第6章「塔ノ岳〜龍ヶ馬場」

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▼03:塔ノ岳尊仏岩

【略文】
塔ノ岳には昔、山頂北側に、仏像に似た大岩・尊仏岩があった。し
かし、1924年(大正13)の関東大震災の余震で北西側直下の大金沢
にくずれ落ちた。ここには狗留尊仏がまつられていた。いまはコケ
むした仏像とコイワザクラが登山者の訪れるのを待っている。
・神奈川県秦野市と山北町、清川村との境

▼03:塔ノ岳尊仏岩

【本文】
 関東近郊の山・丹沢の入門コースといえば、ご存知ヤビツ峠か
らつづく表尾根の塔ノ岳(1491m)。塔ノ岳には尊仏山荘という名
前の小屋があるように昔、山頂北側に、仏像に似た大岩・尊仏岩
があり、「ソンブッツァン」としたわれ、近郊の住民の信仰を集め
ていたといいます。


 江戸幕府官撰による相模国に関する地誌『新編相模風土記稿』
にも玄倉村(久呂久羅牟良)の項にも「塔ノ嶽 村東大住郡境に
あり、此山の中腹に土俗K尊佛と唱ふる大石あり。高五丈八尺許、
其形座像の佛體に似たり。故に此稱あり。此山を他郷にては、尊
佛山と唱ふ、土民の?に、旱魃の時、登山して此石に祈請し、雨
を乞と云、又石上に生ずる苔を土人御衣と称し瘧疾を煩ふ者あれ
ば、是を取て煎じ用、必効験あり、郡中三廻部村觀音院にては、
此石を孫佛尊と呼び、其寺の山號をも孫佛山と唱へり、何の縁故
ありや詳ならず、猶三廻部村の條に辨ず」と出ています。


 しかし、1923年(大正12)9月1日に関東大震災が起こり、そ
の翌年の1924年(大正13)1月15日の余震(余震ではなく別の地
震ともいう)で、もろい大岩はコナゴナになって、北西側直下の
大金沢にくずれ落ちたといいます。この大岩には狗留尊仏(くる
そんぶつ)という仏さまがまつられていて、干ばつのときは、大
事な雨乞いの場になっていました。


 岩の高さは1丈(3.03m)とも3丈とも、また5丈8尺あった
ともいわれていますから、いずれにしても大岩だったわけです。
狗留尊仏とは、過去七仏のひとつで、お釈迦さまのように悟りを
ひらき、完全人格者になり、仏陀のなれた人が過去に7人いたと
する考えなのだそうです。


 ある年の4月、尊仏山荘でイラストの個展を開催させて戴きま
した。その最中に尊仏の大岩を訪れてみました。地震でくずれた
尊仏岩のなごりは、急なガケにへばりついて、高さを裏から測る
のと表から測るのでは大きな差が出てしまいます。これでは測り
具合で高さが違ってくるわけです。そんな傾斜地の中、尊仏岩の
土台に生えたコイワザクラの花が満開です。そのわきで、首をと
られた仏像がコケむしていました。


 尊仏岩といえば、明治38年(1905)9月末に、武田久吉博士ら
日本博物学同志会の一行12人が、案内人を頼んで玄倉川をさかのぼ
り、尊仏岩経由で、塔ノ岳へ登っていった記録があります。それに
よると前の日、玄倉にある「同志会」会員の友人の実家に泊まらせ
て貰ったという。前夜は手違いで玄倉村に着いたのが、真夜中の0
時20分。翌朝午前4時半に跳ね起き、準備に2時間も費やして出発。


 一行の植物組は胴乱、昆虫組は捕虫網、岩石組はハンマーを手に
といういでたち。道中、あっちで観察、こっちで採集で時間がかか
り、記念写真を済ませて、諸士平を後にしたのが1時50分。その後
玄倉川を渡渉の繰り返し。岩壁に咲いたイワツリガネソウを採集し
たり、砂地に生えたシラヒゲソウを掘り取るやら、蝶を追って後戻
りする者もあって、道は中々捗りません。


 熊木沢近くへ来たのが3時ごろ。玄倉の村を出てからすでに8時
間半。案内人はこれから塔ノ岳へいくのは無理だ。きょうは鍋割の
山仕事小屋に泊まるというのを、一行は予定通りに行きたいと案内
に強要。不動清水経由で尊仏岩についたのが午後6時手前だったと
いう。


 尊仏岩について武田久吉博士は次のように書いています。「黒尊
仏は高さ5丈八尺ばかりといわれ「其形座像の仏体に似たり、故に
此称あり」と古記録にある。この石に雷穴という穴があって、それ
には雷神が棲んで居たといわれる。旱魃の時には山麓の村人は、竜
の形物を造り、幾本かの長旒(ちょうりゅう)を押し立て、鐘や太
鼓を鳴らし、懺悔懺悔六根清浄を唱えながら、三里の難路を塔ノ岳
に押し上り、彼の雷穴に石や木を投げ込んで、雷神を怒らせると、
たちまち豪雨が降ると信じられて居た。


 またこの「岩上に生ずる苔を上人お衣と称し、虐疾(ぎゃくし
つ・※おこりの病)を煩う者あれば、是を取って煎じ用うれば必ず
効験あり」などともいわれて居る。一行は石の高さを測ったり、お
衣なる苔を採集してその何かなるかを確かめたり、写真を撮影した
りなどと、いろいろ欲深い計画を持っていたが、時刻の遅いため、
みなそれを後日にのばすほかなかった。


 その後何年経過しても、それを実行する機会を持ち得ないうちに、
大正12(1923)年の震災に、尊仏岩は金沢の谷深く埋もれてしまい、
あたら名物が永久に失われたことは、返す返すも遺憾である」。


 さて、尊仏岩をあとにして間もなく塔ノ岳。6時15分大倉に向か
って下りはじめました。それからが大変で、真っ暗な大倉尾根、足
元を照らすのは、先頭の案内がもった提灯(ちょうちん)だけ。潅
木やすすきやらにつかまりながらソロリ、ソロリと降りていきます。


 そして「松田の駅前の旅館富士見屋をたたき起こして、一行13人
が草鞋をぬぐなり横になったのは、明治38年(1905)9月25日の午
前3時を過ぎる5分であった」(武田久吉。四十年前の丹沢(『山と
渓谷』)とあります。


 「植物組は胴乱、昆虫組は捕虫網、岩石組はハンマーを手にし、
勇気凛々」はいいけれど、友人の実家の宿に、真夜中の0時20分に
集まったり、午前3時過ぎに旅館をたたき起こされたり、まわりの
人たちはいい迷惑だったでしょうね。案内人もナントモ気の毒です。



▼【データ】
【山名・地名】山頂北側にあった尊仏岩の尊称お塔による。

【所在地】
・神奈川県秦野市と同県足柄上郡山北町、同県愛甲郡清川村との境。
小田急線渋沢駅からバス、大倉から歩いて3時間30分で塔ノ岳(と
うのだけ・標高1490.9m)。三等三角点がある。地形図に山名と三
角点と標高、尊仏山荘の文字の記載あり。
【位置】
・三角点:北緯35度27分14.67秒、東経139度09分47.86秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「大山(東京)」



▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『新編相模風土記稿』(巻之17村里部足柄上郡巻之6大井庄):大
日本地誌大系19「新編相模風土記稿・1」(雄山閣)1980年(昭和55)
・「塔ノ岳孫仏記」坂本光雄:「あしなか第41輯」(山村民俗の会)
1954年(昭和29)
・『日本歴史地名大系・神奈川県』(平凡社)1990年(平成2)