第1章 東北の山々

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▼中 扉

【東北の山々】 このページの目次
・01:八幡平と岩手山の鬼
・02:岩手山と田村麻呂
・03:秋田駒の手長彦足長彦神
・04:早池峰山の七不思議
・05:早池峰薬師岳の薬師堂と又一の滝
・06:鳥海山のご本社
・07:飯豊山・飯豊山神社と役行者
・08:飯豊連峰草履(ぞうり)塚の姥ごん
・09:吾妻連峰天狗岩
・10:一切経山の安倍貞任
・11:会津磐梯・山の怪物
・12:安達太良山の安達太良神社
・以上山域の参考文献・ご協力先

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■八幡平と岩手山の鬼

 広大な高層湿原と高山植物の宝庫・八幡平。アオモリトドマツ原
生林の中に、さざ波がゆれる神秘的な火口湖の八幡沼。まわりは木
道が敷かれシーズン中、観光客が絶えません。湖畔には美しいミズ
バショウやニッコウキスゲが咲きほこります。

 八幡平周辺は豊富な湧水に恵まれ、その丘陵や段丘の縁辺は人々
の生活の場として利用され、松尾村の野田遺跡や水切場遺跡など多
くの遺跡があり、なかには屋敷台の釜石遺跡のようにストーン・サ
ークルまで発見されています。

 報告によるとストーン・サークルは、最大規模・直径12mの円形で、
河原石を使っているという。北側には割石を方形に敷いた張り出しが
あり、中央にも径1.8mのストーン・サークルがあります。ストーン・
サークルは11号址まで検出され、出土遺物は縄文期前葉に属する
という。

 昭和になり、新聞記者であり随筆家の杉村楚人冠が八幡平を訪れ、
大自然の景観に心を打たれ紀行文に紹介されて、一躍全国的に有名
になったのでありました。

 その八幡沼のほとりに東夷討伐途中の坂上田村麻呂が建立したと
伝える「応神八幡」を祀る祠があります。

 かつて、ここから東南にそびえる岩手山は、大猛丸(おおだけま
る)という鬼が棲み、その館があったと伝承します。現在でも山頂
南側の外壁には峻険な屏風岩があり「鬼ヶ城」といっています。大
猛丸は、赤頭の高丸とも異名をとり、葛根田(かっこんだ)にある
「玄武洞」を出城にし、雫石町の大竹と呼ばれる山岳地帯本拠を置
く鬼神でした。

 乱暴者の鬼は、山麓を荒らし放題で、村人のその被害に困り果て
ていました。これを伝え聞いた坂上田村麻呂は、森ヶ岡(いまの盛
岡)に本陣を敷き、大猛丸討伐を決意。平安時代の初期の802(大
同2)年のことだったという。

 ところが大猛丸は、岩手山の鬼ヶ城にたてこもってしまいました。
当時霧山と呼ばれるほど山上は霧が深く、地形不案内の田村麻呂は
手も足も出せません。そこで家来の霧ヶ源太忠義らを北側の魔地川
(松川)沿いに偵察に向かわせ、霧の晴れ間を見はからって一気に
攻撃に出ました。たまらず大猛丸は、岩手山から八幡平に逃げ込み
ましたが、追いつめられてついに滅ぼされてしまいました。鬼神大
猛丸は朝廷にしたがわぬ、このあたりに住んでいた蝦夷(えみし)
を象徴し語りつがれています。

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 このように東夷を平定した田村麻呂は、八幡沼のほとりに全軍を
集め、神威による戦勝を感謝するとともに、応神八幡大神を勧請し
たという。8本の旗を立てて武運長久を祈願し、八幡神社を建立し
ました。そしてこの地を去るにおよび、地名を「八幡平」と命名。
近郊の「源太森」や「源太ヶ岳」は、家来の霧ヶ源太忠義にちなん
だ山名だという。

 八幡平は坂上田村麻呂の蝦夷征討に関する地名伝承が多くありま
す。周辺には「源太森」、「松川」、「松尾」、「寄木」、「時森」などの
地名があります。「西根郷土史物語」によれば、八幡平は征討軍の
旗8本を立てて戦勝を祈願したための地名だという。源太森は田村
麻呂の部下源太忠義が物見をした山だという。また松川は、魔の住
む魔地川、松尾は鬼の出る境の魔地尾、寄木は賊の集まる寄鬼、時
森は賊の大将登鬼森だという。

・岩手県安代町と松尾村、秋田県鹿角市と田沢湖町との境、JR東
北新幹線盛岡駅からバス、八幡平頂上下車、八幡平(1613m) 
2万5千分の1地形図:「八幡平」

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第1章

 

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■岩手山と田村麻呂

 岩手富士と異名のある山の名は凶暴な鬼が改心し、その証拠とし
て岩の上に手形を押して、「岩手」としたのにちなむという。

 また、啄木記念館がある玉山村渋谷地区の、突き出た大岩「岩出
の森」にちなむとも、アイヌ語のイワァ・テェケ(岩の手・枝脈)など
の説があります。

 そういえば、外輪山の内側の噴火口内にまた妙高山があって、ケ
ルンがふたつ積まれてそれが2本の角になり、火口壁の上からみる
とまるで鬼の顔の形になっています。かつて岩手山には、大猛丸と
いう鬼が棲み、その館があったという伝説があります。

 その妙高山の東側火口に岩手山神社奥宮があります。神仏混交の
時代には岩鷲(がんじゅ)権現、田村権現、田村大明神などといっ
たという。
 岩鷲の名は、岩手山の異名である岩鷲山からきたもの。田村、田
村とつづくのは、社伝にある延歴20(801・平安時代初め)年、
あの坂上田村麻呂が蝦夷を平定し、国土安泰を祈願してここに神社
を創建したという故事からでしょうか。

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 この権現さまは獅子頭をご神体にするという。そういえば外輪山
薬師岳付近に石の獅子頭が置いてあります。

 祠に祭る神は大国主命である大名牟遅命(おおなむちのみこと)、
穀物の神・宇迦之御魂命(うがのみたまのみこと)、それに日本武
尊(やまとたけるのみこと)の三柱。岩手山への四つの登山口のう
ち、柳沢口、雫石(しずくいし)口、平笠口には里宮としての岩手
山神社があります。

 岩手山の神は作神でもあり、戦争中は武勇の神としても有名だっ
たという。かつて地元の人は奥宮でお札を求めハイマツの枝を折っ
て帰り、虫除けに田畑に立てたのだそうです。

 毎年4月から5月ごろ農事を知らせる雪形もあらわれるそうで
す。「種蒔き爺」といい、腰をかがめてざるを持っている形で、3
ヶ所もあり里から見えるのはそのうちの2ヶ所という。また、岩鷲
山のもとになっている鷲の雪形もあります。

 11世紀半ばには「前九年の役」で源頼義が安倍貞任(あべのさ
だとう)追討の際、戦勝を祈願したこともあったと伝えます。また、
1189(文治5)年、源頼朝が藤原泰衡(ふじわらのやすひら)
を攻略した時、土地の豪族工藤小次郎行光が泰衡の捕縛を祈り、岩
手山神社のご利益からか、願いが成就したなどとしています。いま
の祠(ほこら)は1686(貞享3)年の岩手山大噴火後に再建し
たものという。

 岩手山の名は凶暴な鬼が改心し、その証拠として岩の上に手形を
押して、「岩手」としたのだとも、啄木記念館がある玉山村渋谷地
区の、突き出た大岩「岩出の森」にちなむとも、またアイヌ語のイ
ワァ・テェケ(岩の手・枝脈)などの説があります。

・岩手県雫石町と松尾村との境、JR東北新幹線盛岡駅からバス、
柳沢から歩いて5時間半で岩手山(2038m) 2万5千分の1地
形図:「大更」

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第1章

 

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■秋田駒ヶ岳の手長彦足長彦神

 秋田駒ヶ岳はその名のように馬にちなんだ山。雪解けのころ、こ
の山の横岳の山腹にたくましい馬の形が黒くあらわれるのが山名の
由来。秋田駒は、女目岳(おめだけ)、男岳(おだけ)、女岳(めだ
け)などの総称で、かつてはそのたくましく奔走する馬を雄馬にみ
たて「雄駒箇嶽」「雄駒嶽」と呼称しました。

 ここは昔から人も通らぬところと恐れられ「邦内郷村志」に「里
人相伝、此山中魍魎(もうりょう)鬼類之棲処、甚多怪異、故自昔
至于今、無登山而見其境者、尋常人間不通之地也、最峻高絶壁四時
有雪、自是羽州秋田境」とあります。

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 またこんな話も伝承されています。その昔、秋田駒には手長彦、
足長彦という2神がいて、山麓の温泉神居(かむい)の湯(いまの
国見亀の湯)を見つけ、村人の病気の治癒に利用させたという。

 この神は天狗どもを率い、雪毛の神馬にまたがり、女岳の馬場小
路で遊んでいましたが、馬の死後、山頂に祠を建てて神としてまつ
ったと伝えています。いまでも男岳山頂には赤い鳥居を前に3つの
祠があります。

 だいたいこのあたりは、徳川幕府から派遣されてくる「御買馬衆」
の通り路。横手、角館、生保内(おぼない=いまの田沢湖)から国
見峠を越えて盛岡に入り、目的の軍馬を購入するもの。ところがこ
の役人が大いばり。沿道の村人を人夫にかり出し、一行6、70人
の宿泊の準備から用度品、食事の用意までさせられ、村びとはその
期間は農作業や山仕事など手につかなかったという。

 ある夏、阿弥陀池の避難小屋を一夜の宿としました。他に宿泊者
はひとりのみ。夕食をとり夕闇せまる阿弥陀池のほとりを散歩しま
す。カジカガエルの大合唱がはじまっています。木道にしゃがみ込
み、そっとヘッドランプのあかりを当ててみますが、その姿は見え
ません。離れるとまた大合唱がはじまります。

 それにしても雪が積もり、厚い氷につつまれる小さな池で、これ
だけたくさんのカジカたちはどのようにして越冬するのでしょう
か。

・秋田県田沢湖町と岩手県雫石町との境、JR秋田新幹線田沢湖駅
からバス、駒ヶ岳八合目下車1時間で秋田駒ヶ岳(1637m) 2
万5千分の1地形図「秋田駒ヶ岳」

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第1章

 

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■早池峰山と七不思議

 540種もの高山植物が咲き乱れることで有名な岩手県の早池峰
山。その山頂には早池峰山神社奥宮があって「創始千百七十年記念」
と書いた碑とともに、若宮と本宮がならんでいます。ふもとの各地
にはそれぞれ里宮があって、多少ちがったいい伝えが残っています。

 遠野市附馬牛町の早池峰山神社では「平安時代初期の大同元(8
07)年3月8日、遠野の来内村(いまの上郷村)の四角藤蔵とい
う猟師が山頂付近の岩穴で泊まったところ、夜中に犬が吠え騒ぐの
で起きてみたら外が真昼のように明るく輝いています。出てみると
金色の光明、目も眩むばかりの神霊の形相があります。

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 それを拝した藤蔵はその尊厳に恐れ拝伏し、これより殺生を絶っ
て神霊に奉仕することを誓い、姓を始閣と定め自宅と、早池峰山山
頂に神宮を建てました。それが早池峰神社のが始まりだという。ま
た山頂に円形の常に清水をたたえる一霊泉があり、これが山名にな
っているともいいます(「奥州南部早池峰神山縁起」)。

 一方、稗貫郡大迫町側の神社社伝では大同2年兵衛郷成房(田中
兵衛)という者が、からだ中真っ白で額に金星がある不思議な鹿を
追ううち、いつか早池峰山頂に登っていました。そしてまばゆい金
色の権現を感得。たまたま遠野の藤蔵もいっしょにいて、ふたりは
そこに祠を建て本宮とし、それぞれの麓に遥拝所をつくり姫大神を
祀ったといいます(「早池峰山神社社記」)。しかしいまは瀬織津姫
という神(流れの速い川瀬にいて人の罪や汚れを海にはらう神)に
変更しているという。

 また「定本附馬牛村誌」によれば早池峰山には「七不思議」があ
り「御山先立往来」では、@天灯、A竜灯、B御田植え場の早乙女
の声、C竜ヶ馬場の駒の声、D鶏頭山の鶏の声、E安倍貞任の軍勢
の音、F下退の者は帰る途を知らずとあり「早池峰詣」ではF「河
原の坊の読経の声」になっていると記しています。

 8月はじめ、河原坊キャンプ場で1泊、山頂に向かおうとしたら
山小屋の人が双眼鏡で山頂を監視しています。聞けば2、3日前、
高山植物を盗掘した者がいて、駅まで追いかけとうとう捕まえてみ
たら某大学の教授だったと聞きました。

・岩手県大迫町と川井村との境 JR花巻駅からバス、川原の坊か
ら3時間20分で早池峰山(1917m) 2万5千分の1地形図「早池
峰山」

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第1章

 

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■薬師岳の薬師堂と又一の滝

 早池峰山の南、小田越えを隔てて対峙する薬師岳は、その名の通
り薬師信仰に由来しています。山頂の南麓を、小田越えから又一の
滝を経て遠野市附馬牛町に至る「横通り」が通っています。その途
中に薬師堂が建っていて、中に薬師如来の座像がまつられています。

 これは、岩手県遠野市小出集落の佐々木祐蔵と、上組丁の川村市
郎兵衛の二人が奉納したものだそうで、いまでも附馬牛町の人たち
の篤い信仰を受けているといいます。

 遠野市側では薬師岳を前薬師と呼んでいます。このことから早池
峰山をもセットにして薬師岳と呼び「お山かけ」(お参り)をした
らしい。かつて薬師岳には石像の権現が祀られていたといいます。
またここと早池峰山頂と結ぶ線上にも、神遣権現社(かみわれごん
げんしゃ)、宿の新山神社、その他の旧跡がならんでいたといいま
すが、いまは見あたりません。

 昔、遠野市土淵町山口地区の乱暴者が、薬師岳に登ったところ、
天狗に麓まで送り返されたという話が伝わっています。柳田国男の
「遠野物語」にも数々の天狗話が出てきまが、なかでも名前のある
大天狗、遠野郷清六は、もと花巻付近の人だったそうで、よく早池
峰山から薬師岳あたりを徘徊していたそうです。同書によれば清六
天狗は「おれは物の王だと常にいっていた。早池峰山などに登るに
も、いつでもひとの後から行って、頂上に著いて見ると知らぬ間に
すでに先へ来ている。そうしてお前たちはどうしてこんなに遅かっ
たかと言って笑ったそうである。」(角川文庫)。乱暴者を追い返し
た薬師岳の天狗はあるいは清六だったのかもしれません。

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 また、薬師岳南腹にある又一の滝は、修験宝明院宥永が発見し、
道を開いたので古くは「宥永の滝」と呼んでいたそうです。その後、
諸国行脚のある僧が薬師岳に登るとき、この滝をほめ「紀州那智の
滝は、全国一といわれるがこの滝はそれに次いでりっぱな滝だ」と
いったところ、滝が怒って水を止めてしまったという。あわてた僧
は「この滝も又、日本一なり」と言い直したら、水がいままでのよ
うに流れだしました。そこで「又一の滝」という名がついたといい
ます。ホントかいな。

・岩手県遠野市と大迫町、川井村との境、JR東北新幹線新花巻駅
からバス、川原の坊下車、2時間20分で薬師岳(1645m) 2万
5千分の1地形図「早池峰山」

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第1章

 

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■鳥海山の御本社

 朝日が日本海に三角形の鳥海山の影を写す有名な「影鳥海」。夏
のシーズンには、大勢の登山者で山頂の山小屋は押すな押すなの大
混雑です。その小屋のそばに御本社と呼ばれる神社があります。鳥
海山大物忌(おおものいみ)神社で、大物忌神という神さまが祭ら
れています。大物忌とは、天照大神(あまてらすおおみかみ)の朝
夕の食事の世話を奉仕した神官の職名だという。そのためか、穀物
の神であり、食料の神とされる倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
と、同じく豊受気姫神(とようけひめのかみ)を相殿神として祭っ
ていると「鳥海山大物忌神社社伝」にあります。

 だいたい神社や仏閣の社伝や縁起ほど信用できるものではありま
せんが、大物忌神社の創立は景行(けいこう)天皇(71〜130)
時代あたりだとされ、欽明(きんめい)天皇25(564)年、鳥
海山上に御本社を置いたとしているから古い時代の話です。

 朝廷の蝦夷開拓にともない、その神威が崇敬されるようになり、
平安時代初期(905)の律令の細則を書いた「延喜式」では名神
大社に名を連ね、その国の第一の神社・出羽国宮として厚く信仰さ
れたということです。

 鳥海山はまた、山岳宗教の霊場としても栄え、修験道の修行の場
になり、御本社は鳥海山大権現と呼ばれ、本地仏(ほんじぶつ)は
薬師如来だといい、明治2年の神仏分離まで山伏でにぎわったとい
う。

 ある年の夏、湯ノ台コースの河原宿(かわらじゅく)を経て、心
という字に雪が残る「心字雪」雪渓を登り、御本社わきの山小屋に
着いたころはもう寝るところがないほどの混雑ぶりでした。このあ
たり一帯はキャンプ禁止でテントを張る場所もない始末。小屋の人
の意向でしかたなく神殿の中、神さまと同宿させてもらいました。

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  神鏡と御神酒のならぶなか、缶ビールを開けます。隣りにいた地
元の高校の飲んべえ先生が、大きな水筒に詰めた地酒をついでくれ、
「鳥海山はいい山だ」と繰り返します。ひとしきりふるさとの自慢
話を聞いたあと酔って寝袋にもぐり込みました。夢うつつにふと神
霊にでも出会ったような錯覚に陥り、心地よく眠りにつけました。
いまもへたな絵と文でなんとかごはんにありついていられるのは、
このときのご利益がつづいているからにちがいありません。

・山形県遊佐町と秋田県鳥海町との境 JR羽越本線酒田駅からバ
ス、湯ノ台から河原宿経由6時間で鳥海山(2236m) 2万5千
分の1地形図:「鳥海山」

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第1章

 

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■飯豊山・飯豊山神社と役ノ行者

 飯豊(いいで)連峰の主峰・飯豊山頂近くに飯豊山神社がありま
す。その神社の社伝にはこんな話が伝わっています。時は飛鳥時代
の白雉(はくち)3(652)年、あの役ノ行者と知道和尚がはじ
めて飯豊山に登頂。豊かに盛った飯のような山なので「飯豊」と名
づけ、五子王をまつり五社権現ととなえ、山麓の一ノ木村(いまの
福島県山都町)に薬師寺を建てて別当寺としたといいます。五子王
は、越王、つまり大彦命(おおひこのみこと)の転訛で、古四王、
腰王と同じものだと、柞木田龍善氏が「修験の山々」のなかで、日
本山岳会越後支部長の藤島玄氏の話として述べています。

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 また唐の青龍寺の尊通国師智道と役ノ行者のふたりが開山したと
するものもあり、役ノ行者が開いたあと平安初期の僧徳一と弘法大
師が中興したする古書もあります。

 別の伝承では、五社権現は一ノ王子、二ノ王子、三ノ王子、四ノ
王子、五ノ王子の総体をいい、五王子が御井命(みいのみこと・井
泉の神)だとし「頂に五王子社あり、祭神御井命是を合わせて五社
権現と云」と「新編会津風土記」にあります。本地仏は一ノ王子・
法界虚空蔵(こくぞう)、二ノ王子・金剛虚空蔵、三ノ王子・宝光
虚空蔵、四ノ王子・蓮華虚空蔵、五ノ王子・業用虚空蔵をあわせて
五大虚空蔵といっていたという。明治になると一王子が御井命に変
わり五王子が高照姫になっています。

 一方、小国町に残る伝承では、飯豊山の開創はふたりの猟師であ
り、これがのちの僧知頴、南海で、古書により年代が食い違います
が(平安時代とするものもある)、中津川から道を開き、長者原へ
の途中、片貝の白雲山不動院にもお寺を建てて、道者(参詣者)が
小国、長者原口、中津川口などから列をなして訪れるほどの盛んな
山岳道場だったという。

 ところが明治になり、神仏分離令が出され廃仏棄釈(はいぶつき
しゃく)の嵐が吹き荒れます。そのまま放っておけば五社権現社は
焼き討ちにも遭いかねません。そこでいち早く「飯豊山神社」と改
称し、祭神も改めました。頂上本社と山麓の神社、それも場所によ
って祭る神の名前が異なるのはその時のあわてぶりを示すものでし
ょうか。

 また、飯豊山の「飯」が通じるため、稲作信仰の山としても古く
から信仰の対象になっています。

・御西小屋までは福島県山都町・それから先は山形県小国町と新潟
県鹿瀬町との境 JR磐越西線山都駅かタクシー・川入りからのべ
8時間30で飯豊山(2150m) 2万5千図「飯豊山」 2万5千
分の1地形図「飯豊山」

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第1章

 

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■飯豊山・草履塚の姥権

 いまでこそ「ヤマだ、イワだ」と女性がたくさんおしかけていま
すが、かつては山は女人禁制で、信仰の山に登ることは神を冒とく
する行為でした。それでも、勇気ある女性たちが禁を犯して山に登
って行ったらしく、神罰にあたったという話はよく耳にします。

 ここ福島県と山形県、新潟県にまたがる飯豊山、草履(ぞうり)
塚から御秘所(おひそ)手前の姥権現もそのひとつ。石垣に囲まれ
た中に体を布にまかれ、風化した石像がすごい形相をしています。

 その昔、羽前の国小松出身の姥が飯豊山に登りたい一念でここま
で来ましたが神の怒りにふれ、むなしく石にされたという伝説があ
ります。羽前小松はいまの山形県川西町あたり、JR米坂線に羽前
小松駅があります。

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 かつて参詣者は草履塚で草履をはきかえ、身や心を一新して登っ
た。この一帯は「無間ヶ岳」とよばれる難所。とくに御秘所は特別
な場所で「無間地獄」に通じる「見ても見えない口無し穴」があり、
「見るな語るな、語らば聞くな」といい伝えられる秘所で、かつて
はよく神隠しにあうところだったという。

 飯豊山は大昔から修験道の聖地。山頂に飯豊神社があり、明治の
神仏分離令が出るまでは、五社権現社を(本地仏は五大虚空蔵)を
まつってあったという。五社権現は、一ノ王子から五ノ王子までを
まつる五王子社ともいい、一ノ王子(御井神)は山頂に鎮座すると
いう。山に御をつけ「お山」と呼ばれるほど民衆からも信仰されて
いたところ。とくに会津(福島県)側の信仰が厚く、16世紀末こ
ろにはすでに登拝路ができていたらしいといいます。

 そんな賑わいにあこがれ、せっかく登って来たのに……。石像は
異様な姿だけに無念さが伝わってきます。ちなみに記録に残る女人
禁制のころのはじめての飯豊山への女性登山は1915(大正4)
年、福島県会津女子高校出身の当時の若松門田村の猪股某サン18
歳だったそうです。

 草履塚を訪れたのは、7月の末のことでした。登山口の川入りか
ら湿った樹林の中の急坂を登り、三国小屋で一泊しました。翌日の
暑さは特別で、草いきれの道を過ぎたところに姥権はありました。
誰が供えたのか、ビスケットが2、3枚無雑作に置いてあるのが印
象的でした。

・御西小屋までは福島県山都町・それから先は山形県小国町と新潟
県鹿瀬町との境 JR磐越西線山都駅かタクシー・川入りからのべ
8時間30で飯豊山(2150m) 2万5千図「飯豊山」 2
万5千分の1地形図:「飯豊山」

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第1章

 

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■西吾妻山天狗岩の吾妻神社

 「吾妻山……奥羽の境にて耶麻信夫置賜三群に跨る……東を東吾
妻と云ひ、中を中吾妻と云ひ、西を西吾妻と云、遠く望めば三山相
並び、いづれを高しとは知らざれども中吾妻尤広大なりと云、三山
の前後に遶れる諸峰みな吾妻を総合とす」と「新編会津風土記」に
あります。

 「吾妻山の歴史」(榊原源隆著)では「吾妻山は、高祖神変大菩
薩(役ノ行者)白鳳14年(縁起では天武14・686年)の開山
として(出羽三山を経て会津に入山後)…土湯岳にて不思議の霊示
によって、胎金両部の霊窟を開け、正身の毘盧舎那仏を拝して、南
麓に精舎を建て年号を用いて寺の名を吾妻山白鳳寺と名づけた」と
しています。これが吾妻修験のはじまりといいます。その後、天安
2(858)年藤原義円が唐松沢に吾妻山遥拝所を設け、成就院と
名づけました。

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 当時は吾妻明神をまつる吾妻神社を吾妻大権現とし、東吾妻から
中吾妻、西吾妻に至るまで修行の道場になっていたそうです。この
連峰の最高峰の西吾妻山にある天狗岩も山伏修行の場。この岩がご
ろごろ敷き詰めたような広場にりっぱな祠が石垣の中に建っていま
す。

 この祠も吾妻神社といったらしく、前出の「新編会津風土記」酸
川野村の項には、西吾妻は檜原村に属し、(吾妻の名はその昔、日
本武尊(やまとたける)が碓氷峠で妻をしのび「吾妻はや」といっ
た故事にちなんだとするため)「昔日本武尊を祀れる社あり故に名
付けり」とあり、吾妻権現の霊場として民衆の信奉があつく、かつ
ては毎年7、8月のころ猪苗代城下から、山伏と在家の峰入りが列
をなして登拝にきたといいます。

 吾妻山の信仰のひとつに養蚕信仰があり、かつては養蚕のお守り
札を配っていました。いまでも猪苗代町では年末には、田の神など
のお札が配布されるという。これは「吾妻権現の信仰を久しきに亙
って伝えてきた庶民の真実の信仰・祈願の内容は、彼等の主たる生
業であった蚕養の吉祥と其の属する集落共同体の安穏ー降っては家
内の安全とにあったであろう」(「吾妻山の修験道」から)とされ、
いまでは奥ノ院を養蚕神社としている所もあります。 

・福島県北塩原村と山形県米沢市との境 山形新幹線米沢駅からバ
ス、白布温泉から4時間半で西吾妻山(2035m) 2万5千分の1地
形図:「吾妻山」

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第1章

 

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■一切経山の安倍貞任

 吾妻連峰の一角・家形山、一切経山(1949m)は福島あたりから見
ると「あずま屋」の屋根の形に似ています。そこでついた名前が「吾
妻山」。見方によっては大きな牛が寝ているようであることでも有
名です。古書に「実の名は一切経山なれど、総称して吾妻山という」
とあり、昔は一切経山が主峰とされていたそうです。

 まだ噴煙をあげている一切経山は、空海が山頂に霊場を建てるか
わりに「一切経」を埋めた所だと伝えています。一切経は、経・律
・論の三蔵全部、7千余巻の総称ことだという。

 また「信達志」という本によれば、「大笹生邨蓮光寺開山勇猛法
師法華経を一字一石に書き写し峰上に埋め、塚を築きしなり」とあ
り、山名由来の一つになっています。

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 この勇猛法師こそ、前九年の役(1051から62)を起こした
安倍貞任(あべのさだとう)のことだという説があります。康平5
年9月、衣川関で源義家(八幡太郎)に攻めたてられ敗走するとき、
義家に「衣のたてはほころびにけり」とうたいかけられた貞任、「年
を経し糸のみだれのくるしさに」と答えた話は有名です。

 その教養に感じ入った義家は、矢をおさめ貞任を見逃しました。
「さばかりのたたかいの中に、やさしかりける事哉」と、「古今著
聞集」(鎌倉時代の説話集)にあります。こうして衣川の柵を脱出
した安倍貞任、のち仏門に入り一切経の経本一千巻をこの山頂に埋
めたのだというのです。

 また、一切経山を中心に東に安達太良(あだたら)山、西に磐梯
山と西吾妻を結ぶ左右の稜線の広大な地域が吾妻信仰の対象で、一
切の諸仏諸尊をこの聖地に招請する意味もあり、18世紀の「吾妻
山々案内記」は、吾妻山を諸仏集会の浄土としているという(「東
北の山岳信仰」)。現在も山頂には石を積んだ塚があり、「空気大感
謝祭」「日本敬神宗祖自修団」と書いた木柱や塚が建っています。
山頂直下には、水の色が五色に変わるという五色沼が青く輝いてい
ます。

 ある秋、一切経山頂の石塚を写真に撮ったあと、沼のわきでテン
トを張りました。太陽が西に沈み、変わって白っぽい月が湖面を照
らしはじめました。黒い影になった一切経山と、湖面に写る月。持
参した松茸酒が腹にしみました。

・福島県福島市と猪苗代町との境 東北新幹線福島駅からバス、浄
土平から歩いて1時間40分で一切経山(1949m) 2万5千分の1
地形図:「吾妻山」

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第1章

 

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■会津磐梯山の磐梯明神

 …ササに黄金がなりさがる…と歌われる会津磐梯山。大同元(8
06)年の爆発前の磐梯山は標高2200mはあったと推測されて
います。「奥州会津恵日寺縁起」(「新編会津風土記」)には「磐梯山、
もとは病脳山(やまうさん)とて魔魅(まみ)住み居て常に祟りを
なし農産物を害せり。のみならず山麓に民家あまたありしに大同元
年、大爆発を起こさせ月輪荘、更科荘が一夜に湖に化し、溺死者数
知れず。この災害を聞きて空海この地に来たりて、八田野稲荷の森
にて秘法を行せしにより、魔魅は別峰烏帽子岳に逃げ去りぬ。この
時山神、形を現しければ空海これを祝いて磐梯明神と称し、舞楽を
奏して明神と名づく」とあります。そんな記述からからこんな伝説
が残っています。

 その昔、磐梯山と明神ヶ岳に両足を踏ん張って立つ「足長」と、
猪苗代湖の水を手ですくって会津中にばらまく「手長」という夫婦
の怪物が棲んでいました。この怪物は、いたずら好きの乱暴者で雲
を呼んで会津一帯を真っ暗にし嵐を起こすわ、作物を荒らすわで、
村人は困り果てていました。そんなとき弘法大師空海がやってきて、
磐梯山の頂上に登り、手長足長に会い、「お前たちは何でもできる
と威張っているようだが大きくなることができるか」というと、手
長足長は見る間に天まで届く大きさになりました。

 それを見た大師は「大きくはなれるが、わしの手の平に乗るよう
な小さくはなれまい」。「何を言う。俺たちに出来ないことはない」
手長足長は、みるみる小さくなって大師の手に乗りました。大師は
すかさず用意していた石の箱に入れ蓋をし、呪文を唱え出られなく
してしまいました。「お前たちはいままでさんざん悪いことをして
きたが、神として磐梯の山に祭ってやるからこれからは、人々のた
めに尽くすのだぞ」と、石の箱を山頂に埋め、磐梯明神として祭っ
たといいます(「日本伝説大系」)。空海に救われた村人は、山名を
磐梯山と改名。山頂の肩にある弘法清水と空海の大使像は、この伝
説がもとになっているそうです。

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 磐梯山とは、天に達するような磐の梯子の意味だそうです。その
山に宿る神霊が磐梯明神。かつては山頂に磐梯神社があったといい
ます。平安時代、空海のあとを継いだ徳一により、古城ヶ峰南麓磐
梯町に磐梯山恵日寺が創られ、鎌倉時代以降は修験道の山として知
られてきました。真言宗豊山派。磐梯山も農業の神としても信仰さ
れてきた山です。

 いま山頂にある祠には、皇高天原命とかかれた石碑がまつられ、
もとからの地主神である磐梯明神の石碑はその下に積まれた石の間
にあり、風雨にさらされています。

・福島県猪苗代町と磐梯町、北塩原村との境JR磐越西線猪苗代駅
からバス、磐梯高原駅から歩いて4時間20分で会津磐梯山
(1819m) 2万5千分の1地形図「磐梯山」

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第1章

 

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■安達太良山の安達太良神社

 福島県の安達太良山(1700m)は、一名乳首山と呼ばれ、山頂
がなるほどと思わせる形のでっかいオッパイ山です。岳山(だけや
ま)、二本松岳、東岳などの名もあります。アダタラは「安達郡一
番の山・太郎山」の意味、また「製鉄のふいごのタタラ」、「アイヌ
語の乳の意味のアタタ」からきたなどの、名前の由来説があります
がはっきりしません。その山頂に「八紘一宇」(神武天皇が奈良県
の橿原の宮に都を定めたときの詔書にもとづいたもの)の文字を彫
った石碑とならんで、小さな石祠が建っています。

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 ここはもと安達太良神社のあったところ。祭る神は、日本神話の
根元神である造化三神のうちの2神、高御産巣日神(たかみむすび
のかみ)と神産巣日神(かみむすびのかみ)(男女一体の神で万物
生成を担当)と、飯豊和気神(いいでわけのかみ)、温泉の湯治の
霊力を神格化した小陽日温泉神(おゆひのせんのかみ)(安達太良
山からわき出る温泉か?)、それに大刀自神(おおとじのかみ)な
どという神々だそうです。しかし、小陽日温泉神の「陽」は「神祇
志料」という本に「結温泉神(ゆひせんのかみ)」とあり、「湯」の
誤写だという(「霊山・安達太良山とその信仰」)。

 ところが、久安2年というから1146年(平安時代後半)、神
社を山頂から安達郡本宮町に移し、宇奈己呂別(うなころわけ)皇
霊二神を合祀し、いちだんとにぎやかになりました。そして安達一
郡三十三郷の総鎮守様として、三社明神とか安達明神などと呼ばれ、
かつては「山鳥の神秘」、「真弓の神事」などが行われていたといい
ます。

 また山岳仏教での岳山駈けが行われ、山中には勢至平、弥陀ヶ原、
梵字石、僧悟台、薬師岳などの地名も残っています。山麓の大玉村
の相応寺、安達町の円東寺は、ともに山号を安達太良山といい、そ
れぞれ寺の縁起にはかつて安達太良山中に寺域をもっていたと書か
れているそうです。

 4月の末、東麓の奥岳温泉に着いたころに天気が荒れだし猛吹雪。
やむなく、くろがね小屋行きはあきらめて当地の温泉に入ります。
テレビではあちこちの山から遭難救助要請が続くなどと大騒ぎ。わ
が家でも心配していないかと、おのおの自宅に電話をかけています。

 翌朝はうそのような快晴のもと、たどり着いた安達太良山頂は、
エビノシッポ(岩氷)が輝くなか、例の石碑が凍てついていました。

・福島県二本松市、大玉村、郡山市と猪苗代町との境 JR東北本
線二本松駅からバス、奥岳温泉から3時間で安達太良山 2万5千
分の1地形図「安達太良山」

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第1章

 

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■東北の山々ご協力

・岩手県遠野市立博物館博物係
・岩手県岩手郡雫石町教育委員会社会教育課
・山形県西村山郡朝日町教育委員会生涯学習課
・福島県耶麻郡猪苗代町教育委員会文化財保護係

■東北の山々参考文献

・「早池峰神社社記」早池峰神社(岩手県大迫町)S62年
・「定本附馬牛村誌」岩手県遠野市
・「鳥海山大物忌神社」パンフ 鳥海山頂大物忌神社(山形県)
・「岩手山の信仰と修験」田中喜多美(「山岳宗教史研究叢書・7」
  名著出版 所収)
・「鳥海山信仰と山麓修験」佐藤久治(「山岳宗教史研究叢書・7」
  名著出版 所収)
・「飯豊山の修験道」中地茂男(「山岳宗教史研究叢書・7」名著出
  版 所収)
・「磐梯山信仰」橋本武(「山岳宗教史研究叢書・7」名著出版 所
  収)
・「霊山安達太良山とその信仰」梅宮茂(「山岳宗教史研究叢書・7」
  名著出版 所収)
・「出羽三山・鳥海山の山岳伝承」大友義助(「山岳宗教史研究叢書
 ・16」名著出版 所収)
・「会津・磐梯の修験伝承」藤田定興(「山岳宗教史研究叢書・16」
  名著出版 所収)
・「東北の山岳信仰」岩崎敏夫(岩崎美術社)1996.2.25
・「早池峰山紀行」岡田喜一(「日本山岳風土記・5」宝文館 所収
・「出羽の名山鳥海」武田久吉(「日本山岳風土記・5」宝文館 所
  収)
・「遠野物語」柳田国男(角川文庫)角川書店 H7年5月30日

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(第1章 終わり)

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