第9章 中央アルプス・木曽御嶽山

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▼中 扉

【中央アルプス・木曽御嶽山】 このページの目次
・木曽駒ヶ岳の馬と祠
・木曽駒ヶ岳登山の悲劇「聖職の碑」
・木曽駒岳濃ヶ池の竜神と娘の機音
・麦草岳のホコラ
・宝剣岳のタヂカラオノミコト
・南駒ヶ岳のホコラ
・木曽御岳山の御嶽山神社と霊神碑
・木曽御岳山の山々に棲む4人の大物天狗たち
・中央アルプス・木曽御嶽の山 参考文献・ご協力

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■木曽駒ヶ岳の馬と祠

 風化がはげしく「三十六峰八千谷」の異名もある木曽駒ヶ岳(2
956m)。晩春のころ駒の形に似た雪形があらわれ、かつては山
麓の村々では農作業をはじめる目安にしていたという。この山は古
くから信仰登山が行われ、また神馬が住むとも信じられてきました。

 「新著聞集(しんちょもんじゅう)」(勝蹟篇第六・信州駒が兵馬
化して雲に入る)という本にも「目のひかりは鏡をかくるがごとく、
其形相、見る人身の毛竪ておそろし」くなるようなスゴイ形相をし
た葦毛の馬がすむと出ています。

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1338年( 暦応元・南北朝時代)に木曽側から8社の大神を山
頂にまつりましたが、のち天文元(1532・室町時代)年7月、
木曽上松の徳原長大夫春安が山頂に駒ヶ岳神社を建て、保食大神(う
けもちたいじん)をまつり、その後本社を山ろくに移し産土神(う
ぶすながみ)としたのが、駒ヶ岳神社のはじまりだという。

保食神は大宜都比売神(おおげつひめのかみ)ともいい、「日本
書記」では、月読命(つきよみのみこと)をもてなすため保食神が
口からいろいろな食べ物を吐き出したので、「けがらわしい」と怒
った月読命に殺されたという伝記があります。

その後、その死体からアワ、イネ、ヒエ、麦、ダイズ、アズキ、
牛、馬、蚕が生まれていたといい、そんなことから保食神は食糧生
産とともに良馬生産の神にもなっています。

 ところが頂上直下伊那側にももう一つの祠が建っています。伊那
側からの開山は、1804(文化元)年、御嶽講の寂本行者が最初
に登っています。いつ祠を建立したかは不明ながら、1832(天
保3)年、痛んだ祠を平沢貞一という人が再建し、その後1859
(安政6)年に再度改築した記録があります。

 伊那側の駒ヶ岳神社は、はじめ、山そのものがご神体である駒ヶ
岳大権現(垂迹神(すいじゃくしん)は保食神)をまつっていまし
たが、明治の廃仏棄釈の混乱を経て、1957(昭和32)年の改
築の記録では、国常立命(くにとこたちのみこと)、大己貴命(お
おなむちのもこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと・この大小
(少)の神はたいがいセットになっている)、春日皇大神、月読命
ら大勢の神々をまつってあります。なお、この山も御嶽教の影響下
なので御嶽講独特の霊神碑が多く見受けられます。

・長野県宮田村と木曽福島町、上松町との境 JR飯田線駒ヶ根駅
からロープウエイ千畳敷から歩いて1時間15分で木曽駒ヶ岳(2
956m) 2万5千分の1地形図「木曽駒ヶ岳」

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第9章

 

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■木曽駒ヶ岳・聖職の碑

 中央アルプスの駒ヶ岳は、南アルプスの駒ヶ岳や各地の駒ヶ岳と
区別するため「木曽駒ヶ岳」という。木曽駒本峰から北東に派生す
る「馬の背」の尾根上、将棊頭山、天水岩近くの岩に「遭難記念碑」
と書かれた碑があります。

 これは伊那の中箕輪小学校の職員とその生徒、同窓会の会員が集
団登山中に遭難し、慰霊碑としたものである。死者11人という大
遭難事件は、新田次郎の小説「聖職の碑」にもなり、映画化もされ
ました。

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 1913(大正2)年8月、一行37人は、麓を元気に出発しま
した。ところが、午後4時ごろから天候が悪化、木曽駒山頂に着い
たのは午後6時になってしまいました。台風がやってきていたので
す。昔は今のように気象情報もなく、天気予報は勘まかせでした。

 あてにしていた山小屋は、心ない登山者たちのため壊れ放題で屋
根もなく、柱が心もとなく建っているばかり。一行はしかたなく窪
地に入り身を寄せ合い、ハイマツを屋根がわりにして眠れぬ一夜を
過ごしました。

 不安な一晩が過ぎ、やっと夜が明けても暴風雨は止まず、ますま
す強くなるばかりです。窪地にも土砂降りの雨が漏ってきて、全員
がずぶぬれになってしまいました。赤羽校長の判断で風雨の静まっ
た合間に下山を決意しましたが、時すでに遅く、次々に倒れていく
教え子たち。それを必死に介抱する校長や教師たち。しかし天候に
は勝てず、校長自身も将棊頭付近の岩陰で生徒をかばいながら凍死
していったという。

 数年前の9月、中央アルプスを大平(おおだいら)まで縦走しま
した。伊那市内ノ萱から馬返し、胸突き八丁を通り、西駒山荘を過
ぎました。天水岩付近は砂場が広がる小広場になっています。そば
の大岩に「遭難記念碑」と文字が彫ってあり、脇に「聖職の碑」の
説明板がたっています。いつか見たテレビの一シーンがよみがえっ
てきます。手を合わせている同行の女性のわきを若者パーティーが
急ぎ足で通り過ぎていきました。

・長野県宮田村と木曽福島町との境 JR飯田線駒ヶ根駅からバ
ス、しらび平からロープウエー、千畳敷から歩いて2時間10分で
聖職の碑 2万5千分の1地形図「木曽駒ヶ岳」

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第9章

 

 

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■木曽駒ヶ岳・濃ヶ池の伝説

 木曽駒ヶ岳の北東、馬の背尾根の伊那側はカールになっており、
そこからにじみ出る水は濃ヶ池をつくっています。木曽駒ヶ岳は昔
ながらの信仰の山。山頂の駒ヶ岳神社は別として、江戸時代後期の
文化年間あたりから天台宗の行者たちが修行入峰(にゅうぶ)の道
を開いたところで池辺には濃ヶ池天台大神の石碑と祠がまつられて
います。

 濃ヶ池は雨乞いの池としても著名で、江戸時代、伊那小出村の村
人が、権現づるねからのぼり、雨乞いの儀式を行ったという。

 ま1756(宝暦六年)、木曽駒山頂付近の調査の命を受けた高
遠藩の郡代官坂本秀臣は、大勢の人足を伴って八月、宮田村から北
御所谷、前岳経由で登頂し詳細に見聞した。

 それをまとめた「駒ヶ岳見聞復命書」のなかで「濃ヶ池の水は毒
水というが、飲んでみたが何でもなかった。また大声を出したが何
の変化も起きなかった」などと報告しています。当時は濃ヶ池は毒
水で、大声を上げると山が荒れると噂されていたらしいことがわか
ります。しかし実際に私もこの水を飲んでみましたがいまだに生き
ているところからどうやら噂だけだったようです。

 また濃ヶ池にはこんな伝説もあります。濃ヶ池には蛇身のヌシが
すんでいたという。ヌシは北西麓の大原(いまの木曽福島町)の里
を見下ろしているうち、そこに住む娘に恋をしてしまいました。そ
の娘が婿を迎えることになり式を挙げましたが、翌朝なぜか婿が逃
げ帰ってしまいました。また婿を迎えても翌朝になると逃げてしま
います。

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 何回式を挙げても同じでした。そのうちあの娘は夜中になると髪
が逆立ち、恐ろしい顔になるといううわさがたちました。娘はそれ
を聞き、柳の枝を杖にして何かに惹かれるように濃ヶ池めざして山
に登りはじめました。

 やっと濃ヶ池に着き、月の明かりで池に写った娘はびっくりしま
した。自分の顔が蛇のように恐ろしい顔になっているではありませ
んか。嘆き悲しんだ娘は柳の枝を地面にさすと、池に身を投げてし
まいました。

 夜中に娘の顔が変わり、婿たちを追い出したのはみな蛇身の仕業
で「わしがおまえを池に呼び寄せたのだ」池のヌシはいいました。

 いまもこの池の底からは娘の機を織る音がし、池の畔に生えてい
る柳は娘がさした杖が地面について育ったものだと伝えています。

・長野県宮田村と木曽福島町との境 JR飯田線駒ヶ根駅からバ
ス、しらび平ロープウエイ、千畳敷駅から歩いて1時間30分で濃
ヶ池 2万5千分の1地形図「木曽駒ヶ岳」

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第9章

 

 

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■麦草岳山頂の祠

 中央アルプス木曾駒ヶ岳から長野県木曽福島側へ下り、玉ノ窪小
屋下で水場方面へ行かず、西側へ行くと、スリルのある岩場を越え
て麦草岳(2733m)へ出ます。

 麦草岳の山頂は、ハイマツの広い尾根で、麓の長野県上松町の人
たちがハイマツを麦草に見立てたといわれています。木曽福島では
山頂直下にある駒石から駒石岳と呼ぶそうです。5月ごろこの山の
斜面に残雪でできる大蛇の雪形があらわれ、上松町の風物詩になっ
ています。

 木曽前岳から山姥の奇岩を通り、麦草岳に行ってみたのは7年前
でした。お花畑をわずかな踏み跡が続きます。山頂は訪れる人もあ
りません。麦草からの下る途中、直下でいつ道に迷ったものか木曽
福島へ降りるつもりが、いつか上松町についてしまいました。

 この麦草岳山頂にも、赤い屋根の祠があって、北西側を向いてい
ます。

 祠は上松町のもので、駒ヶ岳神社の末社という。祭神は天之御中
主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびの
かみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)など、宇宙創造の「造化
三神」ともいわれるソウソウたるメンバーです。里宮は、上松町大
字小川にある駒ヶ岳神社。祭神は自分の死体から五穀を生やしたと
いう保食神(うけもちのかみ)。

 駒ヶ岳神社は、その祭神から衣食住や農業、蚕、牛馬の守護心と
して、特に馬や養蚕農家の信仰があつかったという。

 この里宮は、いまでも太々神楽の神事が行われ、国の無形文化財
にも指定されています。

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 一方、木曽福島町大原にも駒ヶ岳神社があり、1929(昭和4)
年、木曽福島山岳会(宗教的性格の強い会だったか?)の規約で、
翌1930(昭和5)年、木曽駒ヶ岳山頂福島口と駒石岳(麦草岳)
に、神々を移す遷座式を行っています。

 その記録によると、駒石岳には駒石神社を奉祀し、その祭神に同
町の「水無神社」の高照姫命(たかてるひめのみこと)と事代主命
(ことしろぬしのみこと・エビス神ともいう)などをまつったとあ
ります。

 当時はこれらの神を木曽福島山岳会で、祭りをしたといいますが、
いまではすたれてしまったということです。

・長野県木曽福島町と上松町との境 JR中央本線上松駅から6時
間で麦草岳 2万5千分の1地形図「木曽駒ヶ岳」

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■宝剣岳山頂の祠

 宝剣岳(2931m)は中央アルプス駒ヶ岳周辺の主峰で、木曽
駒ヶ岳南東にそびえ、その優しさに比べて、鋭い岩峰を屹立する男
性的な山です。東側直下に千畳敷カールを持ち、そこまではロープ
ウエイで誰でも登れます。登山者はカールの目前にそそり立つ宝剣
岳に圧倒されます。

 下諏訪の寂本行者が、1811(文化8・当時81歳?)年、山
頂に錫杖を奉納したので、錫杖岳とともいうとされていますが、そ
れより55年も前の宝暦6年に高遠藩士が木曽駒ヶ岳検分に登り、
すでに宝剣岳を錫杖岳と記しています。

 その後、頂上に太刀剣が奉納され、山名も剣ヶ峰に変わりいまで
は宝剣岳と呼んでいます。いずれにしても山名は剣のように切り立
った山の形からきているらしい。

 また江戸中期の「宝暦六年駒ヶ岳一覧記」に、村役人や人夫が大
きな声を出すなといっているので聞いてみると、大声を上げると山
が荒れるという。そこで岩壁へ六匁玉の鉄砲一発撃ち込み、大石を
落としたり大声で騒いでみたが何のこともなかったとあります。尺
丈ヶ岳(宝剣岳)のつけねに袖形の如き黒御影の石があるので絵図
に記すとも書いてあります。

 その宝剣岳山頂に、手力雄尊(たぢからおのみこと・手力男命)
の祠がまつられています。伊那側を向いた祠は新しく建てられたも
ので、石碑の後ろに古く壊れた祠が転がっています。祠はたいがい
それを建てた集落の方を向けてあります。しかし伊那側各所にある
駒ヶ岳神社里宮のうち、手力雄尊を祭っているのは、伊那市内ノ萱
にある社だけです。しかしそれも1885(明治18)年創建と新
しいのはどうしたことでしょうか。

 一方、木曽側からは、1532(天文元)年に徳原春安が山頂に
社を建立、保食神(うけもちのかみ)をまつるなど駒ヶ岳神社の創
立は木曽側の方が古い。

 木曽上松町の「駒ヶ岳由来記」にも「……時代を経るにしたがい、
多くの神々を諸峰に祀り……第三の峰宝剣岳には大山祇命(おおや
まずみのみこと)、手力男命……を祀る」とあります。

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 そんなことから、宝剣岳と手力雄尊の関係ははじめ木曽側で成立
したのち、いつしか伊那側でまつるようになったのではないかと伊
那市教育委員会の話でした。

 9月の連休、宝剣岳山頂は大勢の登山者が昼食をとっていました。
岩の間を縫うように祠に近づき、写真とメモをとり、岩に埋まった
石碑を掘り出して、砂がつまった石碑の文字をなぞり、スケールで
大きさを計ります。見るといつの間にか何人かが集まってきていま
す。そして読みづらい石碑の文字を一緒に判読しはじめてくれたの
でありました。

・長野県宮田村と上松町との境 JR飯田線駒ヶ根駅からバス、駒
ヶ岳ロープウエイ、さらに歩いて1時間で宝剣岳 2万5千分の1
地形図「木曽駒ヶ岳」

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■南駒ヶ岳の祠

 南駒ヶ岳(2841m)は中央アルプスのほぼ中央にあり、北に
空木岳、南に仙涯嶺にはさまれ、山頂は緑のハイマツと岩稜との対
比が人の目をとらえます。ロープウエーのある木曽駒ヶ岳から空木
岳あたりまでは縦走するパーテイも多いが、この山域に入ると人は
そう多くはなくなります。

 かつては、木曽駒ヶ岳(本駒)から南へ越百山一帯へかけて走る
稜線を、竜に見立てて、「駒ヶ岳」といっていたらしく、古い本に
は空木岳や南駒ヶ岳などは記録になく駒ヶ岳としてひとつにまとめ
られています。山名は文字どおり駒ヶ岳の南にあるかららしい。

 縦走路は頂上付近で伊那側ダムへの道を分け、三叉路になってい
ます。その三叉路の大岩の陰に、黒い屋根の南駒ヶ岳神社がありま
す。風の飛ばされないよう、祠の両側に石が積まれ、岩盤に打ち込
まれたボルトに針金で止められています。

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 祠は伊那側を向いており、明らかに飯島町の人たちによって建て
られたものとわかります。『飯島町誌』下巻によれば、1921(大
正10)年に飯島青年会が初めて南駒ヶ岳に登ったときには、祠が
すでに建っていたという。

 おそらくこの祠は、木曽側の人たちによって建てられたものでは
ないかとされていますが、伊那側からの登山道ができてからは、飯
島青年会が祠の修復、改築を行ってきたという。

 1940(昭和15)年、南駒ヶ岳神社奉賛会が中心になり、登
山口の市ノ瀬に高さ7〜8m、柱1mの大鳥居を建立。有志による
参詣登山が行われてきましたが、いまは鳥居の礎石だけが残ってい
ます。

 東面には中央アルプスの南端の氷河地形、摺鉢窪カールがありま
す。雪解けがくるとカールは黒ユリなど高山植物がきれいに咲き、
その水は断崖を下り、「オンボロ沢」というおもしろい名前の沢に
流れ込んでいます。ここは断崖絶壁となっていて、落石の音が絶え
ません。

 春先、カールになだれこむ数本の沢に挟まれた稜線近くの上部岩
稜に「五人坊主」とよばれる雪形が現れます。それはだいたい等間
隔をおいた五つの黒い点で、伊那谷の風物詩になっていて、村人の
春の農作業(ダイズ、ヒエ、アワなどの種まき)の季節の目安にな
っています。

 また赤梛岳との間にある摺鉢窪避難小屋は、1929(昭和4)
年に120人の地元の山岳会や山の案内人組合の人たちによって建
設されたものだそうです。

 南駒ヶ岳の祠のゆるみかかった針金やはがれた板などを整理し、
さい銭をあげて出発したのが午前10時。奇っ怪な岩峰が並ぶ仙涯
嶺を過ぎるころにははりつめていたガスもあがり、日がさし始めま
した。越百山(こすもやま)へのなだらかな道ばたにガンコウラン
の実が熟しています。

 甘酸っぱい実を手でしごき、口いっぱいにほおばりながら、背伸
びをしながら歩きます。昼過ぎ越百小屋跡の広場にテントを張るこ
ろには、すっかり天気は回復。おかげでぬれた雨具も乾かすことが
できたのでありました。

・長野県飯島町と大桑村との境 JR中央本線倉本駅から歩いて1
4時間で南駒ヶ岳(2841m) 2万5千分の1地形図「空木岳」

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■木曽御嶽山の祠

 木曽御嶽山(3067m)は各所に霊神碑(れいじんひ)がなら
んでいます。霊神碑は、修行を積んだ行者が死後、霊のおさまる霊
場(墓所)に建てる石碑。江戸時代の御岳行者・一心行者も「御岳
を信仰するものは、死後御岳の童子として霊魂を山に引き取っても
らえる」といっており、霊神碑はいまでも増え続けています。

 霊神碑で古いものは、岐阜県にある大阿闍梨(だいあじゃり)の
号をもつ覚明霊神のもので弘化2(1845)年の銘があり、黒沢
口登山道四合目の亀翁霊神の碑も弘化3年の銘があるといいます。

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 御嶽山には、登山口ごとにそれぞれ奥宮があり、最高峰の剣ヶ峰
にもりっぱな奥社がまつられています。祭神は、国常立命(くにと
こたちのみこと)と大国主命である大己貴命(おおなむちのみこと)、
少彦名命(すくなひこなのみこと)です。707(大宝2)年、役
ノ小角(えんのおづぬ)が開山したとも、また同年、信濃国の国司
・高根道基が頂上奥社を創建したともいわれています。

御嶽山ははじめ「王岳」、「王の御嶽」と尊称され、平安時代の貴
族も御嶽詣、御嶽精進などを行う風習があったという。中世「王岳」
が「おのたけ」になり、室町中期にはさらに転訛して「おんたけ」
となったとされます。

 山そのもを崇拝した時代から修験道の山になってからは、御嶽の
名がつく奈良吉野の金峰山(きんぷさん・金の御嶽)から、役ノ行
者が感得した蔵王権現を勧請し、「王御嶽蔵王権現」と称したとい
う。

 「金の御嶽」の流れをくむ各地の御獄は、すべてミタケといい、
本山の金峰山に対して国峰(国御嶽)といっているそうです。ただ
そのひとつの御嶽だけが、オンタケと呼ばれるのにこの山の特殊性
がうかがわれるという。

 江戸時代には覚明・普寛が、道の整備や登山の際の禊ぎの制度を
簡略化したため、大衆の信仰登山が可能になり多くの御嶽講ができ
ました。明治になり教派神道も発生し、御嶽信仰は多くの変遷をた
どっていきます。しかし、かつてまつられていた王御嶽蔵王権現は、
いまでも奥社の円形の石碑にその文字が残されています。

・長野県三岳村と岐阜県小坂町との境 JR中央本線木曽福島駅か
らバス、田の原から歩いて4時間20分 2万5千分の1地形図「御
嶽山」

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第9章

 

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■木曽御嶽山の天狗たち

 1979(昭和54)年に突然爆発し、いまだに噴煙が止まらな
い木曽御嶽山(3067m)。開山は飛鳥時代だと伝え、以来多く
の行者が修行してきた信仰の山で、現在でも全国各地にいる御嶽溝
の信者は数百万人を超えるという。山頂には一ノ池から五ノ池まで
5つの湖沼があり、一ノ池の周りに「三十六童子」を安置してあり
ます。

 特にまっ青な水をたたえた三ノ池は神聖視され、この水はいつま
でたっても腐らず、「お山の御神水」として持ち帰り薬を飲むとき
に用いるといいます。こんな山だから不思議な話がないはずはあり
ません。

 中でも天狗の伝説は有名で、御嶽山六尺坊という天狗を筆頭に、
アルマヤ山アルマヤ坊、八海山大頭羅(だいずら)坊、三笠山刀利
(とうり)天坊たちがいることになっているのだそうな。

 首長の六尺坊は御嶽権現の化身といわれ、文字通りの大親分。主
峰の剣ケ峰から辺りをへイゲイしています。その一峰、摩利支天(ま
りしてん)山近くのアルマヤ山に住むアルマヤ坊。サイノ河原東方
のピークから三ノ池を見下ろしているはずです。

 大頭羅坊天狗は御嶽山の前山八海山にすむといいます。八海山は
王滝口五合目にあり、今ではバスで素通りするばかり。そして刀利
天坊は田の原にある三笠山に鎮座。交通が便利になった今でこそ、
これらの山々は見むきもされませんがが、王滝村から歩いた昔はそ
うとうな険阻な山であったはず。それなりに神秘を感じていたにち
がいありません。刀利天坊は五ノ池近くにある飛騨項上にも像があ
ります。

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 御嶽行者の経文の中にも「恐れ乍ら之の座に勧請し奉るは…大己
貴神、少彦名神、御嶽山三社大権現……八海山大頭羅神王、三笠山
刀利天飛竜大権現、阿留摩耶山大権現……」と天狗名が出てきます。

 ここで修行した御嶽行者が地方の山々に移動するにつれ、各地に
三笠、八海などの山名も多くなり、各天狗の分身も祭られはじめま
す。秩父の両神山にもこれらの山名や大頭羅神王像などがあり、甲
斐駒ヶ岳黒戸尾根中間にも刀利天狗の祠があり、三笠山刀利大神の
石碑が建っています。また越後三山の八海山には提頭羅親王(だい
ずらしんのう)が祭られています。深山にはいまでもこうした時代
離れした伝承が多くあります。

・長野県三岳村と岐阜県小坂町との境 JR中央本線木曽福島駅か
らバス、田の原から歩いて4時間20分 2万5千分の1地形図「御
嶽山」

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第9章

 

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■中央アルプス・木曽御嶽山 参考文献・ご協力

「飯島町誌」(下巻)長野県飯島町
「駒ヶ岳研究」(第一輯)長野県上伊那教育委員会編
「宝暦六年駒ヶ岳一覧記」蕗原拾葉(「日本山岳風土記2」宝文館
所収)
「徳原讃岐支配釦」明治2年5月
「上松町の神社と仏閣」(町誌別編)長野県上松町教育委員会
「信濃奇勝録 巻四・駒ヶ岳」(「駒ヶ岳研究」第一輯)上伊那教育
会編
「駒ヶ岳由来記」木曽上松町駒ヶ岳社務所
「木曽御岳の霊神碑」児玉充(「山岳宗教史研究叢書9」名著出版
所収)
「信州山岳百科3」信濃毎日新聞社

▼ご協力
長野県上松町教育委員会
長野県飯島町教育委員会
長野県伊那市教育委員会社会教育科
長野県木曽福島町教育委員会文化財ご担当
長野県宮田村教育委員会

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(第9章 終わり)

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