『新・山の神々いらすと紀行』
画と文・とよだ 時

第5章 北アルプスの山々

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■19:太郎山・高山植物の美女

【略文】
西銀座ダイヤモンドコースにある十字路・太郎山の太郎兵衛平。
江戸時代、長棟(ながと)鉛山の鉱山師(やまし)である太郎兵衛が、有峰
領太郎兵衛平あたりで金や銀を掘れる鉱山を見つけたという。その太郎
兵衛が、この平の高山植物の化身の美女に惑わされたところから太郎兵
衛平と名づけられたという。
・富山県富山市

■19:太郎山・高山植物の美女


【本文】

 私たち関東の人間が、北アルプス黒部の源流に入るには新穂高温泉

から双六経由で登ることが多い。西銀座ダイヤモンドコースと呼ばれる、

三俣蓮華岳から黒部五郎岳、北ノ俣岳の先なだらかな稜線をたどると太

郎山(三等三角点2372.98m)があります。山頂付近の草原や湿原には

高山植物が見られ、南側には黒部五郎岳、さらには笠ヶ岳、乗鞍岳が北

を見れば薬師岳、その奥には立山も望めます。



 北ノ俣岳から太郎山にかけては、登山道が踏み荒らしされ浸食や裸

地化が問題になり、いまは登山道を木道にしたりして、植物を回復させる

努力がなされています。太郎山から程ないところ、山小屋のある太郎兵

衛平は北アルプス縦走路の十字路。東からは奥黒部、雲ノ平、薬師沢

方面から、南からは槍ヶ岳、双六岳、黒部五郎岳方面から、北は遠く剱

岳、立山、五色ヶ原、スゴ乗越、薬師岳方面から、また西側は富山地方

鉄道有峰口駅、折立登山口から登って来るところ。



 太郎兵衛平は江戸時代1815年(文化12)の登拝記「有峰御薬師参

詣」に、「文化十二乙亥(きのとい)八月八日暁寅八刻頃、有峰村出立

也。(……中略……)。池ノ平(ダイラ)ノあけはなし。是迄村?(より)三

里八丁。是?草山三里(リ)の間、此所多分せキシャブ(石菖蒲カ・マ

マ)、長貳寸ニハ不過。長五尺ニハ不過、五葉シャシ松少々見ル。大木と

てハ一向なし。所々シヤウライ田(精霊田)とて数万ノ水タマリ有リ。イン

(炎)天ニ而(※しか)も水不干由。右草山真東エ向、二里真下リ也、〆。

此平ニ而南?(より)少し東ニ当ル、信州鑓ヶ岳見エル。誠ニ鑓先ノ様

なる(ママ)嶮山也。此平ヨリ南ニ当テ黒部川奥深ク見エル也。此所ニ而

晝弁当」と出てきます。



 ここに出てくる「池の平のあけはなし」は、このあたりは高原状で前後左

右に見晴らしよく、開けっぱなしの「あけはなし」。そして「精霊のつくる水

田」があったというわけです。



 ここを太郎兵衛平というのには、こんな伝説があります。江戸時代、長

棟(ながと)鉛山の鉱山師(やまし)である太郎兵衛が、有峰領太郎兵衛

平あたりで金や銀を掘れる鉱山を発見したという。その太郎兵衛が、鉱夫

たちを集めて大宴会。その時、この平の高山植物の化身の美女に惑わさ

れたところから来ているというのです。しかし参考書によって、ここの鉱山

と有峰の鉱山、さらには有峰西方の長棟鉱山の話、また太郎兵衛といた

ずら酔っ払い鉱夫が混乱してしまっています。



 そんななかで、有峰・太郎兵衛平の鉱山が「栄えた」とは受け止められ

ないという説があります。有峰領であったここ黒部源流太郎兵衛平での

採掘は、栄えたという程度までは採掘できなかったという。そんなことか

ら、有峰と長棟を間違えたのであろうというのが一般的。ま、混乱は伝説

によくあること。広い心でいきましょう。以下はその話のひとつです。



 その昔、薬師岳太郎山のふもとの有峰に鉛の出る鉱山がありました。

鉱山の中には大勢の鉱夫がおり、何十頭という牛が鉛を積んで、富山ま

で運んでいました。ある年の春、特別のたくさんの鉛が採れました。満足

した鉱山の頭領は、「きょうはお祝いだ」といい、あちこちの町や村から人

夫たちを集めました。酒盛りがたけなわになると、それぞれのお国自慢の

歌が出はじめ、それに合わせて踊りもはじまりました。



 盛り上がったその時です。白、淡紅、薄紫の衣装をまとった3人の美し

い女性が、フイとあらわれました。そしてすきとおる声で歌い優雅に踊りは

じめたのです。その上なんともいえないいい香りがあたりにただよいはじ

めました。「まるで天女のようだ」。頭領はじめ、鉱夫たちもうっとり見ほれ

てしまいました。みんな喜び、痛いほど手をたたきました。



 「白い衣に、白のかんざしの娘。薄紫の衣に、薄紫のかんざしの娘。薄

紅の衣に、薄紅のかんざしの娘……」。突然、荒くれ男が立ち上がりまし

た。ふらついた足取りで娘たちに近寄り、紅の衣の娘の手を握ろうとしま

した。思わず棟梁が「あっ、何をするっ」。



 すると3人の娘の姿がフッと消えてしまったのです。人夫たちは狐につ

ままれたようにポカンとしています。……白い衣の娘は、ミズバショウの花

の精。薄紫の衣の娘は、ヤナギランの花の精。薄紅の衣の娘は、クガイソ

ウの花の精。……。そんなことがあってから、鉱山からは鉛がとれなくなっ

てしまいました。



 鉱夫たちは、山から下りることになり、山はさびれてしまい、やがて閉山

になってしまったという。いまでも、「あの3人の花の精たちは、有峰の守り

神だったのだ。人夫に悪ふざけされたから、罰があたり鉛鉱山もつぶれ

てしまったのだ」と、いい伝えられているということです。



 さてこの長棟(ながと)鉛山は、江戸時代、寛永3(1626)年に大山左

兵衛という人が発見したという。場所は富山市長棟(旧富山市奥山)で、

瀬戸谷の西方金山谷近くにありました。採掘の最盛期は、開坑してから

正保(1645〜1648)ころまでの約20年間でした。このころは家数が300軒、

山小屋800軒もあったという。



 それ以降は鉛の価格暴落もあり、生産の減少がつづきます。鉱夫たち

は次第に生活にも困まるようになり、多くが離散してしまいました。文政4

年(1821)になり、藩は鉛山を直営とし、援助しましたが再興できなかった

という。



 なお類話にこんなのもあります。安土桃山時代の天正年間(1573〜15

98)、有峰の近く亀谷(かめがい)に銀山が発見されました。最盛期の江

戸時代の初頭、慶長から元和年間には、人夫の家々数千軒が密集し、

遊女数千人が住むという栄えようでした。



 そんなある日、山師・大山左平次たちの宴席に、見たこともない美女3

人があらわれました。鉱夫たちは遊女だと思い、戯れようとしたところ急に

姿が消えたという。その後鉱山は廃れ、その跡にいままで見ないような美

しい3つの高山植物、ミズバショウ・クガイソウ・ヤナギランの花が咲くよう

になったということです。



 ついでながら有峰村は、薬師岳の山ろく、常願寺川の支流和田川の

水源地で、標高1000mの盆地。当時、山奥のこの村に入るには、山の尾

根道を利用、安蔵(あんぞう)村、水須(みずす)口留番所、東笠(ひがし

かさ)山、西笠山、の間を通り、いまの祐延(すけのべ)ダムのルートをと

ったという村に入るだけでこの厳しさ。また飛騨(岐阜県側)へは大多和

(おおたわ)峠や、唐尾(からお)峠など道があったという。



 初めての「越中の通史」といわれる「肯搆泉達録」(こうこうせんたつろ

く)には、「平家の落人多く隠るといへり、今なほ武具を傳ふ」と

あります。


平家の落人伝説といっても倶利加羅峠の合戦の平家ではなく、平家出

身とされる江馬氏の武将・河上中務丞富信という人が、中地山城(なかち

やまじょう)で敗れ、元亀3年(1572)ごろ、有峰にやってきて住みついた

ことによるらしい。



 ついでながら有峰村という名前は、もともとは宇連村(うれむら)でした

が、のち有嶺村(うれいむら)になりました。さらに元禄年間(1688〜1704)

ごろに加賀藩が、難読の村名を改める時、有嶺(うれい)が「憂い」に通ず

るというので、訓読して「アリミネ」とし、元禄8年(1695)以降の史料には

「有峰」という文字を使っているという。



 ある年の夏、今回は雲ノ平でテント。薬師沢小屋の吊り橋を渡りやって

きました。途中、カベッケが原でカッパに挨拶(逢ってはくれませんでした

が)。太郎山で黒部五郎、薬師岳を見ながら一休み。太郎平の山小屋に

泊っている登山者が散歩に来ています。池塘やイワイチョウ、コバイケイ

ソウ、コバイケイソウ、チングルマ、ハクサンフウロ、ミズバショウ、ミヤマキ

ンポウゲなどなどの高山植物の花畑の中を降り、今夜は薬師峠テント場

泊まりです。世間と離れた山奥の生活。止まったような時間。雄大な景色

もいつの間にか当たり前。高山植物の美しい花々も普通の景色。時には

いろいろな幻覚も見えるのでしょうか。



▼太郎山、太郎兵衛平【データ】
【所在地】
・富山県富山市旧大山町各地区名(旧上新川郡大山町)。富山地方鉄
道立山線有峰口駅の南東19キロ。富山地方鉄道立山線有峰口駅から
バス・折立から歩いて6時間で太郎兵衛小屋を経て太郎山。標高:2372.
98m。三等三角点
【位置】
・三等三角点:北緯36度26分50.21秒、東経137度30分48.79秒
【地図】
・2万5千分の1地形図:薬師岳。



▼【参考文献】
・『石川・富山ふるさとの民話』(北国新聞社出版局)2011年(平成23)
・『角川日本地名大辞典16・富山県』坂井誠一ほか編(角川書店)1979年
(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書10』(白山・立山と北陸修験道)高瀬重雄編(名
著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書17・修験道史料集1』五来重)編(名著出
版)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『富山県山名録』橋本廣ほか(桂書房)2001年(平成13)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系16・富山県の地名』(平凡社)1994年(平成6)
・ご協力:有峰森林文化村

 

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