『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第3章「丹沢表尾根」

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▼02:二ノ塔・日本武尊の足跡

 小田急秦野駅からバスに乗りヤビツ峠で下車、舗装道路の坂道を
富士見橋の表尾根登山口まで歩きます。急な樹林帯の中をあえぎな
がらやっと二ノ塔に着くと、目の前に表尾根の展望が展開します。

 いまはなくなりましたが、以前は足元の二ノ塔のベンチのわきに
「日本武尊(やまとたけるのみこと)足跡」と書かれた道標があり
ました。

 山道に従って菩提集落へ通じる道をしばらく下り、道を左にとる
とまもなく鳥居が現れます。さらに行くと、くぼんだ石やしめ縄が
張った大岩などがあらわれます。


 これは『秦野市市勢要覧』にある一文です。「相模国北波多郷菩
提村に伝え言う、日本武尊夷征伐の時、浮島ヶ原より阿夫利山に
通路際比所に来り、水なきを憂い賜い、尊大石を踏みて、俄然水
湧き出す、足跡縦凡そ1尺2寸、横凡そ7尺5寸、現に其足跡、
叙上の如くにして平素、留水殊に清く、旱魃といえども水涸るる
ことなし、往古は其傍に石碑ありしも、明応七年秋、地震のため、
該山大いに崩れて地中に埋没せしという……」。

 その昔、日本武尊が東方遠征のおり、静岡県の富士市と沼津市
にまたがる浮島ヶ原から、相模国(神奈川県)にやってきました。
そこで火攻めにあい(『古事記』では相武国、『日本書紀』では駿河
国になっている)、草なぎの剣でなんとか難を逃れた日本武尊は相
模の国の阿夫利山(大山)に兵を進めました。


 しかし、のどが渇きましたが水がありません。兵士たちも、いき
も絶え絶えに疲れ果ててしまっています。日本武尊は、「水無きを
憂う」といいながら、そばにあった岩石に乗り踏みつけました。

 すると、大きな岩石の下から清水が湧き出したというのです。こ
れで一同は大助かり、元気を取り戻したのでした。この水はどんな
に干ばつが続いても水が枯れたことがなく、村人たちの飲み水とし
て使われたという。

 村人は、この恩を忘れないよう石碑を建てました。ところが戦国
時代の真っ只中の、明応7年(1498)に大地震が襲い、清水は一瞬
にして埋まってしまいました。


 しかしいまでも岩の上に、縦1尺2寸(45.5センチ)、横7寸5
分(32センチ)くらいの足跡に似た凹みが残っていて、そこには
いつも水が溜っていて旱魃の時でも枯れることがないという(『中
郡勢誌』)。

 確かに岩の上に踏みつけた足跡らしい形の穴があいて、中に水が
淀んでいます。しかし溜まっているのは、いつ降ったのか分からな
いような枯葉が沈んだ泥水。一口なめてみましたが、ペッ、ペッ。
とてもとても………。

 またこんな話も残っています。ある日、日本武尊が地域の様子を調
べるため大山に登ったところ、突然の雷雨にみまわれました。心配し
た村人たちは、新しいワラで蓑と笠をつくり、尊を迎えに行きました。
喜んだ尊がここの地名を聞いたところ、「まだない」とのことを聞き、
「以後、この郷をミノゲというべし」といったいう話が残っています。


▼二ノ塔【データ】
【所在地】
・神奈川県秦野市。小田急小田原線秦野駅の北北西8キロ。小田
急秦野駅からバス、ヤビツ峠から歩いて40分で旧ヤビツ峠。また
1時間45分で二ノ塔(標高1140m)。さらに菩提側へ下る。

【位置】
・二ノ塔:北緯35度26分03.08秒、東経139度11分43.84秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「大山(東京)」



▼【参考】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵(角川書店)1984年
(昭和59)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本伝説大系・5」(みずうみ書房)1986年(昭和61)
・『日本歴史地名大系・神奈川』平凡社1990年(平成2)
・『秦野市市勢要覧』

▼02:二ノ塔・日本武尊の足跡(終わり)

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