『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第8章「不動ノ峰・鬼ヶ岳・蛭ヶ岳」

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▼07「丹沢主稜と丹沢主脈」

 丹沢を歩く時、ガイドブックなどに「主脈」、「主稜」の文字がならび、時
には「東丹沢主脈」、「西丹沢主稜」の文字も目に入ってきて混乱させら
れます。いま丹沢の主脈といえば、塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳、姫次、焼山
とつづく尾根をいっています。これは大昔、日向修験が、大山−札掛か
ら入峰、表尾根を歩き、塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳、姫次、青根へ下り、日
向山へ帰院したコースに似ています。

 スポーツ登山が盛んになってからもこのコースは、多くの人たちから親
しまれたコースだったという。この尾根がはじめて縦走されたのは大正の
中ごろ。その当時このコースを歩いていたのは、神奈川県横浜市周辺の
人たちが多かったらしい。そのため「伊勢崎町通り」とか、「本町通り」と呼
んでいたというからその「親しみ度」が分かります。

 当時の丹沢はここ以外は、丹沢表尾根はおろか、ほかのコースもあま
り知られていなかったという。昭和のはじめごろまでは「丹沢に行く」とい
えば、この主脈縦走をいったものだったそうです。


 いま主脈縦走するには、塔ノ岳から焼山をめざすのがふつうですが、
昭和15年(1940)ごろは逆のコースをたどったという。前日に、宮ヶ瀬湖
のすぐ北西にある相模原市津久井町鳥屋集落に入り、宿屋に泊まりま
す。そして翌朝早く出発、焼山から姫次、蛭ヶ岳、丹沢山の順序で、塔ノ
岳に向かい縦走したのだそうです。

 一方、いま「主稜」と呼んでいる檜洞丸方面へ、縦走するようになった
のは、昭和30年(1955)ころ。この年になり国民体育大会神奈川大会が
行われます。山岳競技はもちろん丹沢山塊が舞台です。その時、新たに
このコースが開かれました。そこで丹沢の背骨たるこの山稜を、何と名づ
けるかで問題になりました。

 主脈としたいところですが、すでに塔ノ岳、姫次、焼山のコースにつけ
てしまってあります。主脈とは、『大辞林』(三省堂)には「鉱脈・山脈など
の中心になるすじ」、『広辞苑』(岩波書店)にも「山脈・鉱脈などの中心と
なるすじ」とあります。


 とすれば、蛭ヶ岳から先、臼ヶ岳、檜洞丸、大笄・小笄、犬越路、大群
山、城ヶ尾峠を経て菰釣山、大棚ノ頭、高指山、三国山、湯船山、不老
山に至る長大な尾根こそ、その丹沢主脈にふさわしい山稜と思われま
す。

 このような考えは相当以前からあったらしく、「山と溪谷」(143号)昭和
26年(1951)発行に、「従来丹沢主脈と称されている山稜は、塔ヶ岳・丹
沢山・蛭ヶ岳・焼山に至るいわゆる丹沢本町通りを呼称していたのである
が、実際の主脈は地形的に考慮しても、三国山稜から畦ヶ丸・大群山
(室)・檜洞丸・蛭ヶ岳・丹沢山・塔ヶ岳が正しいのではないか(天野誠吉
氏)」と、掲載されています。考えはどなたも同じようです。

 それはともかく、昭和30年(1955)の国体で、この山稜の名を何とつ
けるか、ああでもない、こうでもないと悩んだ末、浮かんできたのが「主稜」
の文字。ハタと膝をたたいてめでたく決まったとのことです。ただ「丹沢主
脈」と「丹沢主稜」ではいかにも紛らわしい。


 そこで羽賀正太郎氏は、「この意味から私は、丹沢主脈を東丹沢主脈
と名づけ、犬越路から先、山伏峠までの間を西丹沢主稜の名をつけてお
く。これは全く便宜的な考えによるものであるが、位置をあらわすには分
かりやすいと思う」と提案しています。なるほど分かりやすいですね。


 当時この稜線には道もなく、昭和15年(1940)代に、川崎山岳会の
パーティが、猛烈なヤブこぎをしながら、トレースした記録があります。そ
れによれば、いまの標準タイム2時間50分の蛭ヶ岳−犬越路間を、10
時間30分かけて歩いています。このタイムから、いかに過酷な行程であ
ったか、その苦労が分かろうというもの。なお、大室山−三国山間の稜線
は、山梨県(甲斐国)と神奈川県(相模国)の境なので、「甲相国境尾根」
ともいうそうです。


▼蛭ヶ岳【データ】
【所在地】
・神奈川県山北町と相模原市(旧津久井郡津久井町)との境。
【位置】
・標高点:北緯35度29分10.76秒、東経139度08分20.05秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「大山(東京)」



▼【参考文献】
・『尊仏2号』栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成元)
・『丹沢』(アルパインガイド37)羽賀正太郎(山と渓谷社)1980年(昭和
55)

▼07「丹沢主稜と丹沢主脈」(終わり)

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