『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第18章「弘法山・八菅山・仏果山・三峰山周辺」

…………………………………

▼04:丹沢・八菅山

【本文】
 八菅山(はすげさん)は、神奈川県北西部につらなる丹沢山系の東
端、愛川町の中津川の右岸の狭い河川段丘の上にこんもりとしていま
す。標高225.7m。山の中腹に八菅神社(別称八菅の七社権現)が
あり、明治期に神物分離令が出るまでは、修験道場として栄えて
いました。


 この山は、神仏混淆(こんこう)の信仰の聖地で、役小角(えんのおづ
ぬ)や行基菩薩が来た山としても伝わっています。源頼朝や足利尊氏・
持氏による堂社建築や整備が行われたともいわれているところ。八菅修
験はとくに歴代将軍の保護のもと、公認の教団として栄えました。


 山内には七社権現(しちしゃごんげん)と別当(寺務を治める)光勝寺
の伽藍のほか、50あまりの院や坊がありましたが、明治4年(1871)の神
仏分離令で光勝寺は廃止となり、七社権現は八菅神社と改めさせられま
した。


 その祭神は、本殿には国常立命(くにとこたちのみこと)ほか
6神、北社には伊弉那伎尊(いざなぎのみこと)、金山彦命(かな
やまひこのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)ほか6神、南社に
は、伊弉那美尊(いざなみのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと)、
天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)ほか6神となっています。


 この神仏分離令が出る以前、八菅山は丹沢では昔から日向山ととも
に、修験の山として知られてきました。これら丹沢の大山を行場とした修
験は、大山修験(当山派)のほかに、大山の東方山中の日向修験(本山
派)と、東北東山ろくにあるこの八菅山の八菅修験(本山派)があります。
日向修験が丹沢の表尾根からさらに、奥深く入って修行したのに対し
て、八菅修験は丹沢東端の山々から、「奥駆(が)け」と呼ばれた大山ま
でを修行の場にしていました。


 ここ八菅の山は、熊野権現を中心に、蔵王、箱根、男山八幡、山王、
白山、伊豆走湯の七社をまつる七社権現に、別当(寺務を治める)光勝
寺の名のもとにまとまった本坊二十四坊、脇坊二十二坊の修験者が、奉
仕するという形態の一山組織を作っていたという。


 八菅山はかつては蛇形(じゃぎょう)山といいました。その昔、
かの日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の途中、いまの中津坂本あ
たりに来たときにこの山を眺め、「北の方が頭で、竜の形に見える」という
ので、蛇形山と名づけたという。その日本武尊の足跡をたずねて大宝3
年(703)、入山した役小角(えんのおづぬ・役行者)が修法を行い
ました。


 その時天空より玉幡一流が降り、突如8本の白スゲが地中から生え出
たので、寺を八菅寺と称するようになったいう。その後、行基が登り七
社権現をまつったというのです。そのあたりのことを江戸時代の地誌『新
編相模国風土記稿』には次のように載っています。


 「○七社権現社 社蔵顛末秘蔵記(※『役行者顛末秘蔵記』のこと)
曰、大宝三?癸卯(みずのとう)行者、自一日一夜往関東相州八菅山三
七日修秘法、其間天人降、指桂天蓋於小角守護之、相模一国樵蘇農夫
視之低首揮泪拝旃行者、動了一夜皈洛矣」。


 また、「徴業録(※『役公徴業録』のこと)を引て曰、(行者は)遂に当社
を勧請す、其後和銅二年行基神体及本地仏を彫刻し(応永勤進状曰行
基令造立釈迦阿弥陀薬師三仏)一山の伽藍を建立す」。さらに別当光勝
寺の項には「応永二十六年(1419)の勧進帳(※『光勝寺再興勧進帳』
のこと)に当山者恭行基菩薩草創之地、天人聖衆遊化場也、宜哉、う
んぬん……」とあります。


 ここに出てくる『役行者顛末秘蔵記』(えんのぎょうじゃてんまつひぞう
き)にはおおよそ次のようなことが書かれています。「一、大宝三年癸卯
(みずのとのう・703)。行者は都から一昼夜のうちに関東の相州にある
八菅山に行き、三十七日間の秘法を修めた。その間、天人が降りてきて
小角に天蓋(てんがい)をさしかけて守護した。(※天蓋とは尊い者を守る
覆いのことらしい)。


 これを見た相模の国の杣人や農夫たちは、頭を下げて涙をぬぐいな
がら礼拝した。行者は勤めが終わると、また一夜のうちに帰洛した」という
のです。新幹線のない時代ですからスゴイ。この書物は奈良時代の天平
宝字7年(てんぴょうほうじ・763)、弓削道鏡が官を離れてから弓削の里
で書いたものとされていますが、どうも怪しく、実際は江戸時代ではない
かとのうわさもありますが、まあそのへんはムニャムニャ……、いいことにし
ましょう。


 さらに八菅山に現存する最古の文献史料(室町時代の応永26年・
1419)で、役行者が八菅山で修法したことを記す『光勝寺再興勧進帳』
(八菅山住職盛誉著)という文書があります。それでは、「夫以、
当山者、忝行基菩薩草創之地、天人聖衆之遊化場也、宜哉、昔八丈八
手之玉幡、自(二)都率天(一)降(二)臨此山(一)、時八本之菅根、忽然出生
受(二)之、故稱(二)八菅寺(一)也、云々、故称八菅寺者也、」とあります。


 つまり、昔、八丈八手の玉旗(たまはた)が天から降りてきて、神座のス
ゲでつくられた菰(こも)から不思議にも8本の根が生えてきたという。そこ
で八菅山と呼ぶようになったというのです。ただこの文章の「自都率天降
臨此山」とあるなかの「率」が、『山岳宗教史研究叢書』では「卒や率」に、
『新編相模国風土記稿』では「?(ぼう)の字の矛のところが牙」になって
いて迷います。


 ただ8本の白スゲに関しては、異説もあって八菅の集落付近に生えて
いた山スゲにちなんでいるという説もあります。地元の村ではふだん、
山スゲを草履やものを縛る材料に使用していました。いまでも麦
・稲などを束ねるための材料として、山スゲを「ハスゲ」といっ
て使っているそうです。この「はすげ」が採れる山として、八菅
山の山名が生まれたという。


 また、江戸時代宝暦8年(1758)の役行者の業績を記した『役公徴業
録』(えんこうちょうごうろく)という書物にも「公が、相模の八菅山に登って
修練した時に、天上から天童が降りてきて天蓋を執って奉仕した」と記載
されています。


 さて、『山岳宗教史研究叢書』によれば、修験者たちは、八菅から大山
まで山中の30ヶ所の行所をひとつひとつ拝しながら、回峰行を行ってい
たという。


 その行所は、(1:八菅山禅定宿(白山権現、大黒、弁財天)。(2:幣山
(へいやま)荼吉尼天岩屋(荼吉尼天神、倶利加羅明王、毎年3月7日に
修験者がここの秘水を用いて灌頂(かんじょう)の儀式を行ったという)。
(3:屋形山(地蔵菩薩、愛宕権現)。(4:平山、多和宿(七社権現、不動
明王)。(5:滝本、平持宿(飛竜権現、不動明王)。(6:宝珠岳(天童、薬
師)。(7:山神(天童、十一面観音)。


 (8:経石岳(釈迦如来)。(9:華厳岳(大黒石天童、熊野権現、千手観
音、熊野権現の宿所で奧院といわれる)。(10:寺宿(七所権現、不動明
王、竜洞寺という寺が宿になっている)。(1:仏生谷(金剛界胎蔵界両部
の大日如来)。(12):腰宿(七所権現、不動明王)。(13:不動岩屋(七
所権現、不動明王、児留園地宿がある)。(14:五大尊岳(五大尊岳天
童、五大力菩薩)。


 (15:児ヶ墓(児ヶ墓天童、大山修験が入峰の時稚児を葬ったとの伝
承がある)。(16:金剛童子岳(天童、大黒天)。(17:釈迦岳(天童)。
(18:阿弥陀岳(天童、三峰の北峰)。(19:妙法岳(天童、五大力菩
薩、愛染明王、三峰の中央峰)。(20:大日岳(天童、聖天、三峰の南
峰)。(21:不動岳(天童、石形不動、八菅修験が碑伝を打ちつけた樫の
木がったという)。(22:聖天岳(天童)。(23:涅槃(ねはん)岳(天童)。
(24:金色岳(天童、四天童子)。


 (25:十一面岳(帝釈天童)。(26:千手岳(天童、ここは日向修験の
行場でもある)。(27:空鉢岳(天童、通称地蔵平という平地)。(28:明
星岳(天童)。(29:大山寺本宮、雨降山)。(30:大山寺白山不動(白山
権現、不動明王、山王権現、蔵王権現、三十六童子并二天童、大山不
動堂をさす)の30ヶ所だったという。


 八菅山の祭礼には、境内に市がたち村人は参詣の帰りに豊作祈
願のためも菅笠を買ったという。明治4(1871)年、神仏分離に
布告により、七社権現(八菅神社)の別当(寺務を治める)英勝
寺は廃寺となりました。同社に奉仕していた修験35坊の修験者は、
みな神職になりましたが、生活がなりたたず、1戸を残してほか
は帰農してしまったそうです。



▼八菅山【データ】
【所在地】
・神奈川県愛川町八菅山。小田急本厚木駅からバス一本松下車。
約1時間。
【位置】
・八菅山:北緯35度30分45.07秒、東経139度19分20.87秒
【地図】
・2万5千分の1地形図名:上溝



▼【参考文献】
・『役行者伝記集成』銭谷武平(東方出版)1994年(平成6)
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『神奈川県史』(各論編5・民俗)神奈川県企画調査部県史編集室(神
奈川県)1977年(昭和52)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平成
2)
・『山岳宗教史研究叢書・8』(日光山と関東の修験道)宮田登・宮本袈裟
雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重編(名
著出版)1983年(昭和58)
・『新編相模国風土記稿3』(大日本地誌大系21)校訂・蘆田伊人(雄山
閣)1980年(昭和55)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』鈴木棠三ほか(平凡社)
1990年(平成2)

 

…………………………………

 

 

【とよだ 時】 山の画文著作
………………………………
【ゆ-もぁ-と】制作処
山のはがき画の会

目次へ戻る
………………………………………………………………………………………………………