山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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▼028号「北ア・槍ヶ岳の祠」

【略文】
北アルプスの槍ヶ岳はやはり登山者の人気の的。きまって山頂の祠
をバックにカメラにおさまります。初登頂は播隆上人という江戸後
期の念仏僧。阿弥陀、観音、文殊の3体の仏像を山頂の小祠に安置。
のち、釈迦像を加え4体にし山の寿命神にしたという。

▼028号「北ア・槍ヶ岳の祠」

【本文】
文字どおり、天を突くような北アルプス槍ヶ岳(3180m)はあまり
にも有名です。やはり登山者の人気の的になっています。山の名は
穂先の形によるのだそうです。夏山シーズンになると、押すな押す
なの行列が続き、きまって山頂の祠をバックにカメラにおさまりま
す。初登頂は播隆(ばんりゅう)上人という江戸後期の念仏僧だと
いう。

1828(文政11)年の夏、銅製の阿弥陀如来、観世音菩薩、木造の文
殊菩薩の3体の仏像を背負って登ったという。その苦しみは背中の
尊仏たちも汗を流すほどだったと「信州鎗嶽畧縁起」に出ています。
山頂を平らにし、北側の高いところに小祠を造り安置。のち、みん
なが登れるようにと「善の綱」と名付けた綱を岩壁につけ、木の祠
をつくり新たに運んだ銅製の釈迦像を加え4体にし山の寿命神にし
たという。

ちょっと長いですが、播隆上人が著わした「信州鎗嶽畧縁起」とい
う文書を転記してみます。「抑(そもそも)信濃国鑓が嶽は、名だ
たる高山にして、麓は飛騨信濃両國にまたがり、峨々(がが)とし
て雲に聳ゆ。登ること十里ばかり。頂上に名にしおふ鑓岩あり。其
高さ凡(およ)そ百間なり。此頂上は往昔(わうじやく)より踏み
登りたる人なしと。

爰(ここ)において、余發願して、去(さんぬ)る文政十一年(1828)
戊子(つちのとね:つちのえねの間違い)の秋、はじめて頂上にの
ぼり、銅像の阿弥陀如来、同じく観世音菩薩、木像の文殊大士(も
んじゅだいし)の三尊を安置し奉る。しかるに頂上直立の鑓岩なれ
ば余踏みひらきたるのみにして、尋常(よのつね)の人、絶えて登
るべき便りなし。しかれば、安置せし尊像の結縁(けち)も空(む
な)しく、労して功なきに似たり。

是を以て、今茲(ことし)天保五年(1840)午(うま)の夏、再び
勇烈の心を發(おこ)し、諸人(もろびと)をして登山せしめんと
おもふ。先(まず)嶽の麓の小倉村の信州(安曇村の内なり松本城
下より三里西)農夫又重郎といへる者の家にいたり、余が志願を告
げ、六月十八日鑓が嶽に登臨(とりん)す。

…かくて木を伐(きり)、草を刈り、道をひらき、鑓岩直立(ちょ
くりう)七十間の間、木の鍵を結(ゆ)ひ合(あわ)せ、善(ぜん)
の綱(つな)と名(なづ)けて、諸人登山のたつきとす。此(ここ)
において、又重郎、並びに狩人貳人、産業を止め、余に助力せんと
て、頂上に登りけり。

又其後、飛騨の国の黒鍬職(くろくわしょく)の者、労を助けんと
して、後を慕ひ登山せり。此等の輩(ともがら)、…峰を平(たひ
ら)げ、石をたたみ、頂上を竪(たて)三間に、横九尺の平地(ひ
らち)となしぬ。また、木を彫(ほ)りて、方(ほう:正方形の一
辺の長さ)壹尺貳寸の祠を造り、銅像の釈迦文佛(しゃかもんぶつ)
を安置す。

初め其尊像奉持荷擔(※担)(ぶじかたん)(※奉持=捧げ持つ、荷
擔(加担)=背負う)して、百間の鑓岩を登りつる時、尊像の相好
(さうかう)より、御汗(おんあせ)を流したまふを拝し奉る。も
のみな奇異(きい)の思ひをなせり。かかる霊験(れいげん)を顯
(あらわ)したまふならば、いよいよ末世(まつせ)利物(りもつ)
(※利益?)の前表(ぜんぴょう)ならむと、共に歓喜(くわんき)
の涙をながしつ。

八月朔日、本尊安置の供養をなさんと、兼(かね)て麓の村へ告げ
おきぬ。其日に至り、松本新橋の佐助、並びに又重郎二人、登山刻
(きざみ)、蝶が嶽といへるまで登り、遙(はるか)に鑓が嶽を詠
(なが)むれば、空より五色の光り糸のごとくに降(くだ)り、鑓
岩の根まで照らし、半時ばかりにして消えぬるを拝せしとてぞます
ます随喜稱歎しつ。

かくて八朔に供養を修し、二佛二菩薩安置の霊場とはなしぬ。また
黒鍬の平兵衛といへる者、日の出の来迎(らいこう)を拝せんとて、
八月六日の拂曉(ほつけう)、頂上に登り、日光を拝し、また北方
の空中を瞻仰(せんがう)すれば、徑(わた)り四五間許(ばか)
りの圓光を現(げん)す。されど、本尊は見えたまはずと。これ罪
障(ざいしょう)の雲覆へるゆゑならんか。

さて頂上より十二三丁下りて、岩窟あり。(三間に五間許(ばかり))。
修造して諸人参籠(さんろう)の通夜の室にせんと欲すれども、力
微々(ちからびゝ)にして、いまだ成就せず。もし余が露命消しな
ば、後に有力(うりき)の衆營造(しゅえいぞう)したまわんこと
を庶冀(しょき)(※請い願わくば)す。山頂開闢(かいびゃく)
の志願成就して、八月中の二日、山を辭(じ)しつ。…」。

こうして播隆上人は槍ヶ岳の山頂に2仏2菩薩を安置、志願が成就
できたのでした。しかし世は明治維新の混乱期に入り、いつか忘れ
られてしまいました。いまあるのはその後何度か再建された祠。厳
しい風雪に耐える祠の中はからっぽです。

8月、槍沢からの行列が山頂までも続いて人々々。ホコラの前での
記念写真もままなりません。あたり一面真っ白けのガスがかかって
います。まるで牛乳瓶に使っているようです。ツァーの行列はいつ
までも続いていました。ちなみに槍ヶ岳は、長野県と岐阜県の境に
あるように見えますがよく見ると、県境を通っているのは小屋のあ
る山頂の肩で、三角点のある穂先は長野県に出っ張っています。

▼【データ】
【所在地】
・長野県大町市、長野県松本市安曇(旧南安曇郡安曇村)と岐阜県
高山市上宝町(旧同県吉城郡上宝村)との境(ただし標高点は長野
県)。篠ノ井線松本駅の北西35キロ。松本電鉄新島々駅からバス、
上高地から歩いて延べ10時間半で槍ヶ岳。写真測量による標高点(3
180m)。(二等三角点は亡失・地形図には記載なし)。地形図に山
名と標高点の標高のみ記載。

【名山】
・深田久弥選定「日本百名山」(第54番に選定):日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる。
・岩崎元郎選定「新日本百名山」(第58番に選定・長野県)
・清水栄一選定「信州百名山」(第68 番に選定)
・田中澄江選定(1981年)「花の百名山」(第74選定)

【位置】
・槍ヶ岳標高点:北緯36度20分31.08秒、東経137度38分51.4秒
・【槍ヶ岳二等三角点:二等三角点は亡失・地形図に記載なし。

【地図】
・旧2万5千分の1地形図「槍ヶ岳(高山)」

【参考文献】
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『山岳宗教史研究叢書10・白山・立山と北陸修験道』高瀬重雄編
(名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書17』(修験道史料集1・東日本編)五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『新稿日本登山史』山崎安治著(白水社)1986年(昭和61)
・「信州鎗嶽畧縁起」(「鎗嶽畧縁起」)(祐泉寺本):『山岳宗教史研
究叢書・17』(修験道史料集1・東日本編)五来重編(名著出版)1983
年(昭和58)
・『信州山岳百科1』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳風土記・1』(宝文館)1960年(昭和35)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』一志茂樹ほか(平凡社)
1990年(平成2)
・『秘録・北アルプス物語』朝日新聞松本支局(郷土出版)1982年
(昭和57)

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山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

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