『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第1章「大山と大山三ッ峰周辺」

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▼13:大山参り

【本文】

 突然ですが、「大山まいり」という落語です。江戸の人々が丹沢

の大山にお参りに出かけました。毎年道中で酒ぐせの悪い者がひと

騒動をおこすのが悩みのタネ。そこで暴れた者は坊主になるという

約束をします。



 ところが、帰りに神奈川宿で「クマ公」が酔っぱらい大暴れ。二

階でいびきをかいて寝ているところを、丸坊主にされてしまいます。

翌朝早くみんなは、まだ寝ている「クマ公」を置き去りにして出か

けてしまいました。



 目をさまし、丸坊主に気がついた「クマ公」、悔しくてしょうが

ありません。一策を案じ、駕篭に乗って、ほかの者たちより早く江

戸に帰りました。早速ほかの連中の女房を集めて、帰り道、船が転

覆して全員溺れ死んでしまった。自分一人が助かったので、みんな

の菩提をともらうため坊主になったという。女房たちもすっかり信

用して、皆悲しんで坊主になってしまいました。



 そこへ一行が帰ってきて大騒ぎ。しかし突然、年長者が「めでた

い」といいました。「なにがめでてえんだ」。「お山は晴天、家へ帰

りゃ皆お毛が(怪我)なくっておめでたい……」。上方(かみがた)

では「百人坊主」とよんでいるそうです。ことほど落語に登場する

くらい「大山まいり」は江戸時代はやったようです。



 「大山まいり」とは、いまの神奈川県伊勢原市と厚木市・秦野市

との境にある大山の山頂(標高1252m)の奥の院石尊大権現にお参

りすることだという。当時はまだ女人禁制だったそうです。ここは

もと阿夫利山といっていましたが、雨が多いので江戸時代になり、

雨降山の字を当てるようになりました。



 開山は奈良時代の初期、良弁僧正というエライお坊さんが山頂に

登り、生身の不動尊を拝し、奈良に帰り勅願寺にするよう朝廷に願

い出ました。山頂には大山祇神(おおやまずみのかみ)をまつる阿

夫利神社があり、ご神体が石塔であるため石尊大権現といいました。



 当時、別当(寺務を治める)は、いま中腹にある真言宗の雨降山

大山寺が務め、江戸時代までは大山祇神社の拝殿のある場所に、い

っしょに建っていました。



 雨の多いこの山は農民の間では雨乞いの対象になり、また漁民の

間では大漁祈願の神でもありました。こうして大山は、農耕保護の

山神・水神の崇拝の体制へと進展。江戸時代には徳川幕府の政治的

援護と、御師などの布教活動により、関東一円にまで知れ渡ってい

きました。



 元禄時代の初期ころになると大山講が誕生。病気平癒、商売繁盛、

なんの神、かんの願いと大山に願をかけ大山は大繁盛します。最盛

期には、関東地方はもちろん、静岡、愛知、山梨、長野、新潟、福

島にまでおよんでいて、その信者数は91万9690戸にも達している

という記録があります。



 『新編相模国風土記稿』によれば、登山期は夏だけに限られ、旧

暦6月27日〜7月17日までの20日間で、この間を「初山」・「七

日山」・「間(あい)の山」・「盆山」と四つに分けています。この期

間に限り、山頂の石尊社まで参拝が許され、それ以外は登れるのは

中腹の不動堂までに限られていたそうです。



 さて、大山への道は東南山ろくの伊勢原に四方八方から通じてお

り、この20日間に参詣者が殺到したのですからその混雑は想像で

きます。大山まいりはまず、水垢離をして身を浄めます。江戸の人

々は、両国橋の東詰(下総寄り)に垢離場で清浄潔斎。



 次の日、夜明け前に日本橋をあとにして、品川から川崎、神奈川、

保土ヶ谷とすぎて、戸塚泊まりが第1日の行程。翌日は四谷の立場

(たてば)から右へ、大山道に入って伊勢原を過ぎ、ふもとの子安

村、次第に坂道になり山下の前不動です。坂道の両側は、土産物屋

や旅籠屋が建ちならんでいます。ここで2泊目。



 第3日目に山頂まで登り参詣します。道中は、富士登山者の姿も

いるし、箱根めぐりの者も見られます。また箱根まわりの帰り、大

山から江ノ島、鎌倉方面へ行く者もいました。



 講中の人たちは揃いの衣装で、納め太刀(いまも下社の裏通路の

壁に飾ってある)をたずさえます。また講の名前を入れた「納め手

拭い」をつくって、街道の茶店や旅籠で休んだり泊まったりするた

びに置いていったそうです。自分たちの講の宣伝をしたわけです。



 茶店や旅籠も心得ていて、この時とばかりきれいな娘をやとって

旅人たちを引きとめます。街道の物乞いたちも、いまが「かきいれ

時」とあって、参詣の旅人にうるさいくつきまとってきたそうです。



 しかしこの大山参り、なかには盆前の借金払いのがれに、旅へ逃

げ出す連中も多く混じっていたらしい。それらの様子は「盆山は駆

け落ちらしい人ばかり」という川柳にも詠まれています。



▼大山【データ】

【所在地】

・神奈川県伊勢原市と厚木市・秦野市との境。小田急小田原線伊

勢原駅の北6キロ。小田急伊勢原駅からバス、大山ケーブル駅か

らケーブル利用下社駅下車、さらに歩いて1時間30分で丹沢大山。

三等三角点(1251.7m、現地確認)と写真測量による標高点(1252

m・標石はない)と阿夫利神社奥社と電波塔がある。地形図に山名

と三角点の標高、標高点の標高、阿夫利神社の建物の記号と電波

塔の記号の記載あり。

※「地図閲覧サービス」と「電子国土ポータルWebシステム」地形

図には三角点と標高点があるが、「基準点成果等閲覧サービス」地

形図には両方とも記入がない。


【ご利益】

・阿夫利神社:御利益:豊作祈願・無病息災・家内安全・防災招福・

商売繁盛などの祈願。とくに水に関係のある火消し・酒屋、またご

神体の刀に関係のある大工・石工・板前などの商売繁盛の祈願)。



【名山】

・「日本三百名山」(日本山岳会選定):第235番選定:日本百名山

以外に200山を加えたもの。

・「花の百名山」(田中澄江選定・1981年):第47番選定



【位置】

・大山標高点:北緯35度26分27.09秒、東経139度13分52.22秒

・大山三角点:北緯35度26分26秒.9251、東経139度13分53秒.1146



【地図】

・2万5千分の1地形図「大山(東京)」



▼【参考文献】

・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平成2)

・『日本大百科全書・4』(小学館)1985年(昭和60)

・『山岳宗教史研究叢書・8』(日光山と関東の修験道)宮田登・宮本

袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)

・『新編相模国風土記稿』(大日本地誌大系19)雄山閣編輯局編(雄山閣)

1980年(昭和55)

・『民間信仰辞典』桜井徳太郎編(東京堂出版)1984年(昭和59)

 

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