『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第1章「大山と大山三ッ峰周辺」

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▼03:良弁僧正と関係のある房総・元清澄山

 日蓮上人が修行したお寺・千葉県鴨川市にある日蓮宗 大本山
清澄寺(せいちょうじ・きよすみでら)で有名なその名も清澄山。
その西側奥に元清澄(もときよすみ)山という山があります。清
澄寺の「清澄」とは、その昔、山頂にきれいに澄んだ池があった
のでついた名前だという説があります。

 しかし、それならその奥にある元清澄山は「奥清澄」になるは
ずですよね。また清澄山の奥にあるから(日本山岳ルーツ大辞典」)
とする本もありますが、これも「元」ではなく「奥」がつかなけ
れば不自然です。一説に、清澄は「木屋住み」のなまったものと
いいます。

 昔、房総開拓の祖・天富命(あめのとみのみこと)とともにや
ってきた木地師たちが北上、鹿野山方面に定住、さらにそこから
南へ移動してきて、まず、いまの元清澄に住み、のち清澄山に定
住したというのです。それなら元住んでいた所は元木屋住み(元
清澄)になるわけで、まさにいまの地名とドンピシャリです。


 元清澄山頂には2つの石祠があって正面に「大山神社」読める
文字が彫ってあります。向かって左側面には明治22年に建立した
ことを記してあります。里宮の鴨川市平塚大山地区にある大山神
社はもと、大山寺(高藏山大山寺)を本体とし、神亀元年(724)、
丹沢大山を開山した良弁(ろうべん)僧正が創建したといわれ、
雨乞いのお寺だったという。『角川日本地名大辞典12・千葉』)。

 神亀元年(724)とえば、飛鳥時代から奈良時代に入ったばかり。
太安麻呂(おおのやすまろ)らが『古事記』を撰上した年だとい
うから古い。それがいつのころか神仏習合の修験寺となり、その
後大山祇をまつる大山神社へと変わっていったそうです。

 天保11年(1841)、石尊大権現高蔵神社(祭神:日本武尊)と敬
称。高蔵神社と不動尊がまつられています。そんなことから元清澄
山の山頂の二つの祠は南西側の大山地区を向いて建てられていま
す。祠の前には無造作にサカキが供えられています。


 昼飯のおにぎりを食べていたら突然ガサガサと物音。サカキを
背中いっぱいに背負った人が現れました。そうか、年末も近い。
地元の人は正月用のサカキの出荷に忙しかったのだ。元清澄山へ
の登山口に金山ダムがあります。このダムサイトの下にある小さ
な集落の裏山に、金山城址があります。

 金山バス停から金山ダムに向かい、トンネルの手前から川沿いに
集落に入ると、農家のわきから裏山に抜ける小道があります。10
分くらい登ると、一面ススキの原となっている広場に出ます。そこ
が鎌倉時代に長狭氏、室町時代に東条七郎左衛門政常が居城してい
た城の跡だそうです。

 いまは民有地だという。「房総里見軍記」に「元より山城にして、
大手先に堀を切り、東南の方に深田を湛え、裏は一面屏風を立てし
如き険岨にして、実に堅固の城郭なり」とあります。里見義実は夜
討ちをかけて攻めたてついに東条氏は自害、2日間で落城したとい
う。文安2年(1445年)6月9日のことと伝えられています。里見家は
その後、第9代の忠義が元和元年に罪により追放されるまで170年間、
房総を治めましたが、歴史上、金山城の戦いは興味深いところです
(『房総の山』)。



▼元清澄山【データ】
【所在地】
・千葉県鴨川市と君津市との境。外房線天津小湊駅の北西8キロ。
JR久留里線亀山駅から歩いて3時間で元清澄山。三等三角点
(344.2m)と大山神社の祠がある。地形図に山名と三角点の標高
の記載あり。関東ふれあいの道に指定
【ご利益】
・雨乞い
【位置】
・三等三角点:北緯35度10分31.11秒、東経140度05分45.8秒
【三角点】
・点名:元清澄
【地図】
・2万5千分の1地形図「坂畑(大多喜)」

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典12・千葉』川村優ほか編(角川書店)1984
年(昭和59)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『房総の山』千葉県山岳連盟(千秋社)1977年(昭和52)

▼03:良弁僧正と関係のある房総・元清澄山(終わり)

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