第5章 高尾・道志・丹沢の山々

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▼中 扉

【高尾・道志・丹沢】 このページの目次
・高尾山の天狗は烏天狗
・道志秋山の二十六夜山の月待ち行事碑
・御正体山と妙心上人のミイラ
・塔ノ岳のお塔尊仏岩・大山の天狗の親分伯耆坊
・丹沢不動ノ峰の不動さまと鬼ヶ岩
・檜洞丸の山の神
・蛭ヶ岳の御嶽大神と毘盧舎那仏
・菰釣山武田信玄のむしろ旗
・高尾・道志・丹沢の山 参考文献・ご協力

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■東京・高尾山の天狗は烏天狗

 東京都民に親しまれている高尾山(599m)。休日にでもなると
老若男女でにぎわいます。山頂の直下に、真言宗智山派別格本山薬
王院有喜寺があって、真言宗の関東三山(成田山新勝寺、川崎平間
寺)のひとつに数えられています。

 寺伝の縁起文によれば「聖武天皇の天平十六年(七四四)行基菩
薩勅命を奉じて開山せり」とあり、奈良時代、聖武天皇の勅願によ
り行基菩薩がみずから薬師如来を刻み諸人救済のため高尾山上に仏
像を安置したとされています。

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 その後600年たった、永和年間(1375〜79)京都醍醐寺
の僧・俊源大徳がこの山にきて中興開山、「醍醐山内無量寿院松橋
の法を伝えました。寺伝では「勇猛精進の師」などと呼ばれ、山中
の琵琶滝、蛇滝、かしぎ谷などで修行、夢で飯縄権現を感得し、そ
の像をまつって本尊とし、修験道の道場としました。

 これが高尾山修験道のはじまりで、俊源大徳から歴代の住職は三
十数世にもなり、その法流をいまに伝えているという。 

 この飯縄権現は、長野県の飯縄山の天狗・飯綱三郎の分家格です。
右手に宝剣、左手に索縄(さくじょう)をもち足にヘビをまきつけ、
白狐にまたがった荼吉尼天の姿。(高尾駅には鼻高天狗があるが本
尊は荼吉尼天)。

 参道にあるたこ杉は、樹高30m、樹齢推定300年という巨杉
ですが、根が盛りあがり、まるでタコ足のようです。その昔参道を
造るとき、この杉の根っこがじゃまになるというので、切ろうとし
たところ、一夜のうちに路上にのびていた根が山側に片寄っていた
という。これは天狗の仕業に違いないと、それからは天狗杉とも呼
ぶようになったという伝説が残っています。

 室町時代末期、日本画の狩野派三代の祖、狩野元信が、初めて鼻
の高い山伏姿の天狗を描きだして以来、あちらこちらの山の天狗が
みなこの大天狗に乗りかえたなかで、ここ高尾山や箱根大雄山など
の飯縄系の天狗だけは、昔のままのカラス天狗で通しています。

・東京都八王子市 京王高尾線高尾山口駅からケーブルカー、たか
おさんえきから45分で高尾山(599m) 2万5千分の1地形図
「与瀬」

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第5章

 

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■山梨県都留市・秋山二十六夜山の月待行事碑

かつて特定の月齢の夜、夕方から村人が集まり飲食をしながら月
の出を待つ、月待ちの講がありました。その月を拝むと幸運を得る
としています。よく道ばたに見かける月待ちの塔はこうした講中が
建立したものです。

 こうした講は、いまではすっかりすたれてしまいましたが、もと
もと日本にあった月崇拝の信仰が、仏教の伝来とともに習合したも
ので、平安時代から盛んになった行事だそうです。

その月待ちをそっくり山名にした山があります。山梨県道志の山
にあるふたつの二十六夜山で、『山名辞典』にも載っていない低山
ながら、静かな山歩きを楽しむ人たちにはなかなかの人気です。

 都留市の二十六夜山には角柱石碑が、秋山のそれには二十六夜塔
がそれぞれ建てられています。二十六夜の本尊は、災害よけ、縁結
びに霊験のある愛染(あいぜん)明王で、農家ではこれを信仰する
と作が良くできるとか願い事がかなうなどといいました。

 秋山二十六夜山の塔は、明治22年旧暦7月に建てられたもので、
その時の趣意書には、「藍膳明王(あいぜんみょうおう)ハ、万民
ノ諸悪災害ヲ防御シ且ツ養蚕ノ守護神ニシテ信シテ験アルハ弁ヲ俟
スシテ人ノ知ル処ナリ。而ルニ我国養蚕ハ日ニ月ニ盛大是全ク廾業
(きょうぎょう)ヲ等閑スルナカレト欲ス…毎年祭日旧三月九月二
十六日と定ム」と、浜沢側登山口の説明板にあり、養蚕の神になっ
ています。

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 二十六夜塔は、山頂へ3分ほど手前の広場にあり、東側が開けて
いる。村人はここに参集し、病気、災害よけと養蚕の豊作を願った
という。また下尾崎側登山口にも説明板があって、それには旧正月
と7月の26日の夜半に月の出を待つ…とあります。

 一方、都留市にある二十六夜山の石碑は山麓の法能集落の人たち
が造立したといい、嘉永7年7月26日の銘があります。

・山梨県秋山村 JR中央本線上野原駅からバス、浜沢から歩いて
2時間で秋山二十六夜山(972m) 2万5千分の1地形図「大室
山」

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第5章

 

 

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■道志・御正体山の妙心上人

 たいていの山では山の上に祠を建てて、山の神などを祭っていま
すが、中には山そのものが「御正体」として信仰の対象になってい
るものがあります。

 道志山地の最高峰、山梨県都留市の御正体山もそのひとつ。この
山はゴゼンノ丸とも呼ばれ、山頂には御正体権現を祭ってあり修験
の山・山伏の道場でした。

 当時は山中に寺院も建ててあって、明治の廃仏毀釈の時代までは
信仰登山でにぎわいましたが、いまではすっかりすたれ山頂近くに
峰宮跡が残っているだけです。

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 ここはかつては「ご聖人」と呼ばれる僧たちが修行した所で、三
代目のご聖人・妙心上人は、ソバ粉などを水でといたものを主食に
し、木食に似た修行の末、ついに即身成仏(「日本の民俗山梨」)し
ました。都留市東桂地区には上人の写真も載っています。

 そのミイラ(これも御正体といっている)は妙心上人の故郷・岐
阜県神原に安置されており、江戸期には、御正体山にまだ上人がこ
もった小屋が残っていたといいます。

 都留市側、北麓の登山口、細野集落では、秋に麦まきが終わって
も、長雨で発芽しないときには、村人が参道の草を山頂まで刈って
いき頂上の権現さまにはお神酒を供える「お苅分け」の行事があっ
たといいます。そして天気の回復を祈願し下山。村に帰るころには
晴れるとの言い伝えがあります。

 また南西麓の忍野村内野にある天狗社は、「古くは宇天神木に祭
祀されていたが、寛文年中(1661〜1673年)に現在地に移
転しました。その後、美(御)正体権現を勧請併祀し、御正体山下
の宮と称した」と社伝にあります。

 明治初年の身仏分離令で、国譲りの神話で建御名方神(たけみな
かたがみ)と力くらべをしたという建御雷之男神(たけみかづちの
おのかみ)を祭神と定めましたが、戦後、次第に従来の天狗信仰が
よみがってきているといい、正面入口に新しい大天花面が、その両
わきには年代物の二つの天狗面が飾られています。

・山梨県都留市 富士急行都留市駅からバス、細野から3時間20
分で御正体山(1682m) 2万5千分の1地形図「御正体山」

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第5章

 

 

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■丹沢・塔ノ岳の尊仏岩

 丹沢の銀座・塔ノ岳。山の名前が塔ノ岳でそこある小屋の名前が
尊仏山荘。これは昔、山頂の北側にあった「お塔」とか「尊仏岩」
と呼ばれた大岩にちなんだものだという。

 尊仏とは拘留孫仏(くるそんぶつ)のこと。尊仏岩は高さ15、
6mもあり、修行僧が座禅する姿、または仏像の形にも似ていたい
う。しかし、1923年の関東大震災の翌年の1月15日、再び起
こった地震にもろくも、コナゴナになって北西側の大金沢にくずれ
落ちたという。いまは岩の根元だけが残って、その上に苔むした首
のない2体の石仏と「尊佛」と彫られた石碑が残っているだけです。

 拘留孫仏は過去七仏のひとつ。悟りを得て仏陀になったのはお釈
迦さまを含め、過去に7人いたとする説で、拘留孫はその第4の仏
陀なのだといいます。仏教では過去、現在、未来の3つの住劫(じ
ゅうこう)に、それぞれ一千仏の出世ありとしているそうですが、
拘留孫仏は現在の住劫(賢劫)に出現する一千仏の第一仏だという。
ちなみにお釈迦さまは第四仏だとものの本に書いてありました。

 尊仏岩は、五穀豊饒の神でもあった。5月15日のお祭りには、
近郊の農民が作物の種やもみをもって登り、尊仏岩に供え、お互い
に交換し合ったという。また塔の下の土を掘りだし、自分の田畑に
まいて豊作を祈願しました。岩に生えたコケは薬にもしたといいま
す。

 また、祭りには賭博も行われ、昭和20年代まで近隣の村人がそ
れぞれの登山道から参集。警察も大目に見たのか登山口で引き
返したと聞きます。

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 この岩には雷神が住むともいわれ、ひでりの年には雨乞いとして
岩の穴に棒を差し込み突っついたという。中に住んでいる雷神を怒
らせ、雨を降らせようというあんばいです。

 何年か前の春、尊仏山荘で「山のイラストはがき通信」の個展を
開かせてもらったことがありました。訪れた尊仏岩には、かれんな
コイワザクラがびっしりと咲き誇っていました。

・神奈川県秦野市と山北町、清川村との境 小田急線渋沢駅からバ
ス、大倉から歩いて3時間30分で塔ノ岳(1491m) 2万5千
分の1地形図「大山」

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第5章

 

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■丹沢大山の天狗伯耆坊

石尊大権現の山として有名な丹沢・相模大山は信仰の山。近県は
おろか遠く長野県姥捨あたりまで石尊碑があります。

霊亀2(716)年、行基菩薩が関東に来たり国分寺や日向薬師
を造立後、大山をも開山しようとしたが果たせなかった。降って天
平勝宝4(752)年、奈良東大寺の法師だった良弁が48歳の時、
出身地の相模国由伊郷に帰り故郷を巡礼し、石尊山の信仰が近郊諸
国に浸透しているのを知り、大山に登山。伽藍、僧堂など建立、雨
降山大山寺と号し、本社を石尊社としました。

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 二世光増和尚の時代になり、不動明王の像を刻み本堂の本尊とし
てまつりました。第三世は弘法大師(真言宗)で、石尊に権現の称
号がついたのもこのころからだという。第五世安然和尚(天台宗)
が、大地震で荒廃していた当山を中興しました。

 大山石尊碑に必ずあるのが大天狗、小天狗の文字。参道の土産物
屋にならぶ天狗の面、阿夫利神社下社わきの天狗碑などで分かるよ
うに、天狗たちの山としても知られています。

その大親分が「相模大山伯耆坊(ほうきぼう)」という大天狗で
す。愛宕山太郎坊、鞍馬山僧正坊(そうじょうぼう)などとならん
で、八天狗にも名を連ねる大物なのだそうです。名前が「伯耆坊」
なのは、もと伯耆大山(ほうきだいせん)に住んでいたからです。
ここ丹沢の相模大山には、はじめ「相模坊」という別の天狗がいま
したが平安末期、香川県の白峰山に移住したのだそうです。

 その白峰に配流された崇徳院(すとくいん)を、毎晩のように慰
めに行ったのはこの伯耆坊だという説もあります。

 その伯耆坊天狗の祠が大山寺わきにあります。天狗大神の石碑も
建てられていて、その石碑に彫ってある文字から昔は大神講もあっ
たらしい。

 大山寺は、もともと下社のところにありましたが、明治の廃仏棄
釈の時解体され、現在の八丁下に移転しました。それから何年か経
て、忘れられていた伯耆坊の祠が下社わきの草むらの中で朽ち果て
ているのが見つかり、やむなく礎石のみを使用して、昔と同じ形大
きさで再建したのが、現在の祠なのだそうです。

・神奈川県伊勢原市 小田急伊勢原駅からバス 大山ケーブル不動
前 2万5千分の1地形図「大山」

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■丹沢・不動の峰の不動さま

 丹沢山から蛭ヶ岳へ向かう途中、ササ原の中を歩き休憩所を過ぎ
たピークに不動の峰(1614m)があります。休憩所の建物のわき
に不動像がまつってありますがいまではすっかり風化して、わずか
に形をとどめています。

 かつて丹沢で修験道が盛んだったころ、大山と日向薬師に拠点を
置いた大山修験のうち、伊勢原の日向薬師の山伏たちは、修行のた
め宮ヶ瀬から早戸川をさかのぼり、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)
をまつる蛭ヶ岳をめざしたという。毘盧舎那仏は修験道の本尊・大
日如来の異名なのだそうです。

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 早戸川の源流大滝沢には、早戸大滝があって峰入りをする山伏た
ちは滝つぼの水でみそぎをしました。滝は昔から神聖視され、よく
大日如来の教令輪身である不動尊をまつります。みそぎを終えた山
伏たちはここから沢をつめて登りついた山頂もまた聖地です。区切
りとしての地点であるこのピークにも不動尊をまつったにちがいあ
りません。

 昭和38年ころ、日向薬師常連坊から見つかった「峰中記略控」
という古文書によれば「是ヨリ峰ニ登リ、神前ノ平地ナリ。此所ニ
不動尊有リ、此ニ一宿ス」とあり、日向薬師から蛭ヶ岳への峰中修
行の途中、不動ノ峰は宿泊の場所だったらしいことが分かります。

 また、以前は不動ノ峰の山頂に、二つの石祠があったと伝え、そ
の跡は1坪くらいの平地になっていて、夏になってもなぜか草も生
えなかったという。平地は最近まで残っていたというが、それは鹿
の砂遊び場だったとの説もあると、植木知司氏が「かながわの山」
の中で書いておられます。

 不動ノ峰を過ぎたところに鬼ヶ岩があり、昔はかなりな難所だっ
たそうです。蛭ヶ岳から見るとたしかに2本の角が生えた鬼に見え
ます。修験者たちはこの難所を「仙人の岩」と呼んであがめたとい
う。

 休憩所のまわりは明るい草地で、かつてはテント場としてよく利
用されましたが、北側の最近水場が涸れることが多いのが残念です。

・神奈川県津久井町と山北町との境 小田急渋沢駅からバス、大倉
から歩いて5時間で不動の峰(1614m) 2万5千分の1地形図
「大山」

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■丹沢・檜洞丸の祠

 西丹沢にどっしりと落ちついた山容を誇る檜洞丸(1601m)。
山頂は広場になっていて、直下に青ヶ岳山荘があります。ブナの原
生林におおわれ、展望はききませんが、木道の上から美しいバイケ
イソウやマルバダケブキの群落が目を楽しませてくれ、季節にはツ
ツジの花も美しく咲いてくれます。

 この貫禄ある檜洞丸山頂にも石の祠がありさい銭や日本酒のワン
カップが供えられています。祠の中には石仏のような穏やかな石神
が鎮座し、大山祗神(おおやまずみのかみ)を主祭神に猿田彦神、
大己貴神(おおなむちのかみ・大国主命)をまつります。

 そもそも昔から檜洞丸山頂には、山伏が建てたものか、祠がひと
つあったという。いつの時代か山頂清掃の時、偶然に朽ちたその祠
が発見され新しく建てかえられたという。

 その後、毎年5月の最終日曜日に行われる、西丹沢の開山祭の安
全登山の祈願場所として、1972(昭和47)年にいまの祠を建
立しました。かつては開山祭は檜洞丸の山頂で開催され、松田総領
にある寒田神社の宮司が登山し、祠の前で祝詞をあげていました。

 そのため、この祠の裏に寒田神社の銘が彫ってはありますが、寒
田神社の奥ノ院ではないと宮司がが電話で答えてくれました。開山
祭の儀式はいまはバスの終点で、登山口でもある西丹沢自然教室の
前で行っています。

 この祠の主祭神・大山祗神は、各地の神道の山の神の総元締めに
なっています。大きな山に住(祗)む神の意味で、富士山に祭られ
る木花咲耶姫の父親にあたります。

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 そういえば、丹沢大山の阿夫利神社の主祭神は大山祗神になって
います。石祠が東(大山方面)を向いているのはそれを気づかっての
ことと思われるのは考え過ぎでしょうか。時々大山阿夫利神社の木
札も供えられています。

 もう20年近く前になるでしょうか、主稜をカモシカ山行で檜洞
丸を訪れたとき、ちょうど檜洞丸の肩にある青ヶ岳山荘で餅つきを
していました。きょうが開山祭とは気がつかなかったのですが、ち
ょうど通りかかり、餅を一臼突くのを手伝い雑煮にありついたこと
がありました。

・神奈川県山北町と津久井町の境 小田急新松田駅からバス、西丹
沢から歩いて3時間で檜洞丸(1601m) 2万5千分の1地形図
「中川」

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■丹沢・蛭ヶ岳の祠

 丹沢山塊最高峰の蛭ヶ岳(1673m)。ヒルという名前につい
て、やはりいろいろな説がカンカンガクガク、諸説フンプンとして
います。毒虫のヒルがいるとの説。ノビルなど植物のヒル類からの
説。山の形がお坊さんのかぶる毘廬帽(びるぼう)に似ているとい
う説。また山伏たちが本尊と仰ぐ大日如来の異名である(表尾根に
木ノ又大日、新大日が祭られてあるので重複をさけた)毘盧舎那仏
(びるしゃなぶつ)をまつってあるからなどの説があります。

 しかし蛭ヶ岳でヤマヒルに血を吸われるという被害は聞いたこと
がないし、植物のヒル類もきわだつほどでもありません。そんなこ
んなで宇宙仏といわれる毘留舎那仏説が有力になっているそうで
す。そういえば、地元の古老が子供のころは「ピルヶ岳」と呼んで
いたとなにかの本で読んことがありましたが、毘留ヶ岳がなまった
ものでしょうか。

 その昔、山伏たちが大山から表尾根を経て次第に奥山へ修行の場
を広げていきました。そして峰々の奥にある最高峰の蛭ヶ岳に修験
道の本尊である大日如来をまつろうとしました。しかし、すでに表
尾根の木の又大日峰に大日如来がまつられてあります。そこで密教
での大日如来の異名の毘留舎那仏を置き、毘留ヶ岳と命名したので
はないかという。

 また、ここは昔は薬師岳とも呼ばれ、かつては石の薬師如来像を
祭ってあり、そこには武州の国多摩郡柚木大沢の竹内富造という人
の寄進した薬師仏の石像などもならんでいたという。当時は玄倉や
鳥屋集落方面から信仰登山が行われていたという。

 その石像は誰かのイタズラか、それとも持ち去られたのか、いま
は残っていませんが、初代日本山岳会会長だった武田久吉博士(植
物学者)が撮影した石仏の写真が残っています。

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 現在、山小屋の前にあるの祠は、木曽の御嶽山から御嶽大神の分
霊を勧請し、山の繁盛、登山者の安全を願い、1931(昭和6)
年御嶽山行者松島雅山が祭祀したものです。

 そういえば祠のわきに「御嶽山、八海山大神、三笠山大神」など
の碑とともに御嶽講形照る霊神碑も建っています。 

・神奈川県山北町と津久井町との境 小田急渋沢駅からバス、大倉
から歩いて6時間30分で蛭ヶ岳(1673m) 2万5千分の1
地形図「大山」

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第5章

 

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■西丹沢・菰釣山のむしろばた

 菰釣山(1379m)は西丹沢の奥まった場所にあり、訪れる人
も少なく比較的静かな山。神奈川・山梨県境で東海道自然歩道が通
っているせいか、避難小屋や登山道も整備されています。

 ブナの大木が多く、以前はこの木につく大きなサルノコシカケが
みごとでしたが、これがガンに効くとか健康によいといわれ、大山
の土産物屋でも売っているほど。誰かに採取されたのか最近はすっ
かり見かけなくなってしまいました。

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 避難小屋から山頂に登ってくると、一歩一歩進むごとにブナ林の
なかに富士山が頭をもたげます。ここからの富士山も見事です。三
角点は山頂の南に降ったヤブの中にあります。菰釣山は相州(神奈
川県)側の呼称で、甲州(山梨県側)ではブナの丸とか大丸尾と呼
ぶという。江戸時代の甲斐国四郡の地誌「甲斐国志」には入会山の
名で出ています。

 この山にも伝説があります。戦国期、武田信玄が小田原城を攻め
た時、進軍の信号旗やのろしのかわりにこの山に菰を吊るし、むし
ろばたで味方の軍に合図したという。山の名はそれに由来するとい
う。

 また山村では山は木材伐採や炭焼き仕事など生活に密着した入会
の場。西丹沢に連なる峰々の相州・甲州の国境尾根の所有権争いは
1000年にも及びました。天保12(1841)年の国境争いで
は、甲州平野村の名主・長田勝之進が幕府に告訴して、その期間菰
を吊るして山頂にこもって生活したという。

 裁判の結果は平野側が敗訴、その時現在の県境が決定しました。
この山は四季を通じ、雲や霧に覆われがちなことから雲吊山がなま
ったとする説もあります。

 昔のガイドでは、山頂から三角点を通り、織戸峠(おりどとうげ)
へ出る道がありました。それを一歩進めて岳友の鈴木盛彦氏と椿丸
から尾根沿いに丹沢湖に近い浅瀬橋へ抜けるルートを歩きました。
驚いたことに椿丸が丸坊主になっていました。造成を進めている法
行沢林道がすぐ下まできています。林道造りが問題になっている丹
沢で、せめてもの救いだった西丹沢の原生林にも開発の波は押し寄
せています。

・神奈川県山北町と山梨県道志村との境 小田急新松田駅からバ
ス、西丹沢から畦ヶ丸経由で6時間20分で菰釣山(1379m)
 2万5千分の1地形図「御正体山」

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第5章

 

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■高尾・道志・丹沢の山 参考文献・ご協力

・「道志七里」伊藤堅吉(山梨県道志村役場)
・「尊仏」1号(さがみの会)
・「尊仏」2号(さがみの会)
・「塔ノ岳の今昔」山岸猛男(「ときわ木」所収)昭和55年7月1日
・「丹沢夜話」ハンス・シュトルテ(有隣堂)平成2年12月25日
・「丹沢の五月十五日」山岸猛男
・「丹沢の絵本」池原昭治
・「高尾山の山岳信仰」山本秀順(「山岳宗教史研究叢書・8」所収)名著出版
・「かながわの山」植木知司(神奈川合同出版)昭和56年4月
・「大山信仰と講社」沼野嘉彦(「山岳宗教史研究叢書・8」所収)名著出版
・「丹沢・桂秋山域の山の神々」佐藤芝明(中央公論事業出版)
・「新編相模風土記稿・1」(大日本地誌大系)雄山閣

▼ご協力
丹沢塔ノ岳・尊仏山荘
さがみの会・栗原祥氏

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(第5章 終わり)

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