『新・山の神々いらすと紀行』
画と文・とよだ 時

第9章 近畿の山々

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■12:大峰山・釈迦ヶ岳はインドから飛んできた

【略文】
釈迦ヶ岳はお釈迦さまが説法をしたインドの霊鷲山が人々を救う
ために飛んできた山だという。山頂に建つ銅製の釈迦如来像は大
阪の行者講の寄進により建立されたもの。大峰一番の強力岡田雅
行という人が銅像をいくつかに分け、約20キロの山道を運びあげ
たという。
・奈良県下北山村と十津川村の境。

■12:大峰山・釈迦ヶ岳はインドから飛んできた


【本文】

奈良県大峰山脈は、南北約50キロ、標高1200m以上の山々が約50

座も連なる大山脈。天武天皇のころというから673〜685年(飛鳥

時代)、あの有名な役行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)が、こ

の大峰に入峰、金峰山の菊大窟で修業し、蔵王権現を感得しまし

た。この蔵王権現が修験道の本尊で、各地にある蔵王などの山名

はここからきています。



主稜には山伏修法の地が75ヶ所あり、七十五靡(なびき)と呼ば

れています。この七十五靡の40番の行所が釈迦ヶ岳(標高1800m)

です。一名転法輪岳(てんぽうりんだけ)とも、単に大峰(おお

みね)とも呼ばれます。このあたりは大小の露岩が屹立する十六

羅漢、五百羅漢などの奇岩を呈しているところ。



この釈迦ヶ岳は、「釈迦如来」が説法をしたインドの霊鷲山(りょ

うじゅせん)と檀特山(だんとくさん)が人々を救うためにこの

地に飛んできたという伝説があります(『大峯修行伝記』)。そのた

め釈迦如来をまつったのでから山名があるそうです。山頂には銅

製の釈迦如来像が建ち、1等三角点もあります。



この如来像は、1924年(大正13)に大阪の行者講の寄進により建

立されたもの。大峰一番の強力で案内人といわれた、岡田雅行と

いう人が銅像をいくつかに分け、持ち送り方式で、約20キロの山

道を運びあげたというからすごい。一番重い台座は36貫(135キ

ロもあったといいます。江戸時代末には高さ1尺、1間半四方の釈

迦堂があり、釈迦木像を安置していたという。



風に吹き飛ばされないようお堂のうしろにはおびただしい数の岩

をつめてあったとらしい(江戸天保年間の『吉野郡名山図志』)。

同書には「常に雲霧起こり晴日まれなり。晴れれば頂上より西に

あたりて紀州の海、四国、九州を眼下に見、南海を過ぎる船の帆

かすかに見え熊野の諸山見ゆ(中略)大台山をはじめとして東は

伊勢、尾張、駿河の海を望み、晴天のあした日いまだ出ざるの頃、

駿河の富士山海中に見ゆ」と展望の良さを記載してあります。



また毎年4月8日に釈迦堂の「戸開け」で、前鬼坊が周8寸に3

尺の皮付きの大木を高さ3尺余の井桁に積んで大護摩をたくが、

近村の人々は重箱に赤飯を入れ手のひらに置いて、指でつまんで

食う風習がある。また釈迦、文殊、普賢の木像を安置した西向き

の釈迦堂もあったとあります。ここはまた水晶がとれると記す本

もあります(『吉野物産志』)。



山頂から奥駆けを深仙ノ宿(じんせんのしゅく・第38番靡)に下

ります。ここには、深仙灌頂堂と避難小屋があり、大峰全山の中

央にあります。ここから北を金剛界(こんごうかい)、南を胎蔵界

(たいぞうかい)といい、北は蔵王権現、南は熊野権現であらわ

されるという。本堂には前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)を従えた役

行者、八大金剛童子、不動明王が安置され、左右に知証大師像と

理源大師像がまつられています。



ここは本山派修験の霊場で(当山派修験の小篠宿とならんで)も

っとも神聖な場所だそうです。平安時代後期の和歌集『金葉集』

巻九に「大峯の神仙といへる所に久しう侍りければ同行ども、皆

かぎりありてまかりにければ心ぼそきによめる」として行尊の歌

があります。また平安末期の『山家集』(西行)には「大峯のしん

せんと申す所にて月を見てよみける 深き山にすみける月を見ざ

りせば思出もなき我が身ならまし」と詠まれています。



またやはり平安時代末期の『千載集』(せんざいしゅう)巻17の詞

書(ことばがき・和歌や俳句の前書き)に「前大僧正覚忠御たけ

より大峯にまかり入りて神仙といふ所にて金泥法華経の書奉りて

埋み侍るとて五十日ばかりとゞまりて侍るけるに房覚熊野の方よ

りまかり侍るけるにつけて云ひおくりける」とあり、参籠者の様

子が詠まれ、深仙宿を通過する行者たちが多かったことが分かり

ます。



このあたりには役ノ行者の伝説があります。「深仙の宿での修行中

に、天から直接秘法を授けられた」とか、「大峰で7度生まれ変わ

った役行者が、5度めに転生し修行した山が釈迦ヶ岳であった」、

また「大阪の箕面(みのお)で母と共に昇天する前最後の修行を

この地で行い、先祖を供養するため一千基の卒塔婆(そとうば)

を建てた」などの話がが残されています。近くには聖水といわれ

る香清水が岩壁の割れ目からしたたり落ちています。



深仙ノ宿の東南、山頂に大日如来がまつられている大日岳の東麓

に前鬼の里があります。ここは、大峰山の修行場を護り、吉野か

ら熊野に抖修行(とそう・修験道の山中修行)する修験者や参

拝者に、宿坊や食事を提供したりする山伏村で、役行者の従者だ

った前鬼の子孫と伝えられています。五鬼といわれるこの人たち

は、五鬼熊(不動坊)、五鬼童(行者坊)、五鬼上(中の坊)、五鬼

継(森本坊)、五鬼助(小中坊)の人々が代々宿坊を営んできまし

た。


江戸時代中期になると、五鬼を含めて戸数37を数えましたが、明

治政府になり修験道が廃止され7戸に減少。五鬼の宿坊も次々と

いなくなり、いまは小中坊が週末に営業しているだけというあり

さま。役ノ行者のもうひとりの従者である後鬼の子孫は洞川集落

に住んでいるそうです。



ある年の9月、修験道の宿坊・前鬼の里を訪れました。50畳敷の

ま新しい宿坊が建っています。こんやはテントをやめ、無人解放の

新しい畳の匂いの中、宿坊のまん中にひとり大の字に寝かせてもら

いました。次の日は太古の辻まで登りかえし、深仙ノ宿で見事な

前鬼、後鬼の姿をカメラに何枚も撮らせて貰いました。



釈迦ヶ岳あたりから雲行きが怪しくなってきました。大きな釈迦

像に手を合わせます。木々の枝のすき間から変わり行く空に向か

ってスックと立つお釈迦さまが印象的です。この像を背負いあげ

た強力というのはどんな人でしょうか。ただただ驚かされた釈迦

ヶ岳でありました。




▼釈迦ヶ岳【データ】
【所在地】
・奈良県吉野郡下北山村と同県十津川村との境。紀勢本線尾鷲駅
の西北西27キロ。JR和歌山本線五条駅からバス、旭橋から歩い
て8時間30分で釈迦ヶ岳(1799.87m)。1等三角点と銅製釈迦如
来像がある。
【位置】
・三角点:北緯34度06分51秒.5104、東経135度54分11秒.2523
【地図】
・2万5千分の1地形図:「釈迦ヶ岳」



▼【参考文献】
・『大峯修行伝記』(『熊野三所権現金峯山金剛蔵王権現垂迹縁起並
大峯修行伝記』の略)平安時代末期から鎌倉時代初期に編纂。
・『角川日本地名大辞典29・奈良県』永島福太郎ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『金葉集』(『金葉和歌集』の略:平安時代後期の勅撰和歌集。
・『山家集』西行(平安末期):「日本古典文学大系 山家集」風巻
景次郎ほか・校注(岩波書店)1961年(昭和36)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『千載集』(『千載和歌集』の略。:平安時代末の勅撰和歌集。
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系30・奈良県の地名』(平凡社)1981年(昭和5
6)
・『吉野郡名山図志』』(『和州吉野郡群山記』の別題)畔田伴存(翠
山)天保年間:平井良朋 編『日本名所風俗図絵9・奈良の巻』(角
川書店1984)所収

 

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