『新・山の神々いらすと紀行』
画と文・とよだ 時

第10章 中国・四国・九州の山々

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■03:四国・剣山と安徳天皇の剣

【略文】
四国の剣山はもと「立石山」とか「石立山」、また「小篠(こさざ)
の権現」などともいわれていたという。それが剣山という名前に
なったのには源平合戦で死んだとされる安徳天皇が実は生きてい
て、剣山に登り、自らの剣を奉じて山頂に埋めたとも、遺勅によっ
て剣が山上に納められたからだという。剣山山頂に広がる「平家の
馬場」という平原は、平氏再興を図る落ち武者たちが乗馬の訓練を
したところとされています。
・徳島県三好市、美馬市、那賀町の境

■03:四国・剣山と安徳天皇の剣(画展926)


【本文】

四国の剣山(つるぎさん、けんざんとも・標高1955.0m)は、徳

島県美馬(みま)市、東祖谷山(いややま)村、那賀町にまたがる

山。剣山系の主峰で徳島県内の最高峰であり、西日本では愛媛県の

石鎚山に次ぐ山です。山頂には「平家馬場」と呼ばれる平坦地があ

ります。山頂の宝蔵石(ほうぞうせき)神社(剣山本宮・東麓の美

馬市木屋平(こやだいら)地区にある竜光寺剣神社の奥ノ院)のそ

ばには、宝蔵石(ほうぞうせき)と呼ばれる巨石があります。



また西側直下には巨石御塔石(おとうのいし・大剣岩ともいう)

をご神体とする大剣(おおつるぎ)神社(江戸時代末までは大剣

権現といていた)があり、御神水(おしきみず)が湧いています。

そのほか北麓の三好市側リフト乗車駅近くの見ノ越(みのこし)

にも劔神社があり、また山頂北側には両剣神社、その近くに古剣

神社もあってややこしい。これら各地にある剣神社の総本山が山

頂西側直下の大剣神社になっています。



この山は四国太郎山あるいは太郎笈(たろうぎゅう)などとも呼

ばれていました(すぐ近くには弟分の次郎笈(じろうぎゅう)とい

う山もあります)。山頂の南の端に一等三角点(標高19955.0m。

三角点名:剣山)があります。1943年(昭和18)、気象庁は山頂

北側に「剣山測候所」(富士山測候所に次ぐ高さ)を開設、職員が

常駐し、気象観測をしていましたが、技術の革新により2001年(平

成13)に廃止されました。



この剣山地、なかでも祖谷山(いややま)と呼ばれる地域は、飛騨

(ひだ・岐阜県北部)の「白川郷」、肥後(ひご・熊本県)の「御

家荘(ごかのしょう)」、または日向(ひゅうが・宮崎県)の「椎葉

(しいば)の里」などとともに日本三大秘境といわれ、平家の落人

伝説地として知られています。1964年(昭和39)3月には、剣山

を含む一帯が「剣山国定公園」に指定されました。



ここ剣山は植物の宝庫でもあります。1801年(享和(きょうわ)

元)には地元の植物学者、医師学問所(藩立医学校)教授らが入

山。明治になり、1896年(明治29)には植物学者白井光太郎が、1909

年(明治42)には牧野富太郎も植物採取のための登山をしました。



その結果この山で発見されたものに、ギンロバイ、シコクヤマト

リカブト、トガスグリ、ケンザンデンダ、ツルギハナウド、ツル

ギカンギク、ツルギミツバツツジ、シコクシラベなど数多くあり

ます。とくにシコクシラベは、四国特産の針葉樹で氷河期の遺存

植物だそうです。また古剣神社の西にある行場(不動の窟)付近

に生えている、やはり氷河期の遺存植物キレンゲショウマの群落

は、全国の有数の広大な規模だといいます。



この山は、剣山と呼ばれる前は「立石山」とか「石立山」、また「小

篠(こさざ)の権現」などともいわれていました(『異本阿波詩』)。

また「昔は立石山といひしが」とあるのは『祖谷(いや)紀行』。

そのほか、「剣和讃」(木屋平村竜光寺の住職明皆成が1879年(明

治12)6月、信者の獲得につなげようとして作成)にも「元立石

の山なるぞ」と記されています。



ところで、いま使われている山名の「剣」の名が出てきたのは江

戸時代の寛永年間(1624〜44)といいます。当時の「阿波国絵図」

に「剣ヶ峰」と記されたのが最初だという。そしてやがて「剣山」

の名が定着していったらしい。ここで突然「剣」の文字が出てきた

のには、3つの理由があります。



その【第1】は、頂上近くに剣のような神石(御塔石・おとうの

いし)があり、そばに大剣(おおつるぎ)神社をまつっているた

めだというもの。1815(文化12)年の『阿波志』(阿波藩の藩撰の

地誌)の「剣祠」の項に「剣祠 祖山菅生(すげおい)名剣山の上

に在り、名を去る二里余、頂に岩あり、屹立す、高さ三丈、土人以

て神と為す、三月、雪消え人方登謁(えつ)す、其形似たるを以て、

名づけて剣と云ふ。



祠中剣あり、元文中(1736〜41)人あり、之を盗む、既に得て、

之を小剣岩窟中の人跡至らざる所に納む、後終に失ふ」。つまり、

岩の形から剣山の名が与えられ、後に剣を奉納したという。また

1757年(宝暦7)、宇野真重著の『異本阿波志』は次のようにあり

ます。「剣山 曽谷山東の端也、此山上に剣の権現御鎮座あり、又、

小篠の権現とも申、谷より高さ三十間斗四方なる柱のことき巖、立

たり、風雨是をおかせども錆ず、誠に神宝の霊剣なり、……」など

とあります。



その【第2】は、前述の『阿波志』や『異本阿波志』にも出てくる

ように、大剣神社にまつる神宝が剣であることに由来する説。1912

年(明治45)の『新撰名勝地誌』(田山花袋編)には、「剣山は四

国第一の高山にして…(中略)…山頂に一小祠あり、剣の社と称す。

安徳天皇の剣を祀れるより其名を得たりといふ…(後略)」とあり

ます。



その【第3】の説は、安徳天皇の剣を山頂近くに埋めたとする説で、

これは、祖谷(いや)地方の言いつたえである、屋島合戦に敗れた

平氏一族が、ひそかに安徳天皇を奉じて祖谷地方に入ってきたとす

る説からきています。江戸末期の1792(寛政5)、讃岐の文人・菊

池武矩(のり)が当地を訪れた際の旅行記『祖谷(いや)紀行』に

よれば「山上より遙に剣の峰みゆ、其山昔は立石山といひしが安徳

天皇の御つるぎを収め給ひしより、剣の峰といふとなん」とありま

す。これは前記の『異本阿波志』の記事にもあります(『山岳宗教

史研究叢書12』名著出版から)。



また『剣山由来記』という文献では、「安徳帝、この山に御駐輦(れ

ん)、大山祇命(おおやまずみのみこと)の御社に御剣を奉納あそ

ばさるによって石立山を剣山と改す」とあります。御社とは山頂

の宝蔵石神社または西側直下の大剣神社のいずれかを指すとされ、

宝蔵石または御塔石の下に剣が収められているといわれているの

です。



これらの山名由来説の中に安徳天皇が度たび出てきます。そもそ

も伝説によれば、源平合戦で死んだとされる安徳天皇が実は生きて

いて、平家の落人に守られて剣山の奥山に隠れ住み、この地で生涯

を終えたというのです。



安徳天皇は高倉天皇の第一皇子、平安末期の1180年(治承4)、わ

ずか2歳で第81代天皇として即位しました。しかし、即位して間

もなく源氏が挙兵して「源平の争乱」がはじまります。そして屋島

の戦いに敗れ、1185年(寿永4・文治元)壇ノ浦の戦いでついに

平氏は滅亡、安徳帝は祖母に抱かれて入水(じゅすい)し、わずか

7歳でその生涯を終えたということになっています。



しかし実は安徳帝は生きていたのだというのです。屋島の戦いで敗

れた平家軍のうち平国盛(くにもり・平忠盛の子で清盛の弟にあ

たる教盛の二男)をはじめとする一団は、安徳天応を奉じて讃岐

の水石庄に身をひそめました。壇ノ浦で入水したのはじつは安徳天

皇の身代わりだったというのです。



讃岐の山中逃げ込んだ安徳帝の一行は、穴吹川を遡(さかのぼ)り、

木屋平を経て石立山へと登りました。この時、安徳帝が自らの剣を

奉じて山頂に埋めたのか、または、遺勅(いちょく・後世に残され

た勅命)によって剣が山上に納められたという。



この剣山山頂に広がる「平家の馬場」という平原は、平氏再興を図

る落ち武者たちが乗馬の訓練をしたところとされています。「晴天

ニハ、必ズ竜馬出テ、爰(ここ)ニ遊ブ、此笹ヲ喰フト云々、毛色

赤クシテ、二才駒程アリ、今是(これ)ヲ見ル人多シ」と書く本も

あります(『異本阿波志』)。



また山上の宝蔵岩は、平家の財宝あるいは軍資金を隠したところと

もいい、岩の下にはソロモン王の秘宝が埋まっているなどという噂

まであるしまつ。



さて、途中で安徳天皇と別行動をとったのは平国盛とその一族は、

吉野川を遡り、祖谷山に分け入って東祖谷山の大枝地区に行って岩

屋に身を隠しました。1185年(文治元)の大みそかでありました。

せめて新年の祝いに門松を立てようとしましたが、あたりに松はな

くヒノキで代用。



そんな時、国盛の一行が大枝地区の名主の喜多家を訪れました。と

ころが喜多家は、元旦の祝賀の宴の最中で、見知らぬ落人一行の立

ち入りを断りました。怒った国盛らは武力で喜多家を滅ぼしてしま

います。



祖谷山地方にのこる正月の奇習があります。元旦に座敷に空の膳を

ならべ、そこの家長が「きたぞ、ソーラきた」と叫叫びます。する

と家族みんなで外に飛び出して逃げるまねをするという。当時の落

ち武者の略奪の記憶が伝わっているのでしょうか。突然、見たこと

もない無頼漢の落ち武者連中にやってこられて迷惑ですわな。いつ

も犠牲になるのは庶民ですね。



こうしてこのあたりを平定した平国盛は、阿佐地区に定住して祖谷

平氏・阿佐家の祖になったという。阿佐家は平家屋敷といわれ、正

月にはヒノキの門松を飾るということです。大枝地区の神社は国盛

が鉾を奉祀したところといい、神社の裏手には国盛が植えたという

老杉の巨木(国盛の大杉)があり、県の天然記念物になっています。



さて、剣山の山頂で国盛たちが平定したという吉報を待っていた安

徳天皇たち。平国盛が、祖谷山地区を評定したという知らせを受け

て、祖谷へと下っていきました。蛇足ながら、途中にある栗枝渡(く

るすど)集落の下流の京上(きょうじょう)というところは、安徳

帝が行宮(あんぐう・仮宮)を営んだところで、京の都になぞらえ

た名前にしたものという。ほかにもこのあたりには天皇淵や天皇森

などという地名も各所に残されています。



このような落人たちの努力もむなしく、平家再興の夢はならず安徳

天皇はこの地で崩御したという。栗枝渡地区の八幡神社が安徳天皇

終焉の地といわれています。この神社の境内に「安徳天皇御火葬跡」

という場所もあります。



またこの地方には菅生(すげおい)家(源氏の末流)と阿佐家(平

家)があって、阿佐家がいまも平家の赤旗を伝えています。それに

対し菅生家は源氏の白旗が伝えられているそうです。菅生家は当時、

平家一族を追って祖谷(いや)山中に入って来たのだそうです。深

田久弥「日本百名山」第93番認定。岩崎元郎「新日本百名山」第86

番認定。田中澄江「花の百名山」第97認定(クリンユキフデ)。



▼剣山【データ】
【所在地】
・徳島県三好市東祖谷(いや)、美馬(みま)市木屋平(こやだい
ら)、那賀郡那賀(なか)町木沢(きざわ)の間に位置する。JR
徳島線貞光駅からバス見の越から登山リフトで西島駅、さらに歩い
て50分で剣山山頂。一等三角点がある。北東237mに剣山本宮宝
蔵石神社がある。
【名山】
・深田久弥「日本百名山」第93番選定(日本二百名山、日本三百
名山にも含まれる)
・岩崎元郎氏「新日本百名山」第87番選定(クリンユキフデ)
【位置】
・三角点:北緯33度51分13.51秒、東経134度05分39.11秒
【地図】
・2万5千分の1地形図:「剣山」



▼【参考文献】
・『山岳宗教史研究叢書12』「大山・石鎚と西国修験道」宮家準編
(名著出版)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書18』「修験道史料集(2)西日本篇」五来
重編(名著出版)1984年(昭和59)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本歴史地名大系37・徳島県の地名』三好昭一郎(平凡社)2000
年(平成12)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)

 

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