山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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▼015号「山梨・乾徳山頂の乾徳大権現」

【略文】
山梨県奥秩父前衛のの乾徳山は山頂部が大岩峰になっています。大
きなクサリでよじ登ると360度の展望が広がっています。
その山頂には乾徳山大権現の奥宮の石祠が建っています。南北朝時
代、禅僧・夢窓国師が頂上直下の洞くつで一夏面壁し、座禅を組ん
だという伝承があります。
ふもとの山梨市(旧三富村)徳和集落に乾徳山大権現の里宮があり
ます。

▼015号「山梨・乾徳山頂の乾徳大権現」

【本文】
奥秩父の前衛・山梨県の乾徳山(けんとくさん・2031m)は山頂部
が大岩峰になっています。大きなクサリが備え付けられ、それを利
用してのスリルある登り降りに、登山者の間に賑やかな歓声があが
ります。

登りきるとさえぎるものがなく、360度の展望が得られます。山頂
は岩が積み重なっていて、そこに乾徳山大権現の奥宮の石祠が建っ
ています。ふもとの山梨市(旧三富村)徳和集落には乾徳山大権現
の里宮(1330年・元徳2年夢窓国師創建)があります。

鎌倉時代の末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅
僧・夢窓(むそう)国師が乾徳山頂上直下の洞くつで修行し、一夏
(いちげ)面壁し、座禅を組んだといわれています。

夢窓国師(夢窓疎石)は伊勢に生まれ、4歳の時山梨県に移住。宇
多(うだ)源氏の出身で初め知曜(ちかく)といっていましたが、
ある日、唐の疎山(そざん)と石頭にあそぶ夢を見て「疎石」と改
名します。

幼い時仏門に入り、後醍醐天皇から国師の号を賜り、その後没後も
数々の号が追加され、のちには夢窓正覚心宗普済玄猷(しょうがく
しんしゅうふさいげんゆう)仏統大円国師という長い名の、俗に「七
朝(しちよう)の帝師」と呼ばれる臨済宗の僧になりました。

夢窓国師は乾徳山で修行の後、塩山市(いまは甲州市)小屋敷に乾
徳山恵林寺(えりんじ)を創建。この寺の乾(いぬい・北西)の方
向にあり、また徳和地区内にあるところから乾と徳をとり、乾徳山
と名づけました。

山梨県の地誌『甲斐国志』(かいこくし)には「(乾徳山の)山ノ高
キコト本村ヨリ二里余、夢窓国師一夏面壁ノ地ナリ。国師後ニ恵林
寺ヲ創メ乾徳ヲ号トナス。ケダシ竜ノ乾徳ナリ。柚木ノ竜山庵ニ本
ヅク。或ハ恵林ノ乾位ニアタリ、徳和村(いまの三富村・いまは山
梨市)ノ域ナル故ニ乾徳ト名ヅクルトモ云フ」とあり、乾徳を天の
主竜とも解釈しています。

また同書には国師とゆかりの座禅石をはじめ、硯石・枕立・手水石
・扇平・休息石など山中にある岩や地名も記されています。この山
もかつては女人禁制で、明治中頃まで女性は奥宮に行くのは許され
なかったといいます。

2月のある日、クサリにつかまり山頂へ登ります。ことしは雪が少
ないという。それでも山頂は凍てつく寒さ。その雪と岩の中に1951
年(昭和26)に建て直したらしい銘のあるホコラ。

すばらしい展望に、吹きすさぶ寒風を忘れしばし見とれます。乾徳
山の名は、夢窓国師が開いた山麓の恵林寺(えりんじ)の山号乾徳
山からとったものといいます。

▼【データ】
【山名】乾徳山(けんとくさん)。恵林寺の乾(いぬい・北西)の
方向にあり、また徳和地区内にあるため「乾」と「徳」の字をとり
乾徳山。恵林寺の山号。

【所在地】
・山梨県山梨市三富(旧東山梨郡三富村)。中央線塩山駅の北北西1
3キロ。JR中央本線塩山駅からバス、乾徳山登山口から歩いて5
時間で乾徳山(標高2031m)写真測量による標高点(標石はない)
がある。地形図に山名と標高点の標高の記載あり。

【位置】
・標高点:北緯35度49分21.91秒、東経138度42分53.55秒

【地図】
・旧2万5千分の1地形図「川浦(甲府)」

【参考】
・『甲斐国志』(第2巻・巻之三十八・古跡部第一):(「大日本地誌大
系・第45巻」(全48巻)(雄山閣出版)1982年(昭和57)
・『角川日本地名大辞典19・山梨県』磯貝正義ほか編(角川書店)1
984年(昭和59)
・『日本歴史地名大系19・山梨』(平凡社)1995年(平成7)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)所蔵
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)

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山と田園の画文ライター
ゆ-もぁイラスト・漫画家
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