『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第18章「弘法山・八菅山・仏果山・三峰山周辺」

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▼14:日向山

【本文】
 日向山(ひなたやま)は、小田急伊勢原駅の北西6キロほどの所にある
丹沢山地の名山。厚木市と伊勢原市との境にあって、大山から東に延び
る尾根の東端のピークです。日向山というよりは日向薬師のある山の方
が通りがいいくらいです。


 日向山の山名については、大山の東側の山ろくにあるため、日光をさ
えぎるものがなく、陽がよく当たるところからその名があるという。このほか
に「ひなた」は、古称の「ひむけ」と思われ、「むけ」は背向くものを帰服さ
せる神の性格から、荒ぶる大山神に対しての、古代信仰の地としての「日
向」であろうという説もあります。


 日向山頂上には、大きな石祠があって、日向薬師の奥の院になってい
ます。南側中腹にある日向薬師は、真言宗日向山霊山寺(りょうせんじ)
といい、本尊は薬師如来という仏さま。霊山寺は、奈良時代の霊亀2年
(れいき・716)、行基菩薩(日本で最初の大僧正・東大寺の四聖の一
人)の開創と伝えられ、本尊の薬師如来は行基の作。如来の両脇におわ
す日光・月光菩薩とともに国の重要文化財に指定されています。


 江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』という本の村里部に、「霊亀
二年(716)二月、行基日向山に登り、薬師像を彫刻せんとする時、比に
神出現して基に霊木を與(与)ふ。依(っ)て爰(ここ)に祀(まつ)れる由、
薬師縁起に見えたり」。


 また「日向山(2行書き:当山は大山の東にありて東方日影を支ふるも
のなし、故に名づくるかと云、)霊山寺ト號す、霊亀二年二月、行基、薬
師の告に依(っ)て、当山に登り、薬師の像を彫刻して、安置せんと欲す、
時に熊野白髭の二神出現して、基に霊木を與ふ、則(ち)是(れ)を以
(っ)て像を作りて安置す。此(の)事叡聞(えいぶん・天皇の耳に入る)に
及びしかば、則(チ)詔(みことのり)を下し、堂宇造営ありて、勅願寺とせ
らる」とあります。


 早い話が、奈良時代に行基という偉いお坊さんがこの山に登って、神
さまからもらった木で、薬師如来の像を彫ったという。それが元正天皇の
耳の入ってお堂が建てられたいうのです。それより前に、役行者(小角・
えんのぎょうじゃおづぬ)の話もからんでいます。行者は奈良県吉野で修
行に励んでいました。平安時代に書かれた役行者の伝記『役行者本記』
の第三小角奇特の部に、おおよそ次のようなことが書かれています。


 「天武天皇13年(685)甲申(きのえさる)、小角51歳。芳野(吉野)を
出発、一昼夜のうちに相模の八菅山(はすげやま)に往き、57日を限っ
て薬師仏の秘法を修めた。すると天童が天から降りてきて、小角の天蓋
(てんがい)をさしかけ、天人が舞いを奏でた。小角はその後、一昼夜のう
ちに薬師仏100体と、地蔵100体、不動100体の石像を彫って開眼供
養をした。


 そして行者は、仏たちに「それぞれ有縁のある場所にすむべし」とい
って、空に向かって投げると、仏たちは縁にまかせて空からそれぞれの
場所へ赴いていった。薬師の像は、当地(日向)に、地蔵の像はは蓑毛
(みのげ)に、また不動像は大山に落ちた。そして「日向薬師」、「蓑毛の
延命地蔵」、「大山の不動尊」になっていったという。


 時代は平安になり、当時相模守だった大江公資(おおえのきんすけ)
の妻相模(歌人)が目の病気を治すため、日向薬師にお参りに来ました。
歌人である相模はそこで、「日向と云寺に籠もりて薬師経など読せし次
(い)でに、出でし日、柱に書きつけし、さして来し日向の山を頼む身は目
もあきらかに見えざらめやは」と詠んだと記録に残っています。


 さらに鎌倉時代になると、鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』巻十
二、巻十四、巻十九などにも登場します。つまり、同書建久3年(1192)8
月9日条に、北条政子の安産を祈願しに、相模国内二十七大寺社をま
わったひとつに霊山寺(日向)をあげています。さらに建久5年(1194)8
月8日条には「将軍家参相模国日向山給」とあり、源頼朝自身も日向薬
師参詣に来ています。


 同年建久5年(1194)10月18日には、頼朝の歯痛のため、上総介
足利義兼が日向薬師堂に代参しており、承元4年6月8日には北条政
子、建暦元年7月8日には政子と、3代将軍実朝室とが参詣に来ていると
の記録です。


 話が変わって、平安時代末期から鎌倉初期ころに、日向山に修験道
が開かれました。日向修験は熊野三山の修験であるとされています。そ
の熊野三山と関係の深い、京都にある天台宗聖護院門跡(もんぜき)道
興法務大僧正准三后が、文明18年(1486)には、上州・奥州へ向かう
途中参詣してここに一泊。「釈尊のすみかと思う霊山に薬師仏もあひやと
りせり」と詠じているなどの歴史を残しています。


 日向山の修験は、本山派の小田原玉滝坊の配下に属し、江戸時代の
享保3年(1718)の文書には、宝城坊・大善坊・成就坊・西泉坊・日光坊
・常光坊・宮之坊・能光坊・大泉坊・藤之坊・智大坊・大蔵坊・利円坊・常
蓮坊・惣明坊・円光坊の16坊もの名が連ねています。そのなかの常蓮
坊が書き留めた『峯中記略扣(控)』(ぶちゅう きりゃくひかえ)という古文
書が、1963年(昭和38)に発見されました。


 それは丹沢入峰修行(4泊5日かけての奥駈け)の作法を示したもの。
古文書には、日向薬師−大山−表尾根−塔ノ岳−丹沢山−蛭ヶ岳−
(丹沢主脈)−青根−帰院というルートをたどると書いてあります。つまり、
日向薬師を出た一行は、大山の西山ろくにあった門戸口で一泊、烏ヶ尾
の先の尊仏で一泊、竜ヶ馬場の先の弥陀ヶ原で一泊、不動ノ峰で一泊
の計4泊5日をかけての奥駆けだったわけです。『峯中記略扣(控)』の全
文は次の通りです。ちょっと長いですが書き留めてみますね。


 「三月廿五日ヨリ山入(やまにはいる)、札所薬師末社(に)札納(ふだ
をおさめ)、二ノ宿湯尾権現、夫(それ)ヨリ地蔵観音ノ峰、木立暫ク行ヲ
山ノ神有(あり)、是ニ札納、法楽致シ、尤モ是ニ八菅山モ札(を)納(おさ
める)、是(れ)ヨリ石尊迄ハ八菅山・日向山ト同行(の)所也、八菅山ハ是
(れ)ヨリ里人出ル也、日向山ハ是(れ)ヨリ奥ガケ行所、石尊大天狗・小
天狗江(へ)札納(め)、夫(それ)ヨリ閼伽(あか)ノ水有、是ヨリ丹沢問答
口(門戸口)江(へ)出(て)、山王権現札(を)納(め)、此所迄ハ里人送
リ、是(れ)ヨリ別レ行人計リ(ばかり)山江(へ)入(る)、


 小家ヲカラケ(ママ)一宿ス、雨具其外ハ一切ナシ、一重物一枚也、是
(れ)ヨリ立出鴈ケ尾(雁の異体字・烏ケ尾)ト云(う)山ニ上リ三リ程也、是
迄鴈(雁)二羽ニ而送候故鴈ケ尾也、此(この)山(※烏尾山のこと)上ニ
蔵王権現石仏有(り)、是(ここ)ニ札(を)納(め)、法楽致シ、夫(それ)ヨリ
向ノ向峰ニ移リ、スヾノ(スズタケの)中ヲ暫ク行(くと)、前尊仏云(う)所ニ
出、札(を)納(め)、是(ここ)ニ一宿致シ、是(れ)ヨリ西ノ方ヨリ北ニ行、


 大キナル岩ノ上ニ役ノ行者有(り)、爰(ここ)ニ(※行者ヶ岳のこと)札
納(め)、法楽致シ、是ヨリ左ニ付下ルト新客ノゾキノ岩有、是ニ新客ノ腰
ヱ縄ヲ付シセル也、夫(れ)ヨリカヤノヲ上リ大日尊有、(※木の又大日の
こと)札納、是ヨリ峰ニ登ルト塔ノ峰也(※塔ノ岳のこと)、此所ニ弥陀・薬
師ノ塔有(り)、


 大ナル平地也、富士山ハスグ西ノ方也、是ヨリ北ヱ行(と)黒尊仏岩石
有(り)、是ヨリ登リ龍ガ馬場也、此所百間程ノ長サニ而、広ハ五間位ノ馬
場ノ形也、此中所ニ竜樹菩薩ノ尊有(り)、是ニ札納(め)、尤モ此馬場ニ
而竜樹菩薩馬ニ御ノリ被成候ト云伝也、此向ハ行者カヱシト云大キナ岩
有、是ヨリ右ノ方ハ平イ地ノカキノ也、夫ヨリ峰ニ登リ、彌陀ガ原ト云(う)所
ニ出、是ニ一宿致シ、是ヨリヲリ込、蔵王権現有、札納、是ヨリ下リコフバ
セ・上リコフバセト云所、新客サカサ木ノ行所有、


 是ヨリ峰ニ登リ、神前ノ平地也、此所ニ不動尊有、此所(※不動ノ峰の
こと)ニ一宿ス、是ヨリ仙人ノ岩有、夫ヨリ釈迦ガ嶽(※蛭ヶ岳のこと)ニ岩
有、札納、是ヨリ北ニ下ル、水呑ノ小家有、尤モ此小家ハ人家ヨリ三リ程
山中ニ里人シツライヲク也、是ヨリ甲州境ノ郡内青根村ト云所ヱ出、夫ヨリ
須村ニ而、村々鎮守ニ而採燈護摩修行イタシ帰山也、


 薬師堂ニ而当先達ト後先達ト笈ノ請取渡シ儀式有、事終テ夫々帰院
致シ申候、山中ノ事ハ筆ニモ云ニモ尽シガタシ、難所ニ而、小児・老僧
ニテハ山入不相成、五日内ハ野宿ニ而焼米一人ニ一升宛也、山中峰子
伝ヘ書也、


 尤モ一尺程ニ道ノ形チ有、是役行者ノ御通ノ跡ト云伝来リ、檀家ト申
ハ、七ケ年目ニ入峰ノセツ檀廻致ス而已、郡内青根村・青野原村・鳥屋
村・煤ヶ谷村・七沢村・日向村・〆六ケ村、入峰先達相勤候ニハ振舞其
外諸色ニ而金子弐拾両程相掛各々薄稼故延年ニ相成申候漸々一代ニ
四度カ五度位也」とあります。


 このなかの「サカ木の行所」とは、行者を袋に入れて足首のところで縄
でしばって、木からぶら下げる行。「ノゾキ岩」は、大和の大峰山にもある
難行の場所。山中で各種の苦行に耐えて修行をしたありさまがうかがえ
る。こうした修行の結果、入峰修行中に行方不明になったものは、自宅を
出立した日をもって命日としたというから命がけだったわけです。


 この峰入り修行は、1872(明治5)年の修験道廃止令施行までつづき
ました。しかし明治の神仏分離の時に、宝城坊をのぞきすべて帰農し、
淨発願寺の檀家となりました。いまでは、北ろく玉川沿いにある弁天岩
が、岩登りの練習場として知られています。



▼日向山【データ】
【所在地】
・神奈川県厚木市と同県伊勢原市との境。小田急小田原線伊勢原
駅の北西6キロ。小田急小田原線伊勢原駅からバス、日向薬師停留所
下車、さらに歩いて1時間で日向山。写真測量による標高点(404
m)がある。
【位置】
・標高点:北緯35度26分34.16秒、東経139度16分38.08秒
【地図】
・2万5千分の1地形図:厚木。



▼【参考文献】
・『吾妻鏡』(岩波文庫)龍粛(りょうすすむ)訳注(岩波書店)1997年(平
成9)
・『役行者伝記集成』銭谷武平(東方出版)1994年(平成6)
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『神奈川県史』(各論編5・民俗)神奈川県企画調査部県史編集室(神
奈川県)1977年(昭和52)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平成
2)
・『山岳宗教史研究叢書・8』(日光山と関東の修験道)宮田登・宮本袈裟
雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書・17』(修験道史料集・T)五木重編(名著出版)
1983年(昭和58)
・『新編相模国風土記稿3』(大日本地誌体系21)蘆田伊人校訂(雄山
閣)1980年(昭和55)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』鈴木棠三ほか(平凡社)
1990年(平成2)

 

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【とよだ 時】 山の画文著作
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【ゆ-もぁ-と】制作処
山のはがき画の会

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