第3章「丹沢表尾根」

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▼07:政次郎尾根山頂・戸沢の砥石と猿

【本文】
 丹沢の水無川(みずなしがわ)は、神奈川県秦野市を流れる二級
河川。上流部は丹沢の沢登りの適地で知られています。この川は古
くは「砥川」ともいいました。その昔、洪水が出た後など川に行く
と、良質の「砥石」の原石が流されてきていて、村人はよく拾った
ものだといいます。秦野市の戸川(旧戸川村)は砥石の「砥」が「戸」
に転化した地名だといいます。

 この水無川上流から、表尾根烏尾山や行者ヶ岳、政次郎尾根頂上
に突き上げる「戸沢」も砥石の砥が変化したもの。村人はこの沢で
その原石を発見、坑道をつくって採掘していたと伝えられています。
そこには次のような話があります。

 「昔、水無川の上流の山の中で砥石を掘っていました。大勢の人
が坑道に入って、タガネや槌で砥石の原石を掘っていました。原石
は坑道の外に運び出され、石の形をきれいに整え村に運搬し、町で
砥石として売りに出されるのでした。

 ある日のこと、坑道の外で原石を切りそろえている人夫の前に一
匹の大きな猿があらわれました。みんなが驚いて、作業の手を休め、
猿を見つめました。すると猿は人夫たちの前で身振り手振りよろし
く踊りはじめたのです。

 猿の踊りは面白くその滑稽さといったらありません。人々は腹を
抱えて転げまわりました。人夫たちは、坑道の中で原石を彫ってい
る仲間たちにも見せてやろうと大声で呼びました。みんなが外へ出
て、大猿の熱演を見て大喜び。ヤンヤ、ヤンヤの大喝采。

 すると猿は踊りながら少しずつ後ずさりし、川向こうに誘導しは
じめました。人夫たちはもうすっかり仕事のことなど忘れ、とうと
う川の向かいの岸までついていってしまいました。

 その時です。「ゴーッ」と山なりがしたと同時に、砥石の原石を
掘っていた採掘抗が「ド、ドーッ」と崩れ落ちたのです。間一髪。
坑道の入り口あたりは、モウモウと砂煙が舞い上がっているではあ
りませんか。

 人夫たちはタダあ然としたまま、話はおろか動くこともできませ
ん。やがて砂塵がおさまった現場を見れば、採掘場の跡形もなく、
見上げれば山の形さえ変わってしまっています。大猿の姿はいつの
間にか消えていました。

 これは山神さまが猿の姿になってみんなを助けてくれたに相違な
い。人夫たちはその場に平伏しました。それからというもの、村人
たちは村の山神さまに感謝をこめて、毎月7日に「山神祭り」行う
ようになったということです。実際、水無川戸沢、木ノ又大日沢、
セドノ沢付近に砥石鉱山があったということです。

 江戸幕府編纂の地誌『新編相模国風土記稿』(巻之五十二大住郡
村里部)にも、「又此川(※水無川)ノ一名ヲ砥川ト呼フ。古ヘ洪
水ノ時塔ヶ岳邊ヨリ落ル水勢強クシテ。砥石多ク。流レ出シ故ナリ
村名モ。此ヨリ起リシト云ヘリ。」(昔洪水で上流の塔ノ岳のあたり
から砥石が流れてきた。そのため水無川を一名を砥川と呼んでいた
が、いつしか村の名前もそれにちなんで戸川というようになった)
と書かれています。

 また、この原石の存在は、昔から知られていたようで、古く江戸
中期の延享(えんきょう)元年(1744)の横野村の記録にも、「行
者峯に青砥御座候……寛文6年(1666)横野村・菩提村両村ヨリ成
瀬五左衛門御注進申上候…」とあります。

 行者ヶ岳は、戸沢の上部にあり、修験者が修行したといわれてい
る場所。修験者は山師(やまし)・鉱山師の能力も兼ねそろえてい
るとの話にもあり、修験者が見つけたとのうわさも……。

 良質な原石は、戸沢・政次郎尾根頂上付近にあるという。原石の
採掘は1972年(昭和47)ころまで行われており、秦野、小田原に
まで出荷され、農具用砥石として使用されていたようです。


▼政次郎尾根頂上【データ】
【所在地】
・神奈川県秦野市と清川村との境。小田急小田原線渋沢駅の北9キ
ロ。小田急小田原線秦野駅からバス。ヤビツ峠下車。歩いて約3時
間15分で政次郎尾根頂上。
【位置】
・政次郎尾根頂上:北緯35度26分50.34秒、東経139度10分
44.59秒
▼【地図】
・2万5千分の1地形図「大山」


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『新編相模国風土記稿』(巻之五十二大住郡)明治18(1885)年
(国立国会図書館電子デジタル)
・『尊仏2号』栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成
元)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』鈴木棠三ほか(平凡社)
1990年(平成2)