『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第18章「弘法山・八菅山・仏果山・三峰山周辺」

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▼11:煤ヶ谷正住寺

【略文】
仏果山は京の僧仏果上人が座禅修業をした山。上人の座禅石はい
まも土山峠近くにあります。その仏果上人が開いたお寺が煤ヶ谷・寺
ヶ谷戸の正住寺。鎌倉の建長寺の末寺です。いまでも上人の石像
が建っています。この集落には七不思議の話もあります。
・神奈川県愛川町と清川村との境。

▼02:煤ヶ谷正住寺

【本文】
 丹沢山地の東端にある仏果山(ぶっかさん)は、南麓の蝶ヶ谷方面
の呼び方だという。北ろくの愛川町半原ではこのあたり一帯を「南
山」、やはり北ろくの津久井町(いまの相模原市)の長竹、韮尾根
地区では「半原富士」と呼んでいたそうです。山頂には10mほど
の展望台があり、丹沢山地から東京方面まで眺められます。


 仏果山の名は、南北朝時代仏果上人によるものという。江戸時代の地
誌『新編相模国風土記稿』にも、「佛果山、艮(うしとら)方に在(り)(高百
五十間)半原村に跨りて頂を界とす、僧佛果(村内正住寺開山、)座禅せ
し處なれば名とす(半原村にては南山と呼ぶ、)頂に座禅石あり(方六七
尺)」とあります。また弘法大師が、ここに経文を納めたことに由来すると
いう説もあります。


 南北朝時代の天授6年(1380)、京の僧仏果上人が南ろくの煤ヶ谷
・寺ヶ谷戸にやってきて正住寺というお寺を建て、この山で座禅
修業をしたという。そのため、いつしか仏果山と呼ばれるようになった
というのです。


 仏果上人が座禅したとされる「座禅石」もあります。これはか
つて、仏果山南側、金冷シノ沢入口の最上段の滝のそばにありま
したが、2001年(平成13)に土山峠近くに移されています。仏果上人
が開いた正住寺は、鎌倉の建長寺の末寺。臨済宗で金剛山と号す
るお寺です。仏果上人は、応永8年(1401)4月に他界しました
が、いまでも境内に上人の石像が建っています。


 仏果上人は干ばつの時、祈祷によって雨を降らせたりして庶民の尊崇
は厚かったという。たしかな験を持っていたようです。正住寺のある煤ヶ
谷の名は、天正18年(1590)の豊太閤の制札に「相模国(神奈川県)
大中郡内すずがや小屋入え郷二十三所」とあるといい、先の『風土記稿』
に記載されています。


 この正住寺には一基の供養塔があります。慶安4年(1651)、由井正
雪が幕府転覆を企てましたが、事前に事が発覚してしまいます。有名な
「由井正雪の乱」です。その残党がこの近くで捕まり、即座に処刑された
という。それを供養したのがこの塔だというのです。正住寺は、早春に訪
れると境内できれいな紅梅白梅が見られます。


 仏果上人については、江戸時代の地誌『新編鎌倉志』によれば、正
住寺の親寺であり、鎌倉五山第一の古刹である建長寺の宝泉庵は、仏
果上人が開祖で、天鑑と号したと記されているそうですが詳細は不明と
のこと。この集落付近には、仏教に関わる名のついた山が多く、この仏果
山をはじめ、「経ヶ岳」、「華厳山」などがあります。これらを半原では総称
して半原山とも呼んでいるらしい。


 ところで煤ヶ谷集落の「スス」というのは、山梨県の郡内領では、山路の
ことをいうというと『山村語彙』にあります。『山村語彙』は、正式名『分類山
村語彙』といい、柳田國男などが民俗語彙を集めた書のことだそうです。


 この煤ヶ谷集落には「七不思議」というものがあるという。人によって多
少題目が違うそうですが、一般的なものは次の通りです。(1)横山の朝
霧。(2)不咲(さかず)の椿。(3)雨降りの松。(4)三度なりの栗。(5)女夫
竹。(6)オトボウヶ渕。(7)送り雀の7つ。このほかに、養老坂の化け桜、
和田川の大蛍などがあるようですが、大体この中から7つを組み合わせ
ています。


 この中で、(1)は横山の朝霧は、煤ヶ谷村から宮ヶ瀬村へ越す旧土山
峠の一帯を村では横山と呼んでいましたが、ここには毎朝きまって霧が
かかるといいます。(2)の不咲(さかず)の椿は、花が咲かない不思議な
椿が、煤ヶ谷の大野部落のお寺にあるという。(6)のオトボウヶ渕につい
ては「華厳山」の項に述べてあります。


 さて、ここは山奥の村に似合わず、風流な八景ものもあります。「煤ヶ谷
八景」として、1:養老坂の夜の雨。2:仏果山の暮雪。3:和田川の乱蛍。
4:白山の松月。5:荒川のサクラ。6:竜梅の夕照。7:唐沢の帰雁。8:八
幡の晩鐘です。なんとも奥ゆかしい村のようです。


 また、仏果上人は祈祷で雨を降らせ、庶民の尊崇は厚かったとありま
すが、ここで行われる「雨乞い」はちょっと変わっているらしい。日照りが
つづいて干ばつになると、「雨乞い」をしなければなりません。まず村人
は、四斗(72リットル)入りの酒樽の鏡を抜き、酒を飲んで威勢をつけま
す。


 さらに、河川に沈めるめに石を詰めた蛇篭(じゃかご)を使って、「男
竜」と「女竜」になぞらえた二体をつくります。そして村中の街道だろうが、
川の中だろうがお構いなしに駆けまわるという。さらに家々を歩いては酒
をもらいます。その後、湯出川橋を渡り左折、すぐの所にある「宮ノ前」と
か「天王前」と呼ぶ淵に「男竜」を沈めます。


 一方、「女竜」は、ずっと下流の金翅川(こんじがわ)出合付近の「獅子
淵」というところへ沈めるという。こうして二体の竜を淵に沈めた後、両方
の竜に向かって雨が降るよう呪文を唱え、竜たちを目覚めさせます。目
覚めると「男竜」は、下流に沈められた「女竜」を慕って下って行こうとしま
す。そのため、川の水量を増やそうと雨を降らせるというあんばいです。
なかなかの考えですね。


 さらに、仏果山への登山基地は仏果山の北ろく愛川町半原です。半
原は戦国時代からの地名です。その名は集落の半分が原っぱなので半
原とか、半分がバラ(茨)山だからという説があります。いや榛(はん)の木
が多い原で榛原で、榛原が変化して半原になったなどいろいろあります
が、本当は開墾に適した地をハシバといい、その原っぱ(ハシバ原)が語
源だろうといわれています。


 半原は古くから撚糸工業の街として有名で、かつては「半原撚糸」の
名で絹織物、絹撚糸がつくられていました。しかし、いまでは合成繊維撚
糸が盛んで、とくにミシン糸、仕付け糸などの撚糸部門は全国産高の70
%を占めているのだそうです。半原バス停から西へ歩いて30分にある石
小屋と呼ばれる所は、むらを流れる中津川のV字谷の美しい渓谷です。
清流と山の緑、巨岩群で観光地になっています。


 ここは江戸時代から半原村といいましたが、明治22年(1889)、愛川
村に編入され、1940年(昭和15)から愛川町になりました。なお、愛川と
は、ここを流れる中津川の別称、鮎川の転化したものだそうです。



▼正住寺【データ】
【所在地】
・神奈川県愛甲郡清川村(合併せず)。小田急本厚木駅からバス煤ヶ
谷、徒歩15分で正住寺。
【位置】
・正住寺:北緯35度29分4.03秒、東経139度16分17.05秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「厚木(東京)」



▼【参考書】
・『あしなか復刻版1』(名著出版):「あしなか・第3輯」(山村民俗の会)
1943年(昭和18)
・『あしなか復刻版1』(第1輯〜第20輯)(名著出版):「あしなか・第20
輯」(山村民俗の会)1950年(昭和25)
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『新編相模国風土記稿』巻之五十八:大日本地誌大系21『新編相模国
風土記稿』(三)蘆田伊人校訂(雄山閣)1980年(昭和55)
・「尊仏2号」栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成元)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』(平凡社)1984年(昭和
59)

 

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【とよだ 時】 山の画文著作
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【ゆ-もぁ-と】制作処
山のはがき画の会

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