第7章 箱根・富士山周辺・八ヶ岳の山々

………………………………………………

▼中 扉

【箱根・富士山周辺・八ヶ岳】 このページの目次
・箱根明星ヶ岳・大雄山の道了尊天狗
・富士山火口内の眠れる蹲虎(そんこ・虎岩)
・富士山五合目飛翔神馬と聖徳太子の碑
・石割山もう一つの「天の岩戸伝説」
・三ツ峠のだるま石と水難防止祈願
・八ヶ岳赤岳の赤嶽山神社
・阿弥陀岳の石仏群
・権現岳の槍
・蓼科山のホコラと甲賀三郎伝説
・箱根・富士山周辺の山 参考文献・ご協力

-145-

 

………………………………………………………………………………………

 

■箱根明星ヶ岳・道了尊の伝説

 明星ヶ岳(924m)は箱根火山の古期外輪山の峰のひとつです。
小田原市の真西にあり、夕方になると当山の上に宵の明星が輝くた
め明星ヶ岳の名があるといわれています。

 この山は一名大文字山とも呼ばれ、京都東山の大文字焼きを参考
に、大正10(1921)年から毎年8月16日に当山でも大文字
焼きが行われています。

 明星ヶ岳や、となりの明神ヶ岳の北側の登山口、神奈川県南足柄
市大雄町の大雄山最乗寺には、仁王様の代わりに大天狗、小天狗の
像が立っていて、入口に鉄製の赤い天狗の「下駄」がたくさんなら
んでいます。天狗の名は道了薩?(どうりょうさった・道了尊)。

 大雄山最乗寺は室町前期、1394(応永元)年に了庵慧明(け
いめい)が弟子の道了薩?の助力で創建した寺で、大山不動、川崎
大師とともに神奈川県三大名刹のひとつになっています。

 道了薩た(相模坊道了)はもともと滋賀県大津市の三井寺(円城
寺)南院にいた大行者。1390(明徳元・南北朝時代)年、同じ
相模出身の了庵の最乗寺創建の計画を聞くや早速はせ参じたといい
ます。

 その様子を三井円城寺の「北林院日記」に「相模坊道了、勤学ノ
座ニ於イテ十一面ノ小呪三洛叉(さんらくさ)ノ後、人容忽然トシ
テ天狗ニ変ジ、西山窓ヲ開キ、飛ビ立チ金堂前ノ大杉ノ頂ニ移リ、
東面ニ向ヒ飛ビ去ル。以後其姿ヲ見ルコトナシ」とあり、道了尊は
小田原最乗寺へ来る前から天狗になっていたわけです。

−146−

――――――――――――――――――――――――

 こうして小田原にやってきた道了は、不思議な能力を発揮して、
谷を埋め岩を砕き、了庵の寺院創建工事に協力しました。そして1
411(応永18)年、了庵慧明がこの世を去ると道了は最乗寺の
守護に専念することを約束し、箱根明星ヶ岳に飛び立ったといいま
す。(「図聚天狗列伝」)

 冬のある日訪れた明星ヶ岳は石碑、石神があるだけで天狗の「て」
の匂いもありません。その夜は、最乗寺の近くの杉林の中にテント
を張りました。うっそうとした杉の木は天に延び、まさに天狗の山
にふさわしい。「ド、ド、ドーン」。明け方、起床の大だいこに叩き
起こされた思い出があります。

・神奈川県小田原市と箱根町との境 伊豆箱根鉄道大雄山線大雄山
駅からバス、道了尊から10分で最乗寺、明星ヶ岳へはさらに4時
間 2万5千分の1地形図「与瀬」

−147−
第7章

 

………………………………………………………………………………………

 

■富士山・火口の虎岩

 山梨県と静岡県の境にあるものの、富士山は八合目から上はどの
県にも属さないという不思議な山です。山頂の火口をめぐる周遊コ
ースは、お鉢めぐりと呼ばれ、その道にも外輪と内輪を歩くコース
があります。その火口の中に池があり竹が生え、虎がいると昔の本
に妙なことが書かれています。

 富士山頂の古い記録のなかで一番正確なものは、平安初期の漢学
者・都良香が元慶3(879)年以前に、人から聞いた話として書
いた「富士山記」だといわれ、「本朝文粋」に所収されています。
それには山頂の様子がくわしく書かれ、実際に登山した者でなけれ
ば分からないことが書いてあります。

 要略すると「山を富士と名付けしは郡の名に取りしなり。山に神
ありて、浅間大神と曰ふ。此の山の高さ雲上幾丈なるかを知らず。
頂上に平地あり。広さ一里許なり。其の頂の中央は窪み下りて、炊
甑(物を煮る蒸し器)の如し。甑の底に神池あり、池の中の大石あ
り、石体甚だ奇にして宛も虎の蹲まれるが如し。亦其の甑の中には
常に蒸し出づる気あり。其の色純青なり。其の甑の中をのぞけば湯
の沸きのぼるが如く、其の遠くより之を望めば、煙火の出づるに似
たり。又其の頂上の池の周囲には竹を生じ、紺青にして柔軟なり。
積雪は春夏と雖も消ゆることなし。山腹以下には小松を生ずれども、
山腹以上にはまた生木なく、総て白沙より成れり」と詳細に記して
います。

−148−

――――――――――――――――――――――――

 当時は中央火口に溶岩が燃えていたことは想像できるし、現在お
釜に水は溜まっていませんが、春から初夏にかけて浅間社奥宮近く
にこのしろ鮗池ができるし、地形も記録と一致しています。

 また山頂の池に生えている竹は、苔のことだとされ、虎のような
岩というのは、奥宮近くの火口内にある虎岩のことで、崩れかけた
とはいえ、いまでもはっきり確認できます。江戸時代には虎の絵を
描くのを得意とする日本画岸派の二代目の岸岱(がんたい)の絵に
よる「蹲虎の碑(そんこのひ)」が建てられています。

・山梨県富士吉田市、鳴沢村と静岡県富士宮市、富士市、御殿場市、
小山町との境 JR御殿場線御殿場駅からバス、新五合目か8時間
30分で富士山頂 2万5千分の1地形図「富士山」

−149−
第7章

 

 

………………………………………………………………………………………

 

■富士山五合目の聖徳太子と黒駒の碑

 「フジヤマ」は外人さんでもおなじみの山。まして日本人なら一
生に一度は登りたいと願うのも無理からぬこと。多い年は一シーズ
ンに100万人もの登山者があるそうです。

 しかしその登山者は新五合目から頂上への往復で、五合目佐藤小
屋を経由するのは冬に雪上訓練などに登るごく限られた人。その佐
藤小屋上の経ヶ岳には八角堂があり、わきに聖徳太子と黒駒の石碑
がならんでいます。

−150−

――――――――――――――――――――――――

 そもそも富士山への登頂は木花咲耶姫命(このはなさくやひめの
みこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、聖徳太子、役ノ小角
(えんのおづぬ)の順だと伝承されています。なかでも聖徳太子は、
「聖徳太子絵伝」を要約すると、推古天皇六(五九八)年「二十七
歳の御時(富士山五合目の石碑には御年二十五となっている)、甲
斐駒いで来る。調使丸舎人、異国御舎人として九月にこれに乗り給
う。天皇に暇を申して、三日三夜に、日本国を廻り見給う……調使
丸を轡に之を付け、虚空を飛びて富士山に到り給う。浅間大菩薩、
本地観音。富士山頂にも地獄池有り。中に太子入給う」また「さて、
太子、黒駒に召して、日本国を三日三夜に廻りご覧せられるに、大
峰の前鬼も召し出されて、山内の有様ども御尋ねありけり。富士山
計こそ、馬の足には触りけれ。其外は、虚空をそ、黒駒、雲に乗り
て飛行しけり」とも書いてあります。

 「聖徳太子伝暦」や「扶桑略記」、にも同様のことが書かれてお
り、同じころの「本朝神仙伝」には日本武尊に次いで2番目の仙人
と書かれています。

 八角堂わきの聖徳太子と黒駒の碑はその伝記にちなんだもので献
花が絶えません。ちなみに八合目の太子館は聖徳太子にちなんだ山
小屋名。小屋のなかには祭壇があり、神鏡の奥に聖徳太子像がまつ
られています。また伝説にもとづいて描かれた「太子冨登嶽之図」
(東京国立博物館蔵)の模写絵とともにその説明文も掛けられてい
ます。

・山梨県富士吉田市、富士急河口湖駅からバス、五合目 2万5千分の
1地形図「富士山」

−151−
第7章

 

 

………………………………………………………………………………………

 

■富士山周辺石割山・天の岩戸伝説

 石割山は山中湖の北岸に位置し、登山口の平野集落からも1時間
半で山頂に達するため、湖面に映る雄大な富士山を前に、家族連れ
でにぎわいます。「山中湖村のの歴史と伝説」には「霊山として知
られ、特に蜃気楼の出現する山として日本山岳史に記されている」
とあります。

 三角点のある小広い山頂で、昼飯をとっていると太陽に暖められ
た土からいっせいに湯気があがりはじめました。この湯気が激しい
ときには、あるいは蜃気楼が現れるのかもしれません。

−152−

――――――――――――――――――――――――

 石割山は山頂下の割石が山名のもとといい、その前に石割神社が
祭られています。割石は、縦10m、幅15mの巨岩が「石」とい
う字に似て割れ目が入り、そのうしろは幅50センチほどのすき間
を作って見事に立ち割れ、まるで岩の戸が2枚並んで立っているか
のようです。

 神話の天の岩戸伝説は戸隠山が有名ですが、ここにもそのいい伝
えがあり、ふもとの平野地区には「天の岩戸」はここのことだと信
じるほとが多いとか。

 この「天戸開き」の割れ目を通り、2度拝むと幸運が開け、した
たり落ちるしずくは皮膚病、眼病、イボに効き、飲むと無病息災、
長寿を保つとの効能書きがあります。

 石割神社の縁起では、「創立往古詳ならず。住吉神の使いの白鳩
の導きにより、石割山創始さる。霊験あらたかな権現様として、平
野郷人の信仰心を集める」とあります。

 祭る神は、天の岩戸開きで活躍した手力男命(たぢからおのみこ
と)、神話で「国譲り」に反対した大国主命の子建御名方神(たけ
みなかたのかみ)と戦い、力比べでも勝って相手を承服させた建御
雷之男神(たけみかづちのおのかみ)力自慢の神々のほか数社。

 以前には石割権現といっていたからには、神仏混合、天狗伝承は
ないかと調べると、やはりある。山頂の東方にある大天狗小天狗と
呼ばれる石峰。神社下の乗鞍石手前からまっすぐの所に望めます。

 昔はこの乗鞍石から先は、馬から下りなければならず、また、か
つては女人禁制で女性に反はここまでだったという。そのため、こ
の石を下馬石とか、女八遥拝石とも呼ばれていたという。

・山梨県都留市と山中湖村、忍野村との境 富士急行富士吉田駅か
らバス、平野から歩いて1時間30分】2万5千分の1地形図「御
正体山」

−153−
第7章

 

………………………………………………………………………………………

 

■三ツ峠山登山道のだるま石

岩ヤさんが集まる三ツ峠の岩場。三ツ峠とは三つのトッケ(突起
=峰)の意味だといわれます。山頂からの富士山の眺めが良く、大
勢のハイカーが訪れます。

 古くは三嶺山、三峰山ともいわれました。東面に屏風岩のある岩
峰の開運山、北側の御巣鷹山、西方の毛(木)無山の三峰の総称で、
普通「三ツ峠」と呼ぶため、峠と思われがちですが峠ではありませ
ん。

 ロッククライミングの岩場はこの開運山で、山頂には、石祠や石
碑があって三峰権現をまつっていあります。

富士急行三ツ峠駅からの表登山道にダルマ石という石がありま
す。木立の中に山小屋と休憩所があって、三ツ峠を訪れるハイカー
は必ずといっていいほど休憩をとる場所。ダルマ石は、高さ1m、
幅85センチの自然石で、顔の部分に「アーク」という梵字が刻ら
れています。

アークとは大日如来を意味するという。大日如来は修験道では本
尊としています。三ツ峠は、神鈴峰、仙泉山の異名もあり、奈良時
代、役行者小角によって開かれたと伝えられる霊山で、山伏たちの
道場でした。

その後、この山は一時衰退しましたが、霊跡をたずねて善応空胎
上人が、天保3年(1832)年、神鈴峰(三ツ峠)に登り、この
山の再興を決意、3年後本宮を再建し、参道なども整備しました。

−154−

――――――――――――――――――――――――

 また「法華経」、「仁王護国般若経」、「金光明最勝王経」などの護
国三部経の一字一石を完成させ、三ツ峠山山頂はじめ付近の山々の
山中に埋めて塚としました。以来ここを一生の修行の場と決め、毎
月8日、17日、28日を護摩修行の日とし、精進に励んだといい
ます。

このあたりはかつては七丈敷くらいの平らな石の並んだ畳石と呼
ばれた所でしたが、出水で一瞬のうちに埋まってしまったという。
ダルマ石は、このような被害が二度と無いよう、空胎上人の後継者
である三世安西栄阿和尚の時、水難防止の祈願をこめて、信徒によ
って建てられたものといいます。

・山梨県西桂町、河口湖町と都留市との境富士急行三ツ峠駅から歩
いて1時間10分でダルマ石、さらに3時間20分で三ツ峠山 2
万5千分の1地形図「河口湖東部」

−155−
第7章

 

………………………………………………………………………………………

 

■八ヶ岳の赤岳神社

 赤岳(2899m)は八ヶ岳連峰の盟主で、山頂は南北に分かれ
た双耳峰になっています。山肌が酸化して赤褐色をし、それが山名
になっているとも、「赤」という字に神がかった音や色を見いだし、
主峰としての貫禄にふさわしい名がついたともいわれています。

 南頂に「赤岳山神社」の奥宮が鎮座しています。奥宮といっても、
小さな石祠と赤岳山神社文字の「赤」の字の部分が欠落した石碑だ
けです。ふだんは登山者は気にも止めません。祭神は「日本書紀」
などに出てくる神話「天地開闢」の最初にあらわれた国常立尊(く
にとこたちのみこと)神と、天の岩戸伝説の天手力男尊(あめのた
ぢからおのみ)こと。と鉱山、金物の神・金山毘古神(かなやまひ
このかみ)。それとこれらの神様のほかに、仏である愛染明王(あ
いぜんみょうおう)と正力不動明王もいっしょにまつられていて、
まさに神仏習合でここ赤岳を中心に昔は山伏たちの山岳道場だった
のでした。

 横岳、硫黄岳とつづく切り立った扇状の岩峰は、山岳信仰の場と
して有名な戸隠山ともよく似ています。その中心にある行者小屋は
かつては行者たちの宿泊所でした。

 赤嶽神社の里宮は、長野県茅野市泉野下規木にあり、寛政元(1
789)年の建立と伝えています。このほか同じ名の神社は八ヶ岳
南端の編笠山の南麓・観音平近くや、山梨県大泉村清里駅付近にも
あります。

−156−

――――――――――――――――――――――――

 赤岳も信仰登山が盛んだったころは、白装束に身を固め、「六根
清浄」を唱え、講中登山をしたという。赤岳講が佐久側より諏訪側
に多く、諏訪側から見た険しい山容が山岳信仰にふさわしかったた
めらしい。

 八ヶ岳は、6月の第1日曜日に開山祭が行われていました。神主
が祠の前で祝詞(のりと)をあげ、市長や登山者の代表が玉串を捧
げ、山の安全を祈っています。

 山頂は人がこぼれ落ちそうなにぎやかさ。上天気のもと山の歌の
大合唱がはじまります。御神酒がまわってきます。そして思いもかけ
ず、神社のお札とタカネバラのバッジを貰いました。もう10数年も前
のことですがいまでも大事にしています。

・長野県茅野市と富士見町、南牧村と山梨県大泉村(いまは北杜市)、
高根町(いまは北杜市)との境 JR中央本線茅野駅からバス、美
濃戸から歩いて4時間30分で赤岳(2899m) 2万5千地形
図「八ヶ岳西部」

−157−
第7章

 

………………………………………………………………………………………

 

■八ヶ岳・阿弥陀岳の石仏

 八ヶ岳・赤岳の西にある阿弥陀岳(2805m)は独立峰。その間
にある中岳はかつての中央火口丘で、中岳に面した両山の急斜面は
火口壁の跡だとされています。

 阿弥陀山頂には、20数基の石仏があってとくに阿弥陀像と大日
如来の石碑がよく目立ちます。ここも平安から鎌倉時代に開かれた
とされる、赤岳を中心とした山岳修行道場の一峰になっています。
修験道でいう前山が、御小屋山で、阿弥陀岳、赤岳は奥ノ院にあた
り、阿弥陀山頂に阿弥陀像、大日如来碑を祀るのもうなずけます。

−158−

――――――――――――――――――――――――

 もっとも山頂は、中世以前は聖なる地域で人の手は入らなかった
といい、現在建っている山頂の石仏は江戸時代後期のものだろうと
されています。

 前山である御小屋山は、一名御柱山といい、奇祭で知られる諏訪
大社の御柱祭の神木はここから切り出す。7年に一度、前宮、後宮
それぞれ四本ずつ8本を10数キロ離れた諏訪大社まで人力で運び
ます。そのためか諏訪大社上社、御小屋山、阿弥陀岳、赤岳は一直
線上にならんだ位置になっています。

 八ヶ岳の修験者は、江戸時代になると、立場川から南(権現岳や
西岳など)を道場とする集団と、北側(赤岳や阿弥陀岳)を道場と
する集団に分断しました。そのため明治以前まで、南側の集団はい
まのギボシを阿弥陀岳と呼んでいたといいます。

 阿弥陀岳のもう一つの尾根に南稜と呼ばれる立場山があり、狩猟
の際、勢子が獲物を谷のせばまった場所へ追い込み、それを待って
いた射手が射止めました。この射手や待ち伏せの場所を「たつば」
といい、山名はそれにちなんでいます。このあたりの谷にも初冬か
ら早春、牡鹿の角形の雪形が現れ、かつては山麓の農民はその角の
やせ具合(雪のとけ具合)で農作業の始めと終わりの時期を判断し
たといいます。

 ある年の3月、立場山から阿弥陀南陵を登った。最後の急登の末、
ひょことついた山頂。大日如来の仏像が顔だけ出して迎えてくれま
した。

・長野県茅野市と原村との境 JR中央本線茅野駅からバス、美濃戸
から歩いて5時間20分 2万5千分の1地形図「八ヶ岳西部」

−159−
第7章

 

………………………………………………………………………………………

 

■八ヶ岳・権現岳の槍

 多くの山の頂上に祠と一緒に剣や槍の穂先が建てられています。
これはかつて山伏たちが祭ったもので、たいがいは修験道だったと
ころ。権現岳は南八ヶ岳の南部、編笠山の北にどっしりと構え、比
較的訪れる人も少なく落ちついた山行のできる山です。

 権現岳の山頂にも槍の穂先が建っていて、信仰の山だったことが
分かります。さびついた穂先の下の所に「中近世修験道遺跡 此峰
昔薬師岳」の文字が読みとれます。権現岳は江戸中期から明治のア
タマくらいまでは薬師岳と呼ばれていたといいます。

もともとこのあたりは、赤岳を中心とした修験から分かれた山伏
たちが行を行ったところで、編笠山、西岳などをを前山に権現岳、
三ツ頭、ギボシを奥ノ院とし、権現岳を薬師岳、ギボシを阿弥陀岳、
西ギボシを虚空蔵岳と呼んでいました。この呼び名は長野県富士見
町に現存する古地図に記載されているといいます。あたりには修行
を行った滝や岩穴があり、不動清水、延命水、観音平などの地名も
残っています。

 そして修行者たちは奥ノ院の薬師岳の頂上に、「八の雷神(やく
さのいかづちがみ)」の権現社をまつりました。「八の雷神」とは大
雷(おおいかづち)、火雷(ほのいかづち)、黒雷(くろいかづち)、
析雷(さくいかづち)、若雷(わきかづち)、土雷(つちいかづち)、
鳴雷(なるいかづち)、伏雷(ふしいかづち)の雷神たちです。「古
事記」にある、火の神を産むため死んで黄泉国(よみのくに)に行
った伊弉冉尊(いざなみのみこと)の体から生まれた八雷神だとい
う。

−160−

――――――――――――――――――――――――

 明治10年代、内務省が地図を作成するとき、お上風を吹かし地
元に問い合わせることなく、当時の金持ち登山家が「また聞き」を
した山名をそのまま命名したため、地元民の聞いたことのない山が
出現。ここでも混乱したという。

 ちなみに権現とは仏や菩薩がこの世の生物を救うため、神という
仮(権)の姿で現れるという本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に基
づくもの。したがってここの本地仏は薬師如来ということになるの
でしょうか。

 キレット方面からの垂直な目もくらむような ハシゴを登り、権
現岳へついてみたら、その下方の小屋の屋根の上で、布団を干しな
がら小屋番がのんびりとねころがっていました。

・山梨県大泉村(いまは北杜市)と小淵沢町(いまは北杜市)、長
坂町(いまは北杜市)と長野県富士見町との境 JR小海線甲斐大
泉駅から歩いて6時間で権現岳 2万5千分の1地形図「八ヶ岳西部」

−161−
第7章

 

………………………………………………………………………………………

 

■北八つ・蓼科山頂の祠

 北八ヶ岳の最北に陣取る蓼科山(2530m)は、険しい南八ヶ
岳と対照的に女性的で、優しい落ちつける山です。その形から諏訪
富士とも呼ばれ、諏訪、佐久両方面からも特徴をつかめ、昔から交
通の道しるべになってきました。天文21(1548)年、武田勢
が信濃攻略のためにつくった道路・棒道も南西麓の峠を通っている
そうです。信玄も蓼科山を侵攻方向の目印にしたに違いありません。

 蓼科山の山頂には蓼科神社の奥社の祠が祀られています。里宮は
北佐久郡立科町芦田にあり、祭神は高産巣日神(たかみむすびのか
み)。ムスとは「苔ムス」のムスと同じで生成を意味し、ビは火や
日のことで宇宙の生成力を神格化した神だという。 しかし、18
75(明治8)年にいまの蓼科神社と改名する前は、高井大明神と
いう民衆に密着した地主神であったそうです。この神は8人の子供
があるところから八子王(八塩)権現とも飯盛神とも呼ばれていま
した。

 高井とは、高いところの井戸ということ。蓼科山に降った雨はい
ったん地にもぐり、ふもとの各所に泉としてわき出し、里をうるお
します。村人はこの恵みの水を与えてくれる山をあがめ、神格化し
て高井大明神と呼んでいました。

 蓼科山はかつては「立科山」と書かれ、ふもとの各地からの見え
る形により、おそなえ山、飯盛山などとも呼ばれていたそうです。

−162−

――――――――――――――――――――――――

 蓼科山にはこんな伝説があります。昔、山頂に大きな底も知れな
いような深い穴がありました。ある時、甲賀三郎が兄とその穴を見
に行ったという。兄は三郎に「おめえ、この綱につかまって中を見
てこう」。三郎が中にはいると兄は綱を切って三郎を落としてしま
いました。弟の嫁が欲しかったからの仕業だったそうです。

 三郎がどんどん奥へ入っていくと、明かりが見えてきました。上
に登ってみるとそこは浅間山でした。麓の村に降りると、三郎を見
た子供たちが逃げていきます。三郎の姿が竜になっていたのでした。
三郎はいま諏訪湖に棲んでいるという(「日本伝説大系」)。

・長野県立科町と茅野市との境 JR中央線間茅野駅からバス、新
湯入口から歩いて4時間30分で蓼科山(2530m) 2万5千
分の1地形図「蓼科山」

−163−
第7章

 

………………………………………………………………………………………

 

■箱根・富士山周辺・八ヶ岳の山 参考文献・ご協力

「富士山記」都良香(「群書類従」巻135・文筆部 所収)
「山中湖村の歴史と伝説」山中湖村教育委員会
「三ツ峠冊子」西桂町教育委員会
「甲斐国志」松平定能(まさ)編集。1814(文化11年)
「大日本地誌大系」(雄山閣出版)所収
「日本伝説大系」(全15巻別巻2)みずうみ書房
「聖徳太子絵伝詞書」(「日本架空伝承人名事典」平凡社 所収)
「角川日本地名大辞典・長野」角川書店
「大日本歴史地名大系・長野」平凡社
「信州山岳百科・2」信濃毎日新聞社

▼ご協力
山梨県山中湖教育委員会
山梨県西桂町教育委員会

−164−

(第7章 終わり)

………………………………………………………………………

第8章へ