第6章 大菩薩・奥秩父と茅ヶ岳の山々

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▼中 扉

【大菩薩・奥秩父と茅ヶ岳】 このページの目次
・大菩薩峠妙見菩薩と石丸峠
・黒川鶏冠山のにわとり大権現
・滝子山鎮西池の白縫神社
・飛竜山の飛竜神社
・笠取山の水神社
・十文字峠の観音さま
・国師ヶ岳天狗岩の鉄剣
・金峰山五丈岩と金桜神社
・乾徳山山頂の大権現
・黒金山西沢渓谷間の山の神
・茅ヶ岳の仙人
・大菩薩・奥秩父・茅ヶ岳の山 参考文献・ご協力

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■大菩薩峠妙見菩薩と石丸峠

 中里介山の小説「大菩薩峠」で、山より峠の方が有名になってし
まった「大菩薩」。江戸時代は峠をふくむ稜線を大菩薩嶺とし、嶺
を「タウゲ」とも呼び、当山を大菩薩峰といっていたという。「大
菩薩」の地名は、仏教の菩薩に大をつけたもの。明神をおおげさに
大明神というのと同じものだという。その由来に諸説あります。

 平安後期の「後三年の役」の時、奥州に向かった新羅三郎源義家
が、この峠越えで難儀をしているところへひとりの木こりが現れ、
一行を案内したあと姿を消しました。ふと見るとはるか笛吹川あた
りに八流の白幡がひるがえっています。「さては軍神であったか。
南無八幡大菩薩……」。「是ヨリ遂二嶺ノナトナルト云フ」(「甲斐国
志」)の説。

 またふもとの塩山市(いまは甲州市)上萩原の神戸神社(岩間明
神)の本地仏になっている観音菩薩という説。「中世仏法盛二行ナ
ハルゝ頃本地仏ノ観音ヲ山宮二安置セラレシヨリ大菩薩ノ名ヲ得タ
リ」(社伝)というもの。

 もうひとつに妙見菩薩説があります。かつて峠の北東丹波大菩薩
路に妙見様が祭られていたという。「峠二妙見大菩薩二社アリ一ハ
小菅ニ属シ一ハ萩原ニ属ス、萩原村ヨリ米穀ヲ小菅村ヘ送ルモノ此
ノ峠マデ持来リ妙見社ノ前ニ置テ帰ル小菅村ヨリ荷ヲ運ブ者峠二置
イテ彼ノ送ル所ノ荷物ヲ持帰ル此ノ間数日ヲ経ルトイエドモ盗ミ去
ル者ナシ」と「甲斐国志」に「荷渡シ場」のことが書かれています。

 妙見ノ頭にある突起は「石男根」で石丸峠付近にある石マラと関
係があるともいわれ、石丸峠は石マラ峠だという。

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 しかし小暮理太郎は「大菩薩連嶺瞥見」のなかで「石丸峠につい
ては疑がある。甲斐国志の編輯に際して(どんな伝説、雑談の類も
書き止めるようにとお触れにあり)若し陽物に似た岩があって……
峠道がその名で呼ばれているならば、決して書上に洩らす筈がない
……」と書いています。

 それに続いて「昔の人は素朴でありたとえ陽物の信仰であっても、
はばかるとは思えないとし、この信仰がいつごろはじまったか、な
お探求すべきだ」としています。

・山梨県塩山市と丹波山村との境 JR中央線塩山駅からバス、大
菩薩登山口から歩いて3時間40分で大菩薩嶺(2057m)2万
5千分の1地形図「大菩薩峠」

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第6章

 

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■黒川鶏冠山・にわとり大権現

 ニワトリのトサカのような鶏冠山(くろかわけいかんやま・17
16m)。同じトサカ山と呼ぶ山は、黒川鶏冠山の北西・甲武信岳
の南方に三富村(いまは山梨市)にもあります。こちも武田信玄の
隠し金山とされ、黒川千軒と同じように広瀬千家、新地平など似通
った地名がならんでいます。しかし、地元研究者は、ただ黒川鶏冠
山と混同して呼ばれたのだろうとにべもありません。

 戦国時代、武田家の軍資金を担った黒川金山。鶏冠山(黒川山)
の東麓・渓谷沿いにあった金山の採掘は、武田信虎の時代にはじま
り信玄のころが最盛期でした。甲州金の大半はここから搬出したと
いう。一時は塩山の於曽(おぞ)、熊野地区などに金山衆という役
人をおき、金山周辺は女郎などもはべる人家が建ちならび、黒川千
軒といわれるほど賑わったという。古書にも「黒川カツテ金ヲ出ス、
家一千アルベシ」と記してあります。

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 いまでも山中には寺屋敷、女郎ゴー、また柳沢川、一ノ瀬川合流
点付近にはおいらん淵などの地名が散在しています。1986(昭
和61)年から行われた発掘調査で、人の歯、石臼、キセルやかん
ざし、鉄砲玉、鉄鍋まで多数出土しています。

 黒川千軒のあった場所は山頂の東北東側の沢沿いで、上下に60
0m、幅の広い所では400mの地帯に300ヶ所の平地と20数
ヶ所の坑口があったという。

 黒川鶏冠山山頂は、岩峰でその上に黒川鶏冠神社の奥宮の祠が鎮
座しています。「日本地名大辞典」によれば、江戸後期の地誌に「昔
時黒川坑戸盛ンナリシ頃奉納セシト云ヒ伝ヘテ鶏冠山、神社ニ黄金
ノ鏡二面アリ裏ニ天正五丁丑年八月念四日ト刻セリ」とあり、産出
できなくなった金山の再興を祈り武田勝頼が奉納したものという。

 鶏冠神社の里宮は一之瀬高橋集落の鶏冠権現で祭神は山の神の元
蹄めである大山祇神(おおやまずみのかみ)。この集落は一之瀬川
沿いと高橋川沿いの集落を合わせ南沢と呼ばれ、一之瀬には黒川山
金鶏寺もあります。

 以前訪れた鶏冠山の奥宮はまだ真新しく中にはお札が一つ奉納し
てありました。以前建てられていた古い祠が崖の途中の木にひっか
かっていました。例の黄金鏡や、伝説が残る平安初期の銘のある鰐
口はどこかに保存されているのでしょうか。ポカポカした春の暖か
い日差しのなか、昼食をとったら動くのが億劫になりました。

・山梨県塩山市 JR中央本線塩山駅からバス、大菩薩登山口から
歩いて5時間30分で黒川鶏冠山(1716m) 2万5千分の1
地形図「柳沢峠」

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第6章

 

 

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■小金沢連嶺・滝子山鎮西池の白縫神社

 大菩薩嶺から小金沢山、黒岳、大谷ヶ丸と続く連嶺の最南端にあ
る滝子山(1590m)は、中央線初狩駅からでもよく目立ちます。
三つのピークをもち、3峰が連立しているので三ツ丸の名もあると
か。三角点は山頂の東直下にあります。山名は笹子付近から見ると、
急な崖が滝をつくっているかのように見えるので滝子山。また滝の
ある多くの沢を派生しているからとの説もあります。

 滝子山の北側直下には、鎮西ヶ池と呼ばれる水たまりほどの池が
あり、そばに白縫(しらぬい)神社があって、鳥居の向こうに賽銭
箱を前にした祠が建っています。

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鎮西といえば鎮西八郎為朝。父源為義の機嫌をそこね、九州に追
われたあの為朝。のちに保元の乱で父とともに戦ったが破れ、伊豆
大島に流罪になったという。

 その為朝が、伊豆に上陸、峰伝いにここまできたという伝説があ
ります。また一説には、伊豆の大島に流された為朝を慕って「九州
での妻」白縫姫が一子・為若を連れてはるばる訪ねてきて、ここに
庵を結び3ヶ月ほど住んだといわれています。

 ここでの生活物資は、西麓の田野から運んだとされ、「米背負の
辻」という所もあります。また付近には「御馬冷やし場」、「菜畑」
という名の場所も残っています。山中に3ヶ月くらしてから降りた
ところが東麓の恵能野(えのうの)というところ。山の不便さに比
べ「恵みよき野」といったとか、いわないとか。これがこの地名の
由来です。

 恵能野には為朝の末裔といわれる人もおり、為朝大神の祠があり、
白縫姫、為若などを祭ってあるという。当地では、滝子山を鎮西ヶ
山と呼び、為朝にちなむ故事も伝えています。

 のちに鎮西ヶ池から白縫姫か、その侍女のものらしい古鏡が出て
きたため大騒ぎになったという。干ばつの時などには、この鏡を水
に浸して雨乞いをするといいます。

 なお、平安後期の1170(嘉応2)年、為朝は朝廷の討伐軍と
戦ったのち、自害します。しかし、自害したのは為朝の身代わりだ
とする説があり、いろいろな為朝伝説を生んでいます。なかには八
丈島や琉球に渡ったとする説も根強く残っています。

・山梨県大月市 JR中央本線初狩駅から4時間10分で滝子山
(1590m) 2万5千分の1地形図「笹子」

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第6章

 

 

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■奥秩父飛竜山の飛竜神社

 奥秩父・笠取山から雲取山への尾根上にある飛竜山(2077
m)。といっても飛竜山頂へ行くには、雲取山からつづく縦走路わ
きにある飛竜権現の祠の前から北側に直登、ヤブの中を往復45分
くらいかかります。山頂には三等三角点があるだけで、展望はあり
ません。山頂付近にはシャクナゲの群落があります。開花は6月の
中旬。

 飛竜山への最初の登頂は、明治45(1912)年、田部重治、
中村清太郎だったという。

 縦走路わきの飛竜権現は文字どおり竜神で、雨をもたらす神です。
飛竜権現についてはこんな言い伝えがあります。その昔、ふもとの
山梨県丹波村の大屋の祠に、木彫りの飛竜の神のご神体が祭られて
いました。

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 しかし、村人のお供え物が少ないことから神さまがヘソ
を曲げてしまい、竜になって姿をあらわし雨や風をまきおこして暴
れまくり、付近の木々や草類を枯らしてしまったという。

 困った村人は、おそるおそるその竜のあとをつけて山中に入り、
暴れ疲れて大木の股で休んでいる飛竜神に三拝九拝して謝り、供物
を多くすることを約束、大木の根元に祠を建立、手厚く祭ったとい
う。その後は、飛竜の神もおとなしくなり、再び暴れることはなく
なったという。それがいまある社のもとだというのです。

 しかし、いま残っている伝説では、1804(文明12・戦国時
代の初め)年、小菅遠江守信景が建立したのだともいわれ、境内1
80坪(官有地)、祭神は大己貴神(おおなむちのかみ=大国主命)
ということになっています。

 いまの里宮は丹波山村字上岡道上にあり、建立者や年は同じ、境
内83坪(民有地)で、山宮には代表が、その他の人は里宮に参拝
したという。祭日は9月29日。この飛竜権現は、昔からかなり有
名な神社であったらしく、地誌にも数ヶ所にわたって記載がありま
す。

 ここ飛竜山は、甲州(山梨県)と武州(東京都、埼玉県)の国境
の山。甲州側では飛竜権現にちなんで飛竜山、武州側では秩父側の
谷間一帯を大洞というところから、大洞山と呼んでいたという。し
かし、三峰方面からはほとんど用事のない山で登る人もありません
でした。

 明治時代になり地図を作るため、陸地測量部が秩父側から人夫を
連れてこの山に測量に入りました。人夫が秩父側の人ですから、当
然山の名を大洞山と報告します。そこで陸地測量部は地図に大洞山
とつけてしまいました。のち、事情に気づき、三角点名称を「飛竜」
と訂正しましたが、そこはそれ頭の固い役人のこと、いまでも「大
洞」の名を別名に併用しています。

・山梨県丹波山村と埼玉県大滝村との境 JR青梅線奥多摩駅から
バス、丹波から歩いて4時間30分で飛竜山(2077m) 2万5
千分の1地形図「雲取山」

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第6章

 

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■奥秩父・笠取山の水神社の祠

 多摩川と荒川の水源として知られる奥秩父の笠取山(1953
m)。ここに降った一粒の雨。北側の埼玉県側に落ちればブドウ沢
に流れ込み、滝川を経て秩父湖から荒川をエンエン169キロもの
長旅をして東京湾にそそぎます。

 一方、南側の山梨県側に降ればミズヒ沢に落ち、一之瀬川から奥
多摩湖に流れ込み、多摩川河口まで138キロを流れ東京湾に至り
ます。

 山頂山梨県側南面標高1860m付近は水干(みずひ)と呼ばれ、
このあたりを東京都は水源林に指定しており、旧笠取小屋のかたわ
らには都の水道水源林の碑も建っています。

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 水干にはりっぱな石祠があって「水神社」の奥宮になっています。
1918(大正7)年、当時の東京市がここを多摩川の水源と定めて建
立したものだそうです。なるほど祠には東京青山のなにがしの銘があ
ります。いまでも干ばつの時には東京都水道局員が雨乞いに訪れると
も聞きます。

 水神は、水そのものがある場所により井戸神あるいは川の神、池
の神、泉の神などと名を変えるそうです。民間伝承での水神の正体
は、蛇体としたり河童、なかにはウナギだとするところもあるとい
うから面白いものです。また「日本書紀」では水神は弥都波能売神
(みづはのめのかみ)で、伊弉冉(いざなみ)神の尿(ゆまり)か
ら生まれた神とされ、名前は「水が走る」意味だとか。これは農地
のかんがい用引き水のことの表現したものではないかとの説もあり
ます。

 ちなみに笠取の名の由来は、山が笠を伏せたような形からついた
のだとも、また武州と甲州の両国の山林巡回の国境役人が、山頂で
笠を取って挨拶を交わしたからだとの伝承もあります。山梨県側で
は袴腰山とも呼びますが、南麓からみた感じが袴につける梯形の腰
板に似た山容に由来するといいます。

 静かな石祠付近は湿った岩肌のコケからしみ出る水滴が足下を濡
らしています。祠をスケッチしてからスケールで寸法を計ります。
岩に含んだ水分に耐えられなくなったのか、崩れる石の音がまわり
に響いていました。

・山梨県塩山市と埼玉県大滝村との境・JR中央本線塩山駅からバ
ス、新地平から3時間10分で笠取山(1953m) 2万5千分
の1地形図「雁坂峠」

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第6章

 

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■奥秩父・十文字峠の観音さま

 秩父三峠のひとつに数えられる十文字峠道(埼玉県側から長野県
側梓山)は、奥秩父を代表する原生美林。歩く心も清められます。
 奥秩父をこよなく愛した英文学者で登山家の田部重治は「秩父の

山々」の中で、「この峠はそれ自身の美を持っている。蜿蜒として
連なる峠道は、やがて幽邃(ゆうすい)なる樹木に蔽われ、峠の真
中頃は針葉樹林ふかく、林間には苔がぶくぶくしてあたりは掃き清
められたように綺麗である」と書いてあります。

 秩父地方から発掘された縄文時代のヤジリは、和田峠付近からと
れた黒曜石で、この峠を越してきたものという。また両ふもとの埼
玉県側と長野県側から、同じ型式の縄文土器が出土していることか
ら、その時代から歩かれていたことが証明されています。

 江戸時代になると、中山道の裏街道としてひんぱんに歩かれるよ
うになりました。江戸中期には富士山や丹沢大山(石尊社)、信州
の善光寺参り、また秩父の巡礼、三峰山参詣の人たちがたくさん通
るようになり、通行は賑やかだったと伝えています。三峰神社で使
う米、麦、味噌などはみな、佐久地方から峠を越えて運ばれたとも
いいます。

 江戸も末期の1864(元治元)年、旅人に安全を祈願して、道
標を兼ねた6体の観音石仏を建立されます。変化観音の馬頭観音を
含めた石像は、33町(3630m)の1里おきに置かれ、1体は
栃本の人が、5体は梓山の人が奉納したという。

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 これらの石仏はいまでも栃本側から一里観音、二里観音、三里観
音と呼ばれ親しまれています。ちなみに十文字峠通行人改帳には一
八六四(元治元)年、8月中の通行人は、309人だったと記され
ています。

 ある年の6月、金峰山から甲武信ヶ岳・十文字峠を通り栃本へ抜
けました。その途中、時間がハンパになり一里観音の前の整備され
た道にテントを張ったことがありました。まわりの笹やぶにはけも
の道がたくさん口を開けています。夕食をとっているとラジオが大
騒ぎをしています。それがあの松本サリン事件でした。

・埼玉県大滝村と長野県川上村との境、JR小海線信濃川上駅から
歩いて3時間30分で十文字峠 2万5千分の1地形図「居倉」

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■奥秩父・国師ヶ岳天狗岩の鉄剣

 奥秩父・大弛峠の東1キロに国師ヶ岳(2592m)という峰が
あります。そこから派生させる多くの尾根は、針葉樹林に深く覆わ
れ黒く続いています。国師ヶ岳とは山梨県側の呼称で、長野県側で
は東股沢の源頭にあるため東股沢山と呼んでいました。あまりに奥
深いため、奥仙丈岳や甲武信ヶ岳と混同されていた時代もあったと
いいます。

 山名は、南北朝から室町初期の臨済宗の僧夢窓国師(疎石)が、
山梨県塩山市(いまは甲州市)に恵林寺(えりんじ)を開山したと
き、村民が国師の徳を慕ってつけたのにはじまるとされています。
また、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の折り、武尊を案内
した山の神が、東国支配を命じられたことから国司(くにつかさ)
の山・国師ヶ岳の名がついたという説もあります。

 国師ヶ岳は、大岳山(だいだけさん)ともいいます。かつては木
曾の御嶽山などとともに神代の「三岳山」といわれ、大岳山権現が
祭られていたと聞きます。

 国師ヶ岳南東の天狗尾根の天狗岩は、山梨県三富村(いまは山梨
市)上釜口の大岳山那賀都(なかつ)神社の奥宮になっていて、岩
の上にはご神体として鉄剣が祭られています。岩はその名のように
天狗の横顔にそっくりです。

 大岳山那賀都神社の祭礼は、毎年4月18日。近郷からの参拝者
が多く、以前は精進湖北方の旧上一色村や中巨摩郡玉穂町から講を
組んで訪れました。

 昔は、神社から黒金山東方の牛首ノタル経由、アザミ沢、天狗尾
根への大岳参道があり、大勢の信仰登山があったといいます。

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 天狗、権現とならべば修験道に関係深い。神社の祭神は、今は大
山祇神(おおやまずみのかみ)ですが、かつては神仏混合だったら
しく、大岳山講の唱えごとのなかに「南無大岳那賀都の神社、大山
祇の神、大雷(おおいかずち)の神、高岡の神、六根清浄」とあり、
かつては神社で商売繁盛と養蚕の豊作を祈るお札を配ったそうで
す。

 縦走路へザックを置き、天狗岩へは国師ヶ岳東方から巨岩の間を
下ります。岩の間や木の根などにわずかな踏み跡がありますが、あ
まり歩かれていないのか、やぶでかなり荒れていて、木の枝に引っ
かかりスケッチブックはボロボロです。やっとたどり着いた天狗面
の大岩。それでもなんとか石碑の文字を書き写し、写真を撮り満足。
またやぶの中をはい上がったのでありました。

・山梨県三富村、牧丘町と長野県川上村との境 JR中央本線塩山
駅からタクシー、大弛峠から1時間50分で天狗岩 2万5千分の
1地形図「金峰山」

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第6章

 

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■奥秩父金峰山・五丈岩と祠

 遠くからでも目立つ金峰山(2599m)の五丈岩。その形が大
黒天像に似ているので、かつては御像石とも呼ばれていました。そ
の大岩北側には祠と、金峰山(きんぽうざん)神社と書かれた鳥居
が建っています。

 きんぷうではなく、きんぽうざん神社と読むのは、この山を長野
県川上村側ではきんぽうざんと呼ぶところからきています。これは
金峰山神社の奥宮で、里宮は川上村川端下(かわはげ)と秋山、梓
山の3地区にあり、それぞれの氏神になっています。

 金峰山は昔の農耕の神(雨乞い)の山として、民家の信仰厚く、
戦国時代には川端下にはお寺がたくさんあったといいます。

 江戸中期の儒学者荻生徂徠の「峡中紀行」に、山頂は黄金の地で
あり、西麓には金山(かなやま)という地区もあり、武田氏の時代
の金の採掘場所ともいうことから、金鉱にかかわる山なので金峰山
の名がついたとする説もあります。

 天文年間(1532〜55年)以降、川上村も武田氏の領有にな
りました。村内にも金山があって、ここでも武田信玄の命で採掘さ
れていたといわれます。その開発の状況は、もっぱら修験者によっ
て伝えられていますが、今は水晶の山地だったことのほうがよく知
られています。

 なお、先の川上村の3地区の金峰山神社の祭神は大国主命(大黒
天・大名牟遅命=おおなむちのみこと)だとされ、特に秋山のもの
は、須佐之男命(すさのおのみこと)と少名毘古那命(すくなひこ
なのみこと)も合祀しています。また江戸時代は両社ともに金峰山
座五大権現を祭ってあったといいます。

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 五丈岩のわきを南(山梨県側)にまわり込むと、ちょっとした広
場があり壊れかけた石祠と石灯篭が建っています。甲府市、山梨市、
牧丘町などにある金桜神社の山宮(本宮)ですがいまはすっかり荒
れ果てています。

 甲府市御岳町にある金桜神社の社伝では、はじめ五丈岩に少彦名
命(すくなひこなのみこと)をまつりましたが、のち日本武尊が須
差之男命(すさのおのみこと)と大己貴命(おおなむちのみこと)
を合祀し、社殿を広場に建立したのが山宮のはじまりとしています。
かつて山宮には金製の大黒天がまつられていましたが、慶応年間(1
865〜67)に盗難にあい、さらに放火され山宮は焼失していま
ったということです。

・山梨県甲府市と長野県川上村との境 JR中央本線塩山駅からタ
クシー、大弛峠から歩いて1時間45分で金峰山(2599m) 
2万5千分の1地形図「金峰山」

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■奥秩父・乾徳山頂の祠

 奥秩父前衛の乾徳山(2031m)は独立峰で、山頂部が大岩峰
からなり、大きな鎖につかまって登り降りするスリルに、にぎやか
な歓声があがります。岩のうしろからも山頂部へ出られ、山頂から
は360度の展望です。また登山途中、大平牧場の売店では新鮮な
牛乳も飲め、新緑、紅葉の季節に訪れる人も多い。

 ここはかつて南北朝時代の禅僧夢窓国師(むそうこくし)が、一
夏(いちげ)面壁し座禅を組んだところとして有名です。夢窓国師
(夢窓疎石)は伊勢に生まれ、4歳の時山梨県に移住。宇多(うだ)
源氏の出身で初め知曜(ちかく)といっていましたが、ある日、唐
の疎山(そざん)と石頭にあそぶ夢を見て「疎石」と改名します。

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 幼く仏門に入り、後醍醐天皇から国師の号を賜り、その後没後も
数々の号が追加され、のちには夢窓正覚心宗普済玄猷(しょうがく
しんしゅうふさいげんゆう)仏統大円国師という長い名の、俗に「七
朝(しちよう)の帝師」と呼ばれる臨済宗の僧になりました。

 夢窓国師は乾徳山で修行の後、塩山市(いまは甲州市)小屋敷に
乾徳山恵林寺(えりんじ)を創建。この寺の乾(いぬい・北西)の
方向にあり、また徳和地区内にあるところから乾と徳をとり、乾徳
山と名づけました。「甲斐国志」には「(乾徳山の)山ノ高キコト本
村ヨリ二里余、夢窓国師一夏面壁ノ地ナリ。国師後ニ恵林寺ヲ創メ
乾徳ヲ号トナス。ケダシ竜ノ乾徳ナリ。柚木ノ竜山庵ニ本ヅク。或
ハ恵林ノ乾位ニアタリ、徳和村(いまの三富村・いまは山梨市)ノ
域ナル故ニ乾徳ト名ヅクルトモ云フ」とあり、乾徳を天の主竜とも
解釈しています。

 また同書には国師とゆかりの座禅石をはじめ、硯石・枕立・手水
石・扇平・休息石など山中にある岩や地名も記されています。

 乾徳山から南東にのびる道満尾根があります。夢窓が一夏面壁の
時、授戒従侍した弟子に道満がいましたが、道満は、実はふもとの
徳和山吉祥寺の毘沙門天の権化だったという伝説が残っています。
尾根の名前はその道満にちなんでいます。

 山頂の石碑は乾徳山大権現をまつる奥宮で、徳和地区に鳥居と里
宮があります。この山も信仰の山で明治の中頃までは女性の入山は
禁止されていたということです。

・山梨県三富村(いまは山梨市) JR中央本線塩山駅からバス、
乾徳山登山口から歩いて5時間で乾徳山(2031m) 2万5千
分の1地形図「川浦」

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第6章

 

 

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■奥秩父・黒金山・西沢渓谷間の石碑

 夢窓国師が修行したという乾徳山から北へ黒金山を経由して、西
沢渓谷へ抜ける途中、2021mの標高点があるあたりに、「大山
祇神」の文字が刻まれた岩があります。

 これは麓の三富村(いまは山梨市)上釜口赤浦の大岳山那賀都神
社の祭神の名です。大山祇神(おおやまずみのかみ)は大山積神と
も書き、大山に住むとの意の山の神で、各地の山の神の総元締めで
す。もと富士山にまつられていましたが、いまは娘の木花咲耶姫に
その座を譲っているという。

 大岳山とは北西にそびえる国師ヶ岳の別名で、木曽の御嶽山、筑
後の神岳山とともに「神代の三岳山」といわれます(「コンサイス
日本山名辞典」)。国師ヶ岳は古くから大岳山那賀都神社の奥ノ院に
なっていて、はじめは山の近くの岩窟(天狗尾根の天狗岩のこと
か?)に祭られていましたが、のち上釜口に鎮座したと伝えられて
います。

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 大岳山那賀都神社は、商売繁盛と養蚕の神として庶民の信仰を集
め、かつては多くの大岳山信者が奥ノ院に登拝しました。大岳山神社の
社伝にも「国師ヶ岳奥宮ヘ七里余アリ」と記され、そのルートは里
宮の那賀都神社から赤ノ浦川に入り、北西にのびる大岳参道(いま
はピーク1439mから先は廃道になっている)を途中で青笹川か
ら上がる、青笹新道に合わせ牛首ノタルに出て西沢渓谷奥の不動小
屋を経て、谷沿いに天狗尾根に向かいました。いまのハイキングコース
はその参拝路を改修したものという。

 大山祇神の石碑はこの参道沿いに、参詣の安全を祈って建立した
ものか、あるいは女人禁制で女性はここまでは許されたのだとも考
えられます。那賀都神社の例祭は毎年4月の18日で、近郊から大
勢の参拝者が参集しました。

 大山祇神の石碑のまわりはシャクナゲの群落があり、登山道をア
ーチ状に覆っています。満開の花の下を香りにむせながら西沢渓谷
へ向かいました。もう10数年前の6月でした。

・山梨県三富村(いまは山梨市) JR中央本線塩山駅からバス、
西沢渓谷入口から3時間45分 2万5千分の1地形図「金峰山」

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第6章

 

 

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■茅ヶ岳の仙人

 『日本百名山』の著者深田久弥の終焉地として知られる茅ヶ岳。
昭和56年韮崎市の観光協会が南麓に深田記念公園をつくり、「百
ノ頂ニ 百ノ喜ビアリ」と久弥自筆の文字を刻んだ記念碑を建てま
した。茅ヶ岳は姿が八ヶ岳連峰に似ているので「ニセ八ツ」とも呼
ばれています。高原状に広がる裾野は長く、西麓一帯はもっとも日
照時間が長い地域といわれ、東大の宇宙線明野観測所もあります。

 茅ヶ岳は、北隣にある金ヶ岳と双耳峰になっていて韮崎方面から
見るとMの字形にも見えます。この茅ヶ岳、金ヶ岳にはそれぞれ孫
右衛門天狗、新左衛門仙人がすんでいるという。この山一帯は昔か
ら特別な山域と考えられていたらしく、いろいろな伝説があります。

 江戸時代中期の宝暦年間(1751〜64年)の古書に、怪人・
江草孫右衛門と金ヶ岳新左衛門の話が登場しますが、文化年間(1
804〜18年)になり地誌では孫左衛門と両方を統一しています。
しかし伝承のなかには茅ヶ岳の天狗を孫左衛門とするものもあって
紛らわしい。

 いずれにしても茅ヶ岳(または江草)孫右衛門天狗と金ヶ岳新左
衛門仙人がいることは確かです。

 孫右衛門天狗は、いまの群馬県の人。戦国時代、茅ヶ岳西麓の須
玉町江草地区に移住してきたが、人とうまくつきあえず世を捨てて
山籠もり(永世年間・1504〜21年)。それから200年も経
った正徳年間、江草の住人が山仕事中、うっかり孫右衛門の昼寝の
じゃまをして怒らせてしまい、すさまじい雷鳴と山鳴りに命からが
ら逃げ帰ったという。

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 一方、金ヶ岳新左衛門仙人は、いつのころからかこの山に住み、
すでに数百年間。飛行が自在で雨風、雷などを自由にあやつるとい
う。

 ただし、この二人は仲が悪く、金ヶ岳新左衛門仙人は「江草の孫
右衛門などはまだまだ未熟者」と相手にしなかったと伝えています
(「仙人の研究」)。

 茅ヶ岳と金ヶ岳では歩いて30分あまり。そんな「超過密」状態
では、いくら仙人・天狗の間でもストレスがたまってしまうのかも
知れません。

・山梨県須玉町と敷島町との境 JR中央本線韮崎駅からバス、穂
坂柳平から歩いて3時間30分 2万5千分の1地形図「茅ヶ岳」

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第6章

 

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■大菩薩・奥秩父と茅ヶ岳の山 参考文献・ご協力

「奥秩父の伝説と史話」太田巌(さきたま出版会)
「大菩薩嶺瞥見」小暮理太郎(「日本山岳風土記・3」宝文館所収)
「大菩薩連嶺」岩科小一郎著(朋文堂刊)(「あしなか249」所収)
「秩父の山々」田部重吉(「日本山岳風土記・3」 宝文館)
「秩父の日本狼」吉田浩堂(「日本山岳風土記・3」宝文館)
「甲州の伝説」土橋里木ほか(日本の伝説・10)角川書店
「御嶽山金桜神社」パンフ(御岳町金桜神社社務所)
「日本歴史地名大系・山梨」平凡社
「角川日本地名大辞典・山梨」角川書店

▼協力
長野県川上村教育委員会村誌編纂室
山梨県丹波山村教育委員会

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(第6章 終わり)

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