CD-R「新・ふるさと歳時記」 【9月】

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 ▼この章のもくじ
 ・長月(ながつき) ・二百十日 ・稲架 ・白露
 ・風祭り ・風切り鎌   ・二百二十日
 ・秋の七草 ・中秋 ・十五夜 ・月見
 ・芋名月 ・月の呼び名 ・秋霖(秋の長雨)
 ・秋の彼岸 ・秋分 ・おはぎ ・月待
 ・秋の社日

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▼長月(ながつき)

 9月に入りましたが、まだまだ暑い日が続きます。9月の異名を
ながつき(長月)といいますよね。長月は、もともと旧暦の9月の
異名だったそうですが、いまの太陽暦でも通用しています。長月の
名の由来についていろいろな説があります。

 秋の夜長のころ(旧暦の9月はいまの10月ころ)なので、夜長月
といっていたのが、いつか略されたのだともいいます。

 江戸時代の歳時記で季節の解説書「改正月令博物筌」(鳥飼洞斎
著)にも「長月とは、夜初めて長きをおぼゆるなり。実(まこと)
に長きは冬なれども、夏の短きに対して長きを知るゆえなり」と説
明しています。

 ところが、睦月、如月、弥生など、各月の異名はすべて稲の生育
に関係しているという説もあります。旧暦9月は稲刈りの盛んなこ
ろです。
 江戸中期の国学者・賀茂真淵は「語意考・ごいこう」(国語学書)
のなかで「稲刈月・いなかりづき」との説をとっています。それが
いつか「い」と「り」が略されて「ねかづき」といっていたが、次
第に転化して「ながつき」というようになったとしています。

 一方、同じ江戸中期の国学者・本居宣長はその著「詞の玉緒・こ
とばのたまのお」(「てにをは」研究書)で、長月は「稲熟月・いね
あがりつき」から来ているというのです。やはり「い」「あ」「り」
が省略され、やがて「ねがつき」から「ながつき」になったとして
います。また「穂長月」説をとる人もいます。

 さらに、この季節は秋の長雨のころ。民俗学者・折口信夫は、旧
暦9月は5月とならんで長雨のころ、当時の風習「ながめ」と呼ぶ
物忌みの月だからとする説をとっています。
長月の竹をかむりし草屋かな 増田龍雨(01)

 

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▼二百十日

 9月1日は「二百十日」です。「二百十日」は「二百二十日」と
ともに、台風の当たり日として恐れられ、風祭りなどをして害のな
いよう祈願しました。いまも各地でお祭りとして残っています。

 しかし、実際に台風が多いのは8月で、被害は9月中旬以後が多
いのだそうです。「二百十日」は雑節のひとつで、立春から数えて2
10日めをいっています。

 江戸時代、幕府の暦編さん係をしていたの保井春海という先生は
つり好きでした。きょうも快晴の空のもと、船を品川の海に乗り出
そうとしました。すると、そばにいた老夫婦が遠い水平線の一点に
浮かぶ雲を指さしていいました。

 「きょうは立春からから数えて210日。こんな時はやめたほうが
よい」と止めました。果たして午後から海は大荒れになったそうで
す。

 保井春海先生、はたとヒザを打ち、貞享初年(1684年)に採用さ
れた新しい暦(貞享暦)に「二百十日」と記入したのが暦に載った
最初といいます。

 農家などでは、「二百十日」近くなると「風祭り」のお祭りをし
て風害のないよう祈願する所が多い。九州の「風留祭」、千葉県の
「風ふさぎ」、栃木県の「二百十日祭」、長野県の「八朔の風祭り」
などなど。奈良県の竜田神社の「風祭り」や富山県の「八尾風の盆」
も同じ祭りなのだそうです。

 秋田県や長野県では「風除け」といい、竿の先に鎌をつけて家の
前に立てる。風を切るまじないがあります。

 富山県には「ふかぬ堂」という風神堂もあり、大風が吹かぬよう
祈るお堂があります。(02)

 

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▼稲架(とうか・はさ)

 自脱式小型コンバインが普及した今日、あまり目にしなくなりま
したが、かつては稲は鎌で一株一株刈り取って、束ね、杭や棒にか
けて乾燥しました。しかしいまでも小さな田んぼでの手刈りや、バ
インダー(刈り取り結束機)で刈り取った稲株は地面に広げたり、
杭にかけたりして乾燥させています。

 稲は刈り取ったときには、籾に20から25%の水分を含んでいると
いう。これを干して15%以下に減らしてから脱穀をします。

 稲架は、はさ、とうか、いなか、はざ、また、稲木、稲掛けなど
ともいい、横に渡した竹、棒、綱などに稲束をかける方法です。こ
れは、直接田んぼの地面に干せない湿田地帯で行う方法で、地方独
特の形があります。

 架(はさ)が一段だけの単段架は一番簡単な方法で、100メート
ルにもなる長さのものもあり、またコの字形やジグザグにならべ建
てたものもあります。この田んぼにならんだ稲架は秋の田園風物詩
になっています。

 北陸や山陰地方では何段仕立てにした壁のような構造にした多段
架形式があり、家の回りに作ったりします。この多段架には垂直架
と傾斜架があり、傾斜架は稲をかける面が傾斜しており、なかには
両方が斜面になった屋根形もあるという。

 新潟地方ではハンノキを植えて幹を利用し多段架を組むという。
最近は鉄パイプやコンクリートの杭も使用されているそうです。ま
た、風の強い地方では稲架面に穴をあけ風による倒伏を防ぐなどそ
の地域伝統の方法を取り入れてあるようです。

 私の生まれた千葉県下総地方では、オダ(小田)と呼び3本の柱
に竹などを渡したもの。その支柱をオダアシ(小田足)とよんで子
供のころから運ぶのを手伝わされたものでした。

 その他、稲を干す方法には、地干し(田んぼの地面にならべて乾
かし、2,3日乾燥したあと、束ねえふたたび乾燥する)の方法、積
み干し(ニオにして乾燥させる方法)、杭干し(棒杭にかける)な
どがあります。


 なお、架干しは古く、平安時代の841(承和8)年に、最も有効
な乾燥の仕方として奨励した記録があるそうです。(03)

 

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▼ 白 露

 毎年カレンダーの9月8日のころのところに白露と書いてありま
す。二十四節気の一つで、一年を二十四に区切ってそれぞれ季節に
ふさわしい名前をつけたものです。

 白露とは、草木の葉の露が白くたまるころという意味で、太陽の
黄経が165度を通ります。

 二十四節気をさらに三つに区切り、計七十二にした七十二候とい
うのもあります。それでは弟43候から弟45候にあたり、江戸時代末
の本草学者・高井蘭山らが解説した日本の七十二候では、8〜12日
を「草に白い露がつくころ」13〜17日を「カササギが鳴くころ」18
〜22日を「ツバメが南へ帰っていくころ」だとしています。(04)

 

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▼風祭り

 立春から数えて210日めの「二百十日」と220日めの「二百二十日」
は台風の当たり日とされています。ことしは9月1日にあたります。
昔からちょうどこの時期は、稲の開花期でもあり、災害の厄日とさ
れてきました。

 二百十日は「雑節」としてカレンダーにも記載されています。こ
の荒れ日は、江戸時代、品川の漁師から聞いた暦学者・渋川春海が、
新しい貞享暦に記入したのが最初。

この厄日をひかえ、強風が吹かぬよう「風祭り」や「風日待ち」
の行事をして祈願する地方が各地にあります。実際には台風のやっ
てくる回数は、8月の方が多いのですが、そこはそれ、やはり荒れ
日は荒れ日。いまでも風祭りは農家の伝統の行事です。

 風祭りには、「風切り鎌」といい、庭先に草刈り鎌を高く立て、
吹いてくる風を切りはらい、作物を守ろうとする行事や、神社やお
寺からもらった「風除け」の札を田畑に立てる地方もあります。大
声を出して騒いだり、「わら人形」をつくり、悪霊である風の神を
背負わせて村の外に送り出したりします。

 村の入り口に大きなしめ縄を張って風の悪神が村の中に入らない
ようにおまじないをする所もあります。農家の人たちがお堂などに
こもって、精進したりお囃子、獅子舞いを奉納したりします。いま
でも行われている各地の神社の獅子舞いはそのなごりだそうです。

 千葉県山武郡横芝町大宮神社でも「二百十日」に風祭りがおこな
われ、最後に大イチョウにかけたはしごを登る「はしご獅子」を奉
納し、台風から作物を守ろうと祈願します。


 また各地方にある風の神を祭る神社に参拝し無事を祈ったりもし
ます。有名な奈良県龍田大社、伊勢の風の宮、各地にある穴師神社、
村単位でまつる風神宮などがそうです。富山県内に10数ヶ所もある
「吹かぬ堂」、新潟県には「風の三郎」を祭る祠もあります。おな
じみの風袋を背負った風神の石像も各地にあります。

 福岡県の宗像(むなかた)郡では、「二百十日」近くになると、「風
止めごもり」といって大勢で神社にこもって無事を祈ります。風祭
りを神事として行なう神社もあります。新潟県弥彦(やひこ)神社
では「二百二十日」の当日に風祭りをします。奈良県大和(おおや
まと)神社でも「二百十日」の3日前に風鎮祭を行なうといいます。
(05)

 

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▼風切り鎌

 強風が吹く時期に行われる風祭りには、草刈り鎌を屋根の上とか
竿の先に縛って立てる「風切り鎌」の習俗が全国的に見られます。

 風祭りは、稲の収穫直前の台風の風害が心配された八朔(はっさ
く)や二百十日や二百二十日前後によく行われます。庭先に高く風
切り鎌を立てるのは強風を切り払おうとする呪術です。

 これは、共同祈願の形をとることが多く、村人が社寺やお堂で精
進のため忌籠りしたり(福岡県宗像(むなかた)郡では、二百十日
近くになると、風止めごもりといって大ぜいの人が神社におこもり
して祈るならわしがあります)、風の悪神が入ってこないよう村の
入り口に大きなしめなわを張ったり、わらで人形をつくりそれに悪
霊を背負わせて村の外に送り出そうとしたり、獅子舞を奉納して風
害防除を祈ったり、大声を立てて風神を脅かしたり、神社やお寺か
ら風よけのお札を貰ってきて田んぼや畑に立てたりします。

 千葉県横芝町大宮神社では「二百十日」の風祭りには、大イチョ
ウにかけたはしごを登る「はしご獅子」が奉納され、台風から作物
を守ろうと祈願します。

 風の神をまつるものでは、有名な奈良県龍田大社、伊勢の風の宮、
各地にある穴師神社、風神宮などがあります。富山県内には「吹か
ぬ堂」というお堂が10数ヶ所もあるというし、新潟県には「風の
三郎」を祭る祠もあるそうです。

 その中でも風の悪神に立ち向かおうとするのが風切り鎌。これを
立てると不思議に風の力が弱まり、時には風を操る何者か(悪霊で
ある風の神?)の血が鎌についていたなどと伝えるところもありま
す。(06)

 

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▼二百二十日

 立春から数えて二百二十日めは、二百十日と共に「荒れ日」と呼
ばれます。稲作の大切な時期の台風襲来は農家の被害を増大します。
二百十日に次いで第2の厄日です。

 今日のように科学的に台風の進路がつかめなかった昔は、ただ無
事に過ぎるのを風の神を祭って祈るだけ。現在でも祭りとして各地
の神社に残っています。

 そしてこの荒れ日が無事に済んだ時、その翌日、仕事を休んで祝
う「無難正月」をする地方もあったとか。

 江戸後半期天明(1781〜89)のころの本『りょ里歳時記』(川野
辺寛著)にも「八朔、二百十日、二百二十日は暴風雨ありて田穀を
害すと言い伝へ、あれ日を名づけてこれをおそれ風雨なからんこと
をいのる」と出ています。(07)

 

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▼秋の七草

 秋の七草は秋の七草は、この時期の観賞用として選んだ七種の花。
そもそも「万菓集」(巻八)所収の、日本の代表的秋草を読んだ山
上憶良の歌「萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をんなへしまた藤
袴 朝顔が花」から始まるという。

 江戸時代には「新・秋の七草」が選ばれ、リンドウ、オシロイバ
ナ、トロロアオイ、ヒオウギ、ゴジカ、ユウガオ、カラスウリがあ
げられています。昭和になると別の「新七草」や「薬用秋の七草」
なども選ばれています。(08)

 

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▼ 中 秋

 陰暦の8月15日は中秋(ちゅうしゅう)です。初秋、晩秋がある
のならトーゼン中秋があるべき。文字通り秋の真ん中なのでありま
す。

 中秋とくれば名月。中国では中秋節といい、ウリやくだものを月
に供えるそうです。

 日本で月見が始まったのは平安時代(909年・延喜9年)。しかし、
これは上流階級のハナシ、庶民の間で盛んになったのは江戸時代に
なってから。

 月見だんごやサトイモなどを供えます。そのせいか、中秋を芋名
月といいます。それに対し陰暦9月13日を豆名月とか栗名月といっ
ています。

 天然現象を暦としていた昔は、各月の15日、特に中秋の満月はい
ちばんわかりやすい節目になっていたようです。(09)

 

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▼十五夜

 陰暦8月15日の夜は十五夜です。9月13日の十三夜を豆名月と
か栗名月というのに対して十五夜を芋名月ともいいます。

 十五夜は中国でいう仲秋節のこと。日本では平安時代、延喜9年
(909)8月15日に月見をしたのが最初だそうです。

 江戸時代になるとわれもわれもと月見をはじめ、ネコもシャクシ
も「十五夜お月さん、見てはねる」勢い。このころからサトイモや
クリ、カキなどを供え、秋草を生けるようになりました。

 昔は十五夜に供えるサトイモはどこの畑から取ってもよく、月見
だんごは盗まれる方がいいとかいわれました。また七軒分のだんご
を盗んで食べれば、大金持ちになれるなどといわれたそうです。
(10)

 

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▼ 月 見

 陰暦8月15日夜は、中国で行われる「中秋節」で、日本に伝来
してからは陰暦9月13日の月とセットで月見をするようになった
という。

 日本で初めて月見が行われたのは、平安時代の醍醐天延喜9年
(909)の8月15日。「太上法皇(宇多)、文人を亭子院に召して、
月影池に浮かぶの詩を賦せしむ」と「日本紀略」(平安末期成立の
史書)に出ています。

 十三夜の月見はそれより11年遅い延喜19年の9月13日。同法
皇が清涼殿で月見の宴を催したのにはじまり、「今夜の月無双の由
仰せいださる……よって我朝九月十三夜をもって名月の夜となすと
「右中記」にあります。

 当時は、月に供える物などはせず、もっぱら詩歌管弦の催しだけ
だったという。

 月見が一般庶民の間でも盛んになったのは江戸時代になってか
ら。小机に三方をおいて、だんご、エダマメ、サトイモ、クリ、カ
キなども供えるようになります。その供え物から十五夜を「芋名月」、
十三夜を「豆名月」(栗名月とも)などと呼んでいます。(11)

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▼芋名月

 陰暦8月15日の十五夜は芋名月です。月にサトイモを供えるので
芋名月。陰暦9月13日の十三夜には豆やクリを供えるので、豆名月、
栗名月というのと同じです。

 以前は、十五夜にはどこの畑のイモでもとってかまわないとか、
他人の庭の果物も片足踏み込んで取るくらいならいいとか、おおら
かなものでした。

 また、ススキと一緒に供える月見だんごも盗まれる方がよいとい
います。これはもと小正月の行事や、昔、正月の門松、お飾りを親
善で処分するため集めて歩いたのと同じ意味だったものが、いつか
盗むという意識になり、取ることが当然の権利というシキタリにま
でなったのだとされています。(12)

 

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▼月の呼び名

 中秋の名月(旧暦8月15日)には農産物を月に供えて収穫の感謝
をします。昔は、十五夜の月見をしたあとも、月にいろいろな呼び
名をつけ、名残を惜しみました。

 ・十六夜(いざよい):旧暦16日の月。十五夜の翌日の月は、月
に出が少し遅くなることから、山の端にいざよって(停滞)出ると
いう意味だそうです。

 ・立待月(たちまちづき):陰暦17日の月。月の出は遅くなるが
まだまだ立って待っていられる。

 ・居待月(いまちづき):旧暦18日の月。月の出がだんだん遅く
なり、もう座って待つようになる。

 ・寝待月(臥待月・ふしまちづき):旧暦19日の月。居待月より
遅く出るようになった月を寝ながら待つ。

 ・更待月(ふけまちづき):陰暦20日の月。夜も更けるころ出る
月。

 ・二十三夜:旧暦23日の月。夜中に出る最後の名月。
 いろいろ考えるものです。(13)

 

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▼秋霖(秋の長雨)

 毎年9月中ごろから約1か月の間、梅雨時のように毎日雨が降り
続くことが多い。

 この長雨を秋霖(しゅうりん)と呼ぶそうで、梅雨あけと反対に
夏、発達していた南の太平洋高気圧の勢力がだんだんおとろえ、大
陸の高気圧が強くなって勢力をのばしてきます。

 その高気圧と高気圧の境い目の谷間が日本の南岸に沿って停滞し
て前線ができます。この高気圧同士が押し合いへし合いするさまは、
梅雨の時と似ています。

 たしかに秋霖は、秋の長雨と呼んでもいいのだそうで、春から夏
に移る間に梅雨があるように、夏から秋に移る間にあるのが秋霖で
す。だから、ウメが熟すころ降る雨を梅雨というからには、秋、ク
リが熟すころ降る雨なので「栗雨」ともいうのだそうな。(14)

 

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▼秋の彼岸

 毎年9月20日ごろは彼岸の入り。「暑さ寒さも彼岸まで」のたと
えどおり、大分涼しくなりました。毎年23日ごろにあたる秋分の日
を中日に、その前後それぞれ3日、計7日間が秋の彼岸です。

 彼岸とは向こう岸のことで、死後のさとりの世界のことだという。
欲望や悩みがうずまくこちらの岸(此岸・しがん)を離れ、彼の岸
に到達するという息味なんだそうですと。

 お中日は秋分の日でもあり、太陽がちょうど真西に沈むことから、
仏教の西方浄土説と結びつき、いまのような習慣になったのだとす
る説があります。

 秋分の日は「国民の祝日に関する法律」という、なにやらありが
たーいもので「秋分にあたり、祖先をうやまい、亡くなった人をし
のぶ日」に決められています。

 秋分の分は「ひとし」とも読むそうで、秋の真ん中、昼と夜の長
さが「ひとし」なのだそうです。(15)

 

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▼ 秋 分

 今年の秋分の日は9月23日です。秋分は二十四節気の一つで太陽
が秋分点にきたときのこと。昔は秋季皇霊祭という祝日でしたが、
いまは秋分の日として「秋分にあたり祖先をうやまい、なくなった
人をしのぶ日」。昭和23年「国民の祝日に関する法律」よって制定
されています。

 秋分は、太陽が真東から出て真西へ沈む日。秋分の分は「ひとし」
とも読むそうで、「呂氏春秋」という昔の本にも「この日や夜分(ひ
と)し」とあるという。

 この日はまた、お彼岸の中日です。お彼岸は春分、秋分の日を中
心に、前後3日と中日を入れた7は日間。

 彼岸とはさとりの世界である向こう岸のこと。この世はこちらの
岸で此岸(しがん)です。煩悩の世界の此岸を離れ、彼岸に到達す
るという意味とか。

 日本で初めて彼岸をまつったのは、延暦25年(806・平安初期)。
この日が先祖の供養の日になったのは仏教の西方浄土説にこの日の
太陽が真西に沈むことから結びついたという説もあります。そうい
えば、久しく墓まいりをしてないなア。(16)

 

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▼おはぎ

 秋の彼岸には、おはぎ(お萩)をつくりお墓まいりに行きます。
萩餅の女房詞(ことば)です。ところが春にも同じようなぼたもち
をつくるのでっやこしくなります。何がおはぎで何がぼたもちかの
定説はないのでそうですが、一応、秋につくるのがおはぎで、春に
つくるのをぼたもちといっています。

 また、あんをつけたのがぼたもちで、きなこをまぶしたのがおは
ぎと色合いでも呼んでいますが、いまは春秋を通じておはぎや、ぼ
たもちと呼んでいるようです。昔から春と秋の彼岸にはこれらを仏
前に供えて、ご近所に配って親睦をはかる習慣がありました。

 このもちは、もとは同じ量のもち米とうるちを合わせ、普通の飯
にたきあげてすりばちで荒くつぶして作る家庭のお菓子でした。

 ぼた餅は、やぼったい、あか抜けしない菓子とされ、「ぼた」は
また、炭坑での屑炭のことであり、神奈川県三浦地方や島根県では、
ボロ、ボロ布の意味だったり、山口県や長崎県では太っている者を
さしています。

 そのほか屑米をぼた米といい、ぼた米でつくるからぼたもちだと
されたり、また、ぼたもち顔という言葉があるようにどうもかんば
しくありません。

 しかし、「ぼたもちで頬をたたかれるよう」と、「うまい話」にた
とえられるように、家庭での「うまいもの」手料理であったのです。
そのほか、ぼたもちはボタンの花の形に似ているところからきてい
るという人もおり、結構「かんばしい」ところもあるようです。

 このおはぎ、ぼたもちは、臼でつかず音を立てずにつくるので隣
の家にもわかりません。そこで「隣知らず」の異名があります。

 また「奉賀帳」「夜舟」「北の窓」などとも呼ばれます。奉賀帳は、
つくところもつかないところもあるため。夜舟は暗やみの中でこぎ、
いつの間にか着(突)いている。北の窓は、北の窓からは月が見え
ません。それを「月(突き)知らず」と、しやれたものです。
(17)

 

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▼ 月 待

 むらの辻や寺院の境内などに「十五夜塔」とか「二十六夜塔」と
刻印された石塔が建っています。かつて農村には特定の月の特定の
月齢の夜、お堂に集まり月の出を待ちながら月を祀る講がありまし
た。その講中が供養のしるしに石塔を建立しました。現在確認され
ている、月待塔の最も古いのは室町時代のかきつ嘉吉元(1441)年
の「月待供養の板碑」。

 月待には十三夜から二十九夜までのほとんど各夜あり、なかでも
二十三夜塔が全国に分布しており、最もよく見かけます。月待は特
定の年齢や職業、組や小字を単位とするもの、また男が行う二十三
夜に対して1日ずらして二十二夜に女性だけ集まり安産を祈る所も
あります。月待の「待」は祭の意味だともしています。

 月待のもとになる儀礼はすでに平安・鎌倉時代にあったという。
仏教で15日(旧暦)の月は弥陀の化現とされ、丸い月の形から円
満を意味するたとえに、発菩提心や悟りの境地に達する意味に使わ
れ、一晩中、月に向かい経を読み行に励んだという。

 また一説に月は勢至菩薩の化現であるとの経典があり、一方「三
十日仏説」で勢至菩薩の有縁日は二十三日とされているところから、
月を礼拝するのは二十三夜に行うのが本筋だとする考えがおこり、
室町時代から二十三夜の月待が行われ、「二十三夜の月待供養の板
碑」などが建てられはじめました。しかし多くの月待塔は江戸時代
になってから建てられたものだそうです。(18)

 

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▼秋の社日

 社日は、春、秋二回あり、春分、秋分の前後にいちばん近い戊・
つちのえ(十干十二支・じっかんじゅうにし)のの日をいうのだそ
うです。中国では「社」は土地神をまつったものとか。

 日本でもこの日は地神講の祭日で、地神または農業神をまつり、
春のものを春社、秋のものを秋社というそうです。

 かつてこの日は、地面を耕すことを禁じ、農作業を休み、お社日
さま(田の神)の掛け軸をかけて講員が集まり、お祭りをします。

 春の社日に田の神が降りてきて、秋に帰って行くといわれ、だん
ごやもちを供えます。

 社日は雑節のひとつ。土の神をまつり、春社には五穀の種を供え、
秋社には収穫のお礼まいりをします。(19)

 

(9月終わり)

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