山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼148号「北ア・五龍岳の割ビシ」

【概略】
五竜岳の名はもと餓鬼岳。ここの岩壁(ガキ)の割りビシは領主の
紋章武田菱と似た形。そこで御菱(ごりょう)と呼んだ。明治後期、
三枝威之介がゴリョウを五竜と当て字し雑誌に発表。以後、お上発
行の地図にも五竜と記入、いまに至っているという。
・長野県大町市と富山県黒部市との境

▼148号「北ア・五龍岳の割ビシ」

きり立った崖の山はガケ岳です。そこでその山を村人はガケ岳と呼
びます。それがいつしかなまってガキ岳になり、神秘的な山なので
仏教にちなみ「餓鬼」の字を当てるようになります。

北アルプス後立山(うしろたてやま)連峰にそびえる五竜岳もゴツ
ゴツ岩壁でまさに餓鬼岳そのもの。江戸時代から庶民は餓鬼岳と呼
んでいたという。

しかし五竜とは?昔は立山と書いてリュウザンとも読みました。富
山県側から見ると立山の後ろにあるの後立山(ごりゅうざん)。そ
こからゴリュウの名がついたとの説も…。

また、尖った稜角のある山を菱(ひし)といいます。そして、雪も
つかない岩壁もヒシといい、五竜のヒシは割れているので割りビシ
です。

戦国時代、ここ五竜の山ろくも武田信玄の勢力下。領主の紋章がた
またま同じ菱の武田菱です。その上、おらが割りビシもなにやら武
田菱に似た形。

そこで領主サマに気がねしてか、御をつけ、御菱(ごりょう)と呼
ぶ人もあらわれます。1908年(明治41)になり、当時の登山者三枝
威之介がゴリョウを五竜と当て字して雑誌に発表してしまいまし
た。

以後、お上発行の地図にまで五竜と記入されるようになり、いまに
至っているのだそうです。ものの名前なんていい加減なものですね。

▼【データ】
【山名】五龍岳(ごりゅうだけ)・餓鬼ヶ岳・割菱ノ頭(わりびし
のあたま)・御稜岳・割菱岳(わりびしだけ)・この地方の方言で菱
(ひし・りょう)は断崖・割菱の意味で、この山の岩肌に走る岩稜
から割菱ノ頭・割菱岳といった説。

武田の勢力下にあった頃、武田菱に似た岩稜を御稜(ごりょう)と
読んだ説。また富山方面から見て信仰で賑わった立山の後ろにある
後立山(うしろたてやま)を後立(ごりゅう)と読んだという説が
ある。

【所在地】
・長野県大町市と富山県黒部市宇奈月町旧地区(旧下新川郡宇奈月
町)との境。大糸線神城駅の西8キロ。JR大糸線神城駅からテレ
キャビンを利用歩いて8時間で五龍岳。写真測量による標高点(28
14m)と三等三角点(停止【亡失】)(基準点成果等閲覧サービスで
あらわれる)がある。地形図に五龍岳の山名との標高点の標高の記
載あり。付近に何も記載なし。

【位置】
・標高点:北緯36度39分30.24秒、東経137度45分9.63秒)

【地図】
・2万5千分の1地形図「神城(高山)」or「十字峡(高山)」(2図葉
名と重なる)

【参考】
・「角川日本地名大辞典20・長野県」(角川書店)1991年(平成3)
・「新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「旅と伝説」三元社(昭和17年2月号・p10)「山と地形のことば」
高橋文太郎:「民俗学資料集成29」(岩崎美術社)
・「富山県山名録」橋本廣ほか(桂書房)2001年(平成13)
・「山の紋章・雪形」田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和56)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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