『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第12章「大笄・小笄−加入道山」

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▼05大室山と甲州、相州の国境争い

 丹沢の中でも奥深い大室山から菰釣山・三国山にかけての尾根
は、神奈川県と山梨県・静岡県の県境になっています。このあた
りはよい木材が採れる山だったという。かつて小田原北条氏の命
令で伐り出された木材は、城のある小田原まで運搬されていたそ
うです。

 江戸時代になると御木となって保護され、明治には御料林に指
定されます。こんな山林ですから、相模の国(相州・神奈川県側)、
甲斐の国(甲州・山梨県側)、駿河の国(駿州・静岡県側)とも自
分の領地に有利にしたいところ。

 そんな中、甲州・平野村の名主・長田勝之進らが相州から国境
を越えて炭焼きに入り込む者ありという騒動が起こりました。こ
れが発端になり、大論争に発展していきました。1841年(天保12)
10月、ついに平野村の勝之進は幕府に幕府に告訴します。西丹沢
の菰釣山にコモを吊して立てこもったのはこの時だったそうです。


 相州側は中川村(現山北町)・青根村(現相模原市津久井)・青
野原村(現相模原市津久井)・牧野村(現藤野町)と甲州側は道志
村・山中村(山中湖村)・長池村(山中湖村)の3村)、駿州側は
須走村(小山町)の計8ヶ村に及ぶ国境論争です。

 甲州側の主張は、「道志川・神ノ川の合流点から長者小屋を経て
犬越路、中川川箒杉を進んで遠く倉骨峠・山神峠、さては三国山
越しに須走神社前まで」と申し立てました。一方、相州側は大室
山から畦ヶ丸から菰釣山などの峰続きと主張し幕府へ上訴。つい
に幕府の家老が裁定に乗り出すことになりました。


 当時、大室山山頂には甲斐の国の道志側が祭った「大牟連(おお
むれ)山大権現」の石碑があったという。甲斐側はこの石碑のため
ここが境界だと幕府に思われるのは困ります。そこで神官が石碑
をこっそり担ぎ下りて隠したという。

 ところが、幕府は逆に何もない尾根上を境界とみなし、相模側
が主張するいまのような大室山から鐘撞山への国境線が引かれて
しまったということです。1847年(弘化4)のことだそうです(「道
志七里」)。

 古くは平安時代の797年(延暦16)中央政府の裁定からの国境紛
争は千年にもおよんだわけです。そういえば、いまでも大室山か
ら加入道山・大界木山・城ヶ尾山・菰釣山・山中湖へ続く尾根上
には、当時の国境紛争を説明した掲示板が見受けられます。


▼大室山【データ】
【所在地】
・神奈川県山北町と山梨県道志村と境。中央本線四方津駅の四方
津駅の南11キロ。小田急新松田駅からバス・西丹沢下車歩いて4
時間で大室山。二等三角点(1587.6m)がある。
【位置】
・大室山二等三角点:北緯35度30分39.5秒、東経139度04分6.9秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「大室山(東京)」



▼【参考】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「道志七里」伊藤堅吉(山梨県道志村役場)1953(昭和28)年

▼05大室山と甲州、相州の国境争い(終わり)

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