新・山の神々いらすと紀行』
画と文・とよだ 時

第4章 甲信越の山々

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▼09:美ヶ原・巨人の鼻と頭・美ヶ原王ヶ鼻、王ヶ頭

【略文】
美ヶ原高原は標高1800〜2000mのゆるやかな溶岩地。そのほぼ中
央に美しの塔が建っており、最高地点は王ヶ頭。西へ尾根の断崖
の頂が王ヶ鼻。松本平から望むとまるで巨人の鼻のように見える
ため王(巨人)ヶ鼻の名前があるそうです。その上にあるのが巨人
の頭。王ヶ鼻には石仏がたくさん建っていて、その中の祠は王ヶ鼻
神社。かつて地元の御嶽山信仰の人々はここまで登ってきて、はる
かにそびえる御嶽に手を合わせながら、厳しい修行に励んだといい
ます。
・長野県松本市と武石(たけし)村、長和町(旧和田村)。

▼09:美ヶ原・巨人の鼻と頭・美ヶ原王ヶ鼻、王ヶ頭


【本文】

その言葉の響きからも観光客が訪れる美ヶ原高原。美ヶ原は長野県

松本市と武石(たけし)村、長和町(旧和田村)にまたがる溶岩地。

標高1800〜2000mのゆるやかな起伏を連ねる20平方キロuの高原

です。



最高地点の王ヶ頭(おうがとう・2034m)を中心に、王ヶ鼻(お

うがはな・2008m)、焼山(1907m)、鹿伏山(1976m)、牛伏山

(1989m)、物見石山(1985m)、茶臼山(2006m)などからなっ

ています。



高原のほぼ中央に美しの塔が建っており、ほかに三城(さんじろ)

牧場や美ヶ原高原美術館などもあります。美しの塔は、高さ6.6m

の梯子形の塔で、上部にある鐘は霧の日に鳴らされて道しるべにな

っています。塔の北側には、美ヶ原を開発した山本俊一翁の顔のレ

リーフ(松本の彫塑家、上條俊介の作)が埋め込まれています。



南面にはここを愛した自然詩人・尾崎喜八の「美ヶ原溶岩台地」の

銅板詩碑があり、毎年5月第3日曜日には塔の前で開山祭が行われ

ています。



山本俊一は大正14(1925)年の夏、武石村から美しヶ原に入り、

王ヶ頭から見る大自然に感動し、美ヶ原開発を決意します。1930(昭

和5)年、山小屋(山本小屋)を建てて登山道を開き、10年かか

って10の登山道に2000本の道標を建てたという。



一方、尾崎喜八はその詩「美ヶ原溶岩台地」の中で「登リツイテ不

意ニ開ケタ眼前ノ風景ニ、シバラクハ世界ノ天井ガ抜ケタカト思ウ。

ヤガテ一歩ヲ踏ミコンデ岩ニマタガリナガラ、コノ高サニオケルコ

ノ広ガリノ把握ニナオモクルシム」と歌っています。



なだらかなこの高原は最初、溶岩台地だとされていましたが、い

まではくぼ地に堆積した火山性の凝灰岩や礫岩が隆起し、その後

浸食されてできたものとされているそうです。山頂は360度の展

望で、東には噴煙を上げる浅間山、霧ヶ峰の高原、その近くに八ヶ

岳の山々、はるかかなたに雄大な富士山。



そして南には中央アルプス、南アルプスの仙丈ヶ岳と北岳。西には

北アルプスの鹿島槍ヶ岳、白馬岳、常念岳、槍ヶ岳、穂高の山々と

乗鞍岳、そして御嶽山。北には志賀高原、飯縄山、戸隠山までが目

を楽しませてくれます。



王ヶ頭から西に張り出す尾根の断崖の頂が王ヶ鼻です。そこに露

出する磁気を帯びた安山岩は、板状節理を示しています。西麓の松

本平から王ヶ鼻を望むとまるで巨人の鼻か、またはビーナスが伏せ

っているように見えます。そのため王(巨人)ヶ鼻の名前があるそ

うです。その上にあるのが巨人の頭になるわけです。



王ヶ鼻には石仏がたくさん建っています。これは200年以上も昔か

らあるそうで、その祠は王ヶ鼻神社と呼ばれます。地元の御嶽山信

仰の人々が、ここまで登ってきて、はるかにそびえる御嶽に手を合

わせながら、厳しい修行に励んだのだという。



美ヶ原という名前が初めて文献に出てくるのは江戸時代中期、1724

年(享保9)の松本藩の官撰地誌『信府統記』(しんぷとうき)だ

そうで、「東ノ方、岡田山ニ続キテ、うつくしが原ト云アリ此原ハ

山ノ上ノ平ニテ凡ソ2・3里ニ及ベリ」とあります。



さらに1834年(天保5)の文書『信濃奇勝録』(井出道貞著)に

は、硬質の「美ヶ原の片石(へげいし)」が、瓦に勝るものとして

紹介されています。



美ヶ原という名が一般的に知られるようになったのは昭和の初期ご

ろだったとか。美ヶ原での牛馬の放牧は、平安時代からしいが、本

格的に牧場が開かれたのは明治になってから。1899年(明治32)

放牧場として開かれ、1914年(大正3)には松筑産牛馬畜産組合

がこの下に三城牧場をはじめています。その後国有林の開放によ

って現在の美ヶ原牧場に発展していきました。



そもそも美ヶ原は、シラビソ、オオシラビソなどの亜高山針葉樹林

だったという。1946年(昭和21)ごろ、王ヶ頭の南の三城に30人

が入植したそうです。彼らはカラマツ林を切り開き、ダイズやソバ、

ジャガイモなどを作りはじめました。いまではキャベツ、ハクサイ

など高原野菜を名古屋、東京方面に出荷するまでになたという。



美ヶ原には、低山帯と亜高山帯の植物が入り交じって、ハクサン

フウロ、ウメバチソウ、マツムシソウ、ヤナギランなどの群落や

レンゲツツジ、スズラン、キスゲ、テガタチドリ、シャジクソウ、

ヒメシャジンなど種類が多く生えています。ここの植物は氷河気

候に襲われたころの遺存植物ともいわれています。



ここはチョウの楽園で、山腹のから標高1700m一帯は、初春のヒ

メギフチョウをはじめ、ミヤマカラスアゲハ、アサギマダラ、コム

ラサキ、キベリタテハが生息しています。また高山蝶といわれるミ

ヤマシロチョウ、コヒオドシなど長野県産約140種のうち、120種

ほどが見られるという。



昭和39(1964)年、八ヶ岳中信高原国定公園に指定。蓼科・霧ヶ

峰方面から続く有料道路ビーナスラインは、その建設をめぐって

自然保護か観光開発かで論議を呼んだこともありました。そして

いまでは、王ヶ頭には10本以上のテレビ、ラジオ、無線などの中

継塔が林立し、茶店やみやげ物店が軒を連ねる俗化ぶりです。



さて王ヶ鼻の西麓(松本市側)に美ヶ原温泉郷があります。以前

は白糸の湯、山辺の湯、束間の湯という名称で呼ばれていました。

美ヶ原温泉になったのは昭和30年代に入ってから。この温泉は、

天武(てんむ)天皇の時代(飛鳥時代)からあったというから古い。

当時は筑摩(つかま)の御湯(みゆ)と呼ばれていたという。



その温泉に不思議な話が伝わっています。13世紀前半の『宇治拾

遺物語』(うじじゅういものがたり)(巻第六・第七話・八九)「信

濃国筑摩の湯に観音、沐浴の事」に、「今は昔、信濃国につかま湯

という所によろずの人のあみける、薬の湯あり……」。あるとき、

近くに住む者が夢うつつに「明日、観音さまが湯浴みにお越しにな

る」とお告げを受けた。「観音さまは30歳くらいで口髭を生やし、

編み笠をかぶり、節黒の矢筒と革巻きした弓を持っている。葦毛の

馬に乗乗っている」とのこと。



話を聞いた人々が大勢集ってきて、湯治場の掃除をしたり、注連縄

を張ったりして待ちました。ようやく昼過ぎになり夢の通りの人が

やって来ました。全員が一斉に立ち上がり、男の足もとへ額をこす

りつけました。驚いたのはその人。大勢の中にいた僧侶に尋ねまし

た。理由を話すと男は「狩りの途中、落馬して腕を折ったので治そ

うと思って来ただけなのに」といってオロオロするばかり。



しかし、人々は後にゾロゾロとついて来て拝み続けます。困り果て

た男はついに「さてはわしは観音だったのか、ならば法師になるほ

かあるまい」と、弓矢や刀を捨てて法師になりました。その姿を見

て人々はさらに感動します。



その時、その人と知り合いという人が出てきて「やあ、上野の国の

馬頭主(ばとうぬし)さんじゃないか」と声をかけました。それを

聞いた人々は、今度は馬頭観音さまと呼ぶしまつ。どうしようもな

くなった男は、比叡山にのぼり覚超僧都という偉いお坊さんの弟子

になったという。その後は土佐国へ向ったということです。ちなみ

に馬頭主とは昔の役職馬寮(めりょう/うまのつかさ)のことでし

ょうか。



▼美ヶ原【データ】
【所在地】
・長野県松本市と武石(たけし)村、長和町(旧和田村)にまた
がる。北陸新幹線上田駅からバス、山本小屋。歩いて1時間でで王
ヶ頭。三等三角点がある。さらに30分で王ヶ鼻。
【位置】
・王ヶ頭三角点:北緯36度13分33.42秒、東経138度6分26.71秒
・王ヶ鼻標高点:北緯36度13分38.59秒、東経138度5分51.06秒
【地図】
・2万5千分の1地形図:「山辺」「和田」

▼【参考文献】
・『宇治拾遺物語』(うじしゅういものがたり): 鎌倉時代前期に成
立した、中世日本の説話物語集である。『今昔物語集』と並んで説
話文学の傑作とされる。編著者は未詳。
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『信州山岳百科・1』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979年(昭和54)

 

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