『新・山の神々いらすと紀行』
画と文・とよだ 時

第6章 中央アルプス・御嶽の山々

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■02:木曽駒ヶ岳・神馬と織田信長

【略文】
木曽駒ヶ岳には大きなあし毛の神馬がすむという。そんな話を織田
信長が聞き「明年は諸国の卒徒を督し此の山を囲み之を猟得せん」
ということになった。しかし木曽駒ヶ岳に登ろうとするその年の6
月、「本能寺の変」に遭ってしまったという。
・長野県宮田村と木曽福島町との境

■02:木曽駒ヶ岳・神馬と織田信長


【本文】

木曽駒ヶ岳には昔から神馬がすんでいるという噂がしきりにあった

という。江戸中期の寛延2(1749)年、紀州藩士の神谷養勇軒が藩

主の命令で各地の奇談珍談を集めて書いた「新著聞集・しんちょも

んじゅう」という本があります。



その「信州駒ヶ岳馬化して雲に入る」の項に、江戸時代前期、尾州

の役人たちが木曽駒ヶ岳(きそこまがたけ・2956m)に登り、大き

なあし毛の神馬を見たという話が載っています。



このような昔からの伝説から駒ヶ岳(木曽駒ヶ岳)の名前になって

います。(【ひとり画展】506号)。



時代は戦国時代にさかのぼりますが、神馬の話を伝え聞いた織田信

長がこの神馬を探しに行くつもりだったというのです。



木曽地方の地誌「吉蘇志略・きそしりゃく」に「三季物語」に載っ

ている話としておおよそ次のようなことが書かれています。



「織田右丞甲州を征伐し、軍を回すの日諸将に云って曰く、吾聞く

信州駒嶽に四百年来神馬有り、明年は諸国の卒徒を督し此の山を囲

み之を猟得せん。源右幕下の富士の狩に倣うべきなり。其ノ年明智

光秀のため弑(しい)に遭い其ノ事遂に止む」というのです。



ちなみに信長は天正10(1582)年伊那谷に入り北進、3月に高遠城

を滅ぼし、諏訪から甲州に進み武田を滅ぼしたのちの6月に「本能

寺の変」に遭っています。



▼木曾駒ヶ岳【データ】駒ヶ岳(こまがたけ)
【所在地】
・長野県上伊那郡宮田村と長野県木曽郡木曽町(旧木曽郡木曽福島
町)、長野県木曽郡上松町との境。飯田線駒ヶ根駅の北西14キロ。
JR飯田線駒ヶ根駅からバス、ロープウエイ千畳敷から歩いて2時
間15分で木曽駒ヶ岳。一等三角点(2956.0m)と、木曽側と伊那
側の木曽駒ヶ岳神社がふたつある。地形図に山名と三角点の標高と
神社記号鳥居の記載あり。三角点より西方160mに木曾小屋がある。
【位置】
・三角点:北緯35度47分22秒、東経137度48分16秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「木曽駒ヶ岳(飯田)」



▼【参考文献】
・『信濃奇談』堀内元鎧?:(「日本庶民生活史料集成16・奇談奇聞」
(鈴木棠三ほか編)(三一書房)1989年(平成1)所収
・『山の伝説』日本アルプス編(青木純二)(丁未出版)1930年(昭
和5)

 

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