『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第8章「不動ノ峰・鬼ヶ岳・蛭ヶ岳」

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▼01「不動ノ峰」

 神奈川県と山梨県にまたがる丹沢山塊。その中心・丹沢山から
主稜づたいに蛭ヶ岳へ向かう途中に不動ノ峰というところがあり
ます。

 その手前の広場・休憩舎わきに風化した不動さまの石仏がある
のをお気づきですか。形が分からなくなるほど風化してしまって
いますが不動さまなのだそうです。

 これはもとは不動ノ峰の山頂にあったそうです。不動さまは、
清水の湧く場所や滝によくまつられる仏像です。丹沢は昔から山
伏たちの修行の場でした。


 蛭ヶ岳は別名毘盧ヶ岳(びるがたけ)といわれ、修験者たちの
本尊である大日如来の異名をもつ毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)
をまつった山だったということです。


 かつて大山修験の系統の日向薬師(ひなたやくし)の山伏たち
が宮ヶ瀬から早戸川をつめて、丹沢山北側下にある早戸大滝で身
を清め、本尊である大日如来をまつる蛭ヶ岳に向かいました。


 その途中、やっと登りついたのがこの山(不動ノ峰)です。そ
こで、ここを霊地として定め、早戸大滝の上の山に不動明王をま
つったのだろうとされています。


 1963年(昭和38)ころ、伊勢原日向薬師堂の常連坊で見つかっ
たという古文書『峰中記略控』にも、「是より峰に登り神前の平地
なり。比所に不動尊あり」との記載があるそうです。


 この石仏も明治になって再建されたといいます。丹沢の研究者
・坂本光雄氏は「塔ノ岳孫仏記」(「あしなか」第41輯(1927年・
昭和2)所載)の中で次のような意味のことを書いています。


 「いままつられている不動ノ峰の新しい不動の石像は、塔ノ岳
にあった尊仏岩と関係の深い東光院の本寺である最明寺の第30世
の住職・大阿闍梨(あじゃり)真順坊実辨僧正という偉い坊さんが
願主になって、1874年(明治7)に再建したもの。


 台座の右横には「再建施主・相州足柄上郡金子村惣村中」、左横
には「世話人堀村源右衛門」、真裏には「別当(寺務を統御した者)
川村東光院」と刻まれている」という。新しいものとはいえ、187
4年(明治7)では風化されるのは無理もないか。



▼不動ノ峰【データ】
【所在地】
・神奈川県相模原市(旧津久井町)と山北町との境。小田急渋沢
駅からバス、大倉から歩いて5時間で不動の峰。写真測量による
標高点(1614m)と、休憩小屋、風化した不動明王がある。
【位置】
・標高点:北緯35度28分37.62秒、東経139度09分7.21秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「大山(東京)」



▼【参考】
・「あしなか3」第41輯
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)

▼01「不動ノ峰」(終わり)

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