第7章 偉人・英雄神

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▼中 扉

【偉人・英雄神】 このページの目次
 ・弘法大師 ・惟喬親王 ・金太郎神 ・坂上田村麻呂
 ・聖徳太子 ・徐福 ・為朝神 ・蜂子王子 ・弓削道鏡
 ・畠山重忠 ・普寛行者 ・将門神 ・都良香 ・以仁王
 ・桃太郎神 ・義経神 ・義仲神 ・物くさ大神 ・頼政神

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■弘法大師

 弘法大師は平安初期の僧で真言宗の開祖・空海のおくり名で、お
大師さんとして民俗神にもなっています。各地に塩井戸伝説や弘法
清水など 弘法伝説は全国数限りなく伝わっています。

 ある人がそうした伝説地や大師が開いた山、開基のお寺の縁起や
市町村地誌を集め、どこで何年ここで何年と合計したところ八百年
以上になり、さらに伝説も入れると千六百年は越える勘定になると
いう。そういえば空海は、仙人でもあり「本朝神仙伝」には第16
番目に名を連ねています。

 弘法大師空海は、774年(宝亀五・奈良時代)いまの香川県善
通寺市の善通寺で生まれ18歳で大学に入学。在学中に一人の修行
者に会い、虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)という教えを
授かって以来大学と決別、阿波(徳島県)の大滝岳、伊予(愛媛県)
の石鎚山、吉野金峰山(きんぷせん)などで修行。24歳で名誉と
いわれる「三教指帰」を著し31歳で唐に渡り2年間留学、816
年(弘仁7・平安時代)、43歳の時、高野山を国家・修行者のた
めに開きたいと上奏、46歳の時、伽藍(がらん)建立に着手した
とあります。

 伝説によれば、弘仁6年(815)、聖地をさがしていた弘法大
師が山の中で、黒白2匹の犬を連れた猟師に出会った。その猟師こ
そ高野山の地主神・狩場明神(かりばみょうじん)で明神の使者で
ある黒白2匹の犬の先導で、無事高野山にたどりついたという。

 だが、『今昔物語』(巻第十一第二十五)では「弘仁七年トイウ年
ノ六月……一人の猟師ニ会イヌ。大小の黒キ犬ヲ具セリ」とあり、
年も1年遅く、連れていたのは黒い大小の犬だという。百科事典な
どでも説明と図版ではかなり混乱が生じているところです。しかし
その辺はまあまあ、伝説の世界のこと、ご容赦ください。

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 奈良県五條市の転法輪寺(てんぽうりんじ)に狩場明神をまつる
神社があります。ここが弘法大師と狩場明神がはじめて出会った所
だといい、明神の出会いの図と説明文が掲げられています。また黒
白2匹の犬は、神社の狛犬として鳥居のそばに控えています。犬を
つれた明神の画像は高野山の金剛峰寺(こんごうぶじ)や京都東寺
にも収蔵されているそうです。

 この時、弘法大師が狩場明神と交わした「土地借用書」の話があ
ります。明神の神領地である高野山を大師が「十年間」借り受けて
返す約束でしたが、のちにこっそり「十」の上に「ノ」の字を付け
加え「千年」してしまったというから面白い。

 奥秩父の瑞牆山に「弘法大師文字」という不思議な文字があると
いう。大正15年、大島亮吉が雑誌『山岳』に寄稿した「瑞牆山・
小倉山」にその文字について記しています。それによると、弘法大
師文字は、山の南側流れる天鳥川左岸の、小岩峰に2字2行に刻ま
れているというが、道が分からず現場に行けなかったとあります。

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 また、洞ヶ岩の洞くつの奧にも弘法大師が彫ったという梵字(カ
マンポロン)があり、大日如来不動明王の意だという。いまでも山
中に「大日岩」があり、その背後に不動明王が祀られているいうと
聞きます。洞くつ内には修行したあとも残っているらしい。

 そういえばこの山は平安時代初期に、弘法大師空海が開山したと
いう伝説があります。空海は霊場をもとめて全国を行脚。やがてこ
こでしばらく修行していましたが、あたりには霊場をつくるに必要
な「八百八谷」がないためあきらめ、和歌山県・高野山に一大霊場
を開いたという。山頂西峰には弘法岩もあります。もし条件があっ
ていれば、瑞牆山が「高野山」だったかも知れなかったわけです。

 弘法大師が諸国行脚のエピソードも各地に残っています。全国に
残る弘法大師にちなんだ井戸や清水の話は有名です。また首都圏の
山丹沢の水無川の水は大倉集落付近で消えてしまいます。その昔孝
行息子が父の危篤の知らせに急いで帰ってきましたがお金がなく、
強欲な船頭にいくら頼んでも川を渡ってくれません。

 仕方なく歩いて渡りはじめましたが深みにはまり死んでしまいま
した。これを聞いた弘法大師が船頭を諭しますが、船頭は反省する
どころか竿で殴りかかるしまつ。身をかわした大師は錫杖を川に突
き刺しました。すると底に穴があき、たちまち川は干上がり、それ
からは水無川になってしまったということです。

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■惟喬親王

 木地師の使うロクロは惟喬親王が発明したとされその祖神は惟喬
(これたか)親王だという。惟喬親王(平安初期)は文徳天皇第一
皇子。母は紀名虎(きのなとら)の娘静子。

 天皇は惟喬親王を皇太子にしようとしましたが、皇后藤原明子に
惟仁(これひと)親王が生まれため皇位争いが発生。皇后の父藤原
良房などの陰謀うずを巻き、相撲で決着させようとなどといい出す
始末。「御位はたった一番勝負なり」と古川柳。

 結局破れた惟喬親王は、比叡山ろくの小野の地に隠棲、のち滋賀
県永源寺町に移り出家してしまいました。その読経中に法華経の経
軸からロクロを思いつき従臣に伝えました。

 その後ロクロ師となった従臣の子孫は、集落の祖廟と称する神社
の別当が発行する木地屋の許可証をもち、フリーパスで全国どこで
も入山できたといいます。木地師たちは各地の山岳地で祖神・惟喬
親王の画像をまつり、朝晩その繁栄を祈ったのだそうです。

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■金太郎神

 誰でも知っている金太郎も神さまとしてまつられます。伝説の発
祥地・神奈川県箱根には金時山があって南麓に金時神社があり、岡
山県勝央町の栗柄(くりから)神社にも金時塚もあります。金時神
は、子どもの健康や無病息災などいご利益があり、親子連れの参拝
者が多いという。

 そもそも金太郎は平安時代中期の源頼光の四天王のひとり・坂田
金時(酒田公時)の幼名。山姥が足柄山の山頂で寝ていて赤竜と交
わった夢を見たといいます。その時雷鳴がとどろき、驚いて目を覚
ますと金太郎を身ごもっていたという。生まれたのは五体の色が朱
のように赤くうぶ髪を四方に乱した怪童で、ひとりいる岩屋に熊や
イノシシを追い込んでみたところ、たちまちのうちに引き裂いてし
まうというものすごさ。

 ある時、源頼光が上総(千葉県)国司の任期も終わって帰京の途
中、足柄山にさしかかると山の中から霊気が立ち上っています。こ
れはその下に「人傑」ありの兆しと見て渡辺綱に探させたところ、
谷のこわれかかった小屋に60歳あまりの老婆と20歳ばかりの青
年を見つけます。この青年が金太郎で坂田公時と名づけられ頼光の
家臣として仕えることになります。

 公時36歳の時主馬佑として酒呑童子退治に参加、土蜘蛛退治に
武勇をふるいますが、頼光の死後は行方不明になり、足柄山で消息
を絶ったと伝えられます。

 金太郎の舞台である箱根金時山付近には、金時が産湯を使ったと
いう「夕日の滝」、山頂にある「踏跨り石」に「宿り石」。金時が山
姥と住んだと伝える「石室」や「手まり石」から金時娘まで、ハイ
カーのわれわれを童話の世界に遊ばせてくれます。

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 この山は、山頂のとがった形がイノシシの鼻に似ているというの
で一名猪鼻山。山頂にはふたつの猪鼻神社の石祠があり、それぞれ
祀った村の方を向いています。

 またその昔、同県大町市近くの八坂村内の山に顔の赤い紅葉鬼人
という女が住んでいたという。鬼人は有明山の鬼・八面大王(魏石
鬼)の恋人で、謎の岩窟といわれるところで大王の子を産んだ、そ
れが金時だったというのです。

 その山を金時山といい、そばを流れる川を金時と熊にちなんで金
熊川というという。八面大王が田村麻呂に退治されるや母の紅葉鬼
人は、それを悲しんで山を去り、水内(みのち)の方で舌を噛みき
って死んだ。そこが鬼無里だという。長野県南木曽町の南木曾岳(1
679m)も山姥が坂田金時を生み育てたという山です。

 このように、もともと山姥が子どもを育てるという話は各地にあ
ったそうで、金時が頼光四天王の一人に発展するようになって足柄
山ばかりが有名になってしまったと柳田国男も「山の人生」のなか
で述べています。

 ちなみに、坂田金時にもこんな話が伝わっています。四天王のメ
ンバーの二人と坂田公時は、京都の賀茂祭りの行列を見物するため
女車に仕立てた牛車に乗って紫野に出かけたはよかったですが、は
じめて乗った牛車に酔っぱらってしまいました。

 烏帽子は落とすわへどを吐くわの大騒ぎ。高貴な女性の乗ってい
るはずの女車から「早く走るな。ゆっくり走れ」と怒鳴り散らし、
まわりの人たちが「女性にしては太い声だな」と不思議がるしまつ。
とどのつまり、行列を見るどころではなく、歩いて帰ってきたとい
う間抜けぶりだったとのエピソードが「今昔物語」(巻第二十八第
二)に載っています。

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■坂上田村麻呂

 東北岩手山の神社奥宮はかつては田村権現、田村大明神といった
といいます。この田村は坂上田村麻呂で、国土安泰を祈願してここ
に神社を創建したという故事があります。

 蝦夷退治で活躍した田村麻呂の伝説は東北地方全域にわたってい
ます。また北アルプスの有明山の魏石鬼退治、常念岳山麓の常願寺
の創建などにもかかわる武将で、昔の教科書にも登場しています。

 坂上田村麻呂は平安時代初頭の武将。出身は大和の国明日香村で
勢力をふるった東漢氏(やまとのあやうじ)(古代に渡来した豪族)
の一族。787年近衛少将となり、以後越後守など歴任、791年
征東副使のひとりして蝦夷との戦いに加わり功をあげ、797年に
は征夷大将軍に任命されました。その後、右近衛大将、兵部郷、大
納言などに任じられ正三位まで昇進、811年54歳で没しました。

 鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」文治5年(西暦1189)(九月二
十八日の条)に、奥州の囚人の話として田村麻呂や後代の藤原利仁
らが岩手県平泉町の田谷窟(たつこくにいわや)(いまの達谷窟)
に賊主の悪路王、赤頭を封じ込めたとあり、すでにそのころには田
村麻呂の東征伝説が広まっていたことを示すものだとされていま
す。

 このような田村麻呂伝説は、「元享釈書」では、駿河の清見関ま
でせめてきた高丸を討ったとし、それが後世の書物で次第に増幅さ
れ、賊の数も立烏帽子、高丸、大竹丸と増え、さらに高丸が立烏帽
子の倍の魔力を持ち、またまた大竹丸は高丸の倍と巨大化されてい
ったようです。
 伝説の分布は、東北地方全域から東山道(律令制七道のひとつ)
の長野県、東海道の静岡県・愛知・三重県、岡山県にまでおよぶと
いいます。

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■聖徳太子

 聖徳太子(574?〜622)は、日本で初めての成文法の「十
七条憲法」を制定したことで知られます。また身分家柄に関係なく
個人の業績で昇進できるよう冠位十二階の制度をつくりました。

 さらには法隆寺、四天王寺などの建立など仏教にも深く帰依、「三
経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著し、亡くなってからも「日本の
釈迦」と仰がれていろいろな伝説が生まれます。「本朝神仙伝」(大
江匡房)にも「上宮太子の事」として2番目の仙人にあげています。

 太子は厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれました。これは母
の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が池辺雙槻宮(いけのべ
のなんみつきのみや)の庭を歩いているとき、厩戸の前で皇子を出
産したことによるとされています。

 これはキリスト生誕にもよく似ていますよね。また一度に8人も
の話を聞き分けるほど聡明な人だったことから豊聡耳(とよさとみ
み)、さらに父である用明天皇の宮の南、上宮の地に住まわされた
ので上宮太子の名も生まれたといいます。

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 富士山に最初に登ったのは聖徳太子だという伝説があります。全
国から聖徳太子のもとへ献上されてくる名馬の中に、足だけが白く
体が真っ黒な甲斐の国の馬がいました。太子はその馬を選び出し、
またがってひとムチあてると黒馬は宙に舞い上がったといいます。

 『聖徳太子絵伝』には「二七歳御時、甲斐黒駒出来(いできた)
る。調使丸舎人、異国御舎人として、九月に之に乗給。天皇に暇を
申て三日三夜に、日本国を廻見給。…調使丸を轡に之を付、虚空を
飛て、富士山に到給。……富士山頂にも地獄池有り。中に太子入給。
善光寺如来、地より出給て、太子ともに語う。日本国の神々に合い
奉て……」とあり、黒駒に乗って富士山に舞い降り、国中の神と合
ったことを手記にまとめたとしてます。西暦598(推古天皇6)
年9月、聖徳太子27歳とも25歳の時とする本もあります。

 富士山五合目佐藤小屋上の経ヶ岳には八角堂があり、教典を手に
した日蓮上人の像が建っています。そのわきに「推古天皇六戌午年、
秋九月、黒駒に乗りて登る御年廿五」と彫られた黒駒と聖徳太子の
碑がならび花も供えられています。

 また八合目の太子館は聖徳太子を祀り、「太子冨登嶽之図」も掛
けられています。このような聖徳太子も推古30(622年)2月
22日皇太子のままで薨去したという。

 聖徳太子は寺院建築の祖神になっていて「太子講」の本尊として
大工さんなど職人たちの守護神としてあがめられています。秩父地
方を歩くと「聖徳太子」の石碑をよく目にしますがこれはみな、太
子講の人たちが建立したものだそうです。

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■徐 福

 その昔、中国秦の始皇帝の命令で、徐福という人が不老不死の仙
薬を探しに日本にきたという話は有名で、富士山はじめ国内の各地
に伝承が残っています。徐福は紀元前3世紀ころの中国の仙術師で、
徐市ともいったそうです。

 薬草は東海の三神山(蓬莱山・方丈・瀛洲(えいしゅう)にある
といわれる仙薬。皇帝の命を受けた徐福は、童男・童女や一族など
1千人もの人と、金銀財貨を積み込んで出帆したというのです。紀
元前218(秦の始皇帝28)年のことでした。

 一行が航行中、峰に雪をいただいた霊峰にふさわしい山が見えま
した。これこそ蓬莱山に違いない。上陸し手分けして探すうち、そ
の一組が富士山を見つけたという。徐福は仙薬を探す途中で不死山
(富士山)にて他界してしまったが3羽の鶴となって舞いあがった
という。

 のち子孫が繁栄していまに残る秦氏の祖先になったとされていま
す。徐福の墓といわれるものが河口湖にあり、富士吉田市には徐福
碑や、徐福の鶴にちなんだ鶴塚などがたくさんあります。

 探していた不老不死の仙薬はコケモモともいわれています。室町
時代、修験者が富士山の洞くつで千日の修行中、猿の運んできたコ
ケモモを食べて力を得て大願を成就をしたという伝説もあり、古く
から薬種として珍重されたいいます。

 また紀州熊野一帯には徐福の遺跡といわれる祠や塚が各地にあり
ます。和歌山県新宮駅近くの徐福公園には徐福の墓や殉死したとい
う七人の重臣の墓が建立されており、中国からの観光客がたくさん
訪れていました。

 このような伝説地は、全国にあるらしくインターネットで調べて
みたら青森県小泊村尾崎神社から南は九州の屋久島・種子島まで出
てくるのにはびっくりしました。

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■為朝神

 JR中央線の初狩駅から右手に三つのピークをもつ滝子山(15
90m)が目立ちはじめます。その北側直下に鎮西ヶ池という池が
あります。そばに白縫神社があり鳥居の向こう側に賽銭箱を前にし
た祠があります。

 鎮西池というとおりここは鎮西八郎源為朝にゆかりのあるとこ
ろ。父に九州へ追われた為朝がのち、保元の乱に敗れ伊豆大島に配
流されます。その為朝がひそかに伊豆に上陸しここまでやってきた
というのです。

 また一説には、大島の為朝を慕って九州での妻・白縫姫(しらぬ
いひめ)が子の為若を連れて訪ねきて、この池のほとりに庵を結ん
で3ヶ月ほど住んだとされます。

 ここでの生活物資は、西麓の田野地区から運んだといわれ、「米
背負の辻」と呼ばれる所や馬の世話をした「御馬冷やし場」、「菜畑」
という名の所もあります。その後里に降りた東麓の恵能野(えのう
の)地区には為朝の末裔といわれる人もいて、白縫姫や為若などを
祭ってある為朝大神の祠もあります。

 鎮西ヶ池から白縫姫、またはその侍女のものらしい古い鏡が出て
きて大騒ぎになったこともあったという。干ばつの時はこの鏡を水
に浸して雨乞いをするとか。「歴史は昔鎌倉の 保元の乱に負い追
われ 逃れし人ぞ為朝と 白縫姫は幼子 隠れて甲斐の滝子山…
…」。山麓にはこんな歌も伝わっています。

 源為朝は平安末期の武将で父は源為義でその八男、幼少のころか
ら大変な乱暴者。

 もてあました為義は、為朝が13歳の時、鎮西(九州)に追放し
ます。持ち前の猛威さで当地の菊池氏を味方につけ、3年もしない
うちに九州全域を統治下に治め勝手なふるまいをしていました。

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 この目に余る狼藉ぶりに九州の豪族たちが訴え出ました朝廷は為
朝に召還の命を出しますが応じないため、父為義の判官の官職を取
り上げます。

 さらに翌年、太宰府に対し以後為朝に味方するものがでないよう
にとの勅が下されした。為朝は仕方なく召還に応じて上洛しました
が、折りもおり、保元の乱(1156年)が勃発しました。

 ほとんどの源氏の郎党は、後白河天皇方についたのに対し為朝は
父為義とともに崇徳上皇方につきました。

 父為義が為朝を代官にするよう推薦した時の紹介文に、為朝は身
長7尺を超え(普通の人より2〜3尺高い)、左手が右手より4寸
も長く強弓を簡単に引くなどとあります。為朝は先手をうって夜討
ちを進言しますが取り上げられず、逆に天皇方の夜討ちにあいあっ
けなく敗退、父為義は死罪に処せられてしまいました。

 為朝は近江(滋賀県)まで逃れましたが捕らえられ、両肩の腱を
抜かれて伊豆大島に流されます。

 大島についてからも為朝はわがもの顔で次第に大島から近くの島
々を自分の配下にするような勢力になっていきます。朝廷も放って
おけず狩野介茂光を為朝追討に向かわせます。押し寄せる大軍に為
朝はもはやこれまでと自殺。首は京に送られて獄門にかけられたと
いうことです。

 しかし、自殺したのは偽物で、本物の為朝は伊豆の大島をこっそ
りと抜けだして九州に行き、勢力を盛り返し清盛討伐をねらい船で
東上。しかし途中台風にあい、琉球国に漂着してしまいました。

 琉球はおりから内乱のまっ最中、為朝はこれを鎮めるなど大活躍
したというのです。のち、為朝が昇天すると息子舜天丸(すてまる)
が琉球の国王になり、為朝は琉球王朝の祖となったとしています。

 伊豆大島で為朝が悪魔を払いまつった為朝の木像が疱瘡のたたり
をするというので、疱瘡神にもなっています。為朝神社は、伊豆大
島や、神奈川県横須賀市、山梨県神山町などにあります。

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■蜂子王子

 東北の出羽三山を開いたとされる蜂子王子(はちこのおおうじ)
も謎の人物です。蜂子王子といえば羽黒山開山堂などにあるように、
異様に大きい目玉、目尻は髪の毛の生え際まで延び、ひときわ長い
鼻、耳まで裂けた口に赤黒い顔と奇怪な姿です。

 その容貌からまるで天狗のようにも見えます。事実、天狗研究者
では羽黒山開山天狗とし、天狗界の取締役に位置づけています。ま
た別名は能除仙ですから当然仙人でもあります。さらに口の裂け方
から山の神ともされるオオカミの擬人化ではないかとする人もいま
す。

 蜂子王子は32代崇峻(すしゅん)天皇(即位・587〜592
年)の第一王子で、聖徳太子の従兄にあたります。しかし、崇峻天
皇は臣下である蘇我馬子との対立で暗殺されてしまい、蜂子王子も
命をねらわれる立場です。王子は従兄の聖徳太子の勧めで仏門に入
り、法名を弘海、一名参払理(さんふり)大臣と名乗って飛鳥の地
を逃れ旅に出ます。

 593年(推古天皇元)、出羽国由良(山形県鶴岡市由良)に到
着、翼が八尺もある3本足の大きなカラスに案内され羽黒の阿古屋
(阿古谷)にやってきます。王子はここで観世音菩薩を発見、カラ
スにちなんで羽黒山と名づけそこを修行の地と決め厳しい修行の
末、出羽三山を開いたとされています。以上は江戸中期の「羽黒月
山湯殿三山雅集」に載っている伝説です。

 ところが能除仙、弘海、参払理大臣は別人だいい、3人とも王子
より後代の人だというのです。出羽三山神社入り口には蜂子王子の
墓があり、いまも時どき皇族の参拝があるそうです。蜂子王子は1
823(文政6)年、朝廷から「出羽三山開基照見大菩薩」の称号
も贈られています。

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■弓削道鏡

 南アルプス北部の鳳凰三山・地蔵岳(2764m)のオベリスク
は、高さ18m、基部からは50mもある岩峰で、中央線の車窓か
らも望めます。ここはかつては鳳凰山信仰の奥の院で登ってはなら
ないの神聖な神の座だったという。このあたりを鳳凰山とも呼んで
います。山名の由来には諸説ありますがなかに奈良法皇からの法皇
(鳳凰)山説もあります。

 昔、奈良法皇(女帝の孝謙上皇とも弓削道鏡(ゆげのどうきょう)
ともいう)が病気治療のため、早川町奈良田へ滞在した時、この山
に登り安産を祈って地蔵を安置したというのです。

 江戸時代成立の『甲斐名勝誌』萩原元克編(巻の四・鳳凰山)に
もおおむね、山上に黄金の衣冠をつけた3寸ばかり鳳凰権現像があ
る。これは奈良の法皇をかたどっている。昔、法皇がこの山に登り
都をしのんだので法皇ヶ岳と呼ぶ。奈良田に住んでいた跡がいまも
残っている、と書かれてあります。これが弓削道鏡だというのです。

 山梨県早川町奈良田の伝説によると、孝謙天皇が病気になった時、
神仏のお告げで甲斐の国に霊湯ありと知り、吉野を出て当地に仮の
宮殿を造り療養したという。ここには奈良王様と呼ばれる伝説がた
くさんあり、孝謙天皇と道鏡に関する遺跡が残っています。また二
人が当地を気に入り、ここも「奈良だ」といったので奈良田の地名
ができたともいわれます。

 弓削道鏡といえば奈良後期の政治家・僧侶。河内国若江郡弓削郷
(いまの東大阪市若江)の出身。当地と隣接の志紀郡に弓削神社が
あります。葛城山中で修行中、修行がうまくいかないので、仏像に
尿をかけたところ、蜂が飛んできて急所を刺されて腫れあがりその
ままになったという。

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 762年、孝謙上皇が病気になったとき宿曜秘法(すくようひほ
う)という呪法を使って治したのがきっかけで女帝の寵愛を受け、
766年には法王となり天皇に準ずる待遇を受けるまでに登りつめ
た人。そして『続日本紀』(巻二十九)には「法王道鏡、西の前殿
に居す」とあり、孝謙女帝と夫婦同然の生活までしていたようです。

 そのうち、宇佐八幡のご神託だといって道鏡を皇位につけようと
する動きがおき、これに反対した和気清麻呂を大隅国(鹿児島県)
に流す騒ぎもありました。

 770年(宝亀元)、天皇が道鏡の郷里の由義宮(ゆげのみや)
で没すると、苦々しく思っていた公家側の巻き返しが起こり、道鏡
を造下野国薬師寺別当に左遷、2年後に死にました。古川柳に「道
鏡は坐るとひざが三つでき」とあり、その巨根説はあまりにも有名。
そんなところから道鏡は金精神とも習合しています。

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■畠山重忠

 畠山重忠は鎌倉初期の武士で武蔵の国秩父氏の一族で畠山荘の畠
山重能の子。治承4年(1182)源頼朝が兵を挙げた時、父の重
能が平氏に仕えていたため平家方に味方していましたが、のちに源
氏方に味方し平家の追討軍に参加、各地を転戦したといいます。

 源頼朝没後、頼朝の妻政子の父北条時政は、あとを継いだ頼家を
殺し、後妻の牧の方の娘婿平賀朝雅を将軍にたてようと画策。その
陰謀に巻き込まれた畠山重忠の子重保は鎌倉由比ヶ浜で時政に殺さ
れます。

 父重忠はすぐさま鎌倉に遠征しますが、武蔵の国二俣川で北条義
時の軍と戦って戦死しました。1205(元久2)年、重忠42歳
のことだそうです。その遠征の時、峠で妻と名残を惜しんだのが埼
玉県奥武蔵にある妻坂峠で、峠名の由来もそこからきていると伝え
ます。山麓には「名残惜しいや妻坂峠……」という里謡も残ってい
ます。

 畠山重忠の武勇伝は広く知られ、ひよどり越えの坂落としでは、
愛馬をいたわり背負って崖を降りたとか、阪東一と自称する長居と
いう大力の相撲とりを押さえつけ肩の骨を砕いてしまったなどとい
い、北条義時と戦った最期の時も恐がり近づく者がなく、自害して
果てたといいます。

 また、秩父・三峰山の太陽寺にはこんな伝説もあります。その昔、
髭僧大師のところに美しい娘が住みつき、やがて大師の妻になり子
を産みます。産屋を見るなといわれていたが3日目に我慢できずの
ぞくと大蛇がとぐろを巻いて赤ん坊をあやしています。

 正体を見られてはもうここにはいられません。この子は人間です
から育ててくださいといい残して立ち去った。その子はやがてとき
の名将畠山重忠になったという伝説があります。

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■普寛行者

 埼玉県大滝村というところに普寛神社があります。ここは木曽御
嶽山(3067m)を霊山とあがめる御嶽教の教祖でもあり、高山
植物のコマクサからつくる腹痛の霊薬「木曽百草」の創始者でもあ
る普寛行者をまつっています。

 奥ノ院は神社背後の秩父御岳山の山頂にあります。祠のわきには
釣り鐘があって、時々ハイカーがつく鐘の音が響きます。普寛行者
は江戸中期の修験者で、長野県中央アルプス、木曽の御嶽山の王滝
口を開いた人としても知られます。

 普寛行者は普寛神社のある大滝村落合の生まれ。幼名を木村好八
丸といい、三峰山に登って剣道の修行をしていました。30歳で伯
父法性院白忍を頼って江戸に出てのち、八丁堀同心浅見家に婿入り
し浅見好八と名のります。

 好八は江戸でも剣道を修行、町道場を開くまでになり門弟たちを
指導するかたわら、時々伯父の白忍の元へ通い、教典や書籍を借り
て読むことが多かったといいます。

 好八は毎月のように浅草観音や、上野の寛永寺を参拝していまし
たが、1764年(宝暦14)4月11日帰宅途中、突然霊感を得
て修験者になることを決意。伯父の修験者法性院伯忍のもとで出家
して修験道を学びました。

 その後ふたたび故郷に帰り、三峰山の日照僧正のもとで天台密教
をみっちりと修行、奥義をきわめて名前を正本山本明院普寛と改め
ました。

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 その後、「日本六十余州」の遍歴を思い立ち、三峯山の奥ノ院か
ら武甲山、上州武尊山、越後八海山、木曽御嶽山王滝口などを開山、
三笠山、筑波山、羽黒山、戸隠山、立山、白山、阿蘇山、国見岳、
桜島などなどにまで足をのばしていきます。

 こうして全国の霊山を巡歴しついに52歳の時、伝燈大阿闍梨(あ
じゃり)にまで登りつめました。普寛行者は1801(享和元)年
に入寂するまで、江戸、武州、上州などをまわり、法話などをした
という。

 群馬県上州武尊沖武尊という峰の山頂には「御嶽山大神」の石碑
がありますが、これも普寛行者にちなんでいます。また沖武尊南東
にある剣ヶ峰には普寛行者の霊神碑もまつられています。これは修
行を積んだ行者が亡くなった後、霊神を名のり碑を建てる「御嶽講」
独特のものだそうです。その他普寛行者の名は各地の山々でよく耳
にします。

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■将門神

 千葉県九十九里浜にこんな伝説があります。「胎内にいる子は、
将来必ずや天下に災いをなすであろう」という占い師の言葉に、あ
わてたのは平良将。妻を「くりぬき舟」に乗せて海に流してしまっ
た。舟は九十九里の海岸に流れつき、村人の厚い手当てで生まれた
のが平将門だとしています。

 ここには将門のとりでの跡があり、7人の影武者がいた所や、将
門をうらぎった愛妾・桔梗をきらって、キキョウを植えない地域な
ど、将門伝説が多く分布、将門神社や「マサカドサマ」という祠も
あります。

 将門神の本尊平将門とは平安中期の関東の武将。出生年不明の9
40年没。上総介(かずさのすけ)として東国に下った桓武(かん
む)平氏高望(たかもち)王の孫。父は鎮守府将軍平良持(たいら
のよしもち)または良将(よしまさ)だとしています。

 下総北部の豊田・猿島(茨城県結城・猿島郡地方)に根拠を置く
豪族で、若いころ上洛して藤原忠平に仕えましたが父の急逝で帰国、
遺領(豊田・猿島)を継ぎました。

 しかし、女論や田畠の争いで伯父の下総介良兼と対立、935年
になり豪族常陸大掾源護(ひたちだいじょうみなもとのまもる)と
平直樹の争いにまき込まれ、源護の娘むこの国香(くにか)、良正、
良兼などの伯父たちと戦いました。

 翌年、源護の告発で京都に召還されますが朱雀天皇元服の恩赦で
帰郷後、ふたたび良兼勢力に攻められました。たびたびの伯父たち
の攻撃に怒った将門は奮い立ち、営所を襲い制圧してしまいました。

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 939年(天慶2)、武蔵国庁で起こった介源経基(つねもと)
と武蔵武芝(たけしば)の紛争の調停に失敗、逆に経基に謀反とし
て訴えられました。11月、追捕を受けていた土豪藤原玄明(ふじ
わらはるあき)を庇護したことから常陸国庁と対立。これを焼き払
い、つづいて下野(しもつけ)、上野(こうづけ)の国府も占領。
同盟者を国司に任じ自ら新皇と称して関東自立の構え。

 こうなればもうりっぱな中央政府に対する反逆者。翌年2月、藤
原秀郷(ふじわらひでさと)らの連合軍に討たれ、新皇将門の関東
支配はわずか数ヶ月で幕を閉じます。(承平・天慶の乱)。

 しかし中央政権への反逆精神は関東民衆の共感を呼び、英雄視す
る傾向は時代とともに強まります。中世には千葉氏が妙見信仰とか
らめて、将門の後継者と自称する説も出現、将門をまつった塚だと
いう将門塚もあります。

 東京・神田明神や各地にある将門神社なども将門をまつります。
また東京都奥多摩周辺には将門伝説が多く、JR鳩ノ巣駅近くには
将門神社、また山中石尾根の七ツ石は将門と六人の影武者の姿だと
し付近に将門の馬場、将門の城跡とする城山、木戸の跡の三の木戸
山などが散在しています。

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■都良香

 都良香(みやこのよしか)(834〜897)は平安時代初期の
漢詩人で漢学者。幼少の時から仙道に打ちこんでおり、大江匡房(お
おえのまさふさ)の「本朝神仙伝」では、24番目の仙人に挙げら
れています。

 また良香が富士山について記した「富士山記」は有名で、当時の
人たちが富士山についてどんな考えを持っていたかを知るのに貴重
な資料になっています。

 そもそも富士山に最初に登ったのはだれか。神話伝説はいろいろ
ありますが、記録として初めては「富士山記」。これには登った人
でなければ分かない地形や火口内にある虎の形をした岩・虎岩のこ
とまで書いてあり、富士登山者第1号は都良香に話した人だろうと
いわれています。

 都良香ははじめ、名を言道(ことみち)といっていましたが、8
72年良香と改めました。都良香には神異にかかわる逸話が多く、
琵琶湖の竹生島の竹生島明神が対句の下の句をつけたとか、羅生門
の鬼が良香の一句に感心した話などがあり、詩作にも優れた才能が
あったことを伝えています。

 「本朝神仙伝」によれば、都良香は菅原道真の先輩で道真が対策
の試験を受ける時、良香が試験官になったくらいだったが、官界に
入ってからは道真の昇進が抜群に早く、あれよあれよと良香を追い
抜いてしまいました。

 怒った都良香は官職を捨てて山に入ってしまいました。そして「仙
を求め法を修し、大峰に通うこと三ヶ度、終わるところを知らず」
と仙人になってしまったという。それから百余年あと、ある人が吉
野大峰山に詣でた時、岩窟の中で行をしている人を見つけ名前を聞
くと「われは都良香なり」という。

 様子を見ると「顔の色変わらず、猶し壮んなる年の如くなりき」
といへり、とあります。しかし、記録では大内記、文章博士(もん
じょうはかせ)など歴任したあと従五位下で元慶3年没としていま
す。

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■以仁王

 福島県下郷町の高倉山のふもとには、以仁王の霊を祀る高倉神社
があり、宮城県、新潟県の各地に高倉宮にちなんだ古墳や廟など遺
跡が散在しています。これは後白河天皇の第二皇子・高倉宮以仁王
(たかくらのみやもちひとおう)にちなむ古跡だとされています。

 以仁王は、治承4年(1180)、源平宇治川の戦いで敗死しま
したが、以仁王の顔を知る者が少なく本人の首かどうか確認できな
かったといいます。そのため、死んだのはにせ者で、以仁王はまだ
生きていて東北に逃れたとの噂がしきりでした。

 高倉神社の社記「人皇八十代高倉院ノ御宇治承年四秋書」による
と、宇治川の合戦で敗れた以仁王は「足利又太郎忠綱ノ情ニテ、御
助命アリ、越後ノ住人小国馬頭頼之ニ依リ、落チ給フ」とあり、尾
瀬中納言藤原頼実、三河少将光明、小椋少将藤原定信ら二十数名が
お供し、上州沼田より入り戸倉沼山に宿泊したとあります。

 伝説では東海道経由で甲斐、信濃、沼田に出て、戸倉から桧枝岐
に入り、楢原村(今の福島県下郷町)に達すると、ここに逗留。そ
の後、叶津から八十里越を経て越後国に出ましたがそれから先は不
明になっています。

 『会津高倉社勧進帳』という文書にも、戦いに破れた高倉宮以仁
王は、陸奥の国の探題某を頼り、桧枝岐を通り南山に入ったとあり
ます。関山峠のふもとに滞在していたとき、探題たちが欲心を起こ
して攻めてきたが、突然車輪のような火の玉が出現、敵を蹴散らし
たという。

 その後、以仁王がこの地を去るとき、村人は別れを惜しみ一宇の
小社を建立、高倉大明神としたという。

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 そのとき、宮の供をしていた尾瀬中納言頼実が旅の疲労でこの地
で亡くなり、なきがらを長沼近くの丘に葬ったという。以来、沼を
尾瀬沼と呼ぶようになり、のちに村人が燧ヶ岳に尾瀬大明神をまつ
ったという伝説があります。ただし、『新編会津風土記巻之二十五』
では小瀬大納言頼国が定住したことが尾瀬の由来となっており、そ
のいわれはいくつか残っています。

 以仁王(1151〜80)は三条高倉に住んでいたため高倉宮と
呼ばれました。才学優れ、人望厚く帝位につくべき器量でしたが建
春門院滋子(平清盛の妻時子の妹、高倉天皇の母)にねたまれ、親
王宣下を得られず王にとどまったという。

 治承4年4月、源頼政に扇動され、また藤原伊長に帝位につくべ
き相があるといわれ平氏討伐の挙兵を決断、諸国の源氏に伝えまし
た。

 しかし朝廷に追われ5月26日、宇治川の戦いで敗北、頼政は自
害。以仁王は落ち延びる途中で流れ矢にあたって死んだとされます。
京都府山城町に以仁王をまつった高倉神社と墓があります。

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■桃太郎神

 桃太郎も神さまです。別称大神実命(おおかむずみのみこと)と
いい、子供の成長の神として愛知県犬山市には桃太郎神社が、岡山
市には吉備津神社があります。

 昔話は勝手に宝物を分捕ってきて「めでたし、めでたし」とは合
点がいきませんが、1924年(大正13)芥川龍之介の作品のよ
うに、桃太郎は老人夫婦に愛想をつかされた怠け者で腕白者で、欲
張りな猿と飢えた犬、それに地震学に通じたキジを連れて鬼ヶ島に
攻め込み、罪もない鬼たちをいままで味わったこともない恐ろしい
目に遭わせた設定になっているのは妙に納得させられます。

 岩手県の桃太郎は次のようなストーリーです。父と母が花見に行
って弁当を食べようとしていると、桃がひとつ母のところに転がっ
てきました。母は拾って帰り大事に綿に包んで寝床に置くと、桃が
割れて子供が生まれました。

 子供は桃ノ子太郎と名づけられました。ある日父母が畑に出たあ
と、留守番しながら勉強していると柿の木に鳥が来て地獄の鬼から
の手紙を預かっていると鳴きます。手紙には日本一のキビ団子を持
ってきてくれと書いてあります。

 早速母にキビ団子をつくってもらい、地獄へ行って鬼たちにキビ
団子を食べさせました。鬼たちは団子を食べて酔って寝てしまいま
した。その間に桃ノ小太郎は地獄のお姫さまを車に乗せて連れだし
無事帰ってきました。これがお上の知るところとなり「あっぱれ」
というわけで金をもらい長者になったのだそうです。

 明治の国定教科書に載ってから桃太郎の一般的な物語が広まりま
したが、全国各地で語られるのはそれとは少しずつ違う話で、中に
は拾ってきた箱の中に子供が入っている例もあるそうです。

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■義経神

 判官贔屓(びいき)という言葉は、兄の源頼朝にねたまれて滅び
た義経に人々が同情したことからきているという。源義経(115
9〜89)は平安末期から鎌倉初期の武将。源義朝の九男として生
まれ、幼名は牛若丸、遮那王丸また九郎。検非違使に任ぜられてか
ら九郎判官(くろうほうがん)と号しました。

 義経といえば鞍馬山が有名です。父の義朝が平治の乱で敗死後捕
らえますが助けられ鞍馬寺に入れられます。義経は夜になると僧正
ヶ谷で武芸に励み、山の大天狗の弟子として兵法を授け、小天狗ら
と立ち会わせながら腕を磨かせたといいます。

 やがて五条大橋で弁慶との対決になるわけですが、ふつうは弁慶
が太刀千本を奪う悲願を立てることになっています。ところが逆に
「武蔵坊弁慶絵巻」などの本には悲願を立てたのは義経だとしてい
るから面白いものです。

 そんなこんなで家来もでき、奥州の藤原秀衡のところに身を寄せ
ます。そして兄頼朝の挙兵。京都で木曽義仲を討ち、平氏軍を一ノ
谷に破り、英雄になった義経も後白河上皇の頼朝・義経の間を引き
離そうとする策略にのせられ、頼朝の認可を得ずに検非違使・左衛
門小尉になり、頼朝の不興を買い疎外されます。

 追いつめられた義経は叔父の源行家と手を結んで反逆を企てまし
たが失敗。やがてふたたび奥州の藤原秀衡のもとに逃れます。しか
し秀衡が死んだ後、その子泰衡は頼朝の圧迫に耐えきれず1189
年義経を衣川の館に襲撃し自害させたことになっています。

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 ところがそれは見せかけで本当は義経は生きていて、東北・北海
道から樺太を経て蒙古に渡りモンゴル人を征服。大蒙古帝国を建設
して初代皇帝になりジンギスカンと名のったというのですから話が
でかい。その証拠に各地に義経や弁慶にまつわる地名が転々とある
のです。

 岩手県江刺市にある岩谷堂は、自刃したと見せかけて北上川対岸
の地で従臣たちの逃げ延びてくるのを待ったところだという。また
山形県真室川町に弁慶岩があります。

 青森県三厩町(みんまやまち)三厩には竜馬山義経寺、厩岩(う
まやいわ)、義経持仏の聖観音像があり、悪天候で海を渡れなかっ
た義経が、岩の上で三日三晩聖観音に祈ったところ、白髪の翁が現
れ3匹の竜馬をくれたので、聖観音を厩石の上に安置して主従とも
に竜馬に乗って蝦夷ヶ島に渡ったといいます。

 北海道松前町松城光善寺にも義経欣求院、義経石があり、義経石
に座って無事海を渡れたことを欣(よろこ)んだところといいます。

 さらに樺太から満州を経由、蒙古に行く間にも源九郎判官義経や
武蔵坊弁慶に関連づけて読める地名などが数多く残っています。ま
た香川県香川町東谷や北海道平取町の義経神社、神奈川県藤沢市藤
沢の白旗神社などは義経をまつってあります。

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■義仲神

 義仲神は木曽義仲のこと。突然ですが中央アルプス空木岳の北側
主稜に「木曽殿越」という鞍部があります。ここは標高2480m、
北アルプス立山の一ノ越、槍ヶ岳西鎌尾根の硫黄乗越(のっこし)
についで3番めに高い乗越だそうです。源平の合戦の時、木曽冠者
(木曽殿)・源義仲はいとこの源頼朝の旗揚げにこたえ挙兵しまし
た。

 治承4(1180)年9月、義仲は大軍を従え、馬もろともにこ
の乗越から太田切本谷を下り、伊那谷に侵入していったというので
す。一方、伊那の平家方・小笠原平五頼直の軍は義仲の兵の勢いに
恐れをなし逃亡した…ということです。(「吾妻鏡」巻一)。以後、
ここを木曽の殿越と呼んだといいます。

 木曽義仲(1154〜84)は源義仲。平安時代の武将で通称木
曽冠者。群馬県北橘村には義仲をまつる箱田・木曽三社神社、長野
県木曽福島町に興禅寺、滋賀県大津市の義仲寺などがあります。父
は源為義(八幡太郎義家の孫)の次男義賢(よしかた)。

 義仲が生まれた翌年、父は甥である源義平との戦いで殺され、孤
児になりましたが畠山重能(しげよし)、斉藤別当実盛(さねもり)
らの計らいで、義仲の乳母の夫である信濃の土豪中原兼遠(かねと
お)のもとにかくまわれ成長しました。

 木曽の山中で成人した義仲は27歳の時(1180年・治承4)、
以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて木曽に挙兵、
先述の中央アルプス木曽殿越を越えて小笠原頼直を破りさらに上野
に進出しました。

 それからは信濃から越後に進み、1183年、越中・加賀国砺波
山の倶利伽羅峠では、4、500頭の牛の角に松明を燃やして平家
の陣に追い入れ平維盛らの大軍を大破して近江に入り、平氏が逃げ
たあとの京に入りました。

 直ちに後白河法皇から平氏追討の命を受けて、無位無冠から従五
位下左馬頭(さまのかみ)越後守、ついで伊予守と急出世します。

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 しかし、兵糧不足や軍兵の無秩序、それに公家一流の礼儀作法を
心得ない義仲に都人は冷たく辛辣でした。備中(岡山県)水島で平
氏に敗れて帰京してみると、法皇は頼朝に「寿永二年一〇月宣旨」
を与え、頼朝との接近を策略しています。

 孤立した義仲はクーデターを敢行、翌年1月みずから従四位下征
夷大将軍となって「旭将軍」と称したが、頼朝代官として上洛した
源義経・範頼の軍に敗れた。

 都を逃れた義仲は乳母子の今井四郎兼平と打出の浜で行き会い、
最愛の巴御前を無理に去らせる。兼平と主従二人になった義仲は「日
来(ひごろ)は何ともおぼえぬ鎧が、けふは重うなッたるぞや」と
いったという。こうして義仲は北陸に落ちる途中近江国琵琶湖畔の
粟津で敗死しました。

 松尾芭蕉はこんな義仲をこよなく愛し、滋賀県大津市の義仲寺に
は芭蕉の墓があります。

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■物くさ大神

 物くさ太郎は、室町時代の物語。「御伽草子」に「東山道陸奥(と
うせんどうみちのく)の末、信濃国十郡のその内に、筑摩郡(つか
まのこほり)あたらしの郷といふ所に、不思議の男一人侍りける、
その名をものくさ太郎ひぢかすと申し候ふ」。

 この男が尋常でない不精者。ただ寝ているばかりで人が恵んでく
れた餅を取りそこねても、拾いにいくのが面倒で3日も人が来るの
を待ち取ってもらうありさま。通りかかった地頭が妙に感心し村人
に太郎を養うように命令します。

 ある時、京から村に長夫(ながぶ)(公用に長期的な労役を課す
こと)がかかりました。村人はそれを太郎に押しつけ京に上らせま
した。京に行った太郎はまめまめしく働き、長い夫役も終えました。
帰京の際、妻にする人を探そうと清水寺に行き、貴族の美女を見初
め、言い寄って連歌のかけ合いをします。女も太郎が見かけによら
ず和歌の道に通じているのに心を許し結婚しました。

 やがて太郎が仁明天皇の第2皇子の深草天皇の子で二位の中将と
いう人の子(つまり仁明天皇の3代の孫)であることが分かりまし
た。この二位の中将がかつて信濃に流された時、善光寺の如来から
授かった申し子が太郎だったのです。

 帝は太郎を信濃の中将に任じ甲斐、信濃の国を与えました。こう
して帰国した太郎は百二十歳まで生き、死後はおたがの大明神、妻
はあさひ(あさい・朝日)の権現となってあらわれ、長生きの神と
してまつられています。

 おたがの大明神の「おたが」とは、愛宕(あたご)とか御多賀(お
たが)のことだといわれてきました。松本市出川町に、長生きにご
利益のある多賀神社というのがあり大明神はここのこととの説があ
ります。しかし普通は「おたが」は穂高の訛りだというのが一般的
な説になっています。

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 穂高神社は長野県穂高町にあり、安曇一族の祖神をまつってあり
ます。江戸時代の松本藩の総合書「信府統記(しんぷとうき)」に
穂高神社は「文徳天皇ノ御宇、信濃中将ト云ヒシ人ニ勅シテ、当社
ヲ造営セシメラル。…此中将ハ仁明天皇ノ三代ノ孫ナリ。俗ニ物苦
(モノグサ)太郎ト称ス。今当社ノ内ニ若宮大明神ノ宮アリ、此中
将ヲ祝ヒシトナリ、中将ハ其比当国ノ国司ニヤ」とあり、いまでも
穂高神社を物ぐさ太郎の宮といい、太郎の塚もあります。

 北アルプス奥穂高山頂には穂高町と上高地にある穂高神社(穂高
大明神)の山宮の祠が建っています。まつる神は綿津見命(わたつ
みのみこと)とその子穂高見命(ほたかみのみこと)、瓊瓊杵尊(に
にぎのみこと)となっていますが、ちまたではもっぱらあの物草太
郎をまつっていることになっています。

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■頼政神

 源氏だ平氏だとつづくようで恐縮です。頼政といえばヌエ退治で
有名です。夜ごとに近衛院を悩ます物の怪に、頼政が警固をしてい
ると黒雲があらわれ怪しい姿が見えます。源頼政が矢を放つと見事
に命中、空から何か落ちてきました。

 それはナント、頭がサルで体はタヌキ、尾はヘビ、手足はトラで
鳴き声はヌエという化けものだったという。それにより帝の病は治
り、師子王という剣を賜ったという。「平家物語」巻四に出てくる
お話です。

 源頼政(1104〜80)は平安後期、源平争乱時代の武将で弓
の名手であり歌人でもあります。1156年(保元元)、保元の乱
では源義朝に従い後白河天皇側につき、崇徳院方の源為義・為朝ら
と戦い勝利を治めました。

 また59年の平治の乱にははじめ義朝側についていましたが、変
心して平清盛方について勝利。「平家にあらずんば人にあらず」の
時代、源氏の身ながら従三位(じゅうさんみ)という破格の待遇を
得ます。

 1180年(治承4)、平治の専制を怒り、源氏の世にしようと
以仁王(もちひとおう)にすすめ、平家討伐をはかって兵を挙げ京
都宇治川に陣を張りましたが、戦いに利あらず平等院で自決。それ
をあわれみ種々の伝説が生じます。

 家臣の河辺三郎行吉が山伏姿で頼政の首を運び出し、墓や祠をつ
くったところが茨城県古河市にあり、全国に頼政塚があります。

 西丹沢、神奈川県山北町神縄の頼政神社の境内のトチノキは「か
ながわの名木100選」の1つで、昔、飢きんの時、このトチノキ
の実を食べ何人もの命が救われたと立て札にあります。布なわでな
らす鈴の音に混じって、遠く三保ダム公園がにぎやかでした。

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(第7章終わり)

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