伝説伝承山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

……………………………………

1064号北陸白山別山大行事・正法坊天狗」

簡略説明
白山からちょっと離れたところに別山があります。この山頂の祠は
別山神社で以前は聖観音をまつっていました。ここには天狗白山正
法坊が住んでいるという。その前身は泰澄の弟子浄定行者。もとは
神部浄定という船主でしたが修行後、並はずれた通力を持つように
なったという。
・石川県白山市と岐阜県高山市と白川村との境。

1064号北陸白山別山大行事・正法坊天狗」

【本文】
 北陸の白山は、富士山・立山とともに「日本三名山」のひとつに
数えられています。また白山は山頂が御前峰・大汝峰・剣ヶ峰の3
つに別れており「白山三峰」といいます。そしてこの三峰にまつら
れている神を「白山三所権現」と呼びました。さらに先の「白山三
峰」と、南にある別山・三ノ峰を加えて「白山五峰」というそうで
す。三山・五峰・七不思議など日本人には三・五・七の数字が合う
のでしょうか。

 それはともかく、今回取り上げる別山(べっさん・2399m)は、
白山三峰の御前峰から南方へ歩いて4時間以上離れており、その名
のように別格扱いの山。別山は四海(しかいなみ)浪岳ともいいま
す。四海浪岳とは、山頂近くにある大岩石に青海波(せいかいは)
の波紋があり、これにちなみその名があるという。青海波は、雅楽
の演目の衣装に使われる文様で、半円形を重ねたものを鱗状に並べ
て波を表したもの。

 ある年の9月、別山南方にある三ノ峰避難小屋(岐阜・福井・石
川県境)から登ってきました。途中、別山室跡近くの御手洗池の水
は、飲料にするには煮沸が必要とか。ひと踏ん張りで別山山頂に立
ちました。360度の展望が広がっています。

 遠く浮かぶ北アルプス白馬、立山、穂高、御嶽、そして荒島岳。
などの山々。そのわきにうっすらした影は富士山か?家に帰って調
べたら南アルプス北岳だという。南アルプスまで見えるんだあ。別
山山頂には二等三角点があり、その直下に祠があります。祠は小白
山別山大行事(おじらやまべつざんだいぎょうじ)という神をまつ
る別山神社で、明治時代になってから改名した神社。

 明治以前、白山信仰が盛んだったころ、白山登拝路としては「越
前禅定道」、「加賀禅定道」、「美濃禅定道」の3つの禅定道(ぜんじ
ようどう・白山本道とも)がありました。別山はその中のひとつの
「美濃禅定道」。これは長滝白山神社(岐阜県郡上市)から銚子ヶ
峰、三ノ峰、そして別山から御前峰をめざす登拝路の途中にある山
だったのです。

 さて、ここ白山を開いたのは泰澄という上人です。越ノ大徳・神
融禅師(じんゆうぜんじ)とも呼ばれ、とても泰澄などと呼び捨て
には出来ないエライお坊さんです。奈良時代の天武11年(682)に
越前国麻生津(あそうづ)(いまの福井市)に生まれ、14歳の時越
前越知山(おち・いまの福井県丹生郡朝日町)に登って修行を積ん
だという。

 同じ奈良時代、霊亀2年(716)のころ、白山神が「貴女」に姿
を変えて泰澄上人の夢にあらわれ、自身が住んでいる山に登れとい
う。上人はその導きで、弟子の臥行者(ふせりぎょうじゃ)と、浄
定行者(じょうじょうぎょうじゃ)をともなって白山に登ることに
なったのでした。上人が白山の翠ヶ池(みどりがいけ)のほとりで白
山神を祈っていたとき十一面観音に出会いました。

 次に別山に行くと、弓矢を持った宰官があらわれ、自分は聖(し
ょう)観音の別の姿・小白山別山大行事(おじらやまべつざんだい
ぎょうじ)であると告げました。この小白山別山大行事が、いま別
山にまつられている神です。

 その次に大汝峰に登ると、老人に会いました。老人は、もとの仏
の姿は阿弥陀如来だが、仮の神の姿は大己貴命(おおなむちのみこ
と)であると名乗りました。これら三峰の神が先に書いた「白山三
所権現」です。ところで仮の姿だ、もとの姿だ、別の姿だと、なん
ともこんがらがりますが、これは神仏習合で考え出された「本地垂
迹(ほんぢすいじゃく)説」に基づいたもの。

 日本の神々は仮の姿(垂迹)で、その本当の姿(本地)は仏であ
るとする考えのことだという。上記の中で別山の部分を整理すると
次のようになるようです。別山にまつられる神の姿は、現身が弓矢
を持つ宰官で、垂迹神は天忍穂命(あめのおしほみみのみこと・ア
マテラスの子)、垂迹仏が小白山別山大行事で、本地仏は聖観音だと
いうのです。その上、応化身(おうげしん)が浄定行者だとしていま
す。応化身とは、仏や菩薩が世の人を救うため、姿を変えてあらわ
れることといいます。相手は神さまなのでいろいろな姿であらわれ
るのですね。

 山頂にある祠はいまは別山神社ですが、明治政府の神仏分離令発
令以前は、「小白山別山大行事権現」として、その本地仏の聖観音
をまつっていたのです。しかし明治政府の神仏分離令発令後は、神
仏習合の神号の「権現」がついているのはけしからんというので権
現の文字を取り、小白山別山大行事と改名。それと同時に、その本
地仏の聖観音なども強制的にふもとに降ろされ、いまは白山市の白
峰林西寺(りんさいじ)白山仏堂に、ほかの仏さまたちといっしょ
に安置されています。なかには破壊されたものも多いという。

 さて白山には3人(3狗)の天狗がいることになっています。ま
た天狗かといわれそうですが、修験道の名山はどうしても天狗が出
てきてしまいます。第1の天狗は御前峰にとどまっている白峰大僧
正で、これはここを開山した泰澄大師が化身したものです(山旅【画
っ展】677号)。

 ところがこの天狗の下で、広大な神域である白山の統轄する手伝
いをしている天狗がいると『鞍馬寺所伝天狗神名記』という文書に
あるというのです(『図輯天狗列伝・東日本編』)。それがここ別山
にいる白山正法坊天狗で、そのもとの姿は浄定行者だと天狗研究者
の知切光歳氏はいっています。浄定行者は泰澄上人と白山に登って
きた二人の弟子のひとりです。俗名は神部浄定(かんべきよさだ)
です。

 その昔、泰澄上人が新潟県の米山(992.5m)に籠もり修行、そ
して米山の頂上に、薬師堂を建てて薬師如来をまつろうとしました。
泰澄上人は早速、本尊の薬師如来像を彫りだし、弟子の臥(ふせり)
行者は資金集めにかかりました。臥行者が米山山頂から沖を見ると、
年貢米を積んだ船が次々に通っていきます。

 この船から鉄鉢一杯分でも寄付米を乞おうと鉢を投げました。鉢
は臥行者の神通力に乗って船めがけて飛んでいきます。船の乗員た
ちが驚いて見ていると、「鉢にご喜捨を」と米山山頂から声がしま
す。乗員たちが鉢に米や銭を乗せると、鉢が飛び上がり山へ帰って
いきます。この不思議さが船乗り仲間で評判になり、鉢が飛んでく
るのを待つようになりました。

 ある秋の日のこと、飛鳥時代から奈良時代に突入した和銅6年(西
暦713)年というから泰澄上人31歳の時でした。臥行者がいつも
のように沖行く船に鉄鉢を飛ばしました。しかし、その船は米を出
羽の国(いまの山形県と秋田県)から朝廷に上納する運搬船でした。
船主の神部浄定(かんべきよさだ)は飛んできた鉄鉢に、「ここに
積んである米はすべて官米、少量たりとも渡すことはできません」
と喜捨をことわりました。

 そして鉢を投げ返しました。とたんに、鉢は空中で向きを変え、
「喜捨1俵」と声を出していう。断ると「それでは2俵」という。
それでも断ると「じゃあ100俵」と鉢がいいます。神部浄定は逃げ
るため船の向きを変えますが動きません。そればかりかりか船が大
揺れに揺れ、ひっくり返らんばかり。

 乗組員が「積み荷を捨てろ!転覆するぞ」と叫びだすしまつ。す
ると「捨てるなら米は貰う」という声がしたかと思うと、船に積ん
であった米俵がフワリと空中に舞い上がり、あとからあとから列を
つくって、臥行者のいる米山に飛んでいきます(『越後野志』)。こ
れは越智山(おちさん613m)での出来事だという説もあります。

 船主である神部浄定は大慌て。米俵が飛んでいくあとを追って行
くと、泰澄上人の住まいの前に俵が高く積まれています。神部浄定
は、泰澄上人に会い、「欲情卑悋(ひりん)にして、淨供(じょう
く)を備へず。然れども是れ官物なれば慈顧を垂れたまへ」と事情
を話しました。すると「あれは臥行者の仕業、すぐ返すようにいっ
ておく」。浄定が船に帰ってみるとすでに米俵は戻っていたという。

 神部浄定は目の当たりにしたふたりの法力に感嘆し、米を運び終
わるとそのまま泰澄上人に師事、浄定行者(じょうじょうぎょうじ
ゃ)と呼ばれるようになりました。こうして浄定行者も泰澄上人の
もとで修行に励みます。そして浄定行者もただならぬ神通力を持つ
ようになりました。

 飛鳥から奈良時代のある時、元明天皇(女性天皇・在位707〜
715)が重い病気にかかったことがありました。薬餌・祈祷などい
ろいろ手を尽くしましたが効き目がありません。さんざん困った末、
白山にいる泰澄上人を指名、加持祈祷を任すことになりました。

 泰澄上人は、浄定行者をお供に御所に向かいましたが、午後4時
ころになって祈祷に必要な三鈷杵(さんこしょ)を忘れてきたこと
に気づきました。あわてた上人は、浄定行者を山まで取りに向かわ
せました。浄定は白山に帰って鈷杵を持って御所に戻ってきたので
すが、その間たった2時間だったという。その神業に廷臣たちはた
だ驚き舌を巻くばかり。

 またこんなこともありました。泰澄上人が天皇のそばで祈祷をし
ている間、浄定行者は外で休んでいました。彼は元来が、ちびっこ
の上に背中が曲がり、容貌がはなはだ醜く、まるで猿のようだった
という。それを廷臣や官女たちが、小声で嘲笑するのを見た浄行者
が怒り出し、そばにあった太い柱にちょっと手を触れました。する
と宮殿が大揺れしてミシミシとゆがみ出し、廷臣たちを震え上がら
せたという話もあります。

 こうして泰澄上人は、白峰大僧正天狗になって御前峰にとどまり、
浄定行者は白山正法坊天狗になって別山に、もうひとりの弟子臥行
者は大汝峰にとどまって(天狗名は不明)いまも白山全体を管轄し
ているということです。


▼別山【データ】
【所在地】
・石川県白山市と岐阜県高山市と白川村との境。最短コース:JR
北陸本線金沢駅からバス市ノ瀬下車、歩いて6時間で別山。二等三
角点(2399.4m)と別山白山神社の祠がある地形図上には山名と三
角点のとその標高のみ記載。
【位置】
・二等三角点:北緯36度06分19.67秒、東経136度45分56.58秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「白山(金沢)」


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典21・岐阜県」野村忠夫ほか編(角川書店)
1980年(昭和55)
・『角川日本地名大辞典17・石川』(角川書店)1991年(平成3)
『山岳宗教史研究叢書10・白山・立山と北陸修験道』高瀬重雄編(名
著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・東日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『天狗の研究」知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系17・石川県の地名』(平凡社)1991年(平成
3)
・『日本歴史地名大系21・岐阜県の地名』(平凡社)1989年(平成
元)
・『斐太後風土記・上』(首巻,巻1至12)(大日本地誌大系第7、10
冊)富田礼彦著(大日本地誌大系刊行会)大正4(1915)年(国立
国会図書館電子デジタル)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)

 

……………………………………

 

【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
……………………………………
 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

山旅通信【ひとり画展】題名一覧へ戻る
………………………………………………………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」トップページ
【戻る】