『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第13章「畦ヶ丸−菰釣山」

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▼08:城ヶ尾峠(山)

【略文】
南北朝時代には足利尊氏に追われた新田義興が峠付近に城を築き防
戦。また戦国時代には小田原攻めの武田信玄が峠近くに陣を張った
という。信玄平や甲州兵のとぐ米での「白水ノ沢」 などの地名が
残る。大みそか、峠でのビバークは静かだった。
・神奈川県山北町と山梨県道志村との境

▼08:城ヶ尾峠(山)

いまでも比較的静かな山歩きが楽しめる西丹沢。加入道山・畦ヶ丸
方面から菰釣山・高指山へと縦走路が延びています。

昔ケヤキの巨木があったという大界木山を過ぎてしばらく歩くと城
ヶ尾峠に出ます。北へ進めば山梨県側道志村に下ります。南側は神
奈川県山北町。いまでは道が崩壊し廃道になっていますが、かつて
は甲斐(山梨)と相模(神奈川)を結ぶ交易路だったそうです。

こんな峠にも南北朝時代、また戦国時代と幾多の戦乱の場となった
いいます。南北朝時代、山北駅付近にあった河村城の河村一族は南
朝に味方します。


足利尊氏に追われた新田義興も河村城にかくまわれ、ともに戦いま
すが足利勢の猛攻撃に絶えきれずついに落城。たまらず西丹沢山中
に退却、城ヶ尾峠付近に城を築き防戦しました。

しかし、やはり足利側の力は強くとうとう敗れて峠を越え、甲斐側
に入りはるばる越後に落ちていったといいます。

江戸幕府編纂の地誌「新編相模國風土記稿」(1842年完成)の巻の
十六(村里部・足柄上郡巻の五)中川村・古城跡に「……西北甲州
堺に、城ヶ尾と唱ふる所あり、按ずるに、土人の傳に、新田義興鎌
倉を落て、村内に城郭を構へしが、無勢にして保ちがたく、當村の
奥箒澤より山越して、甲州へ落しと云ひ……」とあります。


それとは別に、戦国時代には武田信玄小田原攻め(1569年)で、
大勢の甲州兵がこの城ヶ尾峠近くの信玄平(旧東海自然歩道)あた
りに陣を張ったという話もあります。

峠付近には信玄にちなんだ伝承が多く、甲州兵のといだ米で沢の水
が白くなったという「白水ノ沢」、「信玄平」、「見晴台?」などがあ
ります。

先の「新編相模國風土記稿」中川村・山の項に「當村四圍總て山な
り、中に於て西北の方甲州堺に城ヶ尾と云へるあり、一に信玄屋鋪
とも、信玄平とも唱ふ」とあります。


また1814(文化11年)完成の松平定能(まさ)編集の甲斐国四郡
の地誌「甲斐国志」の記述を引用して、さかせ古道の條に道志村寒
地(いまの神地?)の山中さかせ入と云地より、山を越て、相州の
内中川村に出る間道あり、此間凡二里半、古小田原ヘの通路なり云
々、其下に少し平なる所を、信玄屋鋪と云傳ふ、永禄中小田原へ責
入時、信玄此道を通行し、山中に宿陣ありしとなり、小田原への行
程此道甚近し云々、又加古坂の條にさかせ峠に上り、嶺上を行二十
町許にして、峰を堀破りし趾あり、堀切と云、峰を下りて相州に入、
少し平地あり、信玄平と云、是より相州世附村に下る云々とも見え
たり」と書かれています。


「さかせ」、「さかせ」と出てくるのは甲州側ではこの峠をサガセ峠
(三ヶ背峠・三ヶ瀬峠)と呼んだとといいます。「さがせ」は道志
の方言のサガシイ(急な斜面)から来ているそうです。


ところで城ヶ尾峠の語源について異説もあり、「丹沢の山と渓」(坂
本光雄著)には「伊豆の城山をはじめ、城(じょう)のつく地名、
山名は多い。

「じょう」は人を近づけない厳しさや、神や天狗の住みかなどとさ
れたりして、容易に人が近づけない悪場につけられている」と説明
しています。

ある年の大晦日、小田急線新松田駅発西丹沢行きのバスは年末年始
特別ダイヤで予定より1時間遅く出発。冬の昼間は短い。歩きが遅
いせいもあり西丹沢自然教室から畦ヶ丸経由で菰釣避難小屋泊まり
には時間が足らなくなりました。


城ヶ尾峠についたときはすでに陽が傾いています。幸い水はたっぷ
りあります。ここでビバークと決めました。見るとまわりの笹やぶ
には小動物のけもの道が点々とついています。

きょうは大晦日。正月料理を用意してきました。伊達巻き、カマボ
コ、きんとん、ごまめ、なます、野菜煮ものなど豪華です。夜中、
どこかで花火をあげています。新年のカウントダウンでもしている
のでしょうか。

そういえばいつだったか夜中に大勢の武将たちの進軍に出会ったこ
とがあります。夢うつつでしたがよろい兜の音をさせながらしかも
テントを触わりまでして確かに通りました。

もしかして今夜も体験するかも知れないぞ。ほろ酔い気分で半分期
待をしながら一晩過ごしましたが新田義興や武田信玄はあらわれて
くれませんでした。明ければまぶしい初日の出。亡霊たちも年末年
始はお休みらしい。


▼【データ】
峠名:城ヶ尾峠(じょうがおとうげ)
・【異名・由来】
異名:三ヶ背峠・三ヶ瀬峠
由来:新田義興、足利尊氏に追われ城ヶ尾峠に城を築く。武田信玄
が小田原攻めの時この峠を越えた。この近くには信玄にちなんだ地
名が多い。

・【所在地】
神奈川県足柄上郡山北町と山梨県南都留郡道志村との境。小田急新
松田駅からバス、大滝橋下車、さらに歩いて畦ヶ丸経由で4時間半
で城ヶ尾峠。地形図に峠名のみ記載あり。

・【位置】
城ヶ尾峠:北緯35度28分31.51秒、東経139度00分34.45秒

・【地図】
2万5千分の1地形図「中川(東京)」

▼【参考】
『角川日本地名大辞典・神奈川』(角川書店)1990年(平成2)
『かながわの峠』植木知司(神奈川合同出版)1999年(平成11)
『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
『新編相模國風土記稿・巻の十六」(村里部・足柄上郡巻の五)中
川村(奈加可波牟良)・山の項:大日本地誌大系19「新相模国風土
記稿・第1巻」蘆(あし・芦と同じ)田偉人・編集校訂(雄山閣)1980
年(昭和55)
「尊仏2号」栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成1)
『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)

▼08:城ヶ尾峠(終わり)

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