第2章 越後・上州・北信の山々

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▼中 扉

【越後・上州・北信の山々】 このページの目次
・守門岳の祠伝説
・八海山のダイズラ神王
・榛名山の伝説
・巻機山の織姫
・苗場山の伊米神社と早苗
・妙高山の祠伝説
・谷川岳の祠伝説
・上州武尊山のヤマトタケル
・妙義山天狗と大ノ字
・乙妻山山頂虚空蔵様
・高妻山アミダ様
・飯縄山の祠伝説
・迦葉山奥ノ院の伝説
・姨捨山姨捨伝説
・以上山域の参考文献・ご協力先

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■守門岳の祠伝説

 守門岳(1537m)は頂上からは上越国境の山々はおろか妙高、
戸隠(とがくし)、飯豊(いいで)連峰、朝日連峰、佐渡ヶ島まで
眺望できる中越の名峰。「日本二百名山」にも名を連ねています。
守門岳とは主峰の袴岳、青雲岳、大岳を中心とした山塊の総称。西
北山麓の栃尾方面からは大岳が山全体の最高峰に見えるため、この
山頂に巣守神社の祠と石碑をおいてあります。スキー場のある南麓
・入広瀬村大白川新田からは単に「袴腰」といい、本峰の最高峰を
指しています。

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 山麓には守門岳を信仰の対象にした地区が多く、巣守神社、守門
神社、須門神社などが点在し、守門村須原の守門神社にある「守門
神社記」は、守門大明神の本地仏を毘沙門天または七社権現として
いるという。

 守門岳は鶴が巣ごもりをするので巣守り、それが転じて守門にな
ったのだという。いまでも別名は巣守岳。また古書には諏門岳、蘇
門山の名も出てきます。記紀神話の女神で第十一代垂仁(すいじん)
天皇の妃と伝えられる刈羽田刀弁媛命(かりばたとべひめのみこと)
が行営のときこの山で天然の蚕で紬を織ったなどの伝説や、苅羽田
刀弁の子でのちの高志池君(こしいけのきみ)の氏人(越前国)の
祖・五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)の姫がこの山で出産
をしたなどの言い伝えが残っています。かつては山頂に筑波の神・
伊弉諾尊(いざなぎのもこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を
祭ったと記す古書もあります。

 大岳北方の吉ヶ平近くの大池には白いタニシがすんでおり、干ば
つの時これをとって里に持ち帰り雨乞いをしたという。もしタニシ
を殺したりしたら降りだした大雨がやまなくなるという伝説もあり
ます。守門岳東北直下の鞍掛峠には浅草岳から通じる「八十里越」
という道があり、南会津と越後を結ぶ生活物資を運ぶ重要な輸送路
だったという。

 八十里越は、会津側の只見町叶津と越後側下田村吉ヶ平を結ぶ8
里の道のり。長くて険しいこの道は重い荷物を背負うものにとって
はまるで10倍の道のりに感じられたのでこんな名前がついたとい
い伝えられています。

 また「坂東道十六町一里」の長さで計算すると80里になること
からこの名がついたとする説もあります。

・JR只見線大白川駅から5時間で守門岳(1537m) 2万5
千分の1地形図:「守門岳」

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第2章

 

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■八海山の提頭羅親王

 鎖場が続く信仰の山、八海山(1778m)。六日町と大和町との
境にある尾根、西側の五竜岳、入道岳、大日岳、薬師岳、池ノ峰と
ならぶ山やまの総称ですが、奥の院の大日岳だけをいう場合もあり
ます。この尾根に連なる中ノ岳、駒ヶ岳の合わせての越後三山は、
かつては三岳講、八海講の信者が三山駆けをしたところ。

 八海山の山名については、江戸時代から3つの解釈があり、この
連峰が8層あって梯子段の形になっているため「八階」からきたと
する説、山中に8つの沢や谷があって「八峡」と言ったことからき
た説、また山上に8つの池(海)があるからとの説があります。

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 八階や八峡はどれという伝承もありませんが、八海については「八
海山御伝記」に次のような記述があります。御池名として、古気池
(難陀竜王・なんだりゅうおう)、裏冨池(跋難陀竜王・ばつなん
だりゅうおう)、瓶丹池(娑伽羅竜王・しゃがらりゅうおう)、硯池
(和修吉竜王・わしゅきちりゅうおう)、日池(徳叉迦竜王・とく
しゃかりゅうおう)、月池(阿那婆達多竜王・あなばだったりゅう
おう)、神生池(摩那斯竜王・まなしりゅうおう)、赤石池(優鉢羅
竜王・うばらりゅうおう)以上八海也。とあり、八大竜王の棲む池
として8つの池が選ばれそれを八海と呼んだらしい(「八海山信仰
と八海講」)。

 ここはもともと、国狭槌尊(くにのさづちのみこと)という神の
とどまる山。その昔、空海がこの山に登って大聖松神社として尊を
祭り、さらに大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)を勧請、山頂に
不動明王を祭ったといいます。

 江戸後期になり、秩父出身の木曽御嶽行者普寛(ふかん)が、地
元出身の泰賢と屏風道の登山道を開き中興開山します。七合目屏風
岩に社殿を建て、題頭羅親王(だいずらしんのう・大般若十六善神
の一)を勧請しました。以来、御嶽行者が盛んに訪れ、八海大神イ
コール題頭羅親王という図式が出来あがり、盛んに信仰登山が行わ
れたといいます。各所にある霊神碑は御岳信仰の特徴の一つでした。

 一方、木曽御嶽の前衛には、八海山や三笠山があり、各々題面親
王、刀利天がまつられ、それぞれ八海山題頭羅坊、三笠山刀利天坊
という天狗として信仰されています。

 各地の山の妖怪、特に天狗を訪ねる者にとって、ここに祭られる
神たちも木曽御嶽の天狗の分身であると信じたいところです。

・新潟県六日市町と大和町との境 JR上越線六日町駅からバス、
山口から歩いて30分ゴンドラ山頂駅 さらに歩いて2時間半で八
海山(1778m) 2万5千分の1地形図:「八海山」

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第2章

 

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■榛名山の伝説

 榛名山はいくつもの山々の総称で、最高峰は外輪山・掃部(かも
ん)ヶ岳。この山は赤城山、妙義山とともに上毛三山のひとつにな
っています。昔は伊香保山と呼ばれていたという。南北朝時代の説
話集「神道集」には伊香保大明神の力により「伊香保の大岳の方か
ら一陣の旋風が吹き下ろしたかと思うと、車軸のような豪雨が降っ
てきた」話が載っています。

 イカホは厳秀(いかほ)の義と考えられ「万葉集」の東歌の中に
「伊香保(いかほ)ろの岨(そひ)の榛原(はりはら)ねもころに
将来(おく)をな兼(か)ねそ現在(まさか)しか善(よ)かば」
の榛原がハルナに転化したともいわれています。「榛名山志」にも
「上小野榛原、下小野榛原に做(なら)ヒテ榛ヲ名ツクルト云フ」
とあります。

 前出の「神道集」は不思議な本で、他にも多くの伝説を載せてい
ます。例えば赤城沼の竜神と伊香保の沼(榛名湖)の竜神が沼争い
をしたとき、西(榛名)からは毛垣(意味不明)を投げつけ、東(赤
城)からは軽石を西に投げたという。この伝説のとおりいまでも榛
名山麓には軽石が多いという。

 またこんな伝承もあります。昔、上野の天狗と駿河の天狗が山造
りの競争をしました。上野の天狗はいまの榛名湖になったところを、
駿河の天狗は甲府盆地を堀り上げたという。上野の天狗がもうひと
もっこ分を積み上げれば、富士山と同じ高さになるところで夜が明
けてしまいました。そこで榛名富士山麓の堀りあげた山を「ひとも
っこ山」と呼ぶという話も伝わっています。

 榛名山も妖怪の山で、天狗話も多く残っています。榛名山にある
榛名神社は、山自体を神体とした農業神の榛名大明神で、例の「神
道集」には春名満行(はるなまんぎょう)権現とあり、この山の天
狗だといいます。

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 この満行坊天狗は、上野国西七郡の領主群馬(くるま)太郎満行
だとの説もあり、また榛名山系の一峰相馬山にも「相馬ヶ岳相満坊」
という天狗がいることになっており、相満坊は満行坊の三男の三郎
相満(すけみつ)のことだとも、また南部太郎光行とその弟三郎祐
光(すけみつ)の兄弟天狗だともいい、はっきりしないところがま
た面白い。

 相馬山上には、黒髪山神社が鎮座し、相馬大神や大山祇(おおや
まずみ)神などの石像がならんでいます。黒髪とは雨を司る「くら
おかみ」の訛ったもので、雷がおこるこの山を神として祭ったのだ
ということです。

・群馬県群馬郡、北群馬郡と吾妻郡との境 JR高崎駅からバス 
2万5千分の1地形図「榛名湖」「伊香保」

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第2章

 

 

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■巻機山の織姫

 巻機山(まきはたやま)は、魚沼連山の主峰で割引岳、本巻機、
牛ヶ岳、前巻機の山々をいい、その名が示すように機織りの守護神
を祭っています。

 「巻機山由来記」に、かつてこの山に天の織女星を祭ったとあり
ます。「又ウシロノ山ニハ牽牛星ヲ拝スルトテ是ヲ牛ガ岳と申也。
天ノ織女ハ女星ニテ機ヲ織タマフ。牽牛ハ男星ニテ牛ヲヒキ玉フト
ナリ。本御夫婦ニテ天ノ河ノ両辺在セ玉フ。七月七日夜、鳥鵲河ヲ
填テ橋トナリ逢タマフト云フ。一説ニ曰、牛ガ岳大山住(おおやま
ずみ)ノ命(みこと)ナリ。巻機山ハ木ノ花開爺媛(このはなさく
やひめ)トモ云」とあり、五穀豊穣、紡績織縫に利益ありとも説い
ています。

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 そんなことからか、巻機山にはこんな伝説が残っています。

 その昔、大木六村(いまの塩沢町)の弥治右衛門が山仕事をして
いるうちに、日が暮れてしまいました。しかたなく暗闇の中をさま
よっているうちに、かなたに明かりが見えました。「やれやれ地獄
に仏」と近づいてみると荒れすさんだ家の中で美しい姫が機を織っ
ています。

 不思議なことがあるものだと思いながらも、訳を話すと姫は、「私
もちょうど里へ下りるところでした。ご案内しますので、申し訳あ
りませんが私を背中におんぶして頂けないでしょうか。そのかわり
決してふり返って私を見てはいけません」。

 村人は気味悪く思いましたが、帯で姫を背負い、山道をどんどん
下りていきました。しばらくして村の明かりが見えはじめ、見覚え
のあるところにくると、つい安心したのか、横目で背中を見てしま
いました。そのとたん、美しい姫の姿はどこにもいなくなり、自分
の片方の目は横にらみのままになってしまったといいます。

 登山口の清水地区から前巻機を通り、山頂途中の小鞍部に「御機
屋(おはたや)」と呼ばれるところがあります。そこが姫が機を織
っていたところだと伝えられています。

 9月のはじめ、避難小屋近くにテントを張り山頂を往復しました。
御機屋から東へとれば牛ヶ岳の道です。朝日岳への道が南へ分岐す
るピーク1967mあたりでみんな引き返してしまいます。なるほ
どここが最高点だからでしょうか。避難小屋は夜が更けるにしたが
いにぎやかに盛り上がっていた。

・群馬県水上町と新潟県塩沢町、六日町との境、JR上越線六日町
駅からバス、清水から歩いて5時間半で巻機山(1967m) 2万
5千分の1地形図「巻機山」

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第2章

 

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■苗場山の伊米神社と早苗

 山頂の湿原いっぱいに、苗を植えた稲田のような小さな池が広が
る苗場山(2145m)。水の中に生えるタテヤマスゲ、エゾホソイ
などは秋になると穂をつけ、カエルやイナゴまでいるというから面
白い。池の大きさは5〜10m。深さ20〜40センチ。これが約
600個も散在するのだから見事です。

 その様子から山麓の村人は神がここに天降り、田植えをしている
として、山に作物の守護神「伊米神社」を祭ってあります。祭神は、
死んだ体から穀物が生えたという神話から食物の神とされている保
食神(うけもちのかみ)(「日本書紀」)とのこと。話はよく出来て
います。

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 江戸後期の越後の文人・鈴木牧之も「是(この)絶頂は周(めぐ
り)一里といふ。莽々(まうまう)たる平蕪(へいぶ)高低(たか
ひく)の所を不見(みず)、山の名によぶ苗場(なへば)といふ所
こゝかしこにあり。そのさま人のつくりたる田の如き中に、人の植
(うえ)たるやうに苗に似たる草生(お)ひたり、苗代(なはしろ)
を半(なかば)とりのこしたるやうなる所もあり。これを奇なりと
おもふに、此田の中に蛙(かへる)蝗螽(いなご)もありて常の田
にかはる事なし、又いかなる日てりにも田水(でんすゐ)枯(かれ)
ずとぞ」(「北越雪譜」)と述べています。

 また地震のことを昔の人は「ない」と呼んだという、いまでも予
知できない地震。突然の大地の揺れに人々は、恐ろしい地震は得体
の知れないほどおおきいこの山から起こるのだと考え、「なえ(い)
場山」といったという説もあります。

 この山は、八海山とともに古くから信仰の山。毎年夏には、苗場
山修験講の講中団体登山が行われました。いまでもかつて水垢離(み
ずごり)をとった祓川(はらいかわ)や雷清水、神楽ヶ峰などの行
場名が残っており、山頂には道祖神や賽ノ河原の名や浅間大神、八
海山大神、役ノ行者などの石碑があります。

 また長野県側山麓の秋山郷は、平家の落人伝説もある秘境の豪雪
地帯。ここは前出の鈴木牧之が「秋山紀行」を著してから一躍有名
になった所。時の流れで生活が変わったとはいえ民俗の宝庫と言わ
れています。

 ある年の6月、山頂ヒュッテ前にテントを張りました。直下はま
だ残雪が多い。次の日秋山郷への道に少し下がってみました。その
先へ続く登山道に心を誘われながらも、結局、登り返し、木道を赤
湯方面に下りました。

・新潟県津南町、湯沢町と長野県栄村との境、上越新幹線越後湯沢
駅からバス40分元橋、4時間で赤湯、6時間で苗場山(2145m) 2
万5千分の1地形図「苗場山」

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第2章

 

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■妙高山の伝説

 均整が取れ、気品が漂う山の形から越後富士とも呼ばれる妙高山
(2454m)。ここも古くから霊山として信仰され、東の米山薬師
(いまの柿崎町)に対し、南の妙高山は阿弥陀如来の浄土とされて
いました。室町初期・中期の成立といわれる作者不明の軍記物語「義
経記」には「妙観音の嶽」と出ており、観音信仰の山でもあったと
いいます。開山は和銅年間(708〜715年)とも伝えられてい
ます。

 妙高は名香、妙光、明光などとも書かれます。昔は「越の中山(な
かやま)」と呼ばれたところから中山が名香山(なかやま)になり、
ミョウコウと読まれ、妙高山と当て字されたといいます。妙高はイ
ンドの須弥山(しゅみせん)のことなので命名は中世の仏徒らしい
といわれています。

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 かつて山頂には木曾の義仲が祭ったと伝える阿弥陀、勢至(せい
し)、観音の金の仏像を安置した阿弥陀堂がありましたが、いまは
ふもとの妙高村関山の関山神社(里宮)に移されています。118
2(寿永元)年、信濃の国横田川原(長野市)で、越後の城助茂(じ
ょうすけもち)を破った義仲は、その後、関山に来て、妙高に登り、
行者を守る護念仏阿弥陀三尊を納めたという伝説もあります。

 中世以降は修験道の行場になりました。当時、関山神社は「関山
三社権現」といい、妙高山雲上寺宝蔵院というお寺の支配下でした
が、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐の中で神社の名に改
めたといいます。今でも登山道には六道地蔵、天狗宝窟観音、大杉
姥堂、役ノ行者などのお堂が残っています。

 古くからこの辺り一帯の山々は竜の体に例えられ、頭は南方の戸
隠山、胴は妙高山、西側の火打山はその尾に当たっています。これ
は戸隠神社の起源が九頭竜信仰によることからきており、妙高の頂
上付近には八大竜王の伝説のある興善寺池があり、戸隠信仰と関連
しているといいます。

 天狗平や大杉などの名があるようにこの山には妙高山足立坊天狗
の伝承が残っています。この辺りは日本八天狗の三番目に当たる、
三郎天狗のいる飯縄山や戸隠山などが連なっています。そのため、
足立坊は飯縄系天狗(鼻の高くない荼吉尼天(だきにてん)の姿)
で、周囲の状況から見て山神守護の地主神の化身だともわれていま
す。(「図聚天狗列伝」)。

・新潟県妙高村と妙高高原町との境 JR信越本線妙高高原駅から
バス、燕温泉4時間20分で妙高山(2454m) 2万5千分の1地形図「妙
高山」

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第2章

 

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■谷川岳の祠

 谷川岳は双耳峰。遠くJR上越線後閑駅方面からみると、犬や猫
の耳にソックリです。そこでこの山を「耳二ツ」と呼んだのはご存
じのとおり。

 そもそも谷川岳には宝物が隠されている……。どこに埋蔵されて
いるかは不明ながら、昔から地元の人たちの間では宝物伝説がつき
なかったという。人を寄せつけない峻険な峰々に村人は畏敬の念を
抱き、数々の伝説ができたらしい。

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谷川岳はトマの耳に薬師如来、オキの耳に富士浅間神社をまつっ
たところから、新潟県側では「薬師岳」群馬県側では「谷川富士」
といい、かつてあった有人の肩の小屋わきに薬師如来の祠が、オキ
の耳近くの岩のほら穴に浅間神社があり、浅間大明神がまつられて
います。

 この神社は富士山にまつわる浅間神社で、浅間大明神については
こんな話があります。足利義満の時代、康暦2年(1380=南北
朝時代)2月初め、不思議な光が谷川岳の上空にとまり、一晩中照
らしていました。

驚いた村人は、水上の祈祷師に判断を求めたところ、「私は駿河
富士山の浅間大菩薩である。多くの人々の幸福をもたらすため谷川
神社をつくるように」との託宣(たくせん)がありました。村人は
雪どけを待って登頂、山頂に神社をまつって奥宮としました。ちな
みに里宮は谷川温泉にあり富士浅間神社といい、伝説と同じ康暦2
年の創建とされ、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が
主祭神になっています。奥宮に参詣できない老人などはここに参拝
したそうです。

 神社の神体はオキの耳の岩陰にあった永禄8年(1565)の銘
のある懸仏で、ひとつは虚空蔵の座像、他の一面は十一面観音の立
像で、双方に富士浅間大菩薩と彫られていたという。 

 万治元年(1658)の沼田藩主真田伊賀守信利が富士浅間神社
を造営した時の棟札に「沼田総鎮守谷川岳…」、「奉建立富士浅間一
社」などの文字があり、幕末には谷川の村人により奥宮が再興され
ています。

・群馬県水上町と新潟県湯沢町との境 JR上越線土合駅から20
分ロープウエイ天神平から3時間で谷川岳(1977m) 2万5千
図「茂倉岳」

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第2章

 

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■上州武尊山のヤマトタケルの像

 もともとは、その地方の地主神であり、山そのものが神である「ホ
タカ大明神」をまつってあった上州武尊(ほたか)山(2518m)。
その神は北アルプス・穂高岳と同じ「穂高見命(ほたかみのみこと)」
だそうです。宝高、穂高、保鷹(いずれもホタカ)の字を当てられ
ていたものが江戸期になって、武尊の山と書かれるようになりまし
た。

 そのせいか、沖武尊近くの川場武尊や前武尊にも日本武尊(やま
とたけるのみこと)の像があります。これらは日本武尊東征伝説に
ちなむもので、武尊山を含む群馬県利根郡には16もの武尊神社が
あり、すべて日本武尊を祭神としています。武尊神社の祭りには、
花咲地区の猿追い祭り、幡谷の申祭り、越本のニギリクラ、薗原の
エーッチョ祭りなど特殊神事がたくさん残っています。

 したがってこの山には日本武尊伝説も多く残っています。昔、武
尊山に悪者がはびこり村人を困らせました。それを聞いたが日本武
尊が討伐に出向いたという。日本武尊のあまりの強さに形勢不利と
みた悪者の首領夫人は、土出に逃げようと山麓片品村の花咲集落に
下りましたが、そこで息絶えてしまったという。そのとき、首領夫
人の霊魂の執念で石に花が咲いたと伝える「花咲石明神」が、いま
でも花咲集落中心部にあります。

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 また、武尊沢にある裏見ノ滝は「怨みノ滝」の意味で、日本武尊
がこの山に陣を敷いたとき、妻が産気づき、看護の甲斐なくついに
母子ともに亡くなってしまいました。尊(みこと)はそれを悲しん
で、裏見ノ滝で身を清めようとしたところ、滝の音が急に大きくな
り妖気がただよったという。これは妻の怨みのあらわれとみた尊は、
よりあつくとむらったと伝えています。

 また最高峰の沖武尊に建っている「御嶽山大神」の石碑は、この
山を開いた木曽の「御嶽教」の教祖普寛行者にちなんでいます。沖
武尊南東にある剣ヶ峰には普寛行者の霊神碑も祀られています。こ
れは修行を積んだ行者が死後霊神を名のり、山中に碑を建てる「御
嶽講」独特のものだそうです。

・群馬県水上町と川場村との境 JR上越線水上駅からバス、久保
から歩いて6時間で上州武尊山(2518m) 2万5千分の1地形図
「鎌田」

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第2章

 

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■妙義山と大の字

 奇岩怪石がそびえ、日本の三大奇勝として知られる妙義山。以前
は、最高峰相馬岳(1104m)辺りの白雲山を明魏と呼んでいま
した。(南北朝時代の名臣である花山院(かざんいん)長親が、出
家して白雲山に来たという伝説のある明魏(みょうぎ)法師に由来
しているのでしょうか?)

 白雲山東麓には妙義神社があり、中腹に妙義大権現にちなんだ「大
ノ字」の岩峰があり、わき下の岩の上に石祠があります。またその
上部には岩室の中に奥之院があって、「白雲山妙義大神」の石碑と
石像が祭られています。

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 「白雲山妙義大権現由来」によれば、妙義大権現は比叡山十三代
目の座主法性坊尊意僧正だとしています。僧正は天慶3(940)
に逝去しましたが、のち碓氷峠にあらわれ白雲山に来山。「われは
比叡山座主尊意僧正なり。宿世の縁でこの山に住し、衆生を済度せ
ん」と託宣したという。以後妙義権現と敬われたといわれます。

 妙義神社の祭神は、日本武尊と天照大神の食事をつかさどった豊
受大神(とようけたいじん)、それに学問の神・菅原道真。その昔、
日本武尊がこの白雲山に社を建て、「波己曽(はこそ)神」とした
と伝え、かつて妙義山を「はこその山」といい、歌に詠んだ古書も
あります。

 波己曽社(大明神)は岩社(いわこそ)を意味し、山全体を神と
して祭ったものと考えられているのだそうです。その後、白雲山、
金洞山、金鶏山の三山の神と、波己曽社を集めて妙義神社になり、
その後で祭神を決めたのだろうといわれています。

 神仏習合時代は修験道の山で、妙義神社を守る石塔寺というお寺
が今の社務所の所にあったとか。妙義神社は東京・上野寛永寺座主
(ざす)輪王寺宮兼任の神社で石塔寺は同宮の隠居所。当時はこの
権威をバックにし、祭礼には、各門を閉めきり大々的に賭場を開帳
したといいます。

 妙義神社には天狗面が飾ってあります。天狗の名は上野(こうず
け)妙義坊。一説には菅原道真の師でもあった法性坊尊意僧正の化
現との説がありますが、尊意は比叡山の天狗になっているとされ、
結局は妙義山大神の姿だろうと研究者はいっています。 

・群馬県妙義町、JR信越本線松井田駅からバスで妙義神社、40
分で大ノ字、35分で奥の院 2万5千分の1図「松井田」

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第2章

 

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■乙妻山山頂の祠

乙妻山(おとづまやま・2318m)は高妻山の奥。戸隠連峰の西
北端にあり、高妻山とこの二つの山は戸隠の御裏山といい、昔は戸
隠修験の修行道場だったという。お裏巡りは高妻山一不動の鞍部か
ら出発、二釈迦、三文殊と進み、八観音、九勢至で、高妻山頂は十
阿弥陀如来だといいます。

 さらに乙妻山へは十一、十二とすぎ、十三は虚空蔵菩薩で山頂に
小祠が祀られています。しかし十三虚空蔵をまつる虚空蔵山は、乙
妻山からさらに奥へ入った標高2044mのピークだともいう(「戸
隠・飯縄の修験伝承」)。

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虚空蔵山は両界山とも呼ばれ、江戸時代の描かれた版画には、
阿弥陀三尊像が蓮華の上に乗って来迎する姿があり、山の名も曼
陀羅山としているといいます。

この戸隠が修験道場になったのは飛鳥時代。天武年間(672〜
685)に例の役ノ行者がここに分け入り、修験道場の峰入りの方
式を定めるなどして、ここに伝わる天の岩戸伝説の天手力雄命(あ
めのたぢからおのみこと)の一実神道と合体した修験一実宗神道を
唱えたという。

戸隠修験はもとは天台、真言両派が一緒になっていましたが、ど
んな世界にも派閥争いがあるらしく、1270(文永7)年ついに
分裂。真言派の山伏が大挙して山を離れ、となりの飯縄山の霊仙寺
山に移り飯縄修験となり、以後両派は対立していきます。

 乙妻山の妻は切妻などと同じ、屋根のことで、手前の高妻山の高
(甲)に対して一歩譲った乙だという。すなわち2番目の屋根形を
した山をさすという。また乙は、奥のなまったもので高妻山の奥に
ある意味ととるのは考えすぎでしょうか。

 10月の初め、滑りやすいスズタケをヤブこぎしながら登りつめ、
やがてテントでも張りたいような草もみじの平坦な地を過ぎると、
壊れかかった例の祠に着きました。先ほどからいい匂いがしていま
したが、静かな山頂で登山者がひとりラーメンをつくっていました。

 そのときは分かりませんでしたが、もう一歩先の虚空蔵山を踏ま
なかったことが今になって悔やまれます。

・長野県戸隠村と新潟県妙高高原町との境 JR長野駅からバス、
 戸隠キャンプ場から歩いて6時間で乙妻山(2318m) 2万5
千分の1地形図「高妻山」

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第2章

 

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■高妻山の十阿弥陀

 戸隠連峰で一番高い高妻山。北の乙妻山とともに剣の峰とも呼ば
れ、鞍部の一不動を起点として10から15分おきに、十三仏が祭
られ、高妻山が十阿弥陀。さらに乙妻山に続き最後の十三虚空蔵ま
でと、いまでもところどころに石碑が建っています。

 十三仏とは、初七日から三十三回忌まで、十三回の追善供養の配
した仏たち。一不動(初七日)、二釈迦(二七日・ふたなぬか)、三
文殊(三七日)、四普賢(ふげん・四七日)、五地蔵(五七日)、六
弥勒(みろく・六七日)、七薬師(七七日)、八観音(百カ日)、九
勢至(一周忌)、十阿弥陀(三回忌)、十一阿?(あしゅく・七回忌)、
十二大日(十三回忌)、十三虚空蔵(三十三回忌)のことだという。

 これらからも分かるとおり高妻山も修験道の山。平安初期の85
0(嘉祥3)年、飯縄山にきた学門行者が峰伝いに移り、戸隠修験
を開いたと「戸隠山顕光寺流記」にあります。この修験者は表山か
ら次第に裏山へ入峰し修行にいそしんだという。

 また別の「阿裟縛抄」(鎌倉時代承澄僧正撰)では、こんな話を
伝えています。嘉祥2年ころ学門行者が飯縄山から大岳(戸隠山)
に向かって独鈷(どっこ)を投げました。落ちたところに行ってみ
るとそこは(戸隠の一峰九頭竜山の)九頭竜社の岩屋でした。行者
が社前で法華経を読んでいると、生臭い風が吹いてきて「九頭一尾」
の鬼が現れました。

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 鬼は、「私はこの寺の前別当だが貧欲のあまりこんな姿にされて
しまった。ここでありがたいお経を読む人がいるとそれを聞きに来
るのだが、害心がないのにみんな私の毒気に当たって死んでしまう。
当山はいままで40数回も破壊転倒するしまつ。私は今度こそ、あ
なたのお経を聞けて成仏できるでしょう」という。

そこで学門行者はこの鬼を岩屋に封じ込め、大岩で隠しその前に戸
隠寺を建て、手力雄命の本地仏である聖観世音菩薩を安置したとい
う……。この話は、ここはもと地主神の九頭竜大神が祀られていたこ
とを物語っているのだそうです。

・長野県戸隠村と新潟県妙高高原町との境 JR長野駅からバス・
戸隠キャンプ場から歩いて5時間で高妻山(2253m)

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第2章

 

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■飯縄山の祠伝説

長野県北西部にある飯縄山。飯綱山とも書く。飯縄とは「飯砂」
の意味で、山頂付近にある「天狗の麦飯」と呼ばれる食べられる砂。
いまは採取するのは禁止されていると聞きます。

 飯縄山は江戸時代末期まで戸隠山、小菅山とともに信濃三大修験
道場のひとつでした。ここはもと天台宗の戸隠修験に帰属する真言
宗戸隠宝光社の根本道場でしたが、鎌倉中期・文永7(1270)
年に分裂。大挙して戸隠を離れた衆が飯縄山の一峰の霊仙寺に移り、
飯縄修験として独立しました。

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 かつては「飯綱(縄)の法」といい、キツネ使いの修験者がいて、
二十日ネズミくらいのキツネに人の過去や未来を告げさせる邪法が
ありました。これは修験者以外に見えなく、ただキツネのにおいが
するばかりだという。この法の本源がここ長野県飯縄山。いろいろ
な為政者の尊崇を受けたこともあって、一時は飛ぶ鳥を落とす勢い
だったといいます。

 しかし、やっていることが人を惑わす呪法。世間からうす気味悪
がられ、恐れられいまは消滅、面影もない。飯縄山頂には石仏と小
祠だけ。その直下に飯綱(縄)大神の石像がポツンとあるだけです。

飯綱権現(大神)は荼吉尼天(だきにてん)を祭るとされ、石像
はキツネに乗る羽のはえた鼻の高くない小天狗姿。名前を飯綱三郎
(いづなのさぶろう)といい、日本八天狗のひとつで、三郎とは京
都の「愛宕山太郎坊」、滋賀県の「比良山次郎坊」に次ぐとされる
天狗。「戸隠山顕光寺流記」に「伊都奈(飯綱)三郎は日本第三の
天狗なり」と書かれるほどの「大物」。その前身は泰澄上人の従者
・臥(ふし)行者だとも、その流れをくむ学問行者だとの説もあり
ます。

 ただ、この山が根元とされる邪法の「飯綱(縄)の法」は飯綱三
郎天狗ではなく、この山に棲んでいることになっている別の天狗・
飯縄山千日太夫だとされています。千日太夫は、京都愛宕山の「愛
宕の法」にキツネ(管狐・くだぎつね)を媒体に「飯綱法」を結び
つけた独特の外道術をあみ出し、それを修得した修験者たちが広め
たものらしいとされています。

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第2章

 

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■迦葉山奥ノ院の伝説

 沼田市の北にそびえる迦葉山(かしょうざん・1322m)も天狗
で売る山です。山麓の弥勒寺(みろくじ)は、平安前期の仁寿3(8
53)年の開基といわれる名刹。いまは曹洞宗ですがかつては天台
宗に属していたという。

 しかし「迦葉山縁起」によれば「嘉祥元戊辰年(848)葛原親
王釈の円仁慈覚大師を招き玉ひ、当国鶏足山は往古(釈尊十八弟子
で、仏法第二世をついだとされる)迦葉尊者入定不滅の霊地なれハ、
法灯相続のため鶏足山の麓に一ツの精舎を草創して円仁大師を安置
し玉ひ、山号を大鷹山と名つけ精舎を竜華院と号す」とあります。

 中世になり衰退していたこの寺を、小田原最乗寺第十五世、天巽
慶順(てんそんけいじゅん)が曹洞宗に改宗、山に迦葉堂を祀り、
山名も迦葉山と改名。寺の名前も大鷹山竜華院といっていたのを迦
葉山弥勒寺竜華院とし、最乗寺の傘下に属して興隆させたといいま
す。

 天巽には中峰と呼ぶ弟子がいた。中峰は師に忠実で、また特殊な
才能があり酒好きの天巽のため、毎晩飛ぶように里に下り酒を買っ
てきたという。中峰は天巽他界後、弥勒寺を護法するため中峰尊者
(ちゅうほうそんじゃ)という天狗になったと伝えられます。

 この話は、小田原最乗寺の道了尊(どうりょうそん)天狗とよく
似ています。道了尊はそれより70年前、師の了庵没後、寺を守護
するため天狗に化して箱根明星ヶ岳に飛びたったと説かれ、そのた
め最乗寺は弥勒寺の本家とされています。また、迦葉山と高尾山、
古峰ヶ原の天狗は三兄弟ともいわれ、ここは本家の二番息子という。

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 中峰尊者は中雀門をくぐった岩峰にはめ込んだ奥ノ院が住処。奥
ノ院わきのチムニー丈の岩場の鎖をよじ登ると岩窟の中に祠があり
ました。4月の季節、ここまで来るのもラッセルの連続です。胎内
くぐりの岩場は雪がかちんかちんに凍っているありさま。あまり無
理をして天狗の怒りをかう前にまずは退散しました。

 なお弥勒寺には、大小の天狗面が所狭しと並んでいるが、願をか
けるとき面を寺から借りて帰り、望みがかなうと新しい面を添えて
返すのだといわれています。

・群馬県沼田市 JR上越線沼田駅からバス、迦葉山から4時間2
0分で迦葉山(1322m) 2万5千分の1地形図「藤原湖」「後
閑」

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第2章

 

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■姨捨山の祠伝説

「信濃の国更級という所に、男すみけり」で始まる「大和物語」
(第一五六話)の姥捨伝説。親代わりの老いたおばを、捨ててくる
よう嫁にせめられた夫が、一度は山におき去りにしたが思いあまっ
て連れもどすという話。「今昔物語」にも同じような内容で載って
おり「然テ其ノ山ヲバ其ヨリナム姨母棄山ト云ケル。…其ノ前ニハ
冠山(かうぶりやま)トゾ云ケル。冠ノ巾子ニ似タリケル、トゾ伝
ヘタルトヤ」とあります。このことから古くから冠山の名があった
ことが分かります。その後冠着山に変化していったらしい。

 姨捨山の伝説が最初に文献にあらわれるのは「古今集」巻十七の
「わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山に照る月をみて」(読
人不知)の歌だというが、伝説としては「大和物語」が初見。この
姨棄伝説は、世阿弥の謡曲「姨捨」にもなり、次第に全国に知られ
ていった。「冠着山」の文字は「源平盛衰記」の木曽義仲の章に出
てくるという。

 姨捨山の山頂広場は、杉の木のわきに冠着神社があって、更級郡
戸倉町方面を向いて建っている。また、神社裏手くぼ地にあるの石
のほこらは冠着山権現。東筑摩郡坂井村側を向いている。「姨捨山
考」には「嶺に至れば平らな地に出る。ここに冠着神社があり、月
読命を祀る。創建ははっきりしないが、毎年七月二十八日が例祭な
り」とあるという。

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冠着とは、頭にのせる冠を着ける意味。「古事記」にある「天の
岩戸がくれ」の時活躍したあの天手力男命が、天の岩戸を背負って
やってきてこの山で休み、ずれた冠を着けなおしたのが名前の由来
とのこと。

ここはまた、名月の山としても有名で、「古今和歌集」などにも
うたわれています。 なお、「姨捨山」の位置については、冠着山
のほかに、田毎の月で有名な更埴市の姨捨駅の付近の長楽寺には、
姥岩(姨石)と呼ばれる巨岩があり、それを姨捨山と称したなど三
カ所の異説があるという。

・長野県戸倉町、上山田町、坂井村との境JR篠ノ井線冠着駅から
歩いて1時間30分で姨捨山 2万5千分の1地形図「麻績(おみ)」

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第2章

 

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■越後・上州・北信の山 参考文献
・「秋山紀行」鈴木牧之(東洋文庫)平凡社
・「戸隠・飯縄の修験伝承」佐藤貢(「山岳宗教史研究叢書・16」所
収 名著出版
・「妙義山・歴史と信仰の山」あさを社 昭和58年10月1日
・「赤城・榛名・妙義の山岳伝承」都九十九一(「山岳宗教史研究叢
書・16」所収 名著出版
・「北越雪譜」鈴木牧之(岡田武松校訂)ワイド岩波文庫(岩波書
店)1991年12月5日
・「巻機山由来記」(「山岳宗教史研究叢書・17」所収 名著出版)
・「谷川岳浅間大明神」清水秀高(日本山岳風土記・4」宝文館)
所収
・「白雲山妙義大権現由来」(「山岳宗教史研究叢書・17」名著出版
 所収
・「戸隠山顕光寺流記」(「山岳宗教史研究叢書・17」名著出版 所

・「迦葉山の山岳信仰」丑木幸男(「山岳宗教史研究叢書・18」名著
出版)所収
・「迦葉山縁起」(「山岳宗教史研究叢書・17」名著出版)所収
・「信濃の国姨母を山に棄つる語第九」(日本古典文学全集24「今
昔物語4」)小学館所収
・「榛名山志」(「山岳宗教史研究叢書・17」名著出版)所収
・「八海山信仰と八海講」鈴木昭英(「山岳宗教史研究叢書・9」所
収 名著出版
・「新編会津風土記」1809(文化6)年編纂 全120巻(「大日
本地誌大系」花見朔巳校訂 雄山閣)所載

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(第2章 終わり)

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