『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第1章「大山と大山三ッ峰周辺」

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▼02:大山開山良弁僧正のはなし

【略文】
丹沢の大山を開山したのは鎌倉生まれの良弁というお坊さん。小さ
い時金色のワシにさらわれ、奈良東大寺の大きな杉の木の上で見つ
かったという。その時猿に助けおろされ、のち、エライお坊さんに
なった良弁は、父母に巡り会い、故郷に帰り、大山に登って、不動
明王の石像を発見。霊木で本尊を制作、ここに大山は開山されまし
た。

▼02:大山開山良弁僧正のはなし

【本文】
 丹沢大山は、歴史も伝承も古く、山頂から縄文時代の遺跡が発見され
ていて、平安時代の壺や和鏡も発掘されているという。また相模の国御
岳(くにみたけ)として農神や海神としての信仰も厚く、関東一円からも石
尊大権現として親しまれていました。その名は、江戸時代に編纂された
相模国の地誌『新編相模国風土記稿』に、「一は雨降山(阿女布里也
末)と呼び、又阿部利山或は大福山・如意山等の名あり」などとあり、昔
は阿女布里也末、阿部利山と書かれ、大福山とか如意山とも呼ばれて
いたようです。

 明治の初期、神仏分離以前は、いまの阿夫利神社上社のある山頂に
は石尊社(せきそんしゃ)があり、また下社のある中腹には大山寺不動堂
がありました。この2ヶ所が大山信仰の中心だったそうです。そもそも大
山は奈良時代から名僧の注目を浴びていたという。奈良時代前期の霊
亀2年(716)、関東地方に巡遊していた行基菩薩が、国分寺や日向薬
師を建立しました。そしてさらに大山に登ってここを開山しようとしました
が、目的は果たせなかったという。

 下って同じく奈良時代後期の天平勝宝7年(755)、奈良東大寺別当
の良弁(ろうべん)というお坊さんが開山しました。良弁は、華厳・法相宗
の学僧。3年間大山に在住し、伽藍、坊舎、僧堂等を建立し、雨降山(う
ごうざん)大山寺(だいさんじ)と号し、その本社を石尊社といったという。
良弁は鎌倉の出身で、奈良東大寺の初代別当というエライ人。その誕生
には、こんなはなしがあります。

 『大山寺縁起絵巻』に、「當國相模の国司太郎太夫時忠と申せし人、
(中略)家繁盛にして快楽限りなし。然りと雖も齢四十を歴(へ)て、家を
継(つぐ)べき一子なかりしかば、常々此を嘆き給ひ……」とあります。
昔、鎌倉に太郎太夫時忠という子どものいない夫婦が住んでいました。
時忠は40歳を過ぎても家を継ぐ子どもが授からず、「どうか子どもをお与
えください。」と、日夜神仏に祈っていました。

 ある夜、老僧が夢枕に立つのを見て、「扨(さて)は願(ねがい)成就せ
りと悦の色を催ほされけり……」。やがて玉のような男の子が生まれ、夫
婦は大喜び、大切に育てていました。ところがある日、金色に輝くワシが
飛んできて、男の子をさらっていってしまったのでした。この金色のワシ
は、遠く奈良東大寺二月堂まで飛んでいき、境内の杉の木の枝にとまり
ました。

 ちょうどそのころ、覚明上人(真名本では学明、『元亨釈書』・『東大寺
要録』・「大山寺縁起」では義淵僧正)という坊さんが大きな杉の木の下を
通りかかり、子供の泣き声で気がつき、木の下まで行ってみると、杉の枝
の間に金色のワシが小さな子供を抱いています。覚明上人が、「此子五
体を全くして帰させ給へ。」と不動明王に祈念。すると猿があらわれ、子
どもを抱いて覚明上人に渡しました。

 覚明はこの子を受け取り、金のワシが連れてきた子どもというので、「金
鷲童子」(こんじゅどうじ)と呼んで、大切に育てました。金鷲童子(こんじ
ゅどうじ)が19歳の時、覚明上人が亡くなりました。金鷲童子は、執金剛
神像(仏教の護法善神)を作って天下泰平等を祈ると、不思議や神像の
脚にかかっていた五色の糸から光が出て、時の天皇(聖武天皇)の宮殿
を照らしたのです。

その光をみた天皇は、勅使を向かわせました。「金鷲行者答(え)て申さ
く、興隆仏法の志あれども、我(が)力にては叶ひがたし。天皇の威光を
勅(いまし)みたてまつりて、大伽藍を造立し、仏法を修行せんと思うなり
とぞ申し給ひける」。それを聞いた天皇は、「大(い)に叡感(えいかん・感
心して)ましまして、勅定ありけるは、朕も大願有(り)といへども、未(だ)
其師を得ず。金鷲(こんじゅ)行者を師とすべし仰(せ)下されける」。聖武
天皇が弟子になりたいといったのですからスゴイ。そこで金鷲童子は出
家して、「良弁」(ろうべん)と名乗りました。良弁は東大寺(金鐘寺)の初
代別当になり、華厳宗を確立したのでした。

 そのころ、良弁の父の時忠は、妻とともに各地を何年もかけて放浪し、
子どもの行方を探していました。そしてついに良弁の居所を聞いて奈良
に行き、苦労の末、良弁と再会できました。その話を聞いた聖武天皇は、
時忠を再び相模国の国司に任じて、良弁が相模国に帰国することを許し
ました。しかし故郷で仏法を広めたらすぐに帰ることを命じました。

 故郷に帰った良弁は村人から、大山の山頂から五色の彩光が出てい
るという話を聞きました。早速大山に登り、山頂の地面を掘ると不動明王
の石像が出てきました。(また村人が光を見て、山頂の登り石像を掘りだ
したというのを聞き、良弁が山頂に登ったともいう)。

 そのとき、不動明王があらわれ、この山は弥勒菩薩の「兜率天浄土」
(天上界の一つ)であると語ったという。良弁は山中で見つけた霊木(槻・
つき・ニレ科の落葉高木。ケヤキの一種)で不動明王の像を彫り、その像
の前で21日間祈ると、弥勒菩薩の化身である四十九院があらわれまし
た。

 その後、良弁が山中にある岩窟の下の池の端で、7日間祈ると、池の
中から「震蛇大王」と名のる大蛇があらわれました。「自分は大山を守護し
ていましたが、仏の教えを無視したため、このような姿になってしまいまし
た。上人のおかげで兜率天(とそつてん・天上界のひとつ)の内院に変わ
ることができました。これからは大山に垂迹(すいじゃく)して大山寺を守
護します。」といいました。

 良弁が参拝人のため、水が出るようにして欲しいと大蛇にいうと、岩窟
の上から水がしたたり落ちはじめ、いまある「二重の滝」になったという。
伽藍、坊舎、僧堂等を建立した良弁僧正は、大山寺と号し本社を石尊社
としたのでした。こうして大山寺を開山した良弁は、天皇との約束に従っ
て、京に帰っていったという。また良弁は80歳で、山中の岩窟に入って
亡くなったとも伝えられています。



▼大山【データ】
【異名・由来】
・異名:雨降山・阿夫利山(あふりやま・あぶりやま)、国御山(く
にみやま)、大福山(だいふくさん)、如意山・阿倍利山
【所在地】
・神奈川県伊勢原市と厚木市・秦野市との境。小田急小田原線伊勢
原駅の北6キロ。小田急伊勢原駅からバス、大山ケーブル駅からケ
ーブル利用下社駅下車、さらに歩いて1時間30分で丹沢大山。三等
三角点(1251.7m、現地確認)と写真測量による標高点(1252m・
標石はない)と阿夫利神社奥社と電波塔がある。地形図に山名と三
角点の標高、標高点の標高、阿夫利神社の建物の記号と電波塔の記
号の記載あり。
【ご利益】
・阿夫利神社:御利益:豊作祈願・無病息災・家内安全・防災招福
・商売繁盛などの祈願。とくに水に関係のある火消し・酒屋、また
ご神体の刀に関係のある大工・石工・板前などの商売繁盛の祈願)。
【名山】
・「日本三百名山」(日本山岳会選定):第235番選定:日本百名山
以外に200山を加えたもの。
【位置】
・大山標高点:北緯35度26分27.09秒、東経139度13分52.22秒
・大山三角点:北緯35度26分26秒.9251、東経139度13分53秒.1146
【地図】
・2万5千分の1地形図「大山(東京)」


▼【参考文献】
・『あしなか・復刻版』第4冊(第77輯・丹沢特集)(名著出版)1
981年(昭和56)
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・『山岳宗教史研究叢書・8』(日光山と関東の修験道)宮田登・宮
本袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書・17』(修験道史料集・T)五木重編(名著
出版)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編相模風土記稿』(巻之五十一 村里部 大住郡巻之十 糟屋
庄):『新編相模国風土記3』(大日本地誌大系21)編集校訂・蘆田
伊人(雄山閣)1980年(昭和55)
・『日本歴史地名大系14』(神奈川県の地名)(平凡社)1984年(昭
和59)

 

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【とよだ 時】 山の画文著作
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【ゆ-もぁ-と】制作処
山のはがき画の会

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