【全国の山・天狗のはなし】  

▼20:山形県の山

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▼01:羽黒山を開山した蜂子皇子

【略文】
出羽三山といえば山岳信仰で有名な羽黒山、月山、湯殿山の総称
で、なかでも羽黒山は羽黒修験の根拠地です。羽黒山の名は、こ
こを開山した蜂子皇子が3本足の大カラスに案内され、羽黒の阿
古谷で修行したという。その時のカラスの羽の色から、羽黒山と
名づけたという。
・山形県鶴岡市。
▼01:羽黒山を開山した蜂子皇子

【本文】
 出羽三山といえば山岳信仰で有名な羽黒山、月山、湯殿山の総
称で、なかでも羽黒山は羽黒修験の根拠地です。この三山がまと
まった信仰対象となったのは中世後期のことらしいという。それ
より前は、湯殿山を奥ノ院として、「羽黒山・月山・鳥海山」で三
山とするか、「羽黒山・月山・葉山」を三山とする試みもあったと
いう。

 この三山も和歌山県の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、
熊野那智大社)を模してできたものらしく、もとは天台系修験者
が活躍していた地だったという。いまでは羽黒山修験本宗あが独
立し、またそれとはべつに三山神社などの団結などで、羽黒修験
の根拠地になっています。

 三山詣でが盛んになってのは江戸時代に入ってからで、手向(と
うげ)地区、大網地区、注連掛(しめかけ)地区、肘折(ひじおり)
地区、岩根沢地区、本道寺地区、大井沢地区の7つもの登拝口があ
りました。羽黒山修験は一大勢力をもち、「武家不入」の特権をも
ち、坊も衆徒の数も膨大になっていきました。

 しかし、明治維新の廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)で一山は崩壊
してしまいました。ただ民俗的な三山信仰では、今日まで一貫した
信望を集め、東日本中心に、「三山講」の石碑や搖拝所としての塚
もよく見かけます。冬の期間は、積雪で三山のうち、月山と湯殿山
への登山が困難なため、羽黒山に三神合祭殿(山形県羽黒町手向)
で行われています。

 出羽三山も昔は、ほかと同じように女人禁制でしたが、どういう
わけか羽黒山だけ女性の入山が許された山だったといいます。羽
黒の名は、三山を開山したといわれる蜂子皇子(はちこのみこ)
を誘導した3本足のカラスの黒い羽の色(羽が黒)に由来してい
るという。

 山頂には出羽神社(羽黒神社)があり、伊?波(いでは)神を
まつっています。伊?波(いでは)の神は、倉稲魂(うがのみたま)
命のことだともされる穀物の神。

 羽黒山はそもそも、飛鳥時代第32代崇峻(すしゅん)天皇の時
代(在位587〜592)、聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って仏教繁盛の
霊地を求めて全国を回っていました。たまたま出羽国にかかったと
き、紫雲たなびく山がそびえているのを見て、「こここそ仏・菩薩
の霊地なり」と訪ね確かめたところ、大杉の根本に正観音の霊像が
おわすのを見出しました。

 一方、そのころ崇峻(すしゅん)天皇の第3皇子に参弗梨(さん
ふつり・参払理とも)の大臣という皇子がいました。「この人は御
顔醜く、眦(まなじり)長く髪の中に入り、口は脇深く耳の根をと
おり、鼻は下がること一寸、面の長さ一尺」もの異相の持ち主で、
このためか春日(とうぐう)にも立たなかった…」(「出羽国羽黒山
建立の次第」)だという。

 その「余りにも暴荒なる相なるによって、北海の浜辺に捨てられ
たと書く本もあります。捨てられた太子は仏門に入り、聖徳太子を
師として修行に励み、法名を弘海(こうかい)といっていました。
やがて聖徳太子の教えに従い観音さまがあらわれた霊地に向ったの
でした。

 そして三本足のカラスの導きで、羽黒山の阿久谷というところに
入り、そこで聖観音の霊像を感得したとされています。阿久谷で修
行した皇子は国司の腰痛を治したり、村人のさまざまな苦しみを取
り除きました。人々は喜び皇子を能除(のうじょ)太子(または能
除仙)と呼んで感謝したという。

 そのころ、毎夜のように光る不思議な流木が酒田の港に浮いてい
たという。能除太子はその流木で、妙見大菩薩と軍荼利明王の仏像
を彫って、聖観音像とあわせて羽黒三所権現としてお寺にまつりま
した。

 それから能除太子は月山を開き、また湯殿山を開いたと伝えます
(ただ、真言宗系の湯殿山4ヶ寺では、能除太子ではなく弘法大師
が開山したとしているという)。その後、役行者もここを訪れ、一
山を中興したということになっています。ただ開山説はあくまで
伝説の話らしい。

 一方、ここを根拠地とする羽黒修験は、はじめ天台系の本山派
(熊野修験)に属していたそうですが、のちに真言系の当山派(吉
野修験)に転じたという。そういういきさつから、やはりここを
開山したのは弘法大師にしたいところです。

 このようにして出羽三山は、その後多くの修験者たちによって
聖地として大発展していきます。いまでは史上初の女性行者も出
現しているとか。時代は変わりました。この山の行事として、大
みそかに行われる出羽三山神社の松例祭(しょうれいさい)は有
名です。

 松尾芭蕉は元禄2年(1689・江戸中期)に羽黒山から月山、湯殿
山に登っており、『おくのほそ道』に「…坊に帰れば、阿闍梨(あ
じゃり)の需(もとめ)に依(より)て、三山巡礼の句々短冊に書
(く)。涼しさやほの三か月の羽黒山。雲の峰幾つ崩て月の山。語
られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな」などと記しています。

 この霊山、羽黒山には、ちょっと変わった怪人がいることになっ
ています。その名を水天狗円光坊という。円光坊の姿が羽黒山開運
「七千日護摩行者長教」という護符(ごふ)の影像にあります。影
像を見ると、もうひとりの怪人羽黒山三光坊とならんで向かい合っ
て立っています。円光坊と三光坊のふたりは天狗のような姿をして
いて、その下には火炎を中心に、16匹のカラス天狗が囲んでいま
す。

 円光坊は口がとがりまるで河童の天狗です。髪を伸ばし後ろでし
ばった総髪姿で、刀を差して左手で柄を握り、右手で金剛(こんご
う)杖をついて、沓(くつ)をはいて岩に上に立っています。この
護符に火災水災除・厄難消滅とあるところから水天狗円光坊は、水
難除け担当の天狗なのでしょうか。

 水天狗のすむ場所として、研究家は最上川の水の上か、川底か。
陸にすむとすれば陸羽西線清川駅から少し最上川上流の戸川にある
仙人堂周辺ではないかといっています。昔から羽黒山へ登る人や、
羽黒修験の山伏たちは必ずこの仙人堂へ参拝してから向かったとい
います。仙人堂は源義経の家来であった常陸坊海尊(ひたちぼうか
いそん)をまつる廟(びょう)と伝えられているところです。

 このあたり一帯は羽黒山の山内の登山口になっていたらしいとの
こと。その証拠に仙人堂のあるあたりはかつて「山ノ内」と呼んだ
という。いずれにしても水天狗は、全国唯一の水の天狗であり、最
上川水難守護の河童神ではないかともされています。



▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典6・山形県』誉田慶恩ほか編(角川書店)
1981年(昭和56)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平(しんぺい)著(名著出
版)1990年(平成2)
・『山岳宗教史研究叢書5・出羽三山と東北修験の研究』戸川安章
編(名著出版)1975年(昭和50)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・『修験道の本』(学研)1993年(平成5)
・『修験の山々』柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『図聚天狗列伝・東日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989年(昭和64・平成1)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画
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 (主に画文著作で活動)
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