『新・山の神々いらすと紀行』
画と文・とよだ 時

第9章 近畿の山々

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■08:奈良吉野山と久米の仙人

【略文】
奈良県吉野山北方の竜門岳は、久米の仙人が修行した山だといいま
す。奈良天平年代、久米川で洗濯(芋を洗っていたという説も)をしてい
る女性の太ももを見て雲から墜落。そして二人は結婚、普通の人とし
て暮らしていました。たまたま東大寺建立の人夫としてかり出された仙
人は、仙術で材木を運搬。感謝した天皇は仙人に免田を与えました。
それを元手にして建てたのが、橿原市にある久米寺だということです。
・竜門岳:奈良県の宇陀市と吉野郡吉野町の境。

■08:奈良吉野山と久米の仙人


【本文】

ヤマザクラの名所奈良県吉野山の北方に竜門岳という山がありま

す。標高904.1mと低山ながら、竜門山地の主峰で、神仏のすむと

ころと考えられ、蓬莱山的仙境として、山岳信仰の対象にされてき

た山です。



山頂には1等三角点補点の石標と、岳ノ明神と呼ばれる高皇産霊神

(たかみむすびのかみ)をまつる小祠があります。南山麓の村には、

旧暦3月に当番の家が餅をついて、山頂の岳神社に参る「ダケノボ

リ」の風習が、いまも残っているそうです。



登山口にある吉野山口神社は、徳川家光寄進の石灯籠や、天然記念

物のツルマンリョウ自生地になっています。登山口からしばらく登

ると、竜門寺跡があり近くの竜門滝もあります。この滝は落差25

m、元禄元年(1688)、吉野を訪ねた芭蕉がここに立ち寄り、「竜門

の花や上戸の土産(つと)にせん」の句も残しています。



この山は有名な久米の仙人に関係の深い山だという。そもそも久米

の仙人(毛竪(けだち)仙人ともいう)は、大阪と奈良の境にある

金剛山の奈良県側の葛城の里に生まれた人だと伝えられています。



奈良時代、天平年間(西暦729〜749年)のころ、久米の仙人は、

宇陀市と吉野町の境の竜門岳(904m)の吉野町側の山ろく竜門寺

で修行するようになります。物語はこんな具合です。



この竜門岳の岩窟にこもって仙人の修行をする3人の坊さんがいま

した。大伴(おおとも)仙人、安曇(あずみ)仙人、毛堅(けだち)

仙人(久米仙人のこと)の3人です。(『今昔物語集』には「今昔(い

まはむかし)、大和国(やまとのくに)、吉野ノ郡(こほり)、竜門

寺ト云(いふ)寺有リ。寺ニ二(ふたり)ノ人籠(こも)リ居テ仙

ノ法(ほふ)ヲ行ヒケリ」とあり、安曇仙人と2人になっています)。



それはともかく、3人はすでに飛行の術を会得していたため、世間

の人は飛仙と呼んでいました。毛堅仙人は竜門岳の頂から山神たち

のいる葛城山の間を行ったり来たりしていました。



ある日、雲に乗って飛んでいると、竜門岳西方、いまの高市郡明日

香村の桧前川(ひのくまがわ・久米川)(『今昔物語』などでは吉野

川になっている)で洗濯(芋を洗っていたという説も)をしている

女性が見えました。その太ももの色が目に入った仙人は「愛心たち

まちに発(おこ)り、通力立ちどころに滅(き)えて、大地に落ち

果てつ」(『本朝神仙伝』)とあります。



また、別の話では、仙人は吉野川の女にも心を惹かれましたが、な

んとか芋洗川(いまの橿原市久米町、芋洗地蔵尊のあたり?)まで

飛んできました。しかし、そこにもまた白い脛の若い女が見えます。

仙人はとうとう、その女の前に落ちてしまったとする本もあります。



この体たらくに、江戸時代の川柳子も「馬鹿仙人がと空雲(からぐ

も)かへる也」(仙人を乗せてきた雲があきれかえって空しく「か

へる也」)とか、「女湯の番をしたなら久米即死」とまで詠まれるあ

りさまです。



その後、久米仙人はその女性と結婚し、還俗して貧しいながら平和

に暮らしていました。たまたまそのころ、聖武天皇が東大寺を建立

するため、久米の仙人も里の賦役として奈良の都に行って人夫とし

て働くことになりました。担当の作業奉行が人夫の中に、普通の人

とは違う男に気づき、素性を尋ねたところ、雲から落ちた久米仙人

だと分かりました。



そこで奉行はあざ笑って「その方が久米の仙人か。いま吉野の山に

伐り出された材木が、山のように積まれている。それを都まで運ぶ

のに莫大な国費がかかり、天皇も頭を悩ましている。その方の神通

力がまだ残っているようなら、吉野の山にある材木を一晩で都に運

んでみよ、どうじゃ。」と、からかい半分にいいました。



久米仙人ははじめは断ってはいたものの、あまりのしつこさに、そ

れではと吉野の方に向かって、鉤招(こうしょう)の印(諸仏を招

じて、鉤、索、鎖、鈴などを使って、物を引き寄せたり、縛ったり、

つないだり、呼び寄せたりする呪法の一つ)を結んで、7日7夜、

一心不乱に仏を念じました。



すると8日目の朝、南の空から木材が次から次に飛んで来て、1夜

のうちに作業場の周囲に山のように積み上げられたという。これを

知った天皇はいたく感心。「久米仙こそ真の仏意に副(そ)える仙

人なり」といい、田んぼ30町歩を贈与したという。仙人はそれを

元手に橿原市に久米寺を再興したと伝えています。その後、弘法大

師がこの寺で大日経を感得、中国への留学を決意したということで

す。



久米仙人はその後、ますます行を積み、ついには雲を呼び妻ととも

に、いずこの空にか飛翔し去ったという。一方、『久米寺流記』と

いう文書では、材木を運んだ後、久米仙人が「忽然としていずかた

へか飛び去った後、残された妻は久米を恋い慕って死(みかまり)

し、七箇日に当たる日、久米が帰って妻のために呪願すると、妻は

蘇生し、夫妻とも西方を指して飛び去った。」とあります。さらに、

その仙室の跡はいまもあるという。



また「世に伝えて云わく、仙人は十一面観音、嫗は大勢至菩薩なり」

としています(『本朝神仙伝』も同じ記述で(『和州久米寺流記』久

米仙人経行事によるとしている)。また、『橿原市史』では洗濯をし

ていたところは、畝傍山(うねびやま・橿原市)の南、深田池の近

くの芋洗川(いもあらいがわ)で、芋を洗っていたのだという。



また一説には、芋を洗う女性ではなく、妹(いも)の洗濯だとも、

また、いもは芋ではなく依物の布だともいわれています。また、白

い脛(はぎ)についても、脛ではなく萩のことで、白い萩の花の咲

いている原の中だということです。



ここのように『和州久米寺流記』(わしゅうくめでらるき・平安時

代)、『扶桑略記』(ふそうりゃっき・平安後期)、『本朝神仙伝』(ほ

んちょうしんせんでん・平安後期)、『今昔物語集』(平安時代末期)、

『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ・鎌倉時代後期)、『本朝列仙伝』

(江戸時代)、『徒然草』など、書物によって少しずつ違って記載さ

れています。



▼竜門岳【データ】
【所在地】
・奈良県宇陀市と吉野郡吉野町の境。近鉄吉野線大和上市駅の北東
8キロ。吉野町山口から竜門寺跡、竜門滝を経て山頂まで約2時間。
山頂には一等三角点補点の石標と岳ノ明神と呼ばれる高皇産霊神
(たかみむすびのかみ)を祭る小祠がある。ふもとに竜門寺跡があ
る。
【位置】
・竜門岳:北緯:34度26分26.24秒、東経135度53分51.68秒
【地図】
・2万5千分の1地形図:古市場


▼【参考文献】
・『橿原市史』:橿原市史編集委員会
・『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)(虎関師錬著):『元享釈書』
新訂増補(『国史大系・31』吉川弘文館(昭和58年)に所収)
・『今昔物語集』:『今昔物語1』(日本古典文学全集21)校注訳・
馬淵和夫ほか(小学館)1993年(平成5)
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989年(昭和64・平成1)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本神話伝説総覧』(歴史読本特別増刊)(新人物往来社)1992
年(平成4)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成
2)
・『日本伝説大系9・南近畿』(三重・奈良・大阪・和歌山)渡邊省
吾ほか(みずうみ書房)1984年(昭和59)
・『扶桑略記・第廿三』(延喜元年八月古老相伝の條)阿闍梨皇円(?
〜1169(仁安4)年・平安後期)
・『本朝神仙伝』大江匡房(おおえのまさふさ):日本古典全書『日
本説話集・本朝神仙伝』川口久雄校注(朝日新聞社)1971年(昭
和46)
・『和州久米寺流記1』(わしゅうくめでらるき):『大日本仏教全書』
(寺誌叢書第3)、(『続群書類従』27巻下「釈家部」)

 

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