させ、尊氏兄弟にけんかをさせるというものでした。

 その翌年にも愛宕山で天拘集会が行なわれたという。この謀議がまと
まった直後、上杉重能、畠山直宗が殺されました。また翌々年には高師
直一族が亡ぼされ、その次の年には直義が兄の尊氏に忙殺されるなど
大波乱が起こり、とうとう天狗たちの思うつぼになってしまいました。このこ
とは、詳しく『太平記』(巻第二十五)に記述されています。

 さて、修験道と結びつき、守護神になった天狗は、南北朝あたりから
霊山や力のある山伏集団のいる山で勢力を増していきます。なかでも最
も強い力をもった天狗が8人(八狗)選ばれ「日本八天狗」と呼ばれてい
ます。それは、愛宕(あたご)山太郎坊、比良山次郎坊、飯綱三郎、大峰
前鬼(ぜんき)後鬼(ごき)、鞍馬山僧正坊、彦山豊前坊(ぶぜんぼう)、
相模大山伯耆坊、白峰相模坊(さがみぼう)の8狗です(天狗は1狗2狗
と数える)。

 八天狗の筆頭は(1:愛宕山(京都)の太郎坊(栄術太郎)。京都の愛
宕山は全国の愛宕社の総本社のある所です。同名の山が各地に30近く
もあり、神社の数は約800社。どの神社も天狗の愛宕宮をまつってありま
す。太郎坊の前身(天狗になる前)は、弘法大師空海の十大弟子のひと
り真済上人だといいます。真済上人が、文徳天皇の妃(きさき)染殿皇后
を見染めてこがれ死にし、その怨念で天狗になった姿らしい。とんでもな
い人を見そめたものですね。また前身は聖徳太子の恩師である日羅とい
う説もあります。

 太郎坊がいれば、次郎坊もいます。(2:滋賀県比良山(ひらさん)に、
この次郎坊という天狗がすんでいるという。この天狗は『今昔物語集』(巻
十一)のなかにすでに登場。その乱暴さは有名で、讃岐満濃他(まんのう
いけ)のヌシが小さなヘビに化けて昼寝をしていたところを捕まえ、岩穴
に閉じ込めて衰弱させて食べようとしたとか、比叡山の僧侶をさらって食
べようとしたなどの話が残っています。この次郎坊の前身は猿田彦(さる
たひこ・日本神話で天孫降臨の際、天照大御神使いの邇邇芸命(にに
ぎのみこと)を道案内した)だという説もあります。

 次郎の次は三郎が順序です。三郎天狗というのは長野県飯縄山の(3
:飯綱三郎(いづなのさぶろう)。この天狗は少し毛色が違うので次項で
詳しく述べます。(4:古く奈良時代から大峰山にいる前鬼後鬼という2人
の天狗。字のとおり前身は鬼だといい、のちに役ノ行者の忠実な従者に
なり、行者の身のまわりの世話をやいたといい、前鬼が八天狗のひとりに
なっています。いまでも前鬼の里があり、その子孫が修験道の宿坊を管
理しています。

 次は京都の(5:鞍馬山僧正坊の話です。この天狗は日本八天狗の第
2座ですが、話の都合で5番目に紹介しました。僧正坊は牛若丸に武術
を教えた天狗として有名です。この鞍馬山僧正坊の前身は、弘法大師
の十大弟子のひとり、真如法親王(高岳親王)の一番弟子の壱演権僧正
(いちえんごんそうじょう)という平安時代初めの人物という。貞観9(867)
年、この僧正は小さな舟に乗って沖に出たまま天狗になったといわれて
います。

 次は福岡県の(6:彦山豊前坊(ぶぜんぼう)。彦山(英彦山)も修験道
の山として知られています。その彦山の山腹にある高住神社が、豊前坊
の社だといわれています。岩壁の一角が洞窟になっていて、そこが豊前
坊のすみかだったという。このほか、日本八天狗には神奈川の(7:相模
大山伯耆坊(ほうきぼう)と香川の(8:白峰相模坊(さがみぼう)がいま
す。

 この名前の相模とは、神奈川県の旧名です。神奈川県の丹沢・大山
は信仰の山として知られます。かつて大山には、たくさんの子分の天狗
をつれた相模坊という大天狗がいたのですが、なにがあったか、四国・
香川県の白峰山に移ってしまいました。(天狗信奉の修験者たちの移動
にともなうものか)。以来白峰相模坊と呼ばれています。

 一方、丹沢の大山天狗の親分(相模坊)が四国へ移った(平安時代中
期まで?)あと、鳥取県・伯耆大山から伯耆坊(ほうきぼう)が移ってきたと
いう。その年代ははっきりしませんが、室町中期から戦国時代の間らしい
とされています。南北朝の争い以後、伯耆大山の大山寺僧侶たちが盛
んに派閥争いをします。寺々に火をつけ大山寺をも燃やしてしまう荒廃
ぶり。伯耆坊はこんな所はと見限ってさっさと丹沢の大山に移ってきまし
た。

 相模坊が大山からいなくなってから500年ぐらいあとの話だそうです。
そのあとの伯耆大山は、清光坊という天狗が支配しているということで
す。この天狗の引っ越しを「天狗の山移り」といい、同じような例はほかに
もあります。たとえば妙義山の天狗日光坊は日光から来たらしいし、源義
経に仕えていた常陸坊海尊天狗は、義経が最期を遂げたあと高館山ら
青森県恐山に移っています。この海尊の場合も山移りの一種とみていい
でしょう。

 室町時代末期になり、日本画の狩野派2代目・狩野元信が初めての
大天狗「鞍罵大僧正」を描きました。それは今までのカラス天狗と違って
山伏姿の鼻の高いカッコいい天狗です。その威厳のある姿に各地の山
々の天狗信奉者たちは、みなこの姿の天狗にのりかえてしまいました。
そのため、いまでは天狗といえば赤ら顔で鼻の高い姿が一般的になって
います。

 さて少し毛色が違った天狗、長野県飯縄山にすむ飯網三郎の話で
す。狩野元信が新しい天狗の姿を描き出したあとでも、この姿にのりかえ
ず、昔と変わらないくちばしのとがった姿を守りとおしている天狗の系列
がいます。それが飯縄系の天狗です。飯綱三郎は飯縄系の天狗の総元
締めです。飯縄系の天狗の姿はほかの天狗と違い、背中に火炎を背負
い、白いキツネに乗った荼吉尼天(だきにてん)の姿。

 その前身は、泰澄の弟子でいつも寝そべっていたその名も臥行者(ふ
しぎょうじゃ)か、またはその系統の行者だろうといわれています。飯縄山
頂の直下にある飯網神社の祠の中には2匹のキツネに乗った荼吉尼天
の石像があります。これがまさに飯網三郎天狗像。飯縄系の天狗は、こ
のほか静岡県の秋葉山三尺坊、神奈川県箱根明星ヶ岳の道了薩た(ど
うりょうさった)、東京の高尾山飯縄権現、茨城県の加波山岩切大神な
ど、みな飯縄系の天狗です。

 江戸時代になると、天狗小僧寅吉や神城騰雲など天狗にさらわれ、天
狗と一緒に生活してきたという者まであらわれます。国学者の平田篤胤
などは、寅吉少年から天狗界の様子を聞き書きするなど熱心に研究して
いたようです。明治時代になると西欧の先進国の知識に追いつけと背伸
び体制。妖怪・天狗など迷信扱いになります。証明も行灯(あんどん)か
らランプ、電灯になっていき、天狗もおちおち姿を見せられなくなってい
きます。そのうえ神仏分離令とかで、廃仏棄釈の嵐が吹きまくり、山伏姿
も幅を利かせられなくなりました。

 そして現代、いまや人工衛星、宇宙旅行、ミサイルの時代。山々も走り
に走り、山の神・天狗などねじ伏せて登る時代。またなんとか百名山とや
らを駆けめぐり、山岳耐久レースなどとしてテレビで放映する時代。さらに
は山小屋へ名物メニューを食いに、いっぱい飲みに出かける時代。天狗?
なにを寝ぼけてんだとますます相手にされなくなっています。

 しかし、いくら俗信だ迷信だといわれても、何百年何千年と人間が胸
に温め、育ててきたこれらの日本の文化。民話に商標マークに、そして
山々の神社仏閣のシンボルに消え去るモノではありません。天狗はます
ます山奥の崖の岩屋で、仲間を集めてイッパイ傾けながら生き続けてい
るに違いありません。

 さらには人間社会に入り込み、姿を変えてナントカ天狗などと、我慢邪
慢自慢そのままに生き続けていく道を選ぶ天狗もいるのはご承知の通り
です。以上天狗の山として取り上げたほかに、身近な山々にも名のない
天狗、名のある天狗は数えきれないほどいます。山歩き中に「天狗」と名
のつく地名を見つけたら、その周囲の神社などに祠はないか観察してみ
たら、きっと意外な天狗に関した石碑などを発見するかも知れません。

▼【参考文献】
・『雨月物語』上田秋成:『雨月物語』(日本古典文学全集48)高田衛校
注・訳(小学館)1989年(平成1)
・『宇津保物語』(上)(有朋堂文庫)デジタルコレクション:武笠三校正
(有朋堂書店)大正15(1926)年
・『源氏物語』国会図書館デジタルコレクション。
・『今昔物語集』:日本古典文学全集24『今昔物語集3』馬淵和夫ほか校
注・訳(小学館)1995年(平成7)
・『図聚天狗列伝・東日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本書紀』(巻第二十三):岩波文庫『日本書紀4』坂本太郎ほか校注
(岩波書店)1996年(平成8)
・『日本未確認生物事典』笹間良彦著(柏美術出版)1994年(平成6)
・『宿なし百神』川口謙二著(東京美術刊)1979年(昭和54)

 

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【とよだ 時】山の伝承探査
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 漫筆画文・駄画師・漫画家
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