第4章 秩父奥武蔵・奥多摩・房総の山々

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▼中 扉

【秩父奥武蔵・奥多摩・房総】 このページの目次
・秩父御岳山と普寛行者
・奥武蔵妻坂峠の一里観音
・奥武蔵子の権現の子の聖と妖怪たち
・奥多摩石尾根七ツ石の将門伝説
・大岳山の大岳神社のオオカミ狛犬
・御岳山奥の院の桜坊天狗
・三頭山の三頭御前
・房総高宕山と源頼朝伝説
・房総伊予ヶ岳、富山伏せ姫の籠穴
・秩父・奥武蔵・奥多摩の山 参考文献・ご協力

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■秩父御岳山の祠と普寛行者

 埼玉県秩父地方にある秩父御岳山(1080m)は、標高は低いが
ハイキングに手ごろの山で、中高年の登山ブームもあっていつもに
ぎやかです。頂上祠のわきの釣り鐘の音がよく響きます。祠は南麓
の落合集落の普寛(ふかん)神社の奥ノ院になっていて、江戸中期
の修験者・普寛行者を祀ってあります。

 普寛行者はあちこちの山で耳にする名で、長野県木曽の御嶽山の
王滝口を開いた人としても知られ、木曽御嶽山を霊山とあがめる「御
嶽教」の教祖でもあり、高山植物のコマクサからつくる腹痛の霊薬
「木曽百草」の創始者でもあります。

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 霊薬といえば、いまは亡き私の祖母も御嶽教の信奉者で、よく御
嶽山に登り木曽百草を常備薬にしていました。「腹が痛てぇ」とい
えばすぐ「お百草」を飲め」と真っ黒な塊を削りはじめます。それ
がまたはらわたが飛び出るような苦いもの。見ただけで「なおった、
なおった」と逃げ出したものでした。

 普寛行者は、秩父御岳山のふもと大滝村落合の生まれで、幼名を
木村好八丸といい、三峰山に登って剣道の修行をしていました。3
0歳で江戸に出て八丁堀同心浅見家に婿入りし浅見好八と名のりま
した。

 好八は浅草観音や上野の寛永寺からの途中霊感を得て、修験者に
なることを決意、伯父の修験者法性院伯忍のもとで出家して修験道
を修行しました。

 その後、ふたたび故郷の三峰山に帰り、日照僧正のもとで天台密
教の奥義をきわめ、名を正本山本明院普寛と改めます。

 その後、「日本六十余州」の遍歴を思い立ち、三峯山の奥ノ院を
はじめとし、武甲山、上州武尊山、越後八海山、木曽御嶽山王滝口、
三笠山、筑波山、羽黒山、戸隠山、立山、白山、阿蘇山、国見岳、
桜島にまで足を伸ばしたという。

 こうして全国の霊山を巡歴、ついに52歳の時伝燈大阿闍梨(あ
じゃり)にまで登りつめたという。こうして普寛行者は1801(享
和元)年に入寂するまで、江戸、武州、上州などを周遊、法話など
をしたという。

・埼玉県大滝村と両神村との境 秩父鉄道三峰口からバス、落合か
ら歩いて2時間で秩父御岳山(1080m) 2万5千分の1地形図
「三峰」

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第4章

 

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■奥武蔵・妻坂峠の一里観音

 埼玉県の西部、武蔵野の西方(武蔵野の奥)をさす言葉だという
奥武蔵。同県横瀬町と名栗村との境にある妻坂峠は武甲山の南東に
あり、大昔から秩父から江戸や鎌倉への重要な道筋でした。

 鎌倉時代の初め、源頼朝の妻政子の父・北条時政は、後妻の牧の
方の娘婿・平賀朝雅を将軍にたてようと画策しました。

 その陰謀に巻き込まれた秩父の庄司(荘園の管理人)・畠山重忠
が、息子が時政に殺された鎌倉に遠征のとき妻を峠まで見送らせ名
残を惜しんだのが妻坂峠の名の由来と伝える。山麓には「名残惜し
いや妻坂峠……」という里謡が残っています。

 峠名はそのほか、旅の夫婦がここにさしかかったところ、突然夫
がいなくなってしまった。妻があわてて探し回ったがどうしても見
つからない。悲しみの末、とうとう妻は鳥になってしまったという。
今でもこの辺りで「オットット−、オットットー」と鳴く鳥は、旅
人の妻が夫を捜している姿などだという伝説もあります。

 また、室町末期、1572(元亀3)年小田原北条氏を攻撃した
上杉謙信が、飯能からふもとの名栗川側を越えて出陣。この峠「都
魔坂(つまさか)」を通りそばの大持山に陣取ったとの記録(鉢形
(はちがた)城、今の寄居町の北条市邦の同年三月五日の印判状写)
もあります。(「角川日本地名大辞典」)。詩人であり評論家の大町桂
月や若山牧水なども通ったといい、織物として有名な「秩父銘仙」
を江戸まで売りに、商人たちが越えた峠だといいます。

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 ここは今中高年のハイキングに絶好の場所。ポツンと立っている
お地蔵さんの周りには、なん組ものパーティがくつろいでいいます。
お地蔵さんには「武(州?)妻坂奉造□之□の文字が読めます。1
747(延享4)年の建立で、「秩父郡名栗邑(むら)山中村」と
彫られているから江戸中期のものです。スケールで大きさを計って
いたら 何人ものハイカーが話しかけてきました。

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■奥武蔵・伊豆ヶ岳・子ノ権現の伝説

 スリルのある鎖場があり、にぎやかな声が聞こえる奥武蔵の伊豆
ヶ岳(851m)。ここは、子の権現の奥の院になっており、かつて
は本堂・霊堂・庫裏・宝蔵などがならんで建っていたという。また
山頂の岩上には「知恵、学徳、福徳」に霊験ある虚空蔵菩薩や大日
如来、山の神である大山祇(おおやまずみ)の三体がまつられてた
そうです。村人はその神仏のなかでもいちばん有名で信仰が篤かっ
た仏の名をとり、伊豆ヶ岳を「虚空蔵岳」とも呼んでいました。

 伊豆ヶ岳という名は昔、山頂に大きなユズの木があり、ユズヶ岳
といっていたのがユがイに変わったという説、西側山麓の湯ノ沢地
区を流れる沢の小さな池はかつて温泉が湧いたというので湯津(ゆ
づ)ヶ岳説、山の形「突峰」の意味でアイヌ語の「イズ」説。また
晴れた日には遠く静岡県の伊豆の山々が見えるから(実際には丹沢
の檜洞丸付近がじゃまになって見えないという)などさまざまな由
来説があります。

 伊豆ヶ岳を奥の院にしている「子(ね)の権現」。平安時代のは
じめ、紀伊の国の阿字長者の阿字女という処女が、神から剣を口の
中に突き通された夢を見て懐妊し、子(ね)の年(天長九年)、子
(ね)の月の子(ね)の日、子(ね)の刻に出産。これが子(ね)
の聖(ひじり)でのちに、ここ子(ね)の山に子(ね)の権現を開
山したと、寺の縁起は「子づくし」を伝えています。

 それによると、子の聖は、長ずるにあたり各地を遊行していまし
たが、自らの終焉の聖地を求め、東北羽黒山から「般若経」を投げ
たところ、奥武蔵の「子の山」に落ちました。聖は、お経の放つ「聖
光」をもとめてこの地を訪れ十一面観音をまつり、堂宇を創建しよ
うとしました。

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 あわてたのはここに巣をくう悪魔ども、聖(ひじり)を殺そうと
山に火をつけました。さいわい神威で聖は助かったものの、下半身
に大やけどを負ったが霊力により治癒したという。「我登山のおり、
魔火のため腰と足を痛めることあり。故に腰より下を痛めるもの、
一心に祈らばその験を得さしめん」と誓いをたて、いまでも子ノ権
現は足腰の守り神になっています。

・埼玉県飯能市と横瀬町との境 西武秩父線正丸駅から1時間30
分伊豆ヶ岳、2時間20分子の権現 2万5千分の1地形図「正丸
峠」

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第4章

 

 

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■奥多摩・石尾根七ツ石山の伝説

 東京でいちばん標高の高い雲取山。そこから東南にのびる石尾
根上に、ご存じ「七ツ石山」があります。七ツ石山というだけあっ
て、たしかに大きな岩が、大ざっぱに数えて七つ立っています。

この岩が、将門七部将の化身だという。承平・天慶の乱で、藤原
秀郷(ふじわらのひでさと)らの連合軍に追われた平将門は、ここ
七ツ石山に陣取ります。そして、ひそかに6人の影武者をわら人形
でつくり、そのまん中に立ち、「さあ、どこからでも射てみよ!」。

追手の秀郷が矢を射ようにも、同じような将門がズラーッとなら
んでいます。どれが本物か分かりません。その時、「口から白いも
のがたなびくのが本物なり」という成田不動(千葉県成田市)のお
告げがあったという。

秀郷のはなった矢は、誤たず本物の将門に命中。とたんに7人の
武者は石になったという。山頂直下にある七ツ石神社は将門を祭り、
かつては勝負師の神として、各地から親分衆がおまいりに参集した
ということです。

 石尾根をもう少し下った鷹ノ巣山東方に城山があり、となりには
将門の馬場があります。六ツ石山を越え、さらに東の三ノ木戸山は、
将門が築いた城(城地区)の三ノ木戸のあったところ(三ノ木戸地
区)だともいいます。

 山梨県側の丹波山村、小菅村には将門が京都から敗退した将門と
その一族が落ちのびてきた時の説話によって交錯しています(「奥
多摩風土記」大館勇吉著 武蔵野郷土史研究会)。

 石尾根に限らず、奥多摩には将門にちなんだ地名が多く散在しま
す。将門神社も棚沢、峰畑、城地区にあり、とくに棚沢には「将門」
という地名まであります。

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 また将門が秀郷・貞盛の追討軍に討たれたとき、その子で2歳だ
った良門が生母と共に秩父の山中に隠れ、成人後奥多摩に移住し、
繁栄してから亡父を棚沢神社に祭ったという伝説もあります。その
ために、明治末ごろまで、棚沢神社の祭りには利益に預かろうと秩
父側からも参詣者があったといいます。

 また日の出町岩井の勝峰山は、藤原秀郷との古戦場とも伝え、将
門の名のついた坂や沢もあります。

・東京都奥多摩町 JR青梅線奥多摩町からバス雲取山登山口、さ
らに歩いて3時間15分七ツ石(1757m) 2万5千分の1地形
図「丹波」

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第4章

 

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■奥多摩・大岳山の神社

 奥多摩の大岳山(1266m)は神官の冠の形に似た山容でよく目
立ちます。古書にも「両総地方(千葉県)ニテ武蔵ノ鍋冠山ト称シ、
海路ノ目標トナス」とあり、かつては東京湾の漁船の目じるし(あ
て)になっていたといいます。

 大岳山は、奈良の金峰山(きんぷせん)と大峯山の関係に似て、
御岳山とは一対の山。御岳山の奥のもう一つの霊山で、その直下に
大岳神社を祭ります。

 大岳神社は御岳神社とともに、747(天平19)年に行基が吉
野金峰山の神影を写したという蔵王権現を祭り、御岳神社の奥ノ院
とし、吉野の霊場のコピーを作ったといわれています。

 御岳神社は、平安時代の「延喜式神名帳」には大麻止乃豆乃天神
社(おおまとのつのあまつかみやしろ)として記載され櫛真知命(く
しまちのみこと)を祭神に、大己貴命(おおなむちのみこと)、少
彦名命(すくなひこなのみこと)を相殿(あいどの)にしています。
しかし、中世以降修験道が盛んになるにつれ、御岳神社は御岳蔵王
権現、武州金峰山などと呼ばれ、吉野の金峰山(かねのみたけ)が
御岳山なら大峰山(おおみたけ)にあたるのが大岳山。

 そんな関係から古くから山岳信仰・修験道の道場。その神使は「お
いのさま」と呼ばれるオオカミで、両神山の両神神社、三峰神社と
同じようにオオカミの狛犬が建っています。

 安土桃山時代の1591(天正19)年、御岳神社と大岳神社の
同一信仰体は分離され、いまでは別々に蔵王権現を祭っています。

 御岳神社が青梅市にあるのに対し、大岳神社は檜原村にあり、両
社ともに山の神としても村民の信仰を集めています。ちなみに大岳
山南西にある神(か)の戸岩(都の天然記念物)は、大岳神の神門。
岩の根部の淵は雨乞祈願が行われた所だそうです。

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 大岳山の南麓檜原は修験道の道場としての神社が多く、ほとんど
がその流れをくんでいるという。大岳神社の神主吉野家も、大和吉
野山の行者の系統と伝えられています。

 修験道といえば天狗ばなしがつきものです。馬頭刈尾根のつづら
岩の南には天狗の滝があります。また御岳山奥ノ院には天狗桜坊(さ
くらぼう)をまつる祠、天狗腰掛杉、天狗岩など天狗にちなむ遺物
にこと欠きません。

・東京都西多摩郡檜原村大字大岳、JR青梅線 御岳駅からバス、
滝本からケーブル、御岳山駅から歩いて2時間15分で大岳山(1
266m) 2万5千分の1地形図「武蔵御岳」

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第4章

 

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■奥多摩・御岳山奥ノ院の天狗祠

 奥多摩の御岳山(929m)は、役ノ行者が奈良県吉野の金峰山
で感得した、金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)をまつった
山でした。そのため、御岳山の別名を金峰山といい、吉野と同じよ
うに大峰山のかわりに大岳山があることは前項に書きました。

 御岳山の御岳神社は、このようにかつては修験道の中心道場だっ
たが、明治の神仏分離令による廃仏棄釈の暴動から身を守るため、
仏教色をなくし、いまでは修験道が盛んになる前の櫛真知命という
神を主神とする神社になっています。

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 しかし、昔の面影は宝仏殿にある蔵王権現の掲額や、奥ノ院峰の
祠に残っています。御岳神社下の道から天狗の腰掛け杉をへて、鎖
場を過ぎると男具那社があります。そのわきを登ったところが奥ノ
院峰。20坪くらいの広場には石祠がひとつ建っています。この祠
はいまは壊れかかって壁に穴があき、補修はしてあるものの向こう
側が見えるくらいですが、かつては扉を開けると「大天狗、小天狗、
桜坊」の3天狗をまつってあったという。桜坊は吉野の「小桜坊」
の弟分だといいます。

 御岳山が模した奈良県吉野金峰山には、たくさんの神々が祀られ
ていて、その中に金精明神の化身とされる吉野皆杉小桜坊という大
天狗も含まれています。南朝の説話などを集めた「吉野拾遺」に出
てくる天狗は、この小桜坊だという。なぜ兄貴の天狗に「小」がつ
くのかは不明ながら、そこはそれ天狗の世界のこと、あまり深く考
えないことにしたいところ。

 これより古く、「武蔵風土記稿」に日本武尊がここに訪れたとき
「群臣道に迷いしとき、忽然として白狼あらわれ、前駆して西北に
導きまいらせけり。尊、狼に告給いて、これより本陣にかえり、火
災盗難を守護すべし…」とあります。

 オオカミが年劫を経ると天狗になりこれをハクロウといいます。
天狗研究者は、武尊の道案内をしたオオカミは天狗になっていると
し、日本武尊に山の守護神として選ばれた桜坊とは別の天狗もいる
はずだといっています。

 いずれにしても、いまは天狗祠に訪れる人もなく、天狗とといえ
ば岩石園の大岩の上の天狗像の方が有名になってしまっています。

・東京都奥多摩町 JR青梅線御岳駅からバス・ケーブル御岳山か
ら歩いて1時間半で奥ノ院 2万5千分の1地形図「武蔵御岳」

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■奥多摩・三頭山の三頭御前祠

 三つのピークがある三頭山(1531m)。いまはそれぞれの峰の
呼称が乱れており、正しくは中央峰の標柱のあるところが西峰で、
三角点のあるところが中央峰、三頭御前の祠のある峰が東峰になる
といいます。

 もともと三頭山は「水戸嶺」と呼ばれていたという。ある時、こ
の山が大荒れになり、突風で岩も飛んでくる荒れよう。これは神の
祟(たた)りに違いないと、おののいた村人はエカツとミトカツと
いうふたりの若い兄弟を選び、大和の国に占いに向かわせました。

 占いの結果、水戸嶺に「オオモノヌシクシカマタ」という神が天
下り「ふだん平和な暮らしができるのは山のおかげ。その山の恵み
を忘れ、感謝もしない。これからは山に感謝するように」との託宣
がありました。

 大和の国から帰ってきた兄弟から神のお告げを聞いた村人は、早
速山に「鹿留(かずま)御前社」を建て、オオモノヌシクシカマタ
神を祀ったところ、山の荒れはピタリと止んだという。

 その後、兄のエカツも水戸嶺(鹿留山)に祭るようになり、これ
も鹿留御前社と呼んだ。一方、弟のミトカツは、「鹿止(かのと)
御前社」として、いまの御前山に祭ったという。

 この鹿留御前社こそ、三頭山東峰にある三頭御前だとしています。
昔は鰐口(わにぐち)や矢じりが置かれていましたが、盗難にあっ
たのかいつのまにかなくなってしまっています。

 この山の神の祠は、山梨県側は上野原西原地区、東京都側は奥多
摩町小河内地区、神奈川県側は、数馬(明治26年までは神奈川県
に属していた)の3地区で共同で祭っていたという。

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 なお、三頭御前社と数馬地区との間に前御前という山の神の社が
あり、昔は数馬、人里地区の人々が祭っていましたが、いまは1月
17日に地主が参拝し、おさんご(米)、神酒、供物を奉納してい
るという。

 この話は檜原村の文化財専門委員の方にお願いし調べていただい
たものです。どこでもそうであるように、地元の人もよく分からな
くなってしまっているようです。

・東京都奥多摩町と檜原村との境 JR五日市線武蔵五日駅からバ
ス・数馬から2時間で三頭山(1531m) 2万5千分の1地形図
「猪丸」 

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■房総・高宕山と源頼朝伝説

 低山ながら360度の展望がきく房総の高宕山(たかごやま・3
15m)。九十九谷、東京湾、丹沢、富士山も望めます。狭い山頂
の岩峰には小さな石祠とふたつの鉄釜がさびて穴があいて置かれて
います。

 祠は雨をつかさどる神・高オカミ神をまつる清滝神社。この山は
雨乞いの山として有名で、釜にたまった雨水を竹の筒に入れて村に
持ち帰り、田畑にまくと不思議に雨が降り出すという。

 高宕山の「宕」は、洞のことで、山の名は高くて洞窟のある山の
ことだとも、房総の山のなかでも高い山で、京都にある愛宕山にち
なんだものだともいいます。

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 たしかに山頂直下には深くえぐられたような洞窟があり、そこに
食い込むように観音堂(高宕観音)が建ち、堂の中の柱に京都・高
宕山の象徴になっている天狗の面がかかっています。

 その昔、源頼朝が石橋山(神奈川県小田原市)の戦い(1180
年)に敗れて安房に逃れてから陸続きにここに到着。岩屋に籠もり、
1寸8分(5・4センチ)の黄金の十一面観音像を刻みながら、源
氏の再興と武運長久を祈願しました。

 山頂にある鉄釜は頼朝がこの時、煮炊きに使ったものだとの伝承
があります。しかし朽ちかかった釜の文字から、江戸末期の「嘉永
年間」銘が読みとれるのが愉快です。

 その後、源氏の再興がかない、鎌倉に幕府を開いた頼朝は、その
十一面観音と寺領を寄進したといい、十一面観音の像はいまも富津
市田原の福満寺に残っていると伝えます。

 雨乞いの水は実際は、観音堂わきの岩からしたたり落ちる水を持
ち帰るもので、途中で休んだりすると霊験がなくなるといい、くみ
取る人々は安房地方などかなり遠方からも来たという。

 この水は涸れたことがなく、落下する水のたまった小さな池は毎
年オタマジャクシで真っ黒になります。しかし、水涸れの先年訪れ
たときはさすがの石清水も涸れていました。こんなことは初めてだ
と同行の諸氏もうなっていました。その年生まれたオタマジャクシ
は1匹もかえらなかったのでしょうか。

・千葉県富津市と君津市との境JR内房線木更津駅からバス宿原下
車、歩いて2時間で高宕山 (2万5千分の1地形図「鬼泪山」「坂
畑」)

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■房総・伊予ヶ岳、富山の伝説

 房総半島の南部に位置する伊予ヶ岳(いよがたけ・337m)と富
山(とみさん・350m)。両方とも360度の展望で、御殿山から
鋸山など房総の山々、眺望のきく日には東京湾をはさんで富士山、
伊豆大島まで一望できます。

 富山は形のよい双耳峰で、観音峰と呼ぶ南峰と、鞍部を隔てた広
場に展望台のある北峰があります。富山とは房州開拓の祖・天富命
(あめのとみのみこと)にちなんだ山だといいます。

 南峰にはもと731(天平3)年、行基(ぎょうぎ)菩薩創建の
観音堂があったので観音峰の名がありますが、いまは仮堂がポツン
と建っています。山門で壊れかかった仁王様が迎えてくれます。北
峰は金比羅堂があるので金比羅峰とも呼ばれます。

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 「十一州一覧台」と呼ばれる広場に立つ展望台で弁当を広げ、ザ
ックにしのばせた缶ビールを飲みます。さわやかな風が頬をなでま
す。眼下の東京湾に浮かぶ船、海岸にそって走る電車を見ながら、
しばしまどろんでしまいます。

 この山は滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の「富山(とやま)の洞
(ほら)に畜生菩提心を発(おこす)流行(ながれ)に泝(さかの
ぼり)て神童未来果を説く」の舞台としても有名で、鞍部を西側に
下った所に「伏姫の籠穴」があります。入口には観光名所として看
板が立ち、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字をつかって
の説明文もあります。洞窟の中には、祠や石塔があって異様な雰囲
気が漂っています。

 ところが作者の馬琴は、ここに来たことがないというから面白い。
実は現地取材なしの創作洞窟が、後世になりそれこそ偶然に発見さ
れたものというのです。

 伊予ヶ岳は千葉県内ではめずらしく岩峰の山で、上州の妙義山に
ちなんで「安房妙義(あわみょうぎ)」の異名を持ちます。伊予ヶ
岳と伊予(愛媛県)の大岳(石鎚山・いしづちさん)は関係がある
という人もいます。

 昔から安房地方は四国や南紀地方との関わりが深く同じ地名も多
い。伊予ヶ岳には、千倉の小松寺で稚児が天狗にさらわれ、ここで
発見されたという伝説があって、石鎚山も修験道の山で天狗伝説も
共通する所です。

・千葉県富山町 JR内房線岩井駅からバス、芝入口バス停から歩
いて2時間で富山(350m)、天神郷バス停から歩いて1時間で伊
予ヶ岳(337m) 2万5千分の1地形図「保田」「金束」

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第4章

 

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■秩父・奥武蔵・奥多摩・房総の山 参考文献

・「奥多摩風土記」大館勇吉著 武蔵野郷土史研究会
・「子ノ権現 天龍寺」パンフ 埼玉県飯能市子ノ権現天龍寺
・「吉野拾遺」(上):(「群書類従」第27輯 巻485 雑部所収)
・「ものがたり奥武蔵」神山弘ほか(金曜堂出版部)
・「奥秩父の伝説と史話」太田巌(さきたま書房)
・「近世における武州御嶽御師の生活」木代修一(「山岳宗教史研究叢書8」名著出版 所収)
・「新編武蔵風土記稿」第一巻(大日本地誌大系)雄山閣
・「武蔵御獄山神社」パンフ(御獄山神社社務所)
・「南総里見八犬伝・第二輯巻の一、第十二回」曲亭馬琴(小池藤五郎校訂)岩波書店

▼【協力】
山梨県丹波山村教育委員会
東京都西多摩郡檜原村文化財専門委員

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(第4章 終わり)

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