『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第18章「弘法山・八菅山・仏果山・三峰山周辺」

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▼03:丹沢・古戦場跡三増峠

【本文】
 丹沢の有名な古戦場跡に「三増峠」(みませとうげ)があります。戦国時
代、武田信玄と小田原北条との戦いが繰り広げられたところ。峠の名は、
南に広がる集落「三増」から名づけられています。三増はまた「味増」とも
書いたという。「みませ」の意味はいくつかの説があります。その(1:集落
の周辺にある「栗沢」・「深堀沢」・「志田沢」の3つの沢が、瀬をなして当
地台地を三分しており、この「3つの間の瀬」の意味から名づけたとの説。


 (2:また同じように、「三増峠」・「中峠」・「志田峠」の3峠の間の山が背
をなしているところから、「3つの間の背」の意味の説。(3:古代北相模一
帯が官牧地でありこの集落は、献馬を寄せ集めた所であったので「御馬
寄せ」と呼ばれ、この「ミウマヨセ」からの転化説。(4:「御馬寄せ」の馬舎
入り口の止め棒は、「3本のマセ棒」であることからの説。さらに(5:いまは
ありませんが、天狗松・牛松・旗立松を当地の「三松」といい、この「ミマ
ツ」から転化したとする説などがあります(愛川町郷土誌)。


 さて、三増峠は愛川町三増の上三増地区から、相模原市(旧津久
井町)根小屋村(ねごや)地区へと抜ける、県道65号「厚木愛川津久井
線」の三増トンネル上の峠。トンネルの右側から峠への道を登ると、間も
なく三増峠に到着します。


 峠近くには2mもありそうな、明治5(1872)年の銘のある大きなお地蔵
さまがあります。正面台座には「吉祥海雲」と彫られているのを確認できま
す。展望はほとんどなく、わずかにこずえ越しに厚木の街が望まれる程
度。境界尾根づたいにかすかな踏み跡があるところをみると歩く人もいる
のでしょうか。


 この峠道は大昔からあった道。甲州方面から相模国小田原ヘ通じる重
要な道で、津久井道とも呼ばれていたという。かつては多くの旅人が通行
し、愛川側三増集落は、上宿、下宿などの地名が残っているように宿場
町として旅人でにぎわったという。


 ここは、戦国時代には小田原北条氏の前線として、武田氏と対峙して
いたころは攻防の拠点でありました。1569年(永禄12)の有名な「三増
の合戦」は、三増峠とその西方志田峠(しだとうげ)一帯で繰り広げられた
という。この戦いは武田信玄勢の大勝で終わりましたが、激しい戦いで命
を落とした兵は多かったという。それを物語るかのように、このあたりから
は、刀、槍、鉄砲の弾などが出土しています。


 また、「武田信玄の旗立て松」、「浅利明神」、「首塚」などの史跡が残
っています。当時戦いに巻き込まれて落城した「田代城」もいまは愛川町
立愛川中学校となっています。毎年秋には、両軍の戦死者を祭る慰霊祭
と、戦国絵巻をいまに再現する「三増合戦まつり」が合戦場跡で開催され
ています。1969年(昭和44)、愛川町では合戦400年を記念して、中
原に「三増合戦場」の大きな石碑を建立しました。壮烈だった戦さの模様
を後世の残すため掲示しています。


 その戦さの様子です。江戸時代、天保12年(1841年)成立の相模国
の地誌『新編相模国風土記稿』巻之五十八にも、「○古戦場 三増峠志
田山等の麓なり、方五町許、字合戦場と唱ふ、北方に小山あり、其(の)
餘(ほか)は皆陸田なり、土人の傳へに永禄十二年(※2行:【甲陽軍鑑】に
十月四日信玄小田原を退き、同六日三増合戦と云、【小田原記】は二十
日合戦とし、【関八州古戦録】は八日と記せり、)武田信玄小田原を陣払
(じんばらい)し、平塚、八幡田村(※2行:共に大住郡に属、)金田等の
村々を経て当所に至り三増峠より左の山上(※2行:志田山)を本陣とし
(※2行:今其所を旗上場と字す、是信玄旗を立てし所なり、)四郎勝頼を
して志田山に勢を伏置、荻野村を廻り北条衆の後を討しむ……」と、スペ
ースを大きく割いて伝えています。


 三増(みませ)合戦というのは、北条氏康(後北条氏第3代目当主)は、
もともと甲斐武田とは甲相同盟を結んだ同盟関係にありました。しかし駿
河の今川氏をめぐって武田と戦うことになり、1569年(永禄12)、上杉氏
と和睦を結んだのです。それから2ヶ月後、武田信玄は、碓氷峠を越えて
侵入し小田原城に猛攻を加えました。しかし北条軍は籠城の構えをとり、
なかなか落ちる様子がありません。


 攻めあぐねた信玄はいったん甲府へ帰ろうと、包囲を解いて退却しま
した。それを見た北条方は、「この機を逃してはならじ」と、城を出て三増
峠で武田軍の退路を断とうとしました。しかし信玄は山国育ち、山岳戦に
はなれています。北条軍の作戦を逆手にとり、早くも高台である三増峠を
占拠してしまったのです。


 武田軍は北条軍を高地のふもとにおびき寄せ、一気に包囲。両軍の
兵力合わせて3万3千、入り乱れての激戦の上の激戦。北条勢は多くの
死者を出し敗走、信玄の大勝で幕が下りました。史書『甲陽軍艦』という
書物によれば、戦死者は北条軍3,269人、武田方900人と記載されて
いるそうです。以上がおおまかな合戦の様子らしい。


 この戦いのなかでこんなエピソードもあります。後北条の小田原城を攻
めた武田勢の中に三島一族という一族も加わっておりました。小田原城
を攻めあぐねた信玄は、いったん甲斐に帰ろうと退陣します。その時この
三島一族は武田軍のしんがりをつとめていました。しかし、兵の行進が遅
れ山中に置き去りになってしまいました。


 本陣との連絡も取れなくなりました。そのころ、三増峠の上で逆襲に転
じている武田軍本隊のことも知らない一族は、仕方ないとにかく甲斐の国
をめざそうと、昼は山の中にうずくまり、夜を待ち進むというありさま。空腹
と疲労、足を引きずりながらの行軍をつづけました。何日か苦しい山越え
をつづけたある日、一族のひとりが、「海だ、ここは小田原だ。見える山は
箱根ではないかッ!」。


 「なんと甲斐へ向かって行軍していると思ったが、敵の小田原北条軍
のなかに迷い込んでいたのだ」。武田軍の本隊はとうに、甲斐の国に戻
っているに違いない。そう思った一族は、「もはやこれまで」と互いに刺し
違え、腹をかききって悲惨な最期をとげたという。ところが、一族が見た海
原は、実はソバの花畑で、箱根の山に見えたのは八菅山、鳶尾山から市
島に連なる山。味方の武田勢の本隊がいる三増峠はすぐそこだったので
した。


 この戦いの史跡に、次のようなものがあります。・武田信玄の旗立て松
跡:合戦の時、信玄が大将旗を立てたとされる老松でしたが枯れてしま
い、それを惜しんで1928年(昭和3年)に建てた石碑が愛川町三増に残
っています。・浅利信種墓所と浅利明神:武田二十四将のひとり浅利信
種が闘の末、北条方の鉄砲で胸を撃たれて戦死。


 それをまつった「浅利明神」が同じ三増集落にあり、祈願成就の際、木
太刀を奉納する習わしがいまでつづいているという。さらに、志田道と町
道との分岐点に不動堂とも呼ばれる首塚があり、1706年(宝永3年)に
建てられた碑があります。それには当時このあたりに、戦死者の幽霊が出
没するので、念仏で供養したと彫られてあります。



▼三増峠【データ】
【所在地】
・神奈川県愛甲郡愛川町と、相模原市(旧津久井郡津久井町)と
の境。小田急本厚木駅からバス、上三増下車、さらに歩いて40分
で三増トンネル(1992年(平成4)竣工)上の三増峠。
【位置】
・三増峠:北緯35度33分16.3秒、東経139度17分5.14秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「駿河小山(甲府)」



▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『かながわの峠』植木知司(神奈川合同出版)1999年(平成11)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・「日本発見・古戦場」(暁教育図書)1983年(昭和58)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』鈴木棠三ほか(平凡社)
1990年(平成2)

 

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