『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第17章「雨山・伊勢沢ノ頭・秦野峠・日影山・シダンゴ山・高松山」

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▼03:日影山(ブッツェ平)

【本文】
 秦野峠から、西の丹沢湖へのびる尾根があります。これは松田
町寄(やどりき)集落から西丹沢山北町の玄倉集落へ通じる道。
いまでこそこのあたりには、秦野峠林道が通っていますが、かつ
てはこの尾根は玄倉〜寄集落を結ぶ重要な交易路だったといいます。
その地域間で相互に、嫁いでいくために越えていった「花嫁街道」でもあ
ったそうです。


 その尾根の途中にあるおだやかなピークの日影山があります。ブッツ
ェ平ともいうそうです。この日影山の北西には、静かに水をたたえ
た丹沢湖の湖面が明るく光っています。一方、南側の皆瀬川の流域
は樹林とヤブが多く、登山者の姿も見られません。


 この流域は旧皆瀬川村で、いまは山北町になっています。昔の神
奈川県の地誌として多く引用されているものに、江戸時代に編纂された
『新編相模国風土記稿』という古書があります。


 その地誌に、「皆瀬川村(美奈世加波牟良)江戸ヨリ行程二十五里
餘。当村モ古クハ川村郷ニ属セリ。……今大久保加賀守忠眞(ただ
ざね・小田原藩)領ス。……村南ニ川村御關(関)所道係レリ。幅六
尺」と皆瀬川村について記述があります。そのまわりの山については、
「山:当村の四方皆連山ナレドモ。各無名ナリ」とあり、日影山の記載
はありません。日影山は「無名ナリ」の山の中に入っていたようです。


 皆瀬川村は、『新編相模国風土記稿』が編纂された時代には、「小
名:人遠(此止登乎・ヒトトヲ)・鍛冶屋敷・深沢・市関・湯ヶ沢
・高杉・八町(八丁)」とあり、7つの集落からなっていたらしい。
そういえば村を流れる「皆瀬川」の名は、「美しい七つの瀬」の川
が語源だとか。美七瀬川(みなせ)と読むわけですね。


 この流域には南北朝時代の南朝方の伝承が多く残っています。そ
れは山北町の南側にあった河村城に関係があるらしい。この城は平
安時代末期に、平将門を討った藤原秀郷の流れをくむ、河村秀高という
人が築いた城。建武の新政(建武の中興)を経て南北朝時代になると、
河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対立しま
す。


 やがて足利尊氏・直義兄弟が不仲になり、尊氏が弟の直義を殺害
します。河村氏がついた南朝方の新田義貞の息子新田義興(よしお
き)と脇屋義治らは、その混乱に乗じて、一時は鎌倉を占領するほ
でした。


 しかし、尊氏軍が攻めてくるとの情報に、新田義興らは1352年(南
朝:正平7年、北朝:文和元年)、河村秀国・河村秀経らとともにこの城に
立てこもりました。後醍醐天皇の皇子宗良親王(むねながしんのう)
も立てこもったとも伝えています。いまも高杉地区にある大杉大神
宮の祭礼の「お峰入り」は、宗良親王の河村城入りを模したとも、
また親王を慰めるために行われたともいわれ、国指定重要無形文化
財に指定されています。


 さてそれからというもの、強大な足利尊氏軍は、河村城を取り囲
み攻めつづけます。執拗な尊氏方の兵糧攻めに堪えかね、河村城は
1年あまりで落城します。新田義興らは仕方なく、河村城の支城で
ある中川城などから次から次へと退却し、ついには甲斐へ逃げのび
ました。その後は何処ともなく退いていったという。


 そしてのち、東京都大田区の多摩川の矢口の渡しで、部下の裏切
りで非業の最期をむかえます。その後、新田義興の家臣の矢口信吉
がこんどは神奈川県・東丹沢の「長者屋敷」に隠れ住むことにつな
がっていきます。


 こうしたいきさつから、神奈川県、山北周辺には南朝方にまつわ
る伝説が多く残っています。なかには、後醍醐天皇が日影山(ブッ
ツェ平)南ろくの皆瀬川の八丁(八町)地区に、妃とともに隠れ住
み、この地で最後を迎えたといい、その御陵といわれるものまであ
ります。


 また河村氏の残党も日影山(ブッツェ平)や八丁(八町)地区に
も住んだという。ブッツェ平(武士平)の山名はこの武士が由来だ
といいます。


 さらに皆瀬川村の中を流れる「皆瀬川」についてこんな話があり
ます。この川はかつては皆瀬川村の中を流れ、いまのJR御殿場線
の線路のある安戸トンネルあたりまで南下、ここで急に東へ直角に
曲がり、山北駅を含む町の中心を流れていたという。古書にも「河
村城は南に酒匂川、北に皆瀬川」とあります。河村城は皆瀬川と酒
匂川に挟まれていたとあり、地図で見てもいまの地形と違っていま
す。


 それは皆瀬川村の名主の湯山弥五右衛門が開削し、川の流れを大
きく変えたからです。江戸時代中期、宝永4年(1707)に起こった
富士山の大噴火は、降灰以後流砂のため、皆瀬川の河床が上がり、
川が氾濫し村人は大変な被害を受けました。それを見た湯山弥五右
衛門は、河川の改修を試みるのでした。


 まず、代官の伊奈半左衛門という人に陳情しましたが、受け入れ
られませんでした。そこで弥五右衛門は、大胆にも江戸幕府に直訴
しました。こうしてなんとか許可が得られ、工事に着工、直角に東
へ曲がっていた皆瀬川を真っ直ぐ南に掘り進め、酒匂川に合流させ、
水害から村を守ったのでした。


 ところがこんどは、水位が下がりすぎて井戸水が出なくなる騒ぎ
が起こりました。満々と水をたたえた田んぼもカラカラに干上がっ
て、畑になってしまう始末。やがて次代の弥五右衛門の時代になり、
水を川の上流から開くことになりました。


 こうして村人も安心して農作業に励めるようになったという。『新
編相模国風土記稿』(巻之十六)にも、「村北ヨリ南ニ流テ。直ニ酒匂
川ニ合ス。(幅三十間)、舊(旧)ハ村ノ中央ヲ流レシニ。寶(宝)永六年官
命ヲ下サレ。掘改(め)ラル。舊地は今古川跡ト唱ヘ水田トス」とあるところ
です。


 現在、皆瀬川流域は浸食作用によって、小規模な断崖がつくられ、
断崖の急斜面地帯には、シダ類植物群落(ハコネシダ、マメシダ、
ビロウドシダ、ノキシノブ、イワヒバなど)が見られ、神奈川県の
天然記念物に指定されています。また、山北町皆瀬川人遠で合流す
る沢沿いには、有孔虫の一種が含まれる石灰岩も露出していて、こ
れも県の天然記念物になっています。



▼日影山(ブッツェ平)【データ】
【所在地】
・神奈川県足柄上郡山北町。小田急線新松田駅からバス。丹沢湖
下車。3時間30分で。日影山(ブッツェ平)。三等三角点(876.16
m)あり。
【位置】
・三角点:北緯35度24分36.79秒、東経139度4分59.18秒
【地図】
・2万5千分の1地形図:山北。


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『かながわ 山紀行』植木知司(かなしん出版)1991年(平成3)
・「尊仏2号」栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成
元)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』鈴木棠三ほか(平凡社)
1990年(平成2)

 

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