『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第18章「弘法山・八菅山・仏果山・三峰山周辺」

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▼05:鳶尾山

【本文】
 鳶尾山は、丹沢山地の東部、神奈川県厚木市と愛甲郡愛川町との境
にあり、八菅山のすぐ南にある山。八菅山とともに、ハイキングコースにな
っているところです。山の南側は整然と区画された住宅地で、なかには
平安時代に愛甲郡家(ぐんけ・郡役所)(律令制下の郡の役所)が置かれ
た跡とされている所もあります。


 この山を地元の人は「とんびょうさん」と呼んでいるそうです。「とんびょ
う」の「とん」は山の頂上を意味し、「びょう」は「境」を意味することから「境
の山」であるという説もあります。たしかにこの山は、厚木市と愛川町の境
になっています。また別の説では、「とんびょう」は、アイヌ語の「エタレネト
イビオ」(崖崩れ、絶壁の土地という意味)に由来するとの説もあります。


 こんなことをいう人もいます。古代から山への畏敬、畏怖などから素朴
な信仰のあらわれとして、「神」をまつる場所の「塔標」、「とんびょう」はそ
の塔標の変化したものではないかというのです。さらに山の頂上を「テッ
ペン」といいます。このテッペンが長野県では「トッピン」となり、九州では
「トッペン」というそうです。同じように「とんびょう」はこのテッペン・トッペン
に関連性があるのではないかといいます。


 さらにこの山は「遠火山」とも呼ぶそうです。遠火とは「のろし」のこと。
永禄12年(1569)、甲斐の武田晴信(信玄)が、小田原城を攻めたと
き、丹沢を舞台にした三増(みませ)の合戦がありました。その際、敗走す
る北条勢が兵の散失を防ぐために、ここの山頂で大きな烽火をかかげた
ところから「遠火山」という。また逆に、武田晴信(信玄)がここで烽火を上
げて、北方の三増(みませ)峠にいる味方の軍勢に連絡をしたとの説もあ
ります。その「遠火山」が「鳶尾山」に変わったのだろうとの説もあります。


 この三増峠の合戦は、戦国最大規模の山岳戦として有名です。小田
原北条氏第3代目当主北条氏康は、これまで同盟関係にあった甲斐の
武田との間で、駿河の今川氏をめぐって戦うことになり、永禄12年
(1569)越後の上杉氏と和睦を結びます。和睦が成立した2ヶ月後、武
田晴信(信玄)は、碓氷峠を越えて侵入、さらには小田原城に猛攻を加
えました。北条氏はこんども得意な籠城をとります。


 落城しない小田原城に信玄は、業を煮やして包囲を解き退却します。
それを見て北条軍は、三増峠で武田軍を待ち伏せ、挟み打ちにしようと
城を出て進撃。こうして三増峠は一大戦場になりました。しかし、山岳戦
になれている晴信(信玄)は、いち早く高台の峠を占拠、北条軍を近くま
でおびき寄せて猛攻撃、たまらず北条勢は敗走したというものです。この
戦いでの戦死者は、北条軍3,269人、武田方900人とのことです。


 一方、この鳶尾山のふもと、市島集落にはこんな伝説もあります。市島
集落は東南のふもとの相模川の支流、中津川に沿っている集落です。こ
の集落ではソバを栽培しないしきたりだという。ソバを買ったり食べたりす
るのは許されますが、決して栽培してはならないといいます。もしソバを栽
培したりすると、その家には災難が降りかかるといわれています。


 いい伝えによると、先祖の与一なる人は「保元の乱」に敗れた落人だっ
たという。保元の乱は、平安時代末期の保元元年(1156年)、皇位継承
問題や摂関家の内紛で、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方とに分裂。
双方の武力衝突になった政変。崇徳上皇方が敗北して、崇徳上皇は讃
岐に配流された乱です。


 いまでもこの集落に住む関原家の本家には、先祖が使用したいう、古
びた一本の槍が大切に保存されています。すると槍は保元の乱で使わ
れた槍らしい。こうして敗れた軍勢側にいたご先祖さまは、きびしい追っ
手から一族郎党を引き連れて逃れてきました。関東まで落ちのびて、毎
日歩きづめで、神奈川県のここ市島地区にたどり着いたのは真夜中だっ
たという。


 やれやれ、追っ手もここまではこないだろう。与一とその一族郎党は横
になり、連日の逃避でくたくたに疲れた体を休めました。しばらく眠り、波
のざわめく音に目が覚めました。暗闇の中、ジーッと目を凝らしてあたりを
窺うと、ナント目の前で白波が寄せては返しているではありませんか。あ
っ、山深く逃れたつもりだったのに、ここは海岸なのか。どこで道を間違え
たか。


 夜が明ければすぐ追っ手に見つかってしまう。無念、もはやこれまで
か。一族の中からは「敵の手にかかるより、いさぎよく自決すべし」との声
もあがりました。こうして、与一をはじめとする主だった者は、その場で切
腹、果ててしまったのです。ところが、生き残ったものがよく見ると、白波
に見えたのは山の畑一面に真っ白に咲いているソバの花だったのです。
山の斜面を吹き下ろす風がソバの花をゆらし、波の音のようにざわめいて
いたのです。


 ああ、何ということだ、与一たちの疲れた限界の体からきた錯覚だった
のです。こうして、一族のうちの生き残った者たちは、この地に土着したと
いいます。それ以来、この土地ではソバを栽培しなくなったという。なかに
は「そんな迷信など……」といって、ソバを栽培したものもいましたが、結
局、重い病気にかかったと伝えています。


 なお、鳶尾山山頂にある「金比羅大権現」の由来記にこんなのがありま
す。江戸時代寛永年間(1624〜1644年)、ここ相州愛甲郡一帯に疫病
が流行しました。次々に病人が増え、為すすべもなく、村人は病人を山
すそに置き去りにするしまつ。それを見た心外悦という禅師が、鳶尾山頂
に介護施設を建立、朝な夕なに大般若経を読み祈祷して十数年。


 慶安3年(1650)の深夜、天地鳴動して、鳶尾山頂の大きな松の木に
異形の老僧があらわれ、「われは王舎の子世羅なり、和尚の願望、承知
せり」といって、大宝積経、金毘羅授記本一巻を授て消えた。その時天地
が6度鳴動したという。喜んだ和尚は、大松樹(御座松)のかたわらに、祠
を建ててまつったら疫病は終息しました。感謝した村民らと和尚は金毘
羅堂を建てたという。これがこの神社のはじまりだということです。



▼鳶尾山【データ】
【所在地】
・神奈川県厚木市と愛甲郡愛川町との境。相模線下溝駅の西5キロ。小
田急本厚木駅からバスで鳶尾団地。約1時間30分で鳶尾山。一等三角
点がある。標高:234.13m
【位置】
・三角点:北緯35度30分17.4秒、東経139度19分28.95秒
【地図】
・2万5千分の1地形図:上溝。



▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『かながわの歴史・上』(神奈川新聞社)1989年(昭和64・平成1)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『神奈川県史』(各論編5・民俗)神奈川県企画調査部県史編集室(神
奈川県)1977年(昭和52)

 

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