『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第12章「大笄・小笄−加入道山」

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▼03:鐘撞山

 鐘撞山は、丹沢の雄峰・檜洞丸の北東にある標高900mそこそこ
の山。神ノ川出合までのびている尾根の途中にあります。この尾
根は東側の神奈川県相模原市(旧津久井郡津久井町)と西側山梨
県道志村との境になっています。

 深い谷の上にあり、かつては山頂に物見やぐらや鐘撞き堂があった
という。東側直下には、道志川から分かれた神ノ川が流れています。その
ほとりに長者舎(ごや)というところがあり、昔は民家や小学校の分校まで
あった集落でした。ところが、大正12(1923)年の関東大震災で、集落
が一度に全滅しました。塔ノ岳の尊仏岩の崩壊は有名ですが、こんな奥
の方でも甚大な被害だったわけです。

 その長者舎集落の伝説です。鐘撞山西側の山梨県道志村の村史『道
志七里』にこのようなことが書いてあります。ここへいつからきたのやら、大
長者の老夫婦と折花姫という見目うるわしい娘が住みつくことになりまし
た。この長者さまは、どこから追われて逃げてきた落人であったらしく、身
にあまる巨万の富を持っていました。


 長者さまは鐘撞山の山頂に鐘楼を築き、追っ手から身を守るため、見
張りや鐘撞き番まで雇っていました。山頂は足元に道志川の深い淵と、
神ノ川の岩床を一望できる絶好の物見台なのでした。しかしある時群盗
が急襲、見張りも鐘も用をなさず、捕まった折花姫は「はずかしめを受け
るよりは」と、淵に身を投げ果ててしまいました。

 長者さまも社宮司沢出合で惨殺され、逃れ走った婆も音久和の山腹
で殺されました。残された長者舎の屋敷跡からは、「さる木の下に小判千
枚」という書かれた書物が見つかったという。しかし、その木がどこにある
のか、いまだに見つかっていないということです。この長者さまは金の鶏
を飼っていたという人もいるそうです。

 一方、神奈川県側の神ノ川周辺にはもっと詳しく、またちょっと違った、
このような話が伝わっています。戦国時代、武田勝頼が織田・徳川の連
合軍との戦いに敗れ、武田二十四武将のひとりであった小山田信茂の
裏切りで、天目山のふもとで自決。


 甲斐武田家が滅亡したのは、天正10年(1582)のことでした。その後
小山田信茂は織田家へ帰順と褒美を願い出ましたが、織田信長はかえ
って信茂の行為に怒り、甲府・善光寺の織田方の本陣で処刑しました。さ
らに裏切りに荷担した小山田一族を、織田・徳川連合軍に追求させまし
た。

 この小山田信茂のいとこに小山田八左衛門行村という人がいました。
彼は武田信玄の小田原出陣以来、常に旗本として活躍、山梨県大月駅
前の岩殿城の小山田族の副将格でありました。信長が小山田信茂を処
刑後、織田・徳川隊を岩殿城攻めに向かわせたことを知った八左衛門行
村は、最愛の娘折花姫や一族とともに、山梨県大月駅前の岩殿城を脱
出。奧津久井(神奈川県相模原市)から、神ノ川をさかのぼり、丹沢山中
に逃げ込もうとしました。

 しかし敵方の追求は鋭く、逃げきれないことを悟った小山田八左衛門
行村は、折花姫を翁と姥に託し、神ノ川上流へと落ちのびさせました。そ
して自らは踏みとどまり敵方と奮戦しましたが、多勢の連合軍の前に討ち
死にしてしまいました。その小山田八左衛門行村の墓が、いまでも西野
々の焼山への登山口にあります。


 折花姫をあずかった翁と姥も、音久和(おんぐわ)集落のあたりで追い
つかれ、敵の矢に当たった姥は崖下の落ち息を引き取ります。そこに「バ
バア宮」という宮をまつりました。いまでは「ババア神」という地名だけが残
っています。姫は、姥に手向けの念仏を唱えながら山道を登っていきま
す。その場所を「アミダ申シ」といっています。

 さらに追っ手は谷を登っていく人影を見つけ、矢玉を撃ちそそぎまし
た。そのため翁もついに傷つき、姫を先に行かせて群がる敵に立ち向か
うのでありました。そして山の陰に消えゆく折花姫のうしろ影に、「お可愛
そうな…」とつぶやきました。そこを「カアイ尾根」といっています。翁は多
勢の敵に向かい壮絶な討ち死にをしました。そこに「ジジイ宮」をまつって
います。

 折花姫はさらに、神ノ川の奧へと分け入っていきましたが、ついに追っ
手に取り囲まれてしまいました。「もはやこれまで」。姫は自ら懐剣でのど
を突き無念の最期をとげたのでした。折花姫最後の場所、神ノ川林道の
トンネルを出たところに折花宮がまつられています。『津久井郡勢誌』に、
「いまだに宮付近の木を切ると祟りがあると伝えられている」とあるところで
す。しかし、いまは跡形もなくなっています。


 この伝説にはいくつかの変形があります。武田勝頼の家臣でここに落
ちのびてきたのは、小山田六右衛門という武士とするもの、また折花姫の
父親が小山田茂信とか小山田六右衛門になったり、道志村の伝説では
長者の老夫婦の娘になったり混乱しています。このあたりが伝説の弱いと
ころですね。

 一方、かつて丹沢全域は、北条と武田の戦いの場であり、鐘撞き堂は
武田信玄が、甲府の城へと知らせる「のろし」や早鐘のためのものとの説
があるのです。先の『津久井郡勢誌』にも、「当山は鐘撞丸、瘤山ともい
い、砲火台があった」とあります。こちらの方が実感はありますね。


▼鐘撞山【データ】
【所在地】
・神奈川県相模原市(旧津久井郡津久井町)と山梨県道志村との境。三
等三角点(900.05m)がある。
【位置】
・三角点:北緯35度30分56.87秒、東経139度05分19.95秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「大室山(東京)」


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『神奈川の伝説』永井路子ほか(角川書店)1977年(昭和52)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『尊仏2号』栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成元)
・『道志七里』伊藤堅吉(山梨県道志村役場)1953年(昭和28)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

▼03:鐘撞山(終わり)

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