『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第18章「弘法山・八菅山・仏果山・三峰山周辺」

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▼13:鐘ヶ岳

 神奈川県厚木市にある鐘ヶ岳は、大昔から知られ、浅間山とか大応岳
などとも呼ばれます。海から遠い場所なのに竜宮城へつながっていると
いう竜宮伝説があちこちにありますが、ここ鐘ヶ岳もそのひとつで、山名
由来のもとにもなっています。

 またこの山は、室町時代から戦国時代にかけての武将・上杉定正(扇
谷定正)の持城の「七沢城」の背後の見張り場所。そこで山頂に鐘を設
置して、事ある際は、これをついて知らせていたことによるという。またさら
には、山の形からの鐘ヶ岳と呼んだとの説もあります。

 ちなみに上杉定正は、家臣の太田道灌を殺害したことで知られます。
太田道灌は代々扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の家宰(かさい:
主君に代わって主家を取り仕切る職)を務める家柄の出。江戸城築城に
貢献したなど、道灌の働きによって扇谷上杉家の勢力は増大していきし
ました。


 しかし、主君の上杉定正は太田道灌が主君を軽んじていると思いはじ
め、疎ましく感じるようになりました。太田道灌の方にも、自分が正当に評
価されていないという不満もあるにはあったようですが。上杉定正は、この
ままでは太田道灌がやがて謀反でもたくらむと考えました。

 定正は道灌を自分の本拠地糟屋館に招きました。そして道灌が風呂
から出たところを刺客に斬殺させました。殺される瞬間、太田道灌は「当
方滅亡!」と叫んだといいます。その予言通り、太田道灌の死から間もな
く、上杉氏の諸家のひとつ、山内上杉家との間で「長享の乱」(ちょうきょう
のらん)が勃発。それが関東進出を狙う北条早雲につけ入る隙を与え、
やがて上杉家は道灌の予言どおり、滅亡してしまいました。話が脱線しま
した。

 さて、鐘ヶ岳は、地元では「しょうがたけ」(鐘ヶ岳)と呼び、浅間岳とも
大応岳ともいっていたという。浅間山の名は、山頂直下にある浅間神社
が、富士浅間神社をまつっているのがその由来です。この浅間神社の創
建はあやふやながら、別当寺(神社の経営管理を行った寺)であった禅
法寺の坊さんの宥映が、元禄2年(1689・江戸中期)に記した浅間神社
の縁起によると、創建は、第8代孝元天皇(『世界大百科事典』によると、
在位214B.C〜158B.C)の時代にさかのぼるというから古い。


 のち、室町時代になって七沢城の上杉定正によって社殿が建造され
たとあります。江戸時代前期の延宝8年(1680)に行われた修理の時に
は、ご神体である胴の華鬘(けまん・仏像を飾る仏具)三体や、勢至の木
像が出土していたといいます。祭神は、木花開耶姫(このはなさくやひ
め)・大山祇命(おおやまずみのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと)
の三神が祀られています。

 この地方で、養蚕が盛んになった近世末期には、浅間神社は、富士
山・木花開耶姫信仰と養蚕信仰が結びつき、近郷付近の養蚕農家をは
じめ、相模国一円から信仰を集めるようになりました。また子宝・安産の神
として信仰されてきました。

 しかし、明治維新の神仏分離令の後の明治6年(1873)、その浅間神
社に、旧七沢村の鎮守社だった八幡社と、山王社(日枝神社)を合祀し
て、「七沢神社」(ななさわ神社)として改名、「村社」になりました。山名の
由来などについて、江戸時代の地誌である『新編相模国風土記稿』七沢
村の項には、こんなふうに書いてあります。


 「〇鐘ヶ岳 西北にあり(2行:登二十八町)、相傳ふ往古龍宮より上が
りし洪鐘(こうしよう・大きな釣鐘)をこの峰に蔵む(きすむ・大切におさめ
る)、依(よっ)て名付(く)と(2行:按ずるに、中古樞要(中枢)の地には要
害を構へ、嶺上に鐘を掛(け)置(い)て合図をなせし事あり、当所も合図
の鐘を置(き)し所なるべし……」。

 その昔、竜宮から上げられた鐘をこの山に納めたというのですが、それ
以上のはなしは色々と調べたのですが不明です。こんな山の中でどんな
理由で竜宮に関係があるのでしょうか。長野県上松町木曽川の寝覚の床
のように、竜宮城への特別のルートがあるというのでしょうか。

 そしてまた、大応岳の山名由来については、同書浅間社の項に、「…
…延宝八年(1680)のころ、木食空譽弾阿、此辺山中に(2行書き:字一
ノ沢と云所なり、)在(あっ)て専ら浄業を修し、高徳の聞こえあり、貞享4
年(1687)当社の霊夢を蒙(り)て当山に移り、禅法寺(別当なり)に住し、
且(つ)神託に依(っ)て山を大応岳と名づけ、自ら勢至の像を彫刻して
本地仏となす」と解説しています。どこの山もそうですが、霊夢とか、お告
げ、示現、神託、託宣、乗り移ったなどの言葉ばかりで、正直「またか」と
罰当たりなことを思ってしまいます。


 広沢寺は、「大富山露栢(はく)庵と號す、曹洞宗(下総國国府台総寧
寺末)相傳(う)関本(足柄上郡の属)最乗寺開山了菴(庵)、此(の)地に
庵室を結び露柏庵と号し、隠栖とす、(2行書き:按ずるに、了菴(庵)当
所に幽栖せし事は僧傳及(び)彼寺伝にも載せざる所なり)」とあり、広沢
寺は、千葉県市川市国府台にある総寧寺の末寺だとか。

 また箱根大雄山最乗寺の了庵慧明(りょうあんけいめい)禅師がここに
きて庵を結んでいたという。このことは寺伝にも載っていないことだという。
さすれば了庵の弟子で、道了として有名な天狗も一緒に来ていたとして
も不思議ではありません。

 一方、この七澤地区には「火を持ってきたオオカミ」という民話も伝わっ
ています。それこそ大昔、人と動物たちが仲良く暮らしていたころの話で
す。ある時、丸裸の人間の赤ん坊をみたオオカミは「寒いだろう」と思いま
した。オオカミは火の山から火を持ってきて温めてやろうと考えました。し
かし、火の山には火を盗まれないよう「火の守」がいます。


 オオカミはそーっと火種を盗ったのですが「火の守」に見つかってしま
いました。オオカミは火種をもって逃げましたが、火の守はどこまでも追っ
てきます。途中で百匹のキツネに火種を手渡しました。キツネたちは全速
力で逃げます。そしてこんどはクリネズミに手渡します。

 火種は次にシカに渡りました。こうして次々に手渡された火種は、火の
守の目に触れないよう人間に届けられました。それからというもの人間は
火を使えるようになったということです。


▼鐘ヶ岳【データ】
【所在地】
・神奈川県厚木市。小田急線本厚木駅、または伊勢原駅からバスで広
沢寺温泉入口下車、約1時間10分。1時間20分で鐘ヶ岳、写真測量
による標高点(516m)と、山頂直下に浅間神社がある。
【位置】
・標高点:北緯35度27分33.88秒、東経139度16分18.57秒
【地図】
・2万5千分の1地形図:厚木。

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編相模国風土記稿3』(大日本地誌体系21)蘆田伊人校訂(雄山
閣)1980年(昭和55)
・『丹澤記』吉田喜久治(岳(ヌプリ)書房)1983年(昭和58)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

▼13:鐘ヶ岳(終わり)

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