第2章 沢と川のはなし

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この章の目次

 ・(1)表丹沢の沢と川 ・(2)玄倉川 ・(3)中川川 ・(4)世附川
 ・(5)大又沢 ・(6)早戸川 ・(7)中津川 ・(8)道志川

 ・コラム「峠の高さくらべ」

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■(1)表丹沢の沢と川

 丹沢の「タン」は谷のことで、沢も谷をいう古代朝鮮語だといい
ますから、ここはまさに谷だらけ山地。丹沢といえば谷歩き、沢登
りをいうほどで、この山地を沢から始めた人は多い。

 その丹沢を地図で眺めると、また訳のわからない名前の沢がたく
さんあります。実際には、ほとんどが意味不明なのですが、ここで
は、得意のまた聞き、孫引きをフル活用して拾い出してみました。

 まずは、おなじみ水無川。大倉入り口バス停先の戸川集落のあた
りから川の水が地下に浸透して流れ、地表は名前通りの水無川。そ
れが下流で再び湧き水になって、名水100選の「弘法の清水」にな
って現れます。

 さて、沢の名前。ヒゴノ沢、モミソ沢、新茅ノ沢、(一名カラヒ
ゴノ沢)は植物名からきたのだそうです。ヒゴとはカヤツリグサ科
の多年草で、細い茎がちょうど竹ひごの感じの草です。

 20歳代のころ、初めて連れてこられた新茅ノ沢、まだ会社に勤
めていたころでしたが、それ以来すっかり沢のとりこになり、毎週
日曜日になると、あっちの沢こっちの沢と出かけました。その時は
まだ尾根を歩くことを知らなかったのです。

 それから十ン年後の夏、家族を連れて久しぶりに新茅ノ沢にやっ
てきました。橋の下をくぐって最初の滝で水遊び、しかし、下の息
子はまだ小学校に入ったばかりで、この沢を登るのはちょっと無理
です。

 そこで烏尾尾根を登ることにしました。そたんに息子はご機嫌な
なめ、暑い尾根を暴れながら登った思い出があります。その息子も
今年は成人式を迎えます。

 葛葉川。これもマメ科のクズにちなんだ名前。明るく、小滝が連
続して楽しく登れ、初級者にも人気があるのはご存知のとおりです。

 四十八瀬川。普段は流れのおだやかな川ですが、ひとたび大水が
起こると、急流になり、あちこちに瀬ができたのが名前の由来です。

 上流の勘七沢も小滝が多く、格好の沢登り場所。まだ結婚前のこ
と。家内と二人でこの沢を登りました。若気のいたりで、カッコイ
イところをみせようと張り切り、小滝で落ちたことがなつかしく思
い出されます。沢名はきこりの名ではないかという人もいます。

 また鍋割山に突き上げるミズヒ沢は、水干るとか水樋(水門)、
水止(みずし・どんづまり)、水涸(乾・沢の行き止まり)などな
どの説があります。

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■(2)玄倉川

 丹沢湖から東北へ延びる玄倉川。30分ばかり歩くと小川谷の分
岐です。沢登りファンに人気のある小川谷の廊下、その支流東沢は
武田信玄の隠し金山だったといいます。

 実際に銅山があったらしく、江戸時代の小田原藩主、稲葉美濃守
正則の「永代日記」や「大岡越前守忠相日記」に、「玄倉山銅山…
…」の記述があります。昭和36年ころ、東京の業者が金を採掘し
ていたという話も聞きます。

 玄倉からユーシンに向かって5,6キロの所に、女郎小屋があり
ます。これも信玄の金山伝説にちなむもの。かつて、東沢で働いて
いた鉱夫相手の女郎が住む家があったとされています。

 また、山北の農民が吉原の女郎を身請けし、このあたりで炭焼き
小屋を建てて住んでいたという話もあります。

 しかし、女郎は測量用語の「丈量」のことではないかともいわれ、
たしかに昔、ここに測量小屋があったと、地元の人は話しています。

 女郎小屋沢先には蛇小屋沢。マムシがたくさんいて蛇取リを仕事
とする人たちがよく入った沢だといいます。またその先の板小屋沢
はたぶん木地屋に関係する沢の名だとしていますがはっきりしませ
ん。

 蛭ヶ岳南面から突き上げる熊木沢の支流にカギカキ沢がありま
す。これは木の枝を投げて枝にかかれば吉とする山仕事の占いから
きているとする人もいます。

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■(3)中川川

 西丹沢から犬越路に登る時、用木沢を通ります。これは戦国時代、
小田原北条の命令で、用材を切り出した所だという説があります。

 しかし、これはヨーケ沢と呼ぶのが本当だそうで、用毛、燿毛、
陽木などの字をあてる人もいます。

 また、、薪割りやマサカリの一種「ヨケ」という道具があり、手
斧のようなものに関連しているのではないかとも、「ヨキジ」とい
い、本流を高回りする意味に使う所もほかにあるので、よけ道、回
り道、間道のことではないかという説もあります。

 中川川支流東沢にカル沢があります。カルはカラで、水が涸れた
ことだといいますが、マタギの言葉に、きわしい岩場を「石カル」
「岩カル」とのいい方があり、この沢の源頭はは岩崖になっていて、
地形的にみてもナットクなのだそうです。

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■(4)世附川

 世附川上流の水ノ木地域にも江戸末期、小集落があったといいま
す。ブナ、ミズナラ、トチなどの良木が生え、木地師の活動に絶好
の場所でした。

 水ノ木沢のの流域に、民家の跡らしい平地や、本谷上部には大正
のころの墓も残っています。隣の梅ノ木沢も、かつては人が住んで
いたともいわれ、その名残のウメの木が、昭和の初期まで生えてい
たといい、沢の名前にもなっています。

 西の丸のピークへ突き上げる金山沢。ここはその名のように、昔
は金または鉄が取れた所と伝えられます。源頭の西ノ丸は、別名石
保土(いしほど)山です。金山の近くにはホトをまつるのがかつて
のしきたりだったといいますから、話が合っています。

 金山沢の西側から、沖ビリ沢、ビリ沢が流れ込んでいます。ビリ
とは、木地師が使う道具で、かんなの一種。S字型の刃がついてい
て、沢の形からこの名がついたといわれています。沖は奥で、奥に
あるビリ沢となります。

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■(5)大又沢

 世附川下流から北へ分岐する大又沢上流に、地蔵平があります。
ここを中心にして、大又沢流域にはかつて20軒くらいの人家があ
ったといいます。

 住民は甲州から移住した人たちで、木地師も多く住んでいました。
地蔵平から北東へ延びるセギノ沢。ロクロをまわす水車小屋をつく
るために築いた「堰(せき)」からの沢名だとの説もあります。

 また、北西にあるシキリ沢。シキリとは、木地師たちが丸太を鋸
で切る台のこと。山の安全を占う神事になっていたといいます。

 地蔵平の分岐から城ガ尾峠に突き上げる白水ノ沢。永禄12年
(1569)、甲斐の武田信玄が道志側から城ガ尾峠を越えて相模の国
に侵入、小田原城を攻めました。そして、信玄平あたりに陣を張り、
大勢の軍兵を休ませました。

 その時、大量のコメのとぎ汁が沢に流れ込み、水がまっ白になっ
たといいます。それ以来、白水ノ沢と呼ばれたということです。ど
うもハナシがうますぎはしませんか……。

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■(6)早戸川

 ダム建設の掘削機がうなる宮ガ瀬から、西南にくい込む早戸川。
そのどんづまりの早戸大滝のお話です。

 早戸大滝は、伝道から沢を登り、徒渉して至る大滝沢にかかる名
瀑。この滝は大きな滝つぼを持っていて、昔から山伏のみそぎの場
であったり、鳥尾地区の農民が雨乞いをする所でした。

 その方法は、滝つぼに馬の骨や、ごみを投げ入れます。神聖な所
を汚して、わざと神さまを怒らせて雷を発生させ、雨を降らせよう
とするわけです。

 それと同時に、修験者が雨乞いの業法を行うと、不思議に雨が降
ったといいます。この雨乞いは、昭和34年ころまで行われてきま
した。 

 雷平から姫次に至るカヤノ沢は、榧(かや)のことで、種子を絞
って「カヤ油」を取ったことからついた名だという人もいます。雷
平のあたりにも、古くは木地屋が住み着き、仕事のほかに良質な植
物油や、薬、塗料、打火用の油を採取していたのだそうです。

 その隣の沢は、カサギ沢です。これは笠木のことで、神社の鳥居
や門、板べいなどの上に渡してある横木。とくに鳥居の上に乗って
いる、そりのある木を笠木といいます。

 カサギ沢のすぐ東側は、榛(はん)の木です。ハンノキは、ち密
なうえに工作しやすい良質な建築材。木地師たちは、それを利用し
て神具や木祠などを制作していたのでしょうか。

 早戸川には、宮ガ瀬金沢と鳥尾金沢の二つの金沢があります。こ
こもやはり金鉱にまつわるもの。

 明治の初め、この沢に金が出るといううわさを聞いて、いまの青
梅市から若者がやってきました。名前を柳川長吉といい、一生懸命
に金鉱を探しましたが、出てきたのは、あてがはずれて黄銅鉱ばか
り。長吉は故郷に帰るに帰れず、土地の鳥尾村の娘といっしょにな
り居着いてしまいました。 

 長吉は、どこで覚えたか、祭ばやしがうまく、村の若者に教えま
した。いま津久井町串川の青山神社(8月3日例祭)に伝わる「首
長ばやし」は、その時に長吉が教えたものだということです。

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■(7)中津川

 丹沢山から塔ノ岳、新大日に東から突き上げる中津川水系の本谷
川の沢。おもしろい名前の沢が並んでいます。

 まず、丹沢山が水源のキュウハ沢。名前は、木材を運び出す時、
敷き並べてある木材の上を滑らせるソリに似た運搬具の「木馬(き
うま)」からきているといいます。また、この沢は急な滝が多いと
いうので「急場」がなまったのだという人もいます。

 キュウハ沢の支流にある四町四反ノ沢も変わった名前です。昔、
このあたりは江戸幕府の直轄地でしたが、明治維新で国有地となり、
さらに神奈川県の県有林になりました。

 その後、スギやヒノキの植林事業がおしすすめられ、この沢の流
域では「四町四反」歩に植林したといいます。長尾尾根に突き上げ
る五町歩沢も同じ由来です。

 また、少し下流にクモガフチ沢があります。昔、猟師がある淵の
岩の上でウトウトしていましたが、ふと目を覚ますと、大きなクモ
が足の指に糸を巻きつけ、淵の水の中にたらしているではありませ
んか。

 猟師は、あわえて糸をはずし、そばの大きなマツの木にしばり替
えました。すると、何重にももからめたクモの糸がピーンと張り、
グングンとすごい力で引っ張りはじめ、ついに大木は淵の中に引き
込まれてしまいました。「もし、足の指にしばったままだったら…
…」、ゾーッとした猟師は、一目散に逃げ帰りました。それからは、
そこを蜘蛛(くも)ガ淵と呼び、誰も近づかなかったということで
す。

 塔ノ岳を源頭とするオバケ沢。大正5年(1916)の初夏のこ
と。丹沢御林の巡視人が、猟銃を持って大日河原(オバケ沢の名前
がなかったころは、こう呼ばれた)を歩いていました。

 今のオバケ沢から日高に登る所にある堰境の奥の滝までくると、
犬が異様に吠え出します。見ると岩の陰に髪を乱した女性がいます。
まるでオバケのようです。

 話しかけても狂っていて要領を得ません。その日は遅いので、明
日迎えにくると弁当の残りを置いて帰りました。翌日、猟師たちが
改めて迎えに行きましたが、もう姿はありません。何年かのち、塔
ノ岳を越えてきたのか、戸川の川の淵で、餓死しているこの女性の
死体が見つかったそうです。

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■(8)神ノ川

 川や沢の名は、地元に問い合わせてもわからないことが多いので
す。あの本、この本を調べてみても、みな推測で、いろいろな説が
あって、かえって、私などには楽しく感じられます。

 神ノ川もその一つ。もともとここは道志村の土地ではないかとし、
神地という地名や社宮司沢などの名と共通に、南側にそびえる山々
の威圧感から神を感じたのか、神という字を当てたのではないかと
いう説があります。

 また、神ノ川の「カン」は半がなまったのだともいいます。昔は、
この川を境に右岸は相模の国、左岸は甲斐の国で、川の水が二つの
国を半分ずつ流れていたというわけです。

 こんな説もあります。神ノ川は、もとは岩(がん)ノ川ではない
かというのです。まだ車道ができる前は、神ノ川は通行困難な岸壁
の谷。入山は、南側の岩をへずっての遡行でした。そんなことから、
岩(がん)ノ川と呼んでいたものが、いつかカンノ川になり、神の
字をあてたのだということです。

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■(9)道志川

 大昔のある夏、突然地面から富士山が湧き出たと「古縁起」とい
う古い本にあります。ものすごい地響きをたて、とてつもない山の
出現ですから、まわりの村は大騒ぎです。

その中で「ひゃー、これはどうしたことだ」と腰を抜かした村があ
りました。それ以来、そこを道志村と呼ぶようになったというはな
しがあります。いやあ、まいったまいった。

 その道志村も、木地師に関係が深いらしく、沢の名前にもうかが
えます。

 道志川上流の善ノ木地区に流れる掛水沢。文字どおり、切った木
材に水をかけたことからついた名前だとの説があります。木地師た
ちは切り出した材を挽きやすくするため、木目をしめるのに水をか
けるのだといいます。

 隣の板橋地区から南に突き上げる松切沢があります。昔、木地師
は木工になくてはならない「かんな」などの刃も、フイゴを使って
自分たちでつくりました。その鍛冶仕事に使う炭は、マツが最良だ
とされ、松切沢は松炭の用材を切り出した沢なのです。

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(第2章終わり)

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