『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第6章「塔ノ岳〜龍ヶ馬場」

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▼05「丹沢塔ノ岳・西麓の金鉱脈沢」

 丹沢の銀座とも呼ばれる塔ノ岳。かつてこの山頂の北側に「お塔」
とか「尊仏岩」と呼ばれる大岩がありました。その岩は高さ15〜16
mもあり、修行僧が座禅する姿、または仏像の形にも似ていたとい
います。

 そのため、山伏たちからはもちろん、近郊の農民からも作物の神
としても信仰され、「お塔」とか「ソンブッツァン」とか呼ばれあ
がめられたという。

 尊仏岩の下の土は豊作に霊験あらたかだとされ、掘りだしては害
虫よけに自分の田畑に撒いたほか、岩に生えたコケは薬にもしたと
いう。


 塔ノ岳は五月十五日がお祭りで、近隣の村人は稲、麦、粟、陸稲
などの穂を持って登り「お塔」に供えました。そしてお塔の前に供
えられている他の人の種の中から、自分が欲しい良い種を選んで持
ち帰ったそうです。

 また雨乞いにもご利益があるといわれ、誰が言い出したか尊仏岩
にあいている大きな穴の中に雷神が住むといい、ひでりの年には穴
に棒を突っ込み、雷神を怒らせました。すると不思議に雨が降ってき
たといいます。

 昔はこのお祭りには山中で年一回の天下御免の野天賭博が行われ
ていたそうです。一時は関八州の親分衆が集まるほどの盛況で、当
時は警官も麓の大倉までは出向きますが、見て見ぬふりをして帰っ
ていったということです。


 こんな尊仏岩も1923年(大正12)9月1日の関東大震災の翌年
(1924年(大正13)の1月15日、再び起こった地震にもろくも、
コナゴナになって北西側の「大金沢」にくずれ落ちたという。いま
は岩の根元だけが残って、その上に苔むした首のない2体の石仏と
「尊佛」と彫られた石碑が残っているだけです。

 尊仏岩が落ちた沢のあたりは大金沢のほか小金沢があります。18
41年(天保12)完成の江戸幕府官撰でつくられた、相模国(神奈川
県)の地誌『新編相模風土記稿』の(巻之十七・村里部・足柄上郡
巻之六・大井庄)にこんな記載があります。

 「……永禄元年(1558年・室町時代末期)、當村山中金澤と云所
より金銀砂を産せしかば、鉱夫等かしこに集て土着する者数百戸、
當寺(秦野市三廻部の觀音院孫佛山福聚寺)の檀越(だんおつ・檀
家)となる者多し、故に彼の地に寺を移せり、其後金銀砂も産せず、
鉱夫も離散するに至りて當寺も舊地(旧地)に移す」とあります。


 丹沢山塊の研究家・坂本光雄氏も「塔ノ岳孫仏記」(『あしなか3
第41輯』(山村民俗の会)1954年・昭和29)に「永禄時代塔ノ岳
西北面の金沢に、数百の鉱夫が入り込んで、ひと頃は盛んに金を掘
り採ったとの記録がある」と記されています。

 かってこんなに賑わった大金沢、小金沢もいまの地図にその文字
もありません。以前は玄倉川の支流箒杉沢のピーク892あたりから
龍ヶ馬場沢が別れ、さらに途中から大金沢、小金沢が塔ノ岳に突き
上げていました。

 ところが現在、電子国土ポータル(国土地理院)でみても箒杉沢
が1本丹沢山に突き上げているだけで枝沢が見あたりません。水が
涸れて流れがなくなったのか、それとも砂金もとうに出なくなった
いま、大金小金なんて昔の夢のまた夢。「金の切れ目は縁の切れ目」
なのでしょうか(笑)。


▼大金沢【データ】
【所在地】
・神奈川県足柄上郡山北町。小田急新松田駅からバス玄倉停留所下
車、さらに歩いて4時間で尊仏の土平。さらに1時間で大金沢竜ヶ
馬場沢出合。付近に何もなし。地形図上に鍋割り沢の文字のみ記載。
【位置】
・【大金沢竜ヶ馬場沢出合】北緯35度27分42.88秒、東経139度09分
18.2秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「大山(東京)」



▼【参考】
・「塔ノ岳孫仏記」坂本光雄:『あしなか3第41輯』(山村民俗の会)
1954年(昭和29)
・『新編相模風土記稿』(巻之十七・村里部・足柄上郡巻之六・大井
庄):大日本地誌大系19「新編相模風土記稿・1」(雄山閣)1980
年(昭和55)

▼05「塔ノ岳西麓の金鉱脈沢」(終わり)

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