新・山の神々いらすと紀行』
画と文・とよだ 時

第4章 甲信越の山々

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▼08:第2の谷川岳、鳥甲山

【略文】140字
北信に「かぶと」を伏せたような姿の鳥甲山があります。荒々しく
とくに東壁は断層崖といわれる絶壁で第2の谷川岳とまでいわれて
います。山頂(本峰)が鋭くとがり両翼を広げたワシのような山容
をしているのも特徴のひとつ。山ろくの秋山郷は秘境の地としても
有名で、平家落人伝説の地です。
・長野県栄村

▼08:第2の谷川岳、鳥甲山


【本文】

北信に「かぶと」を伏せたような姿の鳥甲山があります。荒々しく

とくに東壁は断層崖といわれる絶壁で第2の谷川岳とまでいわれて

います。この山は秘境の地としても有名な、長野県と新潟県にまた

がる秋山郷の長野県側栄村にあります。



秋山郷は、昔は秘境中の秘境といわれたところ。冬は豪雪に見舞わ

れ、かつては陸の孤島になってしまっていました。当時は農産物は

ヒエやアワなどがとれるだけ。天明3年(1783)の大凶作で、大秋

山や矢櫃村が滅亡、さらに天保の飢饉(1833年(天保4年)に始

まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉)で、甘酒

村も滅亡してしまったという歴史もあるところ。



秋山郷を流れる中津川をはさみ、新潟県との境にある苗場山と相対

しています。鳥甲山の尾根は、南北に長く岩肌は赤と白とに風化。

北から岩が赤い赤ー(ぐら)ノ頭・本峰・岩が白い白ーノ頭の3峰

からなり、300〜400mの断崖が続きます。



山頂(本峰)が鋭くとがり両翼を広げたワシのような山容をしてい

るのも特徴のひとつ。住民との結びつきがきわめて少なく、登山者

も少ない山。それでも、かつて76歳のお年寄りが16時間かけてこ

の山を登ったという記録が残っているそうです。



鳥甲山は赤倉山ともいいます。江戸時代の文政年間(1818〜1830)、

十返舎一九の依頼により1828年(文政11)に秋山郷を探訪した鈴木

牧之が著した『秋山紀行』があります。



その『秋山紀行』(二)の中で、「…赤倉山ハ、此屋敷村(※秋山郷

民俗資料館がある)の持山にて、…時しも紅葉の盛りにて若干(そ

こバ/\)の松・檜の類其中に常盤の色を争。秋山第一の霊山にハ、

石鉾と唱て末へほど尖く…」と、「秋山第一の霊山」として激賞し

ています。



この赤ーの裏側の西斜面は、6〜7世紀のころ、インドから日本へ

渡ってきた法道仙人の修験の山だそうです。赤ーの裏側西斜面は、

山頂から山ろくまで岩石が累々としており、古くから「十三萬(万)

の仏岩」と呼ばれていたという。



どの岩も仏像に見え、その形によって「立ち地蔵」、「座り地蔵」、「大

日如来」、「寝釈迦」などと呼ばれています。また笏(しゃく)を逆

さに立てたような大きな岩は「石鉾」と呼ぶらしい。一方の白ーの

峰は、三尊仏(中央の仏像と、左右の菩薩)のお姿に似ているとい

われます。



星空を光背にした一光三尊仏であると考えられていたそうです。先

述の『秋山紀行』(二)にも「…又、此山のうしろ、西の方ハ、此

辺の諺に、十三万仏山と呼んで、山上・山下都而石巌にて、是を臨

ハ、皆大小の岩仏、菩薩に似て、立地蔵・居り地蔵、或ハ大日・寝

釈迦と、取り分け大なる岩の仏像ハ、其心で拝めバ、皆仏の名ざし

に似たりと」とあります。



この山はかつて、価値があまり認められていなかったのか、国立・

国定・地方行政立公園などのどれにも所属されない不思議な山だっ

たそうです。その価値を早くから認識したのが、千葉高等園芸学校

(いまの千葉大学)出の平林輝男だったという。



彼は上信越高原国立公園外だった鳥甲山を、唯一原始景観を保持し

ている地域として、先頭になって保護地区になるよう運動、1982

年(昭和57)「厳正保護地区」(いまの長野県自然環境保全地域)

に指定させたという話もあります。



ふもとの秋山郷は平家の落人伝説の地でもあります。1185年(文

治元)、源平合戦・壇之浦の戦いで源頼朝に敗れた平勝秀が、鳥甲

山山ろくの屋敷地区に移り住んだいわれています。また同じ文治年

間(1185〜89)に、平勝秀とその一族が草津から逃げてきて、こ

の屋敷地区に住みついたとも伝えられています。



この一族ははじめ苗場山北側、いまでいう小松原コース登山道途中、

小松原避難小屋あたり(大屋敷跡)に住みついたという。先述の『秋

山紀行』(二)の中で鈴木牧之は、新潟県側津南町(つなんまち)

の上結東(けっとう)地区(※結東温泉がある)の太右衛門老人の

話としてこんなことを書いています。



「亭主の答にニハ、信州越後の境、苗場山の北、小松原と云処に、

大工の墨鉄(かね)うったる様な、真平らなる数丁の大屋敷跡二三

箇所あり。語り伝へ(る)にハ、往昔、平家の落人此処に住居と云

ども、余り深山にて、雪も数丈に積るかして、大秋山へ立退たと申

なり」。さすがの平家の武者たちも、高く積もる雪と寒さに耐えき

れず逃げ出したのでしょうか。



鈴木牧之はまた、太右衛門老人からこんな不思議な話も聞いていま

す。「昔、大秋山(※の村々がまだ滅亡せず)無事でありし時、川

東上ノ原村の対図に当りて、中津川の東岸に、大なる岩穴あり。此

(※の)洞穴より折々一丈余りの女の妖化(ばけ)物の、髪何所迄

長く、両眼日月の如きが人を悩し、此(※の)洞穴の辺へハ絶へて

人も通ハず、其(※の)頃大秋山に平家の末葉の村長ありて、其(※

の)家に蜥?(とかげ)麿(※まる)と云(う)名作の刀あり。



是(れ)をさして其(の)化生(ばけもの)を退治に赴(※く)、

いまだ東の岸へ中津川渡らぬ内に、彼の大女ハ穴端に居、一目見る

より俄に飛(び)附(※か)んとする躰の処、腰にさしたる蜥?丸

己(おのづ)と抜行、化物を真二ツに切り、元の鞘に納り、手も濡

さず。変化退治の名刀なれども、大秋山村段々雫落し、其(の)後

箕作村の富家、嶋田三左衛門の秘蔵の宝になったとも申(す)。又、

箕作り村より地頭へ差上タとも云(う)」というのです。



さて、話をもとの落人伝説に戻します。長野県栄村と新潟県津南町

との境にある高倉山(1326m)も、平清盛に譲位をせまられた高

倉天皇にちなんだ山だと伝えられています。そのほか、平惟盛の残

党が隠れたといわれる津南町見玉、太田新田集落の馬竜窟(まりゅ

うくつ)なども残っています。しかしですよ、秋山郷には、「源氏

の守護神である八幡信仰」があるというのです。



そんなことから、平家の落人伝説がどこまで真実かどうか、まだ開

明されていないというから、話は簡単ではないという。エッ?。オ

イオイ、なんだよ…。鈴木牧之も、「よくよく考えてみると、平家

は、こんな山の中を知ってはいなかっただろうから、秋山の平家は

越後にいた城氏であろう」とも述べていうのです…。



城氏は、平維茂から4代目、城鬼九郎資国(じょうのおにくろうす

けくに)の長男、城資長(すけなが)の代まで、高田の鳥坂(とっ

さか)山に城を構えていた武将。越後一帯にに勢力をふるい、朝廷

に謀反の心を持っていました。うっとうしく思った朝廷は上州磯部

の佐々木西念(さいねん)に命を下し、城氏を滅ぼさせてしまった

という。



秋山郷には「のよさの里」という所もあります。ここにはこんな歌

(秋山郷ノヨサ節。)が残っています。「♪おらうちの衆(しょう)

は、おらうちの衆は、嫁をとることノヨサ忘れたか、忘れたか忘れ

たか、嫁をとることノヨサ忘れたか(繰返し)、忘れはせぬが、稲

の出穂みてノヨサ嫁をとる、嫁とってくれりゃ、一駄刈る草ノヨサ

二駄刈る、二駄の草も、鎌はいらないノヨサ手でむしる」…。ま

さに陸の孤島、秋山の生活が生んだ歌であります。まつりの日に

は歌い、踊るそうです。



▼鳥甲山【データ】
【所在地】
・長野県下水内(しもみのち)郡栄村(合併なし)。JR飯山線森
宮野原駅からバス、屋敷から3時間30分で鳥甲山。二等三角点
(2037.65m)がある。
【位置】
・三角点:北緯36度50分21秒.0218、東経138度35分02秒3506
【地図】
・2万5千分の1地形図:鳥甲山。



▼【参考文献】
・『鈴木牧之全集・上巻』『秋山紀行』(鈴木牧之)宮栄二編(中央
公論社)1983年(昭和58)
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『信州山岳百科・3』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本の民俗20・長野』向山雅重(第一法規)1975年(昭和50)

 

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