『新・山の神々いらすと紀行』
画と文・とよだ 時

第3章 関東の山々

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■19:丹沢・丹沢山

【略文】
丹沢のほぼ中央にある丹沢山は、もともと地元では三境(さんさか
い)とか、三境の峰と呼んでいたという。それがいまの「丹沢山」
という山名になってしまったのは、明治時代、三角測量をして山
頂に三角点を設置、三角点名を「丹沢山」とし、地図にも「丹沢
山」と記入してしまったからという。
・神奈川県愛甲郡清川村と同県相模原市(旧津久井郡津久井
町)と足柄上郡山北町山北町の境

■19:丹沢・丹沢山


【本文】

 丹沢のほぼ中央にある丹沢山は、いまはやりの『日本百名山』の71

番目に取りあがられている山です。江戸時代天保12年(1841年)

成立の相模国の地誌、『新編相模国風土記稿』「巻之五十四・愛甲郡

巻之一」によると、「丹沢山」といえば、いまの東丹沢の札掛集落周

辺の山を呼んでいたようです。



 それには、「丹澤山(太武坐波屋満・※たむざはやま) 郡の西方に

あり、東は郡内七沢・煤ケ谷・宮ケ瀬等の山々に続き、西は足柄上郡南

は大住郡、北は津久井県の山々に接壌(※接近)し、東西凡三里余南

北四里許に及ぶと云(※へ)り、山中を八所に区別し同法(度宇菩布)

(※どうぼふ)、汐水(志保美豆)(しほみづ)、たらひごや・荒樫尾(阿良

加志遠・あらかしを)、長尾(奈我遠・ながを)、八瀬尾(屋世遠・やせ

を)、大洞(於保朋良・おほほら)、本谷(保武多爾・ほむたに〇此所に

栃の喬木あり、十圍(※囲・両手を伸ばして抱えるぐらいの大きさ)

に及ぶと云、又石小屋と呼あり、石を組立樵夫等休憩の處とす、)等の字

あり……」とあるのです。



 これによれば、「丹沢山は……山中を八所に区別し同法、汐水、

たらいごや、荒樫尾、長尾、八瀬尾、大同、本谷等の字あり」とあ

って、いまの東丹沢の札掛集落周辺の山、東西12キロ、南北16キ

ロばかりの山域ということになっています。同書に載っている古い

地図も、いまの丹沢山より南東側の山を描いています。



 一方、地元ではこの山(いまの丹沢山)を昔から、「三境(さん

さかい)」とか、「三境の峰」と呼んでいたという。地元の山岳会「さ

がみの会」会員で、地元出身の栗原祥さんは「尊仏2号」誌にこん

なことを書いています。「鳥屋村(いまの津久井町)の場合、村か

ら見える現在の丹沢の峰や谷の総称は単に「奥山」であった。いま

でも津久井や愛甲では三境という言葉は生きている」というのです。



 つまり、いまの丹沢山は、足柄上郡・愛甲郡・旧津久井郡(いま

の相模原市)の3つの郡の境になっていたので、地元では三境とか

三境の峰と呼ばれているという。もっとも鎌倉方面では「御本の平」

(みもとのたいら)などとも呼んだらしいですが。



 さて地元の人に、「三境」あるいは「三境の峰」と呼ばれていた

この山が、一変して「丹沢山」と名前が変わったのは、明治政府が

地図を作りはじめた時からでした。当時お上は、近代的な三角測量

で、見通しのいい山に三角点を設置、測量の網を広げていきました。

この山も、明治11年(1878)から明治15年(1882)ごろ、山頂に

一等三角点をが設置し、天城山や愛鷹山・筑波山などと三角測量が

行われました。



 この時、三角点を「点の記」に「丹沢山」と記入、できた地図に

も「丹沢山」と記入してしまったのです。また、その時、この測量

に従事した作業員が、主に札掛方面の人たちであったことから、札

掛を中心とした山名の「丹沢山」にしたとの説もあります。



 政府が発行する地図に「丹沢山」と記入されてしまっては、いま

さら「三境(さんさかい)」に直せといっても、石頭の役人が訂正

するはずはありません。いつしか地元の名前など忘れられ、この名

前が定着し、ガイドブックなどにも書かれるようになってしまった

ということです。



 この山からは大きな尾根が4つが延びています。南へは、笹原が

広がる竜ヶ馬場から塔ノ岳への尾根、東への尾根は少し三ツ峰尾根

下って東へ別れ、札掛方面へいたる天王寺尾根、北東には宮ケ瀬へ

とつづく三ツ峰尾根、北西へは不動ノ峰、鬼ヶ岩ノ頭など、修験者

たちの行場(ぎょうば)から、蛭ヶ岳へとつづく丹沢主脈です。



 また北側、早戸川の支流大滝沢には落差50mの早戸大滝があり、

郊の雨乞いの場所だったところ。修験者たちはこの沢を登って、丹

山・蛭ヶ岳へ向かったという。



 ところで、1955年(昭和30)に行われた「第10回国民体育大会」

では、登山部門の会場となり国体コースが開かれました。1964年

(昭和39)にはこの山頂に「みやま山荘」が建てられて登山者が

急増しました。1954年(昭和29)11月には、慶応高校山岳部の3

人が、この山の北面で吹雪と疲労で遭難したという痛ましい事故が

ありました。



 ちなみに丹沢山という山域は、『新編相模国風土記稿』に次のよ

うにあります。「本谷(保武多爾・ほむたに〇此所に栃の喬木あり、十

圍(※囲・両手を伸ばして抱えるぐらいの大きさ)に及ぶと云、又石

小屋と呼あり、石を組立樵夫等休憩の處とす、)等の字あり、山中喬木蓊

鬱(おううつ)として良材に富(め)り、按ずるに、元亀(げんき)・天正の

頃北条氏の命により煤ケ谷・七沢辺(※り)の村々より良材を小田原に運

(※び)致せし事あり、是皆此(※の)山に採しなるべし、



 関東御打(※ち)入(※り)以来山中すべて御林となり、郡中煤ケ谷・宮

ケ瀬、大住郡寺山・横野等四村の民に警衛の事を命ぜられ、彼(※の)

村々へ合(わせ)月俸一口半を賜り、且(※つ)驛馬歩夫(※?)課役を

免除せらる、其他の村民は猥に山に入事を禁ず、寛永元年山中の掟

書と云るもの今大住郡横野村の里正蔵す(曰、丹澤御留山書之事、

つか・けやき・もみの木・杉木・かやの木・くりの木・右之御用木
御法度之事候間、



 又藏木成共長木は出申事御法度之儀に候間又は地たう衆成共、き

り取被成者、江戸へ急度御申可被上候、爲其仍而如件、寛永元子十

月廿五日、源半殿、田所助二郎印 按ずるに、文中藏木は雑木にて、

源半は玄蕃の誤なるべし、是里正が先祖の名なり、)此餘郡中數嶺

相連續すれど、丹澤山に比すれば兒孫の如し、故に各村地域の接す

る所に標出し、爰に贅せず、」とある通り、深い森林におおわれ、

良材に富んでいました。



 そのため、小田原に本拠を置いた、後北条氏はこの山の森林保護

につとめました。さらにこれを踏襲した徳川幕府も、この山域を御

留山ととしてきびしい管理と保護につとめました。とくにツガ、ケ

ヤキや、モミ、スギ、カヤ、クリは「丹沢六木」として、厳重な取

り締まりがされました。この山中を流れる布川のほとりの、狭い平

地にケヤキの大木があったという。



 山林の監視に当たった山回り役人が巡回の際、その印として、こ

の木に札を掛けたという。そこからこのあたりを「札掛」と呼ぶよ

うになったという。この大ケヤキも、1937年(昭和12)の大豪雨

による山津波で押し倒されてしまったということです。



 ここ丹沢山ろくにはこんな伝説もあります。丹沢山東ろく、箒杉沢から

玄倉川につづく、丹沢湖の湖底に沈んだ三保村の話です。ある鉄砲打

ちが、丹沢山に入り猟の最中、山中で夜を過ごした時こと。突然暗闇の

中から、ハイカラ娘があらわれました。



 当時丹沢山には、人を取って食う化け物がいるというウワサがありまし

た。猟師は、「さては化け物!」と思い、鉄砲を撃ちました。しかし、若い

女は、何の反応もなく笑っています。猟師は鉄砲を何度も撃ちました。そ

れでも女は、相変わらず笑っています。



 よく見ると、女は暗い中に提灯(ちょうちん)を持っています。猟師は行

灯(あんどん)をねらって弾を撃ちました。するとスーッと姿が消えました。

翌朝、確かめに行くと、そこには白いムジナが死んでいたという。ちなみ

にムジナとはタヌキのことだそうです。



▼丹沢山【データ】
【所在地】
・神奈川県愛甲郡清川村と、同県相模原市(旧津久井郡津久井町)と
足柄上郡山北町山北町の境。小田急小田原線渋沢駅からバス、終点大
倉下車歩いて5時間で丹沢山。一等三角点(標高:1567.06m)。点
名・丹沢山。
・【地図】
・2万5千分の1地形図「大山(東京)」



▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編相模国風土記稿」(巻之五十四 村里部 愛甲郡巻之一 図
説):大日本地誌大系21「新編相模国風土記稿3」編集校訂・蘆田伊人
(雄山閣)1980年(昭和55)
・「尊仏2号」栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年
・『丹沢記』吉田喜久治(岳(ヌプリ)書房)1983年(昭和58)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』鈴木棠三ほか(平凡社)1990
年(平成2)

 

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