CD-R「ふるさと歳時記」
まえおき

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まえおき (この章の目次)
 ・(1)カレンダー ・(2)二十四節気 ・(3)五節句
 ・(4)十二支 ・(5)雑節

 

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▼(1)カレンダー

・(1)カレンダー・閏(うるう)秒
 どこの家庭にもあるカレンダー。それぞれ誕生日や学校の予定な
どが書き込まれています。

 ふつう使われる暦は、太陽の動きをもとにした「太陽暦法」とい
うものだそうです。その太陽暦法の中でも今、世界各国で使われて
いるのがグレゴリオ暦。ローマ法王グレゴリウス十三世により施行
された暦で、閏(うるう)年は、4で割り切れる年とするが100で
割った商がさらに4で割り切れない年は平年としています。この方
法は、1万年に3日しか狂いがないといいます。

 それに対して、月の満ち欠けだけを基準にし、太陽の動きをまっ
たく考慮しない暦を純太陰暦というそうです。いま手元にカレンダ
ーや時計などがなかったとき、月日を知る方法は満月から満月まで
を1ヶ月とするのが一番簡単です。

 しかしこれでは、1年が354日。いまの暦より11日も短いため月
々が季節と関係がなくなってしまい、そのままにしておくと次第に
ずれが大きくなり、正月が真夏になってしまうこともあります。

 そこで中国では、適当に閏月を置いて太陽の動きの1年の長さに
近づけようとしました。それを太陰太陽暦(単に太陰暦とも)とい
います。1年を24で割ってそれぞれにその季節にふさわしい名前を
つけた「二十四節気」(立春、雨水、啓蟄、春分など)やさらに細
かく割った七十二候も考え出されました。

 日本では明治まで、中国流の太陰暦(太陰太陽暦)を採用。日本
の風土に合うよう、雑節や五節供を取り入れるなど工夫をして使っ
てきました。この暦は太陽年に近くするために、19年に7回閏月
(閏月のある年は、1年を13ヶ月とした)を置いていたといいま
す。したがって正月が2ヶ月続く年もできました。

 幕末、外国との交流が増え通商が盛んになると、海外で採用して
いる太陽暦に合わせる必要があります。明治政府はついに太陽暦採
用に踏み切りました。

 太陰暦(旧暦)の明治5(1872)年12月3日を、太陽暦(新暦)
の明治6年1月1日としました。(だから明治5年12月4日から12
月31日は存在しなかったことになります)。

 しかし、中国から伝来以来、千数百年も使われてきたいままでの
暦です。行事や習慣、歳事はすべて旧暦で行われていたもの。太陽
暦の採用後は、新暦、旧暦、月おくれと地方地方で行う日どりが混
乱します。いまでもお盆に月おくれがあるのはこの名残りだそうで
す。

 また各地で行われるお祭りは、ほとんどがいまだに旧暦。毎月の
異名(睦月、如月、弥生……)や二十四節気や雑節もみな旧暦にち
なむもの。カレンダーに旧暦を併記してあるのもうなづけます。

 またカレンダーには○○の日、○○記念日、十二支も載っており、
ある種の情報源にもなっています。毎日の日付けの数字の裏にも、
その日におこった過去の歴史的事件もかくれています。

 こんなしくみがわかってくると、カレンダーもまた別の姿がみえ
てきます。こんなカレンダーにこだわってみたのがこの本です。

 

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▼(2)二十四節気

 昔の暦の太陰太陽暦(陰暦)は、月のみちかけをもとにしてつく
られた暦です。それより前の暦・太陰暦の欠点を太陽暦の要素(二
十四節気もこれに含まれる)をつけ加えることで補えたものだとい
います。

 暦がまだ太陰暦だった古代中国では、暦の日づけが太陽の位置と
は関係がないことから、暦と春夏秋冬(一年)の周期にズレがうま
れてしまい、農作業などに大変不便ででした。年によっては、暦の
うえの月日と、実際の季節が半月もずれてしまうこともありました。
これでは、いつ農作業をはじめていいか分かりません。

 いかにして気侯の移り変わりを民衆に正しく知らることができる
か。そのためには太陰暦と季節との食い違いをどうしたら直すこと
ができるかということでした。そして昔の人たちは「二十四節気」
というものを考え出したのだという。

 太陽が春分点を過ぎてから、ふたたび春分点に到達するまでの黄
経を360度とし、これを24で割って、それにそれぞれに各節気を配
置して、一年間の気侯の移り変わりをわかるようにしたのです。

 それぞれの節気の期間は、15日または16日で、各気の間隔はい
つも同じで、節と中は交互にならべられています。この二十四節気
が導入されたことにより、太陰暦は「太陰太陽暦」へと移行し、気
侯の移り変わりを太陽の移り変わりで示すことができるようになり
ました。これによって、毎年同じ季節に同じ節気が暦の上に掲載さ
れるようになったため、農作業などに便利になったのだそうです。

 しかし、この二十四節気は、古代中国の黄河流域の季節にもとづ
いてつくられたため、日本でそのまま使うと多少ズレが出てきます。
しかしながらこの二十四節気は、南北にほそ長くのびる日本列島で
は、だいたい半月ごとの季節の変化をあらわすものとして、たいへ
ん便利なため、日本の風土のなかに根づいていきました。

 二十四節気は、気侯の始まりに割り当てられています。春は立春
より、夏は立夏より、秋は立秋より、冬は立冬より始まっています。
そして立春をすぎると、いくら寒くても「余寒」とされ、立秋をす
ぎるといくら暑くても「残暑」といっています。

 春分、秋分はそれぞれ春、秋の真ん中にあって、二つに分けると
ころから名づけたものらしい。実際の気侯からいえば、立春のころ
が最も寒いですよね。

 それを「春立つ」としているのは、これ以上は寒くならないゾ、
これからは暖かくなるだけだゾという考え方に立っているのだとい
う。

 つまり「寒さ極まって春の気きざす」という中国の思想にもとづ
いているのだそうです。逆にいえば立春は寒さの極にあるわけです。
これは、春、夏、秋にも同じことがいえることでです。

 二十四節気には「立春」から始まり、「雨水」、「啓蟄」、「春分」、
「清明」、「穀雨」、「立夏」、「小満」、「芒種」、「夏至」、「小暑」、「大
暑」、「立秋」、「処暑」、「白露」、「秋分」、「寒露」、「霜降」、「立冬」、
「小雪」、「大雪」、「冬至」、「小寒」、「大寒」があります。

【参考】
「暦の百科事典」暦の会(新人物往来社)1986年(昭和61)

 

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▼(3)五節句

 五節句(五節供)とは、人日(じんじつ・正月7日)・上巳(じ
ょうし・3月3日)・端午(たんご・5月5日)・七夕(しちせき・
7月7日)・重陽(ちょうよう・9月9日)の五つです。昔から「節
句働き」という言葉がありますが、節句の日には農作業などの仕事
を休む習慣がありました。

 子どもころ、たまに畑仕事を手伝おうとすると、そんな時かぎっ
て節句の日だったりして、よくおばあさんに「お前は節句働きだ」
と笑われました。

 ・「人日」は、字の通り「人の日」のことだそうです。中国では
正月1日は「鶏の日」だという。2日は「狗(いぬ)の日」、3日
を「猪の日」、4日は「羊」、5日は「牛の日」、6日は「馬の日」、
そして7日が「人の日」だそうです。それぞれの日にはその動物を
殺さないようにしたのだそうです。

 7日の「人の日」には、人に対する刑罰は行わなかったといいま
す。またこの日の天候で人類全般の運勢を占ったそうです。

 ・「上巳」は、陰暦の3月上旬の「巳の日」のことで元巳(げん
し)ともいうそうです。中国ではこの日、川で身を清める習慣があ
ったという。巍(ぎ)の時代から3月3日を上巳としていたといい
ます。平安時代日本に取り入れられ、宮中で曲水の宴を張り祓えを
行うようになったという。

 ・「端午」の端は始めで、午は五といういう意味だそうです。「端
午」は「初五」のことで毎月上旬の五日のことでしたが、とくに五
月五日を重要視するようになったそうです。

 ・「七夕・しちせき」は、陰暦7月7日の夜のことだそうです。
これも中国の天の川の両岸にある牽牛星と織女星が年1度会うとい
う「たなばた伝説」。この日が7月7日だとして星を祭る行事とな
っています。

 ・「重陽」は陰暦9月9日のことで、重九ともいうそうです。昔
中国では奇数を陽の数としていたので、陽が重なる九月九日は大変
おめでたい日とされていたそうです。

【参考】
「暦の百科事典」暦の会(新人物往来社)1986年(昭和61)

 

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▼(4)十二支

 十干(じっかん)十二支という言葉があります。十干とは甲(き
のえ)、乙(きのと)、丁(ひのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、
戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(み
ずのえ)、癸(みずのと)をいっています。

 一方、十二支はご存じのように子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、
卯(う)……のあれです。この十干と十二支を組み合わせた十干十
二支は、もと中国で使われた暦日を数える符号だったそうです。

 十二支ができたのはいつごろかは不明だそうですが、十干よりも
早くすでに殷の時代には使われていたといいます。十二支は12ヶ月
の順序を表すための符号であったそうです。

 はじめは子は正月、丑は2月……と順々につけていったらしいで
すが、いまは1月を寅、2月を卯、3月を辰……の順になっている
そうです。

【参考】
「暦の百科事典」暦の会(新人物往来社)1986年(昭和61)

 

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▼(5)雑節

 暦には、いつのころからか「二十四節気」や「五節供」のほかに、
1年の季節の移り変わりをつかむために、特別な暦日が記入される
ようになってきました。これを「雑節」というそうです。

 「雑節」はどれも日本人の長い生活体験から生まれたもののよう
で、主に農作業に焦点合わせて作られています。古くから日本人の
生活の中で、年中行事や民俗行事に関わっています。雑節と呼ばれ
るものは、節分、彼岸、社日、八十八夜、入梅、半夏生、土用、二
百十日、二百二十日です。

 これに初午や中元、盂蘭盆、大はらえを入れる場合もあるそうで
すが、これはどちらかというと年中行事に入れた方がいいそうです。

・「節分」は、節分はもともと「立春」、「立夏」、「立秋」、「立冬」
の前日をいい、四季の変わり目をいっていました。しかし、いつの
ころからか立春の前日だけが暦に記載されるようになったという。

・「彼岸」は、春分の日と秋分の日をはさんで、前後3日ずつ、計
7日を彼岸といっているという。彼岸の初めの日を「彼岸の入り」、
終わりの日を「彼岸の明け」といっています。

・「社日」は、1年に2回あり春分と秋分に最も近い戊(つちのえ)
の日だそうです。春分や秋分の前後が同じ日数のときは、前の戊の
方をとるという。春の社日を春社、秋の社日を秋社というそうです。

・「八十八夜」は、立春から数えて88日目で5月2日ころにあたり
ます。あと3日もすれば立夏。昔から「八十八夜の別れ霜」とか「忘
霜」などといわれています。

・「入梅」は、「梅雨入り」ともいっています。いまは気象上では太
陽の黄径が80度に達した日を入梅としているそうです。しかし実
際は梅雨とは直接関係がないという。

・「半夏生」は、二十四節気をさらに三つに分けた第30候(二十四
節気の夏至の第3候)にあたります。雑節にも入れられているそう
です。梅雨の末期で農家の人たちはこの日までに田植えをすませる
習慣があったそうです。

・「土用」は、旧暦の立春、立夏、立秋、立冬の前の18、19日間を
すべて土用といっていたそうですが、いまは夏の土用だけが残って
います。暑中見舞いを出したり、土用丑の日にはウナギを食べたり
しています。いまの暦の7月下旬ころです。

・「二百十日」は、立春から数えて210日にあたります。9月1日、
2日ころ。台風が来るころとして暦に記載されています。

・「二百二十日」は、立春から数えて220日でやはり台風に警戒す
る日なのだそうです。

【参考】
「暦の百科事典」暦の会(新人物往来社)1986年(昭和61)

 

(まえおき 終わり)

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