『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第2章「ヤビツ峠とその周辺」

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▼02:岳の台と旧ヤビツ峠の餓鬼道

 丹沢の表尾根縦走と大山の登山口ヤビツ峠。秦野駅から直通バスが
あり、休日には大勢の登山者がやってきます。またここは秦野と宮ヶ瀬
方面へと結ぶ峠で、ドライブやサイクリングの場所としてにぎわいます。

 この峠は1934(昭和9)年、丹沢林道開通とともにできた新しい峠。旧
峠はその西側・岳の台の中腹鞍部にあります。戦国時代には、武田信玄
と小田原北条氏康の戦いが何回もくりひろげられた場所でもありました。

 とくに永禄12(1569)年、小田原北条軍を追ってこの峠にさしかかっ
た武田勢は、北条方の待ち伏せにあい、さんざんに打ちやぶられたとい
います。その他、このあたりでは双方の戦死者が多かったという。


 その時のものか、明治末期に峠道を修復工事中、武士が使う矢を入
れておく箱・「矢櫃」(やびつ)が土の中から見つかったことから、ヤビツ峠
の名がついたとされています。しかし、ヤビツとは、がけや切り立った斜
面の間のくぼ地をいう地形語でもあり、峠名はそこからきているという説も
あります。

 旧ヤビツ峠は、かつて餓鬼道と呼ばれていたという。この道は
秦野から札掛地区へ食糧を運ぶ重要な道だったという。ある冬、
雪が降り続き札掛地区の食糧が乏しくなりました。心配になった
秦野の荷揚げ役の加藤老人は、力自慢の若者に食糧を背負わせ札
掛に向かいました。

 ヤビツ峠(旧ヤビツ峠)にさしかかると案の定、腹がへってや
りきれません。腰をふらつかせながら峠を下るとうそのように元
気になります。このあたりは永禄年間、甲斐の武田信玄と小田原
の北条氏康との激戦の場。


 その時腹をすかしながら死んでいった武士たちの亡霊がさまよ
っているのだと村人たちは噂しました。それからは峠越えをする
人は自分が食べる前に食糧を餓鬼たちに与えるようになったとい
う。

 ある年の5月、新茅ノ沢から表尾根の烏尾山にとりつきました。
ぐずつきかげんだった空からついにポツリ、ポツリ。餓鬼道にさ
しかかるころは本降りに。スケッチするサインペンのインクのに
じんでいく様子が何となく哀れを感じます。このあたりは野犬が
多いのか、注意書きの看板が気になりました。

 なお、ヤビツ峠から札掛への途中にある「門戸口」という地名は、戦国
時代、ここにあった小田原北条氏の砦の門戸口のあったところ。また諸
戸の地名は、このあたり一帯は三重県の大地主諸戸清六のものだった
ためについた地名。いまでもその子孫の諸戸さんが管理しているというこ
とです。


 この鞍部から西へ登ったところが岳ノ台(だけのだい)です。岳ノ台
は、標高899m。昔の丹沢表尾根縦走コースの最初のピーク。いま丹
沢表尾根縦走は、ヤビツ峠から車道を歩き、旧富士見山荘跡の向かい
側から登りはじめます。


 でも、かつてはここを通り、菩提峠経由で二ノ塔に登り、塔ノ岳をめざし
ました。昭和初期発行の地形図には単に「岳」としてあるそうです。ところ
で岳ノ台の「岳」はタカ(タカット)でタカミ(高み・高所)のことだという。これ
が訛ってタガとかダガ、ガッカになるという。台のダイは同じ意味のものを
重ねたものということです。


▼【参考】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『かながわの峠』植木知司(神奈川新聞社)1999年(平成11)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・「尊仏2号」栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成1)
・『丹沢記』吉田喜久治(岳(ヌプリ)書房)1983年(昭和58)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

▼02:岳の台と旧ヤビツ峠の餓鬼道(終わり)

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