『新・山の神々いらすと紀行』
画と文・とよだ 時

第10章 中国・四国・九州の山々

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■01:鳥取県・伯耆大山

【略文】
『出雲国風土記』に出てくる国引き神話。神がほかの国の余った
土地を綱で引っ張ってきて、杭として止めたのが伯耆の火神岳、
いまの伯耆大山だという。ここは丹沢大山(おおやま)の天狗、伯
耆坊のふるさとで、いまは清光坊という天狗がいることになってい
ます。
・鳥取県大山町、琴浦町、江府町など。

■01:鳥取県・伯耆大山


【本文】

鳥取県の西部にそびえる大山(だいせん)は、旧国名から伯耆大

山(ほうきだいせん)と呼ばれています。また見る方向によって

は富士山にも似ているため、伯耆富士と呼ばれます。さらに、と

なりの出雲(島根県)からの方が眺めがよいので「出雲富士」と

もいいます。



主峰は弥山(1710.6m・三角点がある)で、最高峰は剣ヶ峰(172

9m)。この山は古来から神います山とされ、霊山としてあがめら

れてきました。その起源についてこんな話が残っています。『大山

寺縁起(だいせんじえんぎ)』という文書の「第一巻二段」に、イ

ザナギ、イザナミの神の大昔、天からひとつの大盤石が落ちてき

たという。



その時、大盤石が3つに割れて和歌山県の熊野山と、奈良県金峰

(きんぷ)山、そしてここ大山(だいせん)の3つの山になりま

した。だから大山(だいせん)は日本第3の霊山だというのです。

『大山寺縁起』は、鎌倉時代後期の正中2年(1325年)から元徳

元年(1330年)に間成立した作者不明の大山信仰に関する貴重な

史料。(神奈川県丹沢大山(おおやま)にも同じ題名の『大山寺縁

起』があるので注意)。



また大山(だいせん)には、有名な「国引き伝説」も残っています。

奈良時代の『出雲国風土記』(意宇(おう)郡の条)に、「意宇(お

う)と号(なづ)くる故は、国引きましし八束水臣津野命(やつ

かみずおみつののみこと)、詔(の)りたまひしく、「八雲(やく

も)立つ出雲の国は、狭布(さの)(狭い)の稚国(わかくに)(未

完成)なるかも。初国(はつくに)(はじめに作った国)小(ち)

さく作らせり。



故(かれ)作り縫(ぬ)わな(ほかの土地を縫い合わせて大きく

しよう)」と詔りたまひて、「たく衾(たくぶすま)(タクの布で作

った寝衣)志羅紀(しらぎ)(新羅国)の三埼(みさき)(岬)を

国の余(あまり)ありやと見れば、国の余(あまり)あり」と詔

(の)りたまひて、うんぬん」とつづく文があります。



つまり、八束水臣津野命が国を作る際、「出雲の国は狭い若国(未

完成の国)なので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ

足そうとした」と記されており、西は佐比売山(島根県・三瓶山)、

東は火神岳(ひのかみだけ・鳥取県大山)に綱をかけて、東端の

「三穂(みほ)の埼」は北陸から引き、西端の「支豆支の御埼(き

づきのみさき)」は朝鮮半島の新羅から引いてきたという。その間

の「闇見(くらみ)の国」と「狭田(さだ)の国」は、それぞれ「北

門(きたど)の良波(よなみ)国」、「北門の佐伎(さき)国」から

引き寄せます。



神は「国来国来(くにこくにこ)」とかけ声をかけて国を引いてき

ました。そしてできた土地が現在の島根半島であるといわれていま

す。またその際に国を引いた綱は、その後弓浜半島になったという。

国引きが終わって神は杖をつき立てて「おゑ」といったのでこの

地方を意宇(おう)と名付けたというのです。この時綱をかけた

火神岳が大山(だいせん)なのだそうです。『出雲国風土記』は、

奈良時代の天平5年(733年)に完成とされる出雲の神話などが記

載される文書です。



一方、この山の開山は、天武天皇の12年(684)、開祖は役行者で

あるという。また行基(ぎょうき)が開山したとも記すものもあり

ます(平安後期に成立した『伊呂波字類抄』)。またこんな伝説も

あります。出雲国玉作(島根県八束郡玉湯町玉造)の猟師の依道

(よりみち)が、たまたま美保の浦を通りかかった時に、海底か

ら金色の狼があらわれました。



狼は依道を誘うようにして、大山(だいせん)山中の洞に入りま

した。ここぞとばかり依道が矢をつがえると、地蔵菩薩があらわ

れました。驚いていると、狼が老尼にかわり「私は登欖尼(とら

んに)という山ノ神である。あなたに地蔵菩薩をまつってもらい

たいと思い、ここまで導いた」といったという。畏れおののいた

依道は決心して金蓮と名のって出家したという。金連は修行にい

そしみ、やがて釈迦如来をも感得し南光院というお寺を開いてこ

れをまつりました。さらに阿弥陀如来を感得してまつったのが西

明院だという(『大山寺縁起』)。



さらに大山(だいせん)は天狗の山としても知られています。首

都圏で人気のある神奈川県丹沢大山(おおやま・相模大山)の阿

夫利神社下社わきにあるレリーフ(石碑)の天狗、伯耆坊はこの

伯耆大山(だいせん)から山移りしてきたものだそうです。いまそ

のあとの大山(だいせん)にいるのは清光坊(せいこうぼう)とい

う天狗だといいます。



大山(だいせん)では昔から「大山の烏ヶ山を吹く風は、天狗風

か恐ろしや」と伝える里謡がありますが、これは伯耆坊のことら

しいという。丹沢大山にいる伯耆坊天狗は日本を代表する「日本

八天狗」にも入っているエライ天狗ですが、伯耆大山の清光坊天狗

も山伏たちが唱える『天狗経』の48狗に入る天狗です。天狗関係

ではこんな話もあります。



『陰徳太平記』(4)という本に、出雲の戦国大名の尼子晴久(あ

まごはるひさ)が、月山富田城(がっさんとだじょう)の戦い(い

まの島根県安来市)の時、安芸(現広島県)の毛利元就(吉田郡

山城)を討とうとして、兵を集めている晴久に(1540年(天文9)

室町時代後半)、この山の天狗が、大山(だいせん)の神大智明権

現(だいちみょうごんげん)の神託(お告げ)を伝えて思いとど

まらせようとした記述があります。



「伯耆大山(だいせん)神勅(しんちょく)(神のお告げ、命令)

ノ事 或時、富田の城へ、色白う丈(たけ)高く清げなる山伏一

人来(た)り、伯耆大山の使僧なりと案内を請ふ。晴久対面せら

れしに、彼の山伏、今度芸州(安芸)御出張の思し召し、留まら

れ候かしと申しければ、晴久、それは衆徒中よりの使いに候かと

問い給ふ。いや是(これ)は権現御神託にて候。御疑ひを晴し申

すべき為なれば、証拠を示し候べしとて、懐中より鶏の蹴爪の如

くなる物、長さ一尺余りならんを出したり。晴久、是は不思議の

御事、有り難き神勅かな。



かかる神勅を受けながら、違背申さんは冥慮(めいりょ)の程恐

れ入り候と雖も、諸国の軍士、羽檄(うげき)(急を要する檄文?(げ

きぶん)。昔、中国で緊急の触れ文に鳥の羽を挟んだところから?)

に応じて、すでに当国に馳せ集まりて候へば、此上にて又、約を

変じ、各々帰国仕り候へと申さん事、晴久が胡論(うろん・胡乱

の間違い?)と云ひ、当家の軍法、信を失する第一にて候間、今

更已(や)むことは能はざる所にて候。……山伏は暇乞ひて帰り

にけり。……又翌くる夜、前の山伏来たりて、晴久御返答、権現

へ敬白仕り候へば、只幾度も芸州御出張引延宜しかるべしとの御

神勅に候。斯(か)く再三申し候と雖も猶御疑心止まず候上は、

事の明歴所をば、本(もと)の姿を顕はして見せ申さんとて、両

の腋下(わきした)よりだいなる翅(つばさ)をさし出しければ、

晴久、とかく幾度も同じ御返事にて候。……山伏、その由、反命

仕るべく候。然れ共かく両度の神勅、御違背候ふ事、彼れ是れに

ついて宜しからざる御事に候。猶も能く能く御思惟(しい)候べ

しとて、座敷を立つ」。



晴久はあわてて緋縅(ひおどし)の鎧一領と黄金作りの太刀一振

りを寄進しました。しかし戦い(吉田郡山城の戦い・第一次月山

富田城の戦い)の結果は、寡兵(かへい・少ない兵力)の毛利勢

に散々うち破られてしまいました。これが、尼子家衰運の第一歩

で、それから16年後の永禄9年(1566)、毛利軍に攻められて尼

子の月山富田城は落城(第二次月山富田城の戦い)してしまいま

した。この『陰徳太平記』は.、室町時代を書いた軍記物語。正徳

2江戸時代の (1712) 年刊。岩国領(いまの山口県)の家老香川正

矩によって編纂、香川景継(宣阿)が補足刊行したもの。



さらにこのあたりには、大山(だいせん)の地蔵が多くの分身を

作り、各地で同時に田植えを助けたという話もあります(『伯耆大

山寺縁起』)。ちなみに『出雲国風土記』に出てくる八束水臣津野

命(やつかみずおみつののみこと)は地蔵菩薩のことだそうです。

大山(だいせん)は、志賀直哉の『暗夜行路』(1937)にも登場し

ている山です。このような信仰の山、修験の山として一大仏教寺

院群に発展した大山(だいせん)も、明治初年に新政府が発した神

仏判然令、そしてその後におこつた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

によって堂塔・仏像がすっかり失われてしまっています。



一方、この大山(だいせん)の北西、鳥取県大山町と淀江町の境に

孝霊山(こうれいざん・751m)という山があります。一名韓山(か

らやま)といい、ここにも山の背比べの話があります。柳田國男も

「日本の伝説」(山の背比べ)で、孝霊山は大山(だいせん)と背

比べするためにわざわざ韓から渡ってきた山なので韓山(からやま)

というのだといっています。韓山が背比べをした時、大山(だいせ

ん)よりも少しばかり高かったのです。腹を立てた大山(だいせん)

は木履(ぽっくり)をはいたまま、韓山の頭を蹴飛ばしました。韓

山の頭は割れて低くなってしまいました。そのため、いまでもこの

山は頭が欠けたようになっているのだという。またその昔、朝鮮か

らきた渡来人が故国の山を持参し、大山と背比べをしたが敗れたの

で置き去りにしたという言いつたえもあります。



▼大山(だいせん)【データ】
【所在地】
・鳥取県大山町、琴浦町、江府町など。JR山陽本線米子駅の東19
キロ。JR山陽本線米子駅からバス、大山(だいせん)寺下車、3
時間半で弥山(大山町)。避難小屋と3等三角点がある。
【名山】
・「日本百名山」(深田久弥選定):第92番選定(日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる)
・「新日本百名山」(岩崎元郎氏選定):第81番選定
・「花の百名山」(田中澄江選定・1981年):第91 番選定
・「新・花の百名山」(田中澄江選定・1995年):第94番選定
【位置】
・弥山三角点:北緯35度22分15.93秒、東経133度32分24.2秒
【地図】
・2万5千分の1地形図:伯耆大山



▼【参考文献】
・『出雲国風土記』:東洋文庫145『風土記』吉野裕訳(平凡社)1988
年(昭和63)
・『角川日本地名大辞典31・鳥取県』竹内理三(角川書店)1982
年(昭和57)年
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・『山岳宗教史研究叢書12』「大山・石鎚と西国修験道」宮家準編
(名著出版)1979年(昭和54)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『修験の山々』柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系32・鳥取県の地名』(平凡社)1992年(平成4)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年(平成16)
・『柳田國男全集25』柳田國男(ちくま文庫)1990年(平成2)

 

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