山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼113号 「西丹沢・城ヶ尾峠の伝説」

【概略】
いまも城跡が残るという城ヶ尾山。かつて南朝方の新田義興が鎌倉、
河村郷経由で甲斐に落ちる時砦を築いたという伝説。また信玄が小
田原の北条氏康を攻めた時陣を張ったとのいい伝えがあります。あ
る時、酔狂にも城跡をもとめ登ってみました。しかし、探しに探し
たがとうとう見つかりませんでした。でも…。
・神奈川県山北町と山梨県道志村との境

▼113号 「西丹沢・城ヶ尾峠の伝説」

神奈川県の西丹沢・畦ヶ丸と菰釣山(1379m)の鞍部に城ヶ尾峠(神
奈川県と山梨県境)という峠があります。付近は登山者も少なく、
いまだに残る深い木々の中を静かな尾根歩きが楽しめます。

古くは山梨県道志村側の三ヶ瀬地区名に関連してサガセ峠、三ヶ背
(さがせ)峠などと呼ばれ、甲斐の国と相模の国を結ぶ間道で、いろ
いろな武士たちがこの峠を山梨県道志側に越えていったといいま
す。

ただ、いまは神奈川県側地蔵平からの道は荒れ果てやぶがはびこっ
てしまい通行もままなりませんが。城ヶ尾とはすぐ西の城ヶ尾山の
名前からきているそうです。

この山にはいまも城を築いたような形跡が残っているともいいま
す。かつて南北朝の時代、南朝方の忠臣新田義貞の次男義興が足利
尊氏らに敗れ鎌倉を逃れてから河村郷(いまの神奈川県山北町)の
河村城にかくまわれます。

しかし、足利勢の猛攻撃に絶えきれずついに落城。たまらず西丹沢
山中に退却、城ヶ尾峠付近に城を築き防戦しました。しかし、やは
り足利側の力は強く敗れて峠を越えて甲斐側の降り、はるばる越後
に落ちていったといいます。

それとは別に戦国時代には、武田信玄が小田原の後北条氏(伊勢氏)
の氏康を攻めた時(1569年・永禄12)このあたりに陣を張ったとの
いい伝えもあり、あるいは信玄の城の跡ではないかとの説もありま
す。

城ヶ尾峠から南の地蔵平への途中にある信玄平は、武田信玄がその
とき休んだとされる地名ともいわれています。ある時酔狂にも城ヶ
尾峠から城ヶ尾山に登り、城跡を探したことがありました。

薮をかき分けあっちをガサガサ、こっちをガサガサと歩きまわりま
す。しかしお城の土台になるような大きな岩は見あたりません。あ
るのはもろく砕かれた小石ばかり。こりゃだめだと、とうとうあき
らめました。

▼【データ】
【山名】・新田義興、足利尊氏に追われ城ヶ尾峠に城を築いたとい
う伝説がある。

【所在地】
・神奈川県足柄上郡山北町と山梨県南都留郡道志村との境。小田急
新松田駅からバス、大滝橋下車、さらに歩いて畦ヶ丸経由で4時間
半で城ヶ尾峠。地形図に峠名の記載あり。

【位置】
・城ヶ尾峠:緯度経度:35度28分31.51秒、東経139度00分34.45
秒(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)

【地図】
・2万5千分の1地形図「中川(東京)」(国土地理院「地図閲覧サ
ービス」から検索)

【参考】
・「尊仏2号」栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成
1)
・「日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・「イラスト丹沢・山ものがたり」とよた 時(山と渓谷社)1991年
(平成3)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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山旅イラスト【ひとり画通信】
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