山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

……………………………………

▼1011号北ア・大日岳とうば尊

【略文】
立山の別山乗越から、ほぼ直角に交わって西へ延びる大日尾根。西
から前大日岳、大日岳、奥大日岳と大日三山がならびます。ふもと
の芦峅寺には嫗尊をまつったうば堂があり、東正面に見える大日岳
は朝日が昇る山。その山頂に宇宙を照らす太陽の神大日如来(嫗尊
の化身)をまつったらしい。
・富山県上市町と立山町の境。

(本文は下記にあります)

1011号「北ア・大日岳とうば尊」

【本文】

 奈良中期の大宝元年(701)のこと、越中国守佐伯有若の息子、
佐伯有頼少年が、大きな熊を追って奥山をふみ分けていた時のこと
でした。あえぎあえぎ険しい山道を登っていましたが、とうとう一
歩も足が前に進まなくなってしまいました。その時どこからか、「ナ
ムアミダブツ……」と唱える声が聞こえてきます。なおも登ってい
くと、急に目の前が開け、大きな滝があらわれました。滝の音が称
名念仏を唱える声に聞こえていたのです。

 有頼少年は、滝の神々しさにその場に座り伏し拝みました。それ
で滝の名を「称名滝」(しょうみょうだき)、佐伯有頼が拝んだ場所
は「伏し拝み」と呼ばれるようになったといいます。いま立山駅か
ら室堂行きのバスも、滝が見えるところで停車し、乗客に見物させ
てくれます。また立山駅からバスに乗れば、称名滝手前30分のと
ころまで行くことができます。

 有頼がやっと立山に着き、見たのは胸に矢が刺さった阿弥陀如来
の姿。大熊だと思ったのは、実は阿弥陀如来そのものでした。突然、
阿弥陀如来の姿を拝した有頼は一大発心。慈興(じこう)と名のっ
て立山信仰がはじまりました。やがて立山寺(岩峅(いわくら)寺、
芦峅(あしくら)寺)の宗教村落が開かれます。

 それまでは修験道の山として、修験者が山中を歩き回っていまし
たが、山麓に宗教的村落が出来ると、修験者たちは社僧、宗徒など
として、定住して生活するようになりました。芦峅寺、岩峅寺は鎌
倉時代にはすでに立山信仰の拠点となっていたという。いま芦峅寺、
岩峅寺は、明治の「廃仏棄釈」で、寺自体はなくなってしまいまし
たが、芦峅寺、岩峅寺の地名はいまも残っています。

 当時、両寺の宣布活動にはそれぞれ管轄範囲が決まっていたとい
う。芦峅寺は諸国を回国、立山の霊験を説き広めていました。岩峅
寺は、主として地元北陸の越中、加賀、能登、越後の一部をと、と
もに立山登拝を勧めていきました。芦峅寺の信仰の中心は、うば尊(う
ばそん:通称おんばさま・女偏に田が3つ)をまつる姥堂でした。一
方、岩峅寺に居つくのは「立山権現」の神でした。芦峅寺にまつられ
ていたうば尊の本地仏(ほんじぶつ・うば尊の根本である仏)は、大
日如来で(如来の化身)で、宇宙を照らす太陽であり、修験道の本尊
です。

 うば尊は立山権現の母神などともされ、当時、男子だけが極楽往
生を遂げるという仏教観に対し、うば尊は女性救える唯一のものと
され、極楽浄土行きを願う女性が全国から集まったといいます。お
んばさま(おんば三尊)のうば堂には、本尊として釈迦如来、阿弥
陀如来、大日如来の三尊がまつられ、過去、現在、未来をあらわし
ていたという。このうば尊は、天地開闢の時、右手に五穀の種、左
手に麻の種を持って、立山芦峅の影向石(ようごうせき)に天降り、
すべての人に衣食を与え、万物の母となったという。

 かの佐々成政も、冬の立山越えをするとき、芦峅のうば尊一体を担
いで行きました。成政は、その霊験によって山越えに成功、信州(長
野県)大出(おおいで)集落にたどり着けると、うば像を大出集落に
まつり、静岡県浜松の家康に会いにいったという。そのとき、村
人がこれをまつったのが、いまある西正院の大姥堂だそうです。

 さて、立山室堂バスターミナルから剱岳に向かう途中に、別山乗
越という所があります。そこから西に延びる山脈を大日連山という
そうです。今回の大日岳は、この大日連山にある山。宗教村落、芦
峅寺・岩峅寺は、大日連山の西方の山ろくにあり、かつて修験者は、
山ろくから東方にある大日岳に向かって登ったため、大日連山上の
山の名前も西から前大日、早乙女岳、大日岳、中大日岳、奧大日岳
の順になっています。

 大日岳の名は大日如来に由来した山、山頂にはかつて大日堂があ
ったという。芦峅寺のうば堂(女偏に田が3つ)から東正面に見え
る大日岳。この山から太陽が、さん然と姿をあらわれることから大
日岳の山頂に大日如来をまつったらしい。そのお堂は剱岳を背にし
ていて、剱岳を拝む位置に建てられていました。修験者たちは、お
堂に参篭するために峰入りしたのだという。

 そして頂上に着くと、お堂のまわりを目隠しして3回まわるしき
たりでした。ちなみにこの堂(祠)を創建したのは佐伯有頼で、そ
の後、弘法大師が再建したという伝説があります。またこのあたり
には源頼光が、この山中に黄金の仏像を隠してあるといいますが、
これを探しに行くと濃霧がたちこめ、発見できないという話もあり
ます。
 この尾根筋には幅3mに奥行き4mぐらいの行者岩屋もあり、そ
の上に花崗岩の大岩壁が屋根になっているという。まわりにはヤマ
ザクラやクロユリが咲き、水飲み場もあります。近くの「七福園」
にも行者岩屋があり、修験者の行路であったことをしのばせます。
岩峅寺の行者たちの入峰(順峰)は西から東へ、岩峅寺−尖山(と
んがりやま)から来拝殿山、大辻山、早乙女岳、大日岳の順に登り
ました。

 一部の行者はさらに東へ別山、立山、浄土山、ザラ峠、薬師岳、
太郎山、北ノ俣岳、寺地山、大多和峠、西笠山、熊尾山、高杉山、
岩峅寺と、鍬崎山(有峰湖も)を中心とした円を描くように回った
という。それこそ大縦走であったわけです。ちなみに中大日の高山
植物が咲き乱れる「七福園」は、花崗岩が巨岩累々とした自然庭園。
立山のヌシといわれた牧野平五郎が、名士一行とこの山に来たとき、
女性が1名参加しており合わせて7人。彼女を「弁財天」にたとえ
て、七福神の名からこの名にしたという。

 雪を抱く大日岳の姿は、平野部から眺めると優美です。春には3
人の乙女が、雪形となってあらわれるという。山頂からの眺望も素
晴らしく、日本海に沈む夕日はとくに見事。いま大日岳から西への
登山道はありません。去る2000年(平成12)、この山頂で発生し
た大型雪庇崩落が、文部省登山研修所冬山研修生を巻き込んだ事件
がありました。これは南西の季節風で、北東に張り出した雪庇が、
山頂部から崩れたものだそうです。やはり冬の風も強そうです。

▼大日山【データ】
【所在地】
・富山県中上市町と立山町の境。富山地方鉄道立山駅からバス、
称名滝下車。5時間30分で大日小屋、さらに40分で大日岳。2等
三角点2498.2mと標高点2501mがある。
【位置】
・2等三角点:北緯36度35分59.1秒、東経137度32分58.56秒
・標高点:北緯36度35分58.07秒、東経137度32分59.46秒
【地図】
・2万5千分の1地形図:剱岳
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典16・富山県』坂井誠一ほか編(角川書店)
1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「立山の昔話」監修・遠藤和子(立山黒部貫光株式会社)発行年
不明
・『富山県山名録』橋本廣ほか(桂書房)2001年(平成13)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系16・富山県の地名』(平凡社)1994年(平成6)

 

……………………………………

 

【とよだ 時】 山と田園風物漫画
……………………………………
 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

山旅通信【ひとり画展】題名一覧へ戻る
………………………………………………………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」トップページ
【戻る】