第4章 天狗神

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▼中 扉

天狗神】 このページの目次
 ・天狗神 ・天狗のはじまり ・天狗のいろいろ ・不思議な女
  天狗
 ・河童天狗円光坊 ・鼻高天狗と飯縄天狗 ・天狗のお経「天狗
  経」
 ・日本八天狗(京都愛宕山太郎坊 滋賀比良山次郎坊 長野飯綱
  三郎)
 ・首都圏と富士山の天狗(東京高尾山の天狗 奥多摩御岳山の天
  狗(箱根の天狗 丹沢大山の天狗 秩父の天狗 富士山の天
  狗)
 ・東北の天狗(青森恐山の天狗 岩手県遠野の天狗)
 ・関東の天狗(日光の天狗 群馬県赤城山の天狗 群馬県妙義山
  の天狗)
 ・北アルプス立山の天狗 ・木曽御嶽山の天狗 ・北陸・白山の
  天狗
 ・京都鞍馬山の天狗(魔王大僧正 僧正坊と鞍馬十天狗)
 ・近畿の天狗(奈良県葛城山と吉野の天狗 和歌山県高野山の天
  狗)
 ・四国の天狗 ・九州の天狗
 ・天狗の生活、食べ物
 ・天狗の仕業?「太平記」の記述 ・山移り

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■天狗のはじまり

 山を歩いていると天狗岳、天狗岩、天狗平などの地名をよく見か
けます。辞典には「深山に住むといわれる怪物。人間の形をして顔
が赤く、鼻が高く、不老不死、神通力で自由に空を飛ぶいたずらも
の」とあります。

 ところで、中国では古くから災いをもたらすといわれる、天かけ
る星・流星やすい星を天狗といっていたそうです。中国の古書「史
記天官集」第五には「テングは状大奔星の如くにして声あり、その
下りて地に止まるや狗に類すウンヌン」とあり、やはり流星をテン
グ星と呼んでいます。

 「日本書紀」(下巻・巻第二十三)に、「九年春二月丙辰の朔戊寅
に大星、東より西に流る。すなわち音あり、雷に似たり、時人いわ
く、流星の音なり。またいわく、地雷なりと。これにおいて僧・旻
(みん)いわく、流星にあらず、これ天狗(あまつきつね)なり。
その吠える声雷に似たるのみ」と何やらコムズカシそうな言葉がな
らんでいます。

 つまり、飛鳥時代、舒明天皇9(637)年のきさらぎの丙辰の
23日に、都の空に突然大彗星が現われ、ゴロゴロと雷のような音
をたてながら西の方に飛んでいった。不吉の前兆と不安がる人々に、
中国への留学から帰国したばかりの僧の旻が、「これはあまつきつ
ねなり」といったというのです。これが日本で最初の天狗の記録だ
ということです。この時代にはいまでいうテングのイメージはうま
れていないようです。

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 その後、天狗の記録は2百数十年間なにもなく、平安中期になり
「源氏物語」、「宇都保物語」などに登場しはじめ、平安時代後期の
「今昔物語」に「今は昔、天竺に天狗ありけり」とちらほら出てく
るようになります。

 鎌倉時代になってからは「平治物語」の京都鞍馬山で牛若丸が天
狗を師として修行する話や、「平家物語」、「源平盛衰記」などにゾ
ロゾロ出てくるようになります。しかし当時の天狗は、くちばしの
尖ったトンビのような顔、全身毛むくじゃらの獣姿のカラス天狗で
した。いまのような鼻の高い山伏姿の天狗があらわれたのは室町末
期になってからだそうです。

 さらに下った南北朝のあたりから、天狗思想は修験道と結びつき、
寺院と同じようにそれぞれの山号に僧正、阿闍梨(あじゃり)、内
供奉(ないぐぶ)、薩た(さった)などの名前がつけられはじめま
す。天狗たちが一番活躍したのはこの南北朝時代のようです。

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■天狗のいろいろ

 天狗といえば、鼻が高く赤ら顔、一本歯の高いげたをはいて羽う
ちわを持った修験者風のイメージが浮かびます。これらは大天狗で
す。これと違って、とがったくちばしのある天狗は、カラス天狗、
または小天狗です。カラス天狗はふつう青色の顔をしています。そ
の中間が中天狗。古い川柳に「ありそうでないのが中天狗」という
のがありますが、実際にはいるそうです。

 これが天狗の階級で、気ままな天狗も階級で縛られていると思う
と愉快です。いちばんの大物はやはり大天狗、以下中天拘、小天狗、
木の葉天狗、カラス天狗、白狼天狗(はくろうてんぐ)、溝越天狗
(みぞこしてんぐ)とつづきます。最下位の溝越天狗は飛翔術が未
熟で溝を飛び越すのがやっとレベル。ときどきポチャンと落ちると
いう落ちこぼれ天狗です。

 大天狗でも、名のない天狗が多いなかで名前が知られている天狗
はそれこそ大物の天狗です。これらの大天狗はみだりに姿を見せま
せんが、小天狗や木の葉天狗などは狗賓餅(ぐひんもち)といって
猟師や木地師など山仕事の人が天狗に供える餅が少ないといっては
天狗倒しを演じたり、木を切る邪魔をしたり、岩や石を谷底へ蹴飛
ばしたり、川の魚を捕って喰ったりすると、古書にあります。

 また、天狗の種類としては、宮天狗、海天狗、川天狗、道天狗、
辻天狗、辰巳天狗、朝日天狗、夕日天狗、水天狗、向こうの天狗、
屋根の天狗、座の天狗、富士天狗、平松天狗、てろう天狗がいると
いいます。大物大天狗の中でも、ド超大物は、京都・鞍馬山の天狗、
同じく京都の愛宕山の天狗、奈良県・大峰山の天狗、滋賀県の比良
山の天狗、長野県・飯縄山の天狗、福岡県・彦山(英彦山)の天狗、
神奈川県・丹沢大山の天狗、香川県・白峰の天狗が有名です。これ
らにすむ天狗を「日本八天狗」というそうです。

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■女天狗

 石仏で有名な長野県坂井村の修那羅峠は、安宮神社の裏山の細い
道に沿ってズラッと500体もの石神や石仏がならんでいます。石
仏はどれも作者不明。江戸時代末期から明治にかけて彫られたもの
といわれています。

 その中でこれはめずらしい女性の天狗の石仏があります。石像は
半分はだかで、一見童子風で鼻も高くなく、天狗の形はしていませ
ん。ただ像の両脇に「婆羅門 女天佝」とあり、天狗の狗がケモノ
ヘンではなく、「佝」とニンベンになっています。狗については、
富士行者の身禄文字ではニンベンに狗をつけた文字で、また国安普
明文字では「立ヘンに句」を使っているといいます。もっと不思議
なのは、婆羅門の文字。先人がインドの仏典には「天狗ノ文(もん)
見エズ」とはっきり言っており不思議です。まして戒律・修行の厳
しい婆羅門のなかで女性がいるとは不思議です。

 天狗の階級をあらわす呼び方や、前出の種類や地方での呼び方、
和歌山県の土天狗、土佐のシバテン(芝天狗)、出羽地方の最上川
には水天狗などなどがありますが、女天狗というのはどこにも出て
きません。石工の案か注文者の指示か、不思議な天狗として、研究
家も首をひねっています。

 しかし、「源平盛衰記」には驕慢になった尼法師が天狗になった
との記述があり、また諦忍比丘の「天狗名義考」にも素戔嗚尊(す
さのおのみこと)のたまった息から生まれた天狗神(あまのざこが
み)という女性神がおり、人身獣面の姿だと記されています。

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■河童天狗円光坊

 山形県羽黒山には毛色の変わった水天狗円光坊という天狗がいる
ことになっています。この天狗は羽黒山開運「七千日護摩行者長教」
の護符に、もう1狗の羽黒山三光坊とならんで影像が出ています。
円光坊と三光坊の2狗の下には火炎を中心に、15匹のカラス天狗
が囲んでいます。この護符には火災水災除・厄難消滅とありますの
で、水天狗円光坊は水難除けの担当天狗なのでしょうか。

 円光坊は羽黒山に登るため、舟で最上川を行き来する人々の安全
を守護する天狗だといわれています。この舟便はかつては近畿地方、
陸前、陸中など日本海側からの羽黒山を信仰する人たちの大半を運
んだといいます。

 水天狗円光坊は、鼻がとがり髪を伸ばし後ろでしばった総髪姿。
左手で宝剣の柄をにぎり、右手で頭の上までのびる金剛杖を持ち、
白無垢の行者の姿で輪袈裟を掛けています。

 水天狗のすむ場所として研究家は最上川の水の上か、川底か、陸
にすむとすれば陸羽西線清川駅から少し最上川上流の戸川にある仙
人堂周辺ではないかといっています。昔から羽黒山へ向かう人や、
羽黒修験の山伏たちは必ずこの仙人堂へ参拝してから登ったといい
ます。仙人堂は源義経の家来であった天狗・常陸坊海尊をまつる廟
と伝えられているところです。

 仙人堂のあるあたりをかつては「山ノ内」と呼んだといいます。
要するにこのあたり一帯がすでに羽黒山の山内の登山口に当たって
いたのだろうということです。いずれにしても水天狗は全国唯一の
水の天狗であり水難守護の河童神ではないかともされています。

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■鼻高天狗と飯縄系天狗

 いま天狗といえばだれもが鼻の高い顔を連想します。現に天狗で
有名なお寺や神社のみやげ店で目につくのは全部鼻高天狗お面で
す。

 しかし、室町時代の末期までは鼻高天狗はなくすべてくちばしの
とがったカラス天狗だったといいます。あの「太平記」(巻第五)
にある北条八代執権高時がなぶりものにされた「高時天狗舞い」や
(巻第二十五)の「天狗評定」の天狗たちはみなカラス天狗です。

 足利何代目かの将軍の夢枕に、牛若丸に兵法を教えた天狗・鞍馬
山魔王大僧正坊があらわれ、「自分の姿を日本画の狩野派2代目・
元信に描かせて、鞍馬寺に安置するように」とのご神託。将軍が元
信に命じると、元信も同じ夢を見たという。(鞍馬山にはたくさん
の天狗がいて、ふつう牛若丸に教えたのは名前の似ている僧正坊と
思われていますが、実際はその上にいる鞍馬山魔王大僧正坊。鞍馬
寺の話もそうなっているという)。

 元信は早速制作に取りかかりましたがいかんせん手本がありませ
ん。筆を待ったまま困りに困っていますと、天上からクモが2匹ツ
ーッと降りてきました。そして糸を吐きながら画紙の上をはい回り
ます。元信がその糸を筆でなぞってみると、頭の中で思っていたと
おりの天狗の絵が描けたというのです。

 ただ、もちろんこの説を否定する本も多く、元信に依頼した人は
別人だとするものや、天狗像を創り出したのは京大工の祖父だなど
とする本などもあります。また仏教のカルラ王の姿や面相もよく似
ており、その他、雅楽の「湖徳面」もそっくりなことから、大天狗
のモデル説はかなり異説があります。

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 こうしてできあがった像は、いままでの馬糞トビ姿の醜いカラス
天狗とは比べものにならない立派な大天狗像。世間の人の人気者に
なります。全国あちこちの天狗の山々も次々にこの天狗像に乗り換
えしまい、いまでは天狗といえば山伏姿の鼻高天狗をいうようにな
っています。

 それに対して狩野元信が創り出したとされる山伏姿の鼻高大天狗
に乗り換えず、もとのカラス天狗のままで押し通ししているのが北
信の飯縄山(1917m)系の天狗たちです。

 長野県飯縄山の天狗・飯網三郎(いづなのさぶろう)は、伊都奈
三郎とも書き、飯縄系の天狗の総元締め。この系列の天狗の姿はほ
かの天狗と異なり、荼吉尼天(だきにてん)の姿をしています。

 飯網三郎の前身は、泰澄の弟子でいつも寝そべっていたその名も
臥行者(ふしぎょうじゃ)か、またはその系統の行者だろうといわ
れています。飯縄山といえば、飯縄法の発祥地ですが、飯縄法は飯
網三郎をまつる飯縄修験や戸隠修験とは関係なく、それらよりもず
っとあとの時代におこったものだそうです。

 飯縄山に登って鳥居をくぐると山頂で、その直下にある祠の中に
は2匹のキツネに乗った荼吉尼天の石像があります。これがまさに
飯網三郎天狗像です。

 飯縄系の天狗は、このほか静岡県の秋葉山三尺坊、神奈川県箱根
明星ヶ岳の道了薩?(どうりょうさった・「た」は土偏に垂)、東京
の高尾山飯縄権現、群馬県の迦葉山中峰尊者、茨城県の加波山岩切
大神などがいます。

 これらの天狗は、もじゃもじゃ頭で不動サマのような火炎を背負
い、足に蛇を巻きつけた白いキツネの上に立ち、肩に羽を残したも
のが多く鼻は高いのととがったものと2種類あります。

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■天狗のお経「天狗経」

 修験道で修行する行者が、各地の霊山の天狗を招いて祈念を込め
る時に唱える「天狗経」というお経があります。

 天狗経は、密教系の「万徳集」や江戸時代の版元・浪華人田中玄
須の「本朝列仙伝」などにも見えるため、室町後期にはすでに唱え
られていたものらしいといいます。

 その内容は「南無大天狗小天狗十二天狗有摩那(うまな)天狗数
万騎天狗、先づ大天狗には、愛宕山太郎坊、妙義山日光坊、比良山
次郎坊、常陸筑波法印、鞍馬山僧正坊、彦山豊前坊、比叡山法性坊、
大原住吉剣坊、横川覚海坊、越中立山縄乗坊(しじょうぼう)、富
士山陀羅尼坊(だらにぼう)、天岩船檀特坊、日光山東光坊、奈良
大久杉坂坊、羽黒山金光坊、熊野大峰菊丈坊、吉野皆杉小桜坊、天
満山三尺坊、那智滝本前鬼坊、厳島三鬼坊、高野山高林坊、白髪山
高積坊、新田山佐徳坊、秋葉山三尺坊、鬼界ヶ島伽藍坊(がらんぼ
う)、高雄内供奉(ないぐぶ)、板遠山頓鈍坊、飯綱三郎、宰府高桓
高森坊、上野妙義坊、長門普明鬼宿坊、肥後阿闍梨(あじゃり)、
都度沖普賢坊、葛城高天坊、黒眷属金比羅坊、白峰相模坊、日向尾
股新蔵坊、高良山筑後坊、医王島光徳坊、象頭山金剛坊、紫尾山利
久坊、笠置山大僧正、伯耆大山清光坊、妙高山足立坊、石鎚山法起
坊、御嶽山六石坊、如意ヶ岳薬師坊、浅間ヶ岳金平坊、総じて十二
万五千五百、所々の天狗来臨影向、悪魔退散諸願成就、悉地円満随
念擁護、怨敵降伏一切成就の加持、をんあろまや、てんぐすまんき
そわか、をんひらひらけん、ひらけんのうそわか」

と48の天狗名が出てくるお経です。天狗専門のお経があるとは驚
きです。ただ、「日本八天狗」に登場している丹沢大山の天狗・伯
耆坊が抜けているのは編者のミスだろうと研究者は不満げです。

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■日本八天狗

 山中の、人間界とは別の魔性の世界・天狗の思想は、次第に修験
道と結びつき、その守護神として姿も山伏の格好になっいったとさ
れています。とくに室町時代以降は、霊山や有力な山伏集団のいる
山では、それに対する崇敬を強めるため、次つぎに天狗に名前をつ
けていきます。

 なかでも有名なのは「日本八天狗」と呼ばれる面々。
 その名は京都の愛宕山太郎坊、滋賀県・比良山次郎坊、長野県・
飯縄山の飯綱三郎、奈良県・大峰前鬼、京都の鞍馬山僧正坊、香川
県・白峰相模坊、神奈川県・相模大山伯耆坊、福岡県の彦山豊前坊
の八天狗です。(彦山は今は英彦山と書く)。このなかで太郎坊、次
郎坊、三郎と順序よく兄弟分のようにならんでいます。

 天狗の名がいつごろからつけられたのかははっきりしませんが、
愛宕山太郎坊は「源平盛衰記」に出てくることから、鎌倉時代には
すでに名前があったのだろうとされています。その後室町時代にな
り、有名な霊山や有力な修験集団の山々では、次第に天狗の名前が
できはじめたらしく、同時代の謡曲などに天狗の名前や天狗の山な
どが出てきます。

 謡曲「鞍馬天狗」には鞍馬山僧正坊や白峰相模坊、相模大山伯耆
坊、飯綱三郎、富士太郎、大峰前鬼、葛城山高天坊など13の天狗
や天狗の山の名がならびます。これらの名が登場するのは、謡曲の
作者の完全な創作ではなく、その山に天狗がすんでいてどういう名
前かということを一般の人々が知っていたからこそ、作品の中に登
場させたものといわれています。この時代前後の「御伽草子」にも
鞍馬山や愛宕山、比良山、高野山、那智山などの天狗名が出ていま
す。

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■八天狗三兄弟
「京都・栄術太郎坊」

 「日本八天狗」のなかで太郎坊、次郎坊、三郎はまるで兄弟分の
ようにならんでいます。

 愛宕山太郎坊は正式には栄術太郎です。八天狗の筆頭の天狗で、
全国にある愛宕社約800社に祭られているといいます。そういえ
ばあちこちに愛宕山があり、また町名も愛宕町、愛宕神社がよく目
につきます。栄術太郎天狗の前身は、聖徳太子の恩師にあたる日羅
という人だとも、またインドの魔王天狗が日本にやってきて愛宕山
に住みつき暴れていたものを、役ノ行者と泰澄大徳に折伏され改心
してこの山を守るようになったともいわれています。またその時の
縁で泰澄自身の姿だとする説もあります。

 一説に、弘法大師の十七弟子の一人・真斉上人(しんぜいじょう
にん)が皇后に思いを寄せるようになり、恋い焦がれて死に、その
怨念が凝って天狗になってしまったという人もいますが、天狗研究
者は取るにたらない話で、実際のところはやはり愛宕の山神か、地
主神だろうとしています。

 これだけ有名な天狗ですから大昔から人々の口にのぼり、「今昔
物語」に出てくる天狗はたいがい愛宕山の天狗です。愛宕の宮には
「愛宕八天狗像」というのがあり、太郎坊はじめそれぞれに名前の
ある天狗がいて、そのまた眷属がおり、全国の愛宕宮にまつられる
天狗まで入れれば莫大な数になります。それを取りまとめる栄術太
郎坊はやはり大物中の大物天狗です。

 ちなみに山名事典で調べてみたら、愛宕山・愛宕岳・愛宕峠を含
めて全国に126の山や峠がありました。

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■八天狗三兄弟
「滋賀・比良山次郎坊」

 太郎の次は次郎が順序です。滋賀県の比良山に住む次郎坊は、か
つてからいろいろな書物にも登場、その乱暴ぶりが紹介されていま
す。「今昔物語」巻二十に、香川県の「万能ノ池」の竜王が小蛇に
なって昼寝をしていると比良山の天狗がつかんで飛びあがり岩穴へ
閉じこめて弱ったところを喰おうと待っていた話があります。

 別の逸話では比叡山の坊さんをさらってきて食用にしようとした
話、また比叡山の給仕をしていた少年をさらって日本国中を連れ回
った話や、その少年の叔父の家に火をつけて体を温めたなどと載っ
ています。また比叡山の山麓坂本の山王神社のお祭りや、栃木県日
光のお祭りにまで顔を出し、集まってきた群衆に術を使って訳のま
からない大げんかをさせたなどの乱暴話も比良山次郎坊の眷属の仕
業だとしています。

 比良山次郎坊は、かつては比叡山次郎坊といい、この山々一帯の
天狗の群れを支配していました。古い物語にしばしば「叡山次郎」
なる天狗が出てくるといいます。

 平安時代初期、留学していた最澄(伝教大師)が帰ってきて、都
の鬼門である比叡山に延暦寺を創建して魔怪たちを封じ込めます。
延暦寺が隆盛になるにつれて法力の優れた高僧が出てきて、次郎坊
たちも法力比べで負けることも多くなります。そのうち手なずけら
れる手下もあらわれるしまつ。一部の天狗は護法神として残りまし
たが、次郎坊一族郎党はついに敗退し比良山に戻り、そこに納まっ
て名前も比良山次郎坊と呼ばれるようになったのではないかとされ
ています。

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■八天狗三兄弟
「長野県飯縄山・飯綱三郎」

 「三男」は三郎で飯綱三郎です。この天狗は長野県の飯縄山(飯
綱山とも書く)におり、戸隠側では伊都奈三郎とも書いています。
愛宕山太郎坊、比良山次郎坊に次の格、平安初期からの天狗でそれ
は大した大物。その前身は泰澄上人の従者・臥(ふし)行者だとも、
その流れをくむ学問行者だとの説もあります。

 また永観(983年)のころ、同じ信濃の穂高村出身で、いま静
岡県秋葉山にいる天狗三尺坊が戸隠山の西窟にこもって修行したと
いう記録から三尺坊の本地だとの説がありますが、三尺坊はのち、
越後の守門岳の麓の熊野社三尺坊で生きながら天狗に化したとされ
ています。そんなことからやはり古くからいわれてきた山神説が正
解ではないかとされています。

 この山にももう一狗(天狗は一狗二狗と数える)、飯縄山千日太
夫という天狗がいるといいます。この千日太夫は、「管狐(くだぎ
つね)」という人には見えない小動物を使って、人の過去や未来を
告げさせる飯縄邪法の始祖。鎌倉初期、長野県萩野(いまの信州新
町)の城主・伊藤兵部太夫豊前守忠綱がこの山にこもって穀食を断
ち千日間の修行の末、この飯縄邪法をあみだします。人々は彼を千
日豊前(ぶぜん)と呼びました。忠綱の息子の次郎太夫盛綱も父に
ならって同じように千日修行をし、千日太夫と呼ばれるようになり、
忠綱の子孫が代々その名を受けついだといいます。

 穀食を断ったといっても、何も食べないわけにはいきません。そ
こで栄養分にしたのが、天狗の麦飯といわれる飯砂(いいずな)(食
用になる土)です。これは、土の上に木の葉や実が落ちて重なり、
長年温められて発酵したもので、栄養分もあり飢饉にはふもとの住
民は蒸して食べ、命をつないだというもの。飯縄(飯綱)山はもと
飯砂山と書き、山の名はこの天狗の麦飯が語源だそうな。いまは天
然記念物になっていて採集は禁止されています。

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 飯縄邪法受けつぐ飯縄修験は、インドのヒンズー教の魔女からき
た荼吉尼天の思想を基幹とし、その社を飯縄権現といいました。こ
この修験は、もとは天台派の戸隠修験に属していた真言派の戸隠宝
光社の衆が、1270(文永7)年に分裂して大挙して戸隠を離れ、
飯縄の一峰である霊仙寺に移り、飯縄修験になったものです。

 飯縄修験は古くから有名だった飯綱三郎の名を利用、飯縄の法に
格をつけて重みを増してきました。以後、いろいろな為政者の尊崇
をうけて栄えましたが、やっていることが人をまどわせ恐れさせる
呪法です。世間からいやがられて滅亡への一途。いまは山頂直下に
荼吉尼天の石像があるだけです。

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■首都圏と富士山の天狗
「高尾山の天狗・飯縄権現」

 都民の山・高尾山の真言宗智山派別格本山薬王院有喜寺は、真言
宗の関東三山(成田山新勝寺、川崎平間寺)に数えられる名刹です。
全国に天狗の山は多くありますが、この高尾山もそのひとつ。登山
口の京王線高尾山口駅や、近くのJR中央線高尾駅には、鼻高天狗
の石像やお面も飾られています。ところが、高尾山の天狗は鼻の高
くないカラス天狗の姿なのだそうです。

 そもそも高尾山は、奈良時代、聖武天皇の勅願により行基菩薩が
開山したとされています。その後600年たった、永和年間(13
75〜79)京都醍醐寺の僧・俊源大徳が中興開山。寺伝では「勇
猛精進の師」呼ばれ山中の琵琶滝、蛇滝、かしぎ谷などで修行、1
0万枚の護摩を修し疲れ果てて仮眠の際、夢で飯縄権現を感得しそ
の像を権現堂にまつり修験道の道場としたといいます。

 俊源の夢にあらわれた飯縄権現は、顔は人でトビのようにくちば
しをとがらし火炎を背負い、翼を広げた、白虎にまたがる荼吉尼天
の姿。俊源に向かい、余はアバラ(不動)明王である。長い間世の
中が多難で、諸々の魔怪が横行して世を騒がすので、雷を落として
降伏させるために奇瑞をあらわした。これを飯縄の神女という。山
にまつるがよろしいとのおつげ。

 この本には神女とありますが、飯縄権現は長野県の飯縄山の天狗
・飯綱三郎の分家格ということになっています。また参道にあるた
こ杉は根が盛りあがるでタコの足のような大木です。かつて参道を
開くとき根が路上にのびてじゃまになり、道路側の根だけでも切ろ
うと翌朝行ったところ、一夜のうちに根が山側に片寄っていたとい
う。これは天狗の仕業に違いないと天狗杉とも呼ぶようになりまし
た。

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■首都圏と富士山の天狗
奥多摩御岳山の天狗・桜坊

 奥多摩御岳山(みたけさん)の御岳神社は、鹿の肩骨を焼いて豊
作を占う「太占(ふとまに)」の神・櫛真智命(くしまちのみこと)を
主神に、大己貴命、少彦名命を祀ります。創建は崇神天皇の時代と
もいい、その後、日本武尊がここに陣を張った所へ奈良時代、行基
菩薩が大和吉野を模して金峰山蔵王権現を勧請し、坊舎を建てたと
いう。一方、ここはもと地主社である「大麻止乃豆乃天神社(おお
まとのつのあまつかみのやしろ)」だともいいます。なるほど、こ
の名の社も櫛真智命を祀る神社です。

 金峰山蔵王権現を勧請した御岳山は、吉野のコピー。だから御岳
山の別名は金峰山で、奈良県吉野の奥山である大峰山にあたるのが
大岳山です。吉野山には多くの神々が祀られており、その中に地主
神金精明神の化身といわれる吉野皆杉小桜坊という大物の天狗がい
ます。

 その吉野をならった御岳山にも、トーゼン天狗がすんでいます。
武州御岳桜坊といい、大もとは吉野皆杉小桜坊。御岳神社左下の道
をとり、天狗の腰掛け杉わきから右へ登り、奥ノ院へ向かいます。
ちょっとした鎖場をすぎ、男具那(おぐな)社に着きます。これは倭
男具那命(やまとおぐなのみこと)「日本和武尊」をまつった社。以
前はイザナギ、ホムスビの祠があったという。その裏を登ったピー
クが奥ノ院。広場にあるのが天狗桜坊の祠だという。

 かつては扉を開くと、大天狗、小天狗、桜坊の3座がまつられて
いたといいますが、いまは石祠は風化し壁はくずれて穴があいて裏
側が見え、補修のあとがここかしこの状態です。このあたりは訪れ
る人も少なく、いまは天狗といえば岩石園の天狗岩の方が有名で、
観光客はその上に建っている大天狗、烏天狗像を写真に撮っていま
す。

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■首都圏と富士山の天狗
箱根明星ヶ岳の天狗道了薩た

 箱根の大文字焼きで有名な明星ヶ岳は、小田原市方面から見ると
夕方、山の上に宵の明星が輝くため、この名があります。その明星
ヶ岳は天狗の山でもあるという。

 北麓にある大雄山最乗寺(だいゆうざんさいじょうじ)(曹洞宗)
は、室町時代初期に建てられた古刹。寺の入口は道了尊(どうりょ
うそん)というバス停で、境内の杉は天空にそびえ、鉄製の天狗の
赤い下駄がならび、仁王のかわりに大天狗・小天狗がにらんでいま
す。道了尊とは、明星ヶ岳に棲みこの寺を守護している天狗・道了
薩た(どうりょうさった)(本名道了坊妙覚)のことだといいます。

 この天狗は、もと滋賀県大津の有名な三井寺(園城寺)の行者だ
ったそうです。三井寺の古記録によると、道了はもと修験道本山派
の修験で、至徳元(1348)年に聖護院門跡の峰入の先導をつと
め、康応元(1389)年、三井寺の長吏の上任式には、衆僧72
0人、式衆20人の中から選ばれて「散華」という晴れがましい役
を引き受け、明くる年の足利三代将軍義満の屋敷での尊星王法修法
にお供をし、その10日後相国寺では十一面秘法を自ら修めるとい
う大行者。

 しかし、同郷の相模出身の了庵慧明(りょうあんけいめい)禅師
が、箱根に最乗寺を建てることを聞いた道了は、にわかに天狗の姿
に変身し、西の窓から金堂前の大杉に飛び移り、東の方に向かい飛
び去ったというのです。それは了庵が最乗寺開山を思い立った前年
(明徳4年・1393年)の9月17日だという。

 こうして箱根にやって来た道了は、了庵の弟子になり神通力を使
って、最乗寺はたちまちのうちに完成。17年後の応永18(14
11)年、師匠の了庵が75歳でこの世を去ると、道了天狗はまた
も天狗に変じ、最乗寺を守護するため飛び立ちいまは明星ヶ岳に棲
むという。

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■首都圏と富士山の天狗
丹沢大山伯耆坊と道昭坊

 「不動まで行くのも女だてらなり」 いまにも女性たちに怒られ
そうな川柳ですが、石尊大権現で知られる相模の丹沢大山(125
2m)も江戸時代は女人禁制で、女性は山頂の奥ノ院へは登れなか
ったといいます。

 大山ケーブルの途中・不動前駅にある真言宗・雨降山大山寺はも
と、現在の阿夫利(あふり)神社下社のところにあったのだそうで
す。それを明治維新の神仏分離令の時、いまの場所に移転したもの
だという。しかし、登山道が男坂に対して女坂があるとおり、ゆる
やかな女坂を下社、すなわちかつての大山寺までは女性も禁制では
なく登れたといいます。大山寺の本尊は大聖不動明王であり、冒頭
の川柳の意味がわかってきます。

 江戸庶民は、大山まいりの前に水垢離をとるのがしきたりだった
といいます。その唱え言葉に、「南無帰命頂礼、さんげさんげ(懺
悔懺悔)、六根罪障、おしめにはつだい(大峰八大の誤りといいま
す)、大山大聖不動明王、石尊大権現、大天狗、小天狗」とあるよ
うに、大山は天狗の山です。いまも、山頂奥ノ院には狛犬の台座に、
また下社から山頂へ登る途中の石尊大権現の石柱にも大天狗、小天
狗の文字が彫ってあるのが目につきます。

 そもそも、大山には有象無象の天狗どもがすんでいるという。そ
の我慢邪慢(がまんじゃまん)の天狗どもを大親分天狗の伯耆坊(ほ
うきぼう)が取り仕切っているのだそうです。伯耆坊はもと鳥取県
の名峰・伯耆大山(ほうきだいせん)にすむ天狗でしたが、南北朝
時代の抗争以後、伯耆の大山寺の衆徒が派閥争いをはじめ、果ては
互いの坊を焼き払い、とどのつまり大山寺を炎上させる荒廃ぶりです。

 それにあきれ果て、伯耆坊天狗は相模大山に山移りしてしまった
のだといいます。伯耆坊の祠は、いま大山寺にあり、昭和33年正
宗得三郎描いた絵をもとにして彫った伯耆坊天狗像の碑も下社わき
に造立してあります。

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 またもう1狗、阿夫利山道(常)昭坊天狗がいることになってい
ます。これは平田篤胤の門人でいまの市川市の住人・中尾玄仲から
聞いた話を篤胤が「仙境異聞」という本の中で紹介しています。

 この天狗は同市の旅籠の主人藤屋荘兵衛のところへ遊びに来て
5、6日逗留。酒ばかり飲んでいましたが、その時したためた書面
の中に「日向国坂野上、常昭山人」田村氏とあり、相模大山にすん
でいると話し、法号を常昭(または道昭)といい、出身地が日向の
国(宮崎県)、田村という苗字で丹沢大山にいることが分かりまし
た。

 篤胤一派の神道家・島田幸安、宮地堅磐という人たちはこの常昭
天狗を見たとか、うわさを聞いたとか書いているそうです。しかし、
歴史的に新しい事から見て、大山では中級天狗だろうとされていま
す。

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■首都圏と富士山の天狗
秩父両神山の天狗たち

 その昔、日本武尊が東征の折り、筑波山から八日間この山を見な
がらこの山に至ったので「八日見山(ようかみやま)」。それが転訛
して両神山(1723m)になったという。しかしこれは小鹿野町
側からの呼び名。両神村側では竜神(頭)山(りゅうかみやま)と
いっていました。

 もっとも、ヨ(ヤ)ウカミはヤオカミのことで、ヤは八、オカミ
はオロチ(大蛇)。つまり八つの頭を持つ竜王(竜頭大明神)だと
いいますから、八日見でも竜神でも同じことではあります。竜頭山
の名もあり、北の坂本地区には竜頭神社があります。

 両神山は飛鳥時代の役ノ行者(小角(おづぬ))が開いた山とい
われ、江戸時代は木曽の御嶽(おんたけ)教の行者の修験道場として
にぎわいました。

 そのため、両神神社本社の前には御嶽神社の祠があり、山頂東方
に木曽御嶽山と同じ前衛の山、三笠(みかさ)山、八海(はっかい)山
の地名もあります。この山は天狗の山としても名高い山。山麓には
天狗社が散在しています。とくに出原地区に古くから伝わる木製の
天狗像は逸品です。また行者の唱える唱文のなかに「三笠山刀利天
坊(とうりてんぼう)、八海山大頭羅坊(おおずらぼう)、阿留摩耶
山アルマヤ坊……」と御嶽山と同じ天狗の名が出てきます。大頭羅
坊は表参道にあるが他のものはどこにあるか?と探してみました。

 清滝小屋から少し上がった一位ガタワ方面に入ったところで、は
からずも見つけた刀利天坊天狗の像。やはり三笠山と関係ある場所
にあり、木曽御嶽山飛騨頂上にある刀利天像と姿形がよく似ていま
す。文字は風化して読めませんが、足の指に鳥のような爪があるの
が気になります。とすればこのあたり、まだ他の天狗もあるかも知
れません。

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■首都圏と富士山の天狗
秩父破風山・岩船山の天狗

 秩父の破風山(627m)は天狗伝説の山です。この天狗には何
の伝承もありませんが、山頂近くの如金峰(にょっきんぼう)とい
う岩峰に時々天狗が姿を見せたため、天狗の名が先か岩の名が先か、
ニョッキンボウ、ノッキンボウと里人にいい慣わされてきたという。

 破風山山頂は結構な賑わいです。如金峰は西側の札立峠先を登っ
たところ。富士講の石碑の先で突然あらわれます。土地の人たちは
いぼの神さまとして願をかけ、かつては筒酒をもってお礼に来る人
で賑わったという。いまもカップ酒が供えられています。ここ破風
山は秩父三十四番札所水潜寺の鎮守の山。如金峰は金精神。椋神社
の方がさばけていて鎮守の山としてふさわしいのかも知れません。

 秩父にはもう1狗・岩船山天狗坊がいることになっています。こ
の天狗の前身は秩父三十二番札所・曹洞宗の般若山法性寺(岩船寺)
にいた老修験者だといいます。もとは大阪城の足軽で、夏の陣・冬
の陣では某隊の旗持ちをしていましたが、合戦に敗れると修験道に
入り各地の山々で修行、秩父に来て岩船山に身を寄せました。庇護
してくれた寺の和尚が他界すると、いつの間にか姿を消します。

 それから100年後、岩船山に怪異が起こりはじめ、ある夜、当
時の和尚の夢枕に立ち、自分を天狗としてまつってくれればこの寺
の護法神になってやろうといいます。和尚は承知し庭に祠を建てた
はいいが、名前を聞き忘れてしまいました。仕方がないので天狗様、
天狗様と呼んでいたものがいつの間にか天狗坊になってしまったと
いうことです。

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■首都圏と富士山の天狗
富士山の天狗たち

 太古の昔から詩歌、紀行、史実にあらわされ、また山岳信仰のメ
ッカとしてあがめられてきた富士山に天狗がいないわけがありませ
ん。富士山の天狗といえば富士太郎坊権現がいます。これは富士山
の表参道・静岡県側、新五合目南方の高鉢山(1649m)にまつ
られていて、登山者を守った天狗。陀羅尼坊とも呼ばれ表参道村山
浅間の修験行者たちが護山護法の神としてまつりました。

 この天狗像は、いま静岡県富士宮市の村山浅間神社の宝物館に「高
鉢権現」として所蔵されており、尻尾の太い白キツネの背に左足で
立ち、右足で雲を踏もうと上げる格好のもの。左右いっぱいに翼を
広げ、頭の上に火炎をかかげています。白キツネに乗り、火炎を背
負った姿はまるで飯縄系の天狗に似ていますが、細部は独創的な作
者の神経が行き届き最高傑作のひとつだと天狗研究者・知切光歳は
「天狗列伝」で絶賛しています。

 この像は明治の廃仏棄釈の騒ぎの中、一時民間の家々に流出しま
したが、まつられる先々で次々と怪異が起こるため、最終的に現在
のところに落ち着いたものといいます。

 一方山梨県側、富士吉田市浅間神社北口本宮にも大きな天狗面が
掲げられています。またスバルライン終点北口五合目に小御獄神社
があって境内に天狗・正真坊の像があります。正真坊の住処は五合
目駐車場からお中道に入り一時間も歩くと御庭があらわれ、そこか
ら右へ下った奥庭周辺を含め天狗の庭と呼ばれるところ。奥庭荘付
近には「天狗石」もあります。このあたりは雄大な富士山頂をバッ
クにカラマツが地を這って生えています。

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 五合目小御獄神社には日本武尊や富士山の祭神である木花開耶姫
の姉の磐長姫命(いわながひめのみこと)のほか大天狗小天狗の社
もあります。

 そばに天狗像の顔の部分から顔を出して記念撮影ができる看板が
ありました。写真を撮りたいのでちょっと顔を出してくれない?と、
そばにいた見知らぬ若者に頼んだら天狗の面のところにきまり悪そ
うな顔が出てきました。有り難う。

 なお、ここの神社で頒布している正真坊の軸があり写真で見る限
りでは、上に図案化された富士山が描かれ、その下の霧で白くなっ
た部分の真ん中に「富士山小御獄神社」墨で一行書き、その下に赤
い大岩があり磐長姫命とあります。さらにその下に岩に乗った一対
の天狗が向かい合い、右の天狗は鼻の高い赤顔で羽を広げ羽布団を
持った形。左の天狗は青顔、くちばしのとがったカラス天狗でやは
り羽を広げ頭上に刀をかざした形でした。

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■各地の天狗
東北「青森恐山・常陸坊海尊」

 青森県恐山に、いつのころからか常陸坊海尊天狗がいるといいま
す。海尊は武蔵坊弁慶などとともに源義経の家来として活躍した人
物。東北各地では義経、弁慶の蝦夷渡海伝説があり、海尊も仙人に
なったとしていますが、なぜか恐山では天狗にされています。

 海尊は常陸の国(茨城県)の鹿島神宮の別当寺修行し、のち滋賀
県三井寺(園城寺)に移ったといわれる僧。源義経に仕え平家と戦
い、奥州落ちなど一緒に行動してきましたが、文治5(1189)
年、義経が衣川の戦いで敗死した日は、海尊はたまたま同僚11人
と付近の寺参りに出かけ留守でした。海尊たちはそのまま行方をく
らましてしまったと「義経記」(巻第八)「衣河合戦の記」に出てい
ます。

 それが江戸時代初頭になって海尊が姿をあらわれたというので
す。この時代の書物には、残月または残夢と名のる異様な老人が、
自分は不老不死だといい、源平合戦の模様を当事者のようによく知
っていて、人々に話しているので聞いてみると実は常陸坊海尊だっ
たとあります。

 あまりの評判に、徳川家康の側近・天海という人が老人に会って
確かめたところ海尊に間違いないという結論に達したという話が残
っています。この怪老人が不老不死なのはクコ、赤魚の肉、それか
ら富士山の岩からわき出る飴のようなものを食べたからだという。
天海もこれをまねた食事を取り108歳まで長生きしたとのことで
す。

 海尊の出身地・茨城県桜川村の大杉神社に、伝教大師の弟子快賢
が年を隔ててのち、仮に常陸坊海存となって義経を助け、平家追討
してのちにこの地に帰り、大杉大明神の像を彫刻し大杉殿に納め天
下太平五穀豊登などを願って、彩雲に乗りたちまち消え失せ給う、
との伝説があります。

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■各地の天狗
東北「岩手県遠野の清六天狗」

 高山植物のタカネウスユキソウで有名な岩手県早池峰山(実質標
高1917m)は、山頂に霊泉があって、この池が山名の由来だと
いいます。霊山である早池峰山のふもとにも天狗の話が多い。

 早池峰山参りのとき、いつも人の後から家を出発するのに、みん
ながあえぎあえぎ山頂に登ってみると、いつの間にか先に来ていて
「お前たちは何をしていたのだ」と笑っている人物。名前を清六天
狗といい、花巻あたりの人で酒が好きで、さび付いた小銭で酒を買
いにきますが、差し出す小さなヒョウタンに酒がいくらでも入って
しまうといいます。

 遠野市には、清六天狗が着ていた「天狗の衣」が伝わる家があり、
それは袖の小さい青い襦袢のようなもので袖に十六紋の菊が綾織り
になっていて、胴にもヒョウタンの形の中に菊の紋があるというこ
とです。

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■各地の天狗
関東「日光東光坊」

 日光・男体山は奈良時代の782(延暦元)年に勝道上人が開い
たと、弘法大師空海が漢詩集「性霊集」という本に書いています。
当時は補陀洛山(ふだらくやま)といっていました。この山の山頂
近くには年2回、突風が吹き出す岩穴があったそうです。そのため
1年に2回荒れるこの山を二荒山(ふたらやま)と呼び、やがて二
荒(ふたら)を「にこう」と読み「にっこう」に転訛、日光の名が
生まれたとされています。

 日光には東光坊という天狗がいることになっています。この天狗
の前身は、徳川家康だともいうのです。家康の神号は「東照権現」
になっていますが、かつて神号を決める時「東光権現」にする意見
が多く、大勢を占めていたと『東照宮史』にあるそうですから、あ
ながちでたらめな説でもなさそうです。

 おもしろいことにこの天狗、いくら徳川家康の化身だとしても天
狗の世界では新参者です。日光の山々を治めようとしますが、奥山
の古い天狗がいうことを聞きません。バカにされてよく騒ぎを起こ
されたという。江戸も後期の1825(文政8)年、11代将軍家
斉が日光社参に訪れることになりました。その期間に天狗たちが騒
ぎを起こしては大変です。

 そこで日光社参奉行はその前年に、日光の前山・古峰ヶ原(こぶ
がはら)の大物天狗・隼人坊(はやとぼう)の名前を借りて、わざ
わざ山中の剣ヶ峰に天狗向けの高札を建てたそうです。内容は「日
光住居大小天狗中江 来年の社参の期間は騒ぎを起こさず、京都の
鞍馬山、愛宕山、静岡の秋葉山、福岡県の英彦山など、他の山に移
るように」とのというからまるで嘘のような話が残っています。ち
なみに翌年の家斉の社参は行われなかったといいます。

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■各地の天狗
関東「群馬県赤城山杉ノ坊」

 突然ですが、和歌山県由良町の興国寺の伝説です。火災が重なる
法燈寺(興国寺の別名)に一人の僧がやってきて、この寺は何回建
て直しても火災にあうだろうという。それは寺の名(法燈寺)の文
字が「水去りて火登る」と書くからだという。

 もし寺を建立したいなら、ワシが一晩のうちに建ててやれるが、
それもやがては火事で焼けてしまう。それでもよかったら自分は、
上州(群馬県)赤城山の杉ノ坊という者だが訪ねてくるように……
といって去っていきます。

 住職は、しばらくして僧ふたりを赤城山につかわし寺の建築を頼
みます。この杉ノ坊は天狗の大親分だったのです。さっそく配下の
天狗をひきつれ由良町にやってきて一晩のうちに七堂伽藍を建てて
しまいました。しかし、杉ノ坊のいったとおり、やがてまた火災に
見舞われてしまったという。これは江戸中期の『新著聞集』にある
お話です。

 この話を聞き、家に帰り調べてみて驚きました。群馬県側にも同
じ話が伝わっているのです。和歌山県と群馬県になんのつながりが
あるのでしょうか。赤城山は群馬県の利根村、昭和村、赤城村など
八村にまたがる二重式火山・赤城山という山はなく、主峰の黒檜(く
ろび)山(1828m)などの外輪山の総称でその中に大沼、小沼
があります。

 大沼湖畔にある赤城神社は、もと大沼神をまつり、いまは大巳貴
命(おおなむちのみこと)(大国主命)と豊城入彦命(とよきいり
ひこみこと)を祭ってあります。その赤城神社のわきにある飛鳥(ひ
ちょう)社が天狗の祠だといいます。赤城山の天狗杉ノ坊は、赤城
山に30年も籠もり天狗を友としていた行者で、のち新田郡世良田
村(いまは尾島町)長楽寺の法照禅師の弟子になった了儒法師の化
身ではないかといわれています。

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■各地の天狗
群馬県妙義山「上野妙義坊と長清法印」

 妙義山の最高峰の相馬岳(そうまだけ)(1104m)東麓には
妙義神社があって天狗のお面が飾ってあります。天狗の名は上野妙
義坊(こうずけみょうぎぼう)。一説には天狗の前身は法性坊尊意
僧正(ほうしょうぼうそんいそうじょう)という人だともいう。

 尊意僧正は比叡山十三代目の座主(ざす)。「白雲山妙義大権現由
来」によれば、天慶3(940)に逝去しましたが、のち碓氷峠に
突如としてあらわれ、白雲山に来て「宿世の縁でこの山に住し、衆
生を済度せん」と託宣。民衆に妙義権現として敬われたという。

 妙義山の峰続きの西の峰が中之岳・金洞山。ここにも長清法印(ち
ょうせいほういん)という天狗がすんでいたという。『本朝神仙記
伝』によると、法印の父は小田原北条の家来で、戦場で敵に討たれ
てしまった。法印はその仇を討つため金洞山に籠もり苦修練行。神
通力を得て、ついに仇を討つことができた。

 しかし、同時に浮き世のむなしさを知り、仏道を志し上野寛永寺
境内の元光院に入門したのち、再び金洞山にもどり、登山道を開き、
岩高寺を創建したという。長清法印天狗は、鉄の下駄に鉄の杖を持
ち、風や雲に乗って山中を徘徊。ふもとの農家の庭の柿の木のてっ
ぺんから、そのまま空を飛び金洞山の庵室に帰っていったとか、い
ろいろなエピソードが伝わっています。

 長清法印は筋肉たくましく、怪力で敏捷、顔色つねにうす赤く、
五十歳ぐらいに見えたという。しかし、江戸前期の延宝元(167
3)年、いつもの岩窟にこもり入定したときは148歳であったと
いうから、生まれたのは戦国時代の大永5(1525)年というこ
とになります。

 中腹の中之岳神社には長清法印が愛用した鉄の下駄が、いまでも
宝物として保存されているといいます。また長清法印天狗のお面は
上信電鉄下仁田駅構内に飾られています。

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■各地の天狗
北ア立山「縄乗坊と光蔵坊」

 富士山、白山とならんで「日本三霊場」と称される北アルプスの
立山。大宝元(701)年、佐伯有頼によって開かれ、平安時代か
ら真言宗、天台宗の修験道場となり、地獄谷を対象とした信仰が定
着、立山は早くから都へも知られていました。

 ここには天狗が多くすむという。弥陀ヶ原東部の溶岩台地を天狗
平、その南側の山に天狗山があります。立山信仰伝承に「参詣人の
不敬、慢心の者には天狗が怒り、石を投げる」とあります。その天
狗の代表は、立山縄乗坊(しじょうぼう)でこのあたりにすむ数千
の眷属の上に君臨する大物天狗だといいます。資料は少ないですが
伝承が多く天狗のお経「天狗経」に出てくる「四十八狗」にも名を
連ねています。

 肥前の国平戸藩主(長崎県)の松浦靜山の「甲子夜話」(巻七十
三)にこんな話があります。上総(千葉県)の源左衛門が天狗にさ
らわれ、立山にある加賀の白山に通じているという大きな洞くつに
連れて行かれました。穴の中に20畳もある居場所があって僧や山
伏が11人もならんで座っていました。その坊さんたちは源左衛門
をさらってきた天狗を「権現」と呼び、みんなの上座へ座らせ、乾
菓子を食べていたといいます(ふだんはほとんど飲んだり食べたり
しない)。やがて笙、ひちりきに合わせて舞いはじめたという。

 この11人の僧たちは天狗に相違なく、権現坊こそ立山の天狗の
首領縄乗坊の傘下のなかでも幅利きの天狗であろうと研究者はみて
います。また洞くつは室堂近くの天狗平周辺にあり、縄乗坊の住処
になっていたのではないかとされています。

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 別の天狗は「立山光蔵坊」といっています。越中の僧・智妙坊は
能力は確かでしたがそれを鼻にかけてみんなに嫌がられていまし
た。「強欲非道慢心虚栄」というから余程だったようです。ある年、
檀家衆の先達として立山を案内中、突然牛の姿に変身。袈裟をつけ
たまま笹原をさまよいはじめました。のち、懺悔改心し泰澄大師に
救済され、「光蔵坊」という天狗に生まれ変わり、天狗平南側天狗
山にながくすんだと伝えられています。その爪が社石としていまも
残っているそうです。

 いまシーズンは室堂を中心にツアーの観光客が押し寄せ大にぎわ
い。土産物屋から喫茶店までならびます。5月の連休から雪を削っ
ての道路づくり。壁の中をバスが行き交い、それを見にまたツアー
を組む。そんな有りさまにあきれかえったのか、いまでは天狗の姿
も見かけなく、文献を調べてもサッパリなのはさみしいかぎりです。

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■各地の天狗
木曽御嶽山の天狗たち

 昭和54(1979)年に突然爆発をおこした木曽御嶽(306
7m)は、いまだに噴煙が収まりません。この山の開山は飛鳥時代
だと伝えます。以来、それは多くの行者が修行してきた信仰の山。
いまでも全国各地にある御岳講の信者は数百万人を超えるといいま
す。登山口ごとにそれぞれ奥宮があり、最高峰の剣ヶ峰にもりっぱ
な奥社が建てられています。

 まつられる神は、国常立命(くにとこたちのみこと)と大国主命
である大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこな
のみこと)という神さまたち。707(大宝2)年、役ノ行者小角
が開山したとも、また同年、信濃国の国司・高根道基が頂上奥社を
創建したなどの説があります。

御嶽山ははじめ「王岳」、「王の御嶽」と敬って呼ばれ、平安時代
の貴族も御嶽詣で、御嶽精進などを行う風習があったという。中世
「王岳」の呼び方が「おのたけ」になり、室町中期にはさらに転訛
して「おんたけ」となったとされています。山そのものを崇拝した
時代から修験道の山になってからは、御嶽の名がつく奈良吉野の金
峰山(金の御嶽)から、役ノ行者が感得した蔵王権現を勧請し、「王
御嶽蔵王権現」と称したという。

 「金の御嶽」の流れをくむ各地の御岳は、すべてミタケといい、
本山の金峰山に対して国峰(国御嶽)といっています。ただそのひ
とつの御嶽だけが、オンタケと呼ばれるのにこの山に特別な意味を
持たせたのでしょう。

 山頂には一ノ池から五ノ池まで五つもの池があり、一ノ池のまわ
りには三十六童子の石像がずらりと安置されています。なかでもさ
ざ波立つ三ノ池は神聖視され、池の水はいつまでも腐らないといわ
れ、家に持ち帰り薬を飲むときなどに使用します。

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 こんな信仰の山なのでいくらでも不思議な話が聞かれます。数あ
る伝説のなかでも天狗の話は名高く、御嶽行者の経文の中に「恐れ
乍ら之の座に勧請し奉るは…大己貴神、少彦名神、御嶽山三社大権
現……八海山大頭羅神王、三笠山刀利天、飛竜大権現、阿留摩耶山
大権現……」と天狗名が出てきます。

 こに山は御嶽山六尺坊という大天狗をかしらに、阿留摩耶山アル
マヤ坊、八海山大頭羅(おおずら)坊、三笠山刀利(とうり)天狗
たちがいることになっています。そのほかの名前のない天狗どもは
数知れず。

 六尺坊はそれらを取り仕切る文字通りの大親分で、御嶽権現の化
身といわれています。六尺坊は、主峰の剣ケ峰にすみ、御嶽一帯に
にらみを利かせています。その一峰、摩利支天(まりしてん)山近
くの阿留摩耶山に住むアルマヤ坊。賽の河原東方のピークから三ノ
池を見下ろしています。

 大頭羅坊天狗は御嶽山の前山八海山にすむといいます。八海山は
王滝口五合目にあり、今ではバスで素通りするばかり。そして刀利
天坊は田の原にある三笠山に鎮座。交通が便利になった今でこそ、
これらの山々は見むきもされませんが、王滝村から歩いた昔はそう
とうな険阻な山で、登山者は神秘を感じていたらしい。刀利天坊は
五ノ池近くにある飛騨項上にも像があります。 

 ここで修行した御嶽行者が地方の山々に移動するにつれて、各地
に三笠、八海などの山名も多くなり、それぞれの分身も祭られまし
た。御嶽教の秩父の両神山にもこれらの山名や大頭羅神王像などが
あり、甲斐駒ヶ岳黒戸尾根中間にも刀利天狗の祠があり、三笠山刀
利大神の石碑が建っています。また越後三山の八海山には提頭羅親
王が祭られています。山々にはいまだにこのような伝承が残ってい
ます。

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■各地の天狗
北陸「白山の天狗たち」

 北陸の名山白山は御前峰(ごぜんみね)(2702m)、大汝峰(お
おなんじみね)(2684m)、剣ヶ峰(2677m)の三つの峰の
総称で、これらの主峰の南方、少し離れて別山(2399m)とい
う峰があります。

 白山は富士山、立山とならんで「日本三名山」にも数えられてい
ます。雪で白く輝くこの峰々の美しさは古くから世に知られ、万葉
の時代から「越のしらみね」と詠われました。

 この山は奈良時代の養老元(717)年、越ノ大徳とも呼ばれる
泰澄上人が、弟子の臥(ふし)行者と浄定(じょうじょう)行者を
連れて開山。山頂に登った泰澄は白山妙理権現という神を感得し、
その眷属配下といわれる禅師王子、児宮童子、一万眷属、十万金剛
童子、五万八千采女、天狗などをまとめる身になり、泰澄上人は御
前峰にとどまり白峰大僧正となって白山全体を守っています。(た
だ平安時代末期の日本の仙人をあげた本「本朝神仙伝」には泰澄は
7番目の仙人に数えられています。)また臥行者は奥ノ院に当たる
大汝峰に、そして浄定行者は白山正法坊天狗となって別山で上人を
助けているとされています。

 白山はあまりにも神威が強い霊山。そこで泰澄上人はこの山の山
霊・妙理大権現に現じ、十一面観音となり、また日天子や巨門星に
変化し、また白峰大僧正に変化しながら白山天狗を支配していると
いう。

 弟子の臥行者も同じように大汝峰で越南地権現(おうなんじごん
げん)に現じ、大己貴命(おおなむとにみこと)や阿弥陀さまに変
化するというし、浄定行者は別山にあって小白山大行事や聖観音、
天忍穂命に現じ、白山正法坊大天狗に変化して泰澄上人を助けるの
だという。

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 泰澄上人が越智山で修行中、入門してきた少年が家事のかたわら、
上人のそばを片時も離れずいつも戸外の雪の上に臥して眠っていた
という。そのため泰澄から臥行者の名をもらいました。食料調達が
仕事だった臥行者は、海岸に立って沖を行く船へ、托鉢に「鉄鉢」
を飛ばして布施を願い、船人が米を入れると鉢はまた空を飛び、行
者のもとに戻すという特技がありました。

 和銅五年というから飛鳥時代から奈良時代に突入した西暦712
年の秋のある日でした。臥行者がいつものとおり、沖をゆく船めが
けて鉄鉢を飛ばし托鉢に向かわせました。ところがその船は出羽の
国から米を朝廷に上納する運搬船でした。船主は神部浄定(かんべ
のきよさだ)という人で「ここにある米は官米である。少量たりと
も渡すことはできぬ」と喜捨を拒みました。

 すると船に積んであった米俵がふわりと舞い上がりあとからあと
から列をなし、臥行者のいる越智山めがけて飛び去っていきます。
船主は大慌てで米俵を追って行くと泰澄上人の住まいの前に俵が高
く積まれています。神部浄定は泰澄に米を返すよう頼みました。「あ
れは臥行者の仕業、すぐ返すよういっておく」。浄定が船に帰って
みるとすでに米俵は戻っていました。

 船主の神部浄定はこの不思議な光景を見て、米運搬の役目を役目
を果たすとそのまま泰澄上人のもとに駆けつけ弟子入りしました。
こうして浄定は炊事、洗濯、家事一切を取り仕切りながら師匠や兄
弟子・臥行者の身の回りの世話をしながら修行に励み、行を重ねて
浄定行者(浄定行者は縮めて浄行者)といわれるまでになりました。

 浄行者のいる別山は白山室堂から南竜ヶ馬場の谷を隔てた御舎利
山の南方。山頂には石垣で囲まれた別山神社の祠があります。別山
とは別の国の山のことだそうですが、ここでは別の国の富士山が望
める山の意味だそうです。9月、快晴の別山からは山なみの向こう
に富士山が小さく霞んで見えました。

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■各地の天狗
京都鞍馬山「魔王大僧正」

 天狗といえばなんといっても鞍馬山(569m)です。「鞍馬天
狗」でおなじみの天狗は鞍馬山僧正坊。ところが日本八天狗の第二
位にあげられるこの天狗の上にまだ超大物がいるという。それは鞍
馬山魔王大僧正(まおうだいそうじょう)という名で、あまりにも
大物すぎて天狗の枠からはみ出してしまい神仙以上の扱いを受け、
権現または菩薩としてあがめられているという。鞍馬山の本尊は多
聞天(毘沙門天)ですが、大僧正はその夜の姿だとされています。

 「義経記」巻一に、鞍馬の奥に僧正ヶ谷というところがあって天
狗の住処になっていて、牛若は夜になるとこっそりと出かけていき、
草木を平家の一類に、大木を清盛に見立て太刀を抜いて鍛錬してい
たとあります。ここ鞍馬の裏山僧正ヶ谷の最奥部には奥ノ院である
魔王堂があって、牛若丸がこのあたりで大天狗に剣術の稽古を受け
た場所とされています。

 多くの本ではその大天狗というのは「僧正天狗」とあります。同
じ「僧正」なのでどちらの天狗か分かりづらいですが、「鞍馬天狗」
でなじみの深い僧正坊だとするものが多い。しかし鞍馬寺では牛若
丸に剣術を教えたのは、親玉の方の超大天狗・鞍馬山魔王大僧正だ
といっているといいます。

 鞍馬山奥ノ院・魔王堂には高札が建っており、魔王大僧正は50
万年前、天の星から降りてきて、仮に天狗の姿になって諸悪をくじ
き、人々を助け給ふ毘沙門天の化身である、と眉つばなことが書か
れてあったいう。しかし「牛若丸が魔王大僧正から、夜な夜な剣術
を教わったのはこの場所で、堂の裏の岩場がそうである」ともあっ
たとか。魔王大僧正は奥ノ院の魔王堂にまつられています。

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■各地の天狗
京都鞍馬山「僧正坊と鞍馬十天狗」

 またここには有名な鞍馬山僧正坊という天狗もいます。日本八天
狗の第2位にあげられる天狗で、室町中期にできた謡曲「鞍馬天狗」
ですっかり有名になり、鞍馬天狗といえば僧正坊を指すほどになっ
ています。この天狗は、牛若が僧正ヶ谷で剣術を習っていたことと、
魔王大僧正の威厳とがごっちゃになって牛若に武術を教えたのは僧
正坊だとするにまでなっています。

 この天狗は、足利何代目かの将軍の注文で、日本画の狩野派2代
目・元信が創作した初めての鼻の高い山伏姿の天狗像のモデルで
す。そのいきさつは「鼻高天狗」の項で述べたほかに、狩野元信が
鞍馬山のお堂にこもって夜通し祈っていた時、月の光を受けて元信
の姿が扉に映ったのを模写したという説や、元信の家にある人がや
ってきて天狗の絵を注文した。どんな絵にするか元信が迷っている
と、その夜夢に老人があらわれ、天狗の形を伝授してくれたので元
信はそれを6尺(1.8m)あまりの紙に写したという説もありま
す。

 僧正坊の前身は、弘法大師の十大弟子のひとり真如法親王の弟子
で法験をもって聞こえた壱演権僧正という人といわれています。こ
の僧は呪験が確かで、皇太后や関白の奥方の病を祈り、法験でなお
したといい、僧のなかでも一飛びに権(ごん)僧正になったという
人。貞観九(867)年小舟に乗ってひとり沖に出たままついに帰
りませんでした。

 人々は天狗になったのに違いないと噂しあったとのことです。鞍
馬にはこのほか、8万騎とか11万騎とかいわれるほどの天狗がい
るという。「鞍馬神名帳」というものには10狗の天狗名が載って
おり、これを名づけて「鞍馬十天狗神」と呼ぶそうです。それは霊
山坊、帝金坊、多聞坊、日輪坊、月輪坊、天実坊、静弁坊、道恵坊、
蓮知坊、行珍坊の10狗です。

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■各地の天狗
奈良県「葛城山高天坊と吉野小桜坊」

 役ノ行者小角が修行した葛城山は、いまの金剛山から大和葛城山
一帯をいい、行者が吉野大峰と葛城山との間を岩の橋を架けようと
した岩橋山もあります。その大和葛城山と金剛山を結ぶ峰の鞍部を
高天原といい、近くに岩橋づくりの時行者に反抗し呪縛された一言
主神社もあります。

 高天原は葛城山高天坊(たかまぼう)または高間坊という天狗の
住処です。昭和の初め、愛知県岡崎市の真言宗醍醐派の属す内田恵
亮師は、呪術で遠方の地の「物品取り寄せの術」というのを披露し
ていましたが「この術ができるのは、大和の葛城山高天坊というお
天狗さまのお陰だ」いっていたそうです。

 高天坊の前身は葛城山の地主神の一言主神だという説があります
が、いまも金剛山などに数多くの呪法者がいることから一言主では
なく、役ノ行者の叔父に当たる願行上人ではないかと研究者はいっ
ています。

 金剛山には葛城神社や転法輪寺があります。社務所先にはキャン
プ場があり、つるべ式の井戸もあって一晩テントを張らせてもらっ
たことがあります。次の日、高天原の高間彦神社に寄りました。境
内は人気もなく注連縄を張った大杉が天を摩するように延びていま
した。

 岩橋を架けようとした片方のたもとの吉野にも皆杉小桜坊という
天狗がいます。吉野の奥千本に建つ金峰神社は、もと金精大明神(こ
んじょうだいみょうじん)といいこのあたりの地主神。この神は吉
野八大神の筆頭で吉野山鎮守の神さまとか。

 役ノ行者が感得した蔵王権現はこの大明神の姿を変えたものでの
ではないかという人もいるという。先年訪れた時は社務所が焼失し
ていました。別棟の金峰神社とちょっと下の「義経隠れ塔」が火事
から免れたのは幸いでした。

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■各地の天狗
和歌山県高野山「高林坊と妙音坊」

 弘法大師空海が和歌山県北部に開創した高野山は、真言宗の根本
道場として、総本山金剛峰寺を中心に18平方キロmに広がる聖地
です。開山は平安初期の弘仁年間だといい、密教普及のための聖地
を探していた空海が、狩場明神の化身の狩人に出会い案内されたと
いう。

 また山中で狩場明神の母・丹生明神から教えられたともいいま
す。一説に、高野山一帯は丹生都比売(にゅうつひめ)神社を祭っ
た広野社の社地で、土地の名族・天野祝(はふり)の所有地であっ
たのを、寄進されたものともいう。

 開山当時の、高野の山々や谷々には、参拝の善男善女を守るため、
山神や地主神、天狗たちが多くいたらしく、天狗山、天狗木、天狗
岩などがたくさんあります。その総帥が高林坊天狗といわれ、その
正体は空海を霊地に導いた地主神・狩場明神ではないかとされてい
ます。

 「今昔物語」に弘法大師が「“我ガ唐ニシテ擲(な)ゲシ所ノ三
鈷落タラム所ヲ尋ム”ト思テ、弘仁七年トイウ年ノ六月ニ、王城ヲ
出テ尋ヌルニ、大和ノ国宇智ノ郡ニ至リテ一人ノ猟ノ人ニ会イヌ。
大小ノ黒キ犬ヲ具セリ」(巻十一第二十五)とあり、漁師は三鈷杵
のあるところを知っているといい、霊地高野山に案内したとありま
す。

 また、弁天岳にはもう一人妙音坊天狗がいることになっています。
不動坂を登りつめた女人堂の向かい側のほそい階段を登ると、30
分で弁天岳につきます。山頂には岳の弁財天社が祭られています。
 この岳弁財天について『紀州名所図会』に昔、大師が如意珠をこ
こに埋め宝瓶を安置し、天女を勧請した。のち、妙音坊天狗がこの
岳を守護したという、とあります。妙音坊とは、女神である技芸天
女弁財天を守るための天狗だけあって、さすがにやさしい響きのす
る名前です。

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■各地の天狗
四国「白峰相模坊」

 白根相模坊は、日本の天狗の有名度の物差しにもなっている「日
本八天狗」にも入っている大天狗です。香川県坂出市白峰山(37
0m)にすむといわれる天狗で、もとは相模の国(神奈川県)丹沢
大山(1252m)にすんでいたが、いつのころか四国の白峰山に移
ったという。

 白峰山の中腹には四国霊場第八十一番札所白峰寺があり、境内に
崇徳上皇陵があります。1156年の保元の乱で敗れ、讃岐に流さ
れた崇徳院は8年間の悲憤の中で46歳の生涯を終えます。崩御し
た院のそばで霊を慰めていたのが相模坊天狗とその配下たちだった
という。

 1168(仁安3)年、西行が崇徳院の墓に詣でた時、崇徳院の
怨霊と問答したという。その中で崇徳院は「空にむかひて「相模、
相模」と呼ばせ給ふ。あ、と答えへて、鳶のごとくの化鳥翔来り、
前に伏して詔(みことのり)をまつ」と「雨月物語・巻之一白峰」
にあります。この鳶のような鳥が相模坊天狗です。このころはまだ
狩野元信が鼻の高い天狗を創作していなく、天狗といえばカラス天
狗だったわけです。

 崇徳院は相模坊に向かって、なぜ早く平重盛の命をとって後白河
上皇や平清盛を苦しめないのか。すると化鳥は、後白河上皇の福運
はいまだつきておりません。重盛の忠義にも近づき近寄りかねます。
しかしいまから干支(えと)を一回りし12年たてば、平重盛の寿
命がつきて平家一族の幸いも亡びましょう、と相模坊天狗は断言し
ます。

 そして干支が一周した13年後、その言葉どおり平重盛は重い病
で世を去ってから平家一門は滅亡しています。もちろんこれは「雨
月物語」の作者・上田秋成が平家滅亡の年数を計算しての上の構成
だといわれてはおりますが。

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■各地の天狗
九州「英彦山豊前坊」

 英彦山豊前坊(ひこさんぶぜんぼう)も「日本八天狗」に入って
いる天狗です。英彦山(1200m)は、福岡県と大分県にまたが
り、九州修験の総本山。新潟県の弥彦山、兵庫県の雪彦山とともに
「日本三彦山」に数えられています。

 この山には、天照大神の子がまつられているので日の子山、日子
山と呼んだといいます。のち嵯峨天皇の勅命で彦山になり、江戸時
代、霊元天皇から「英」の尊号を受け英彦山と書くようになりまし
た。

 英彦山は北岳、中岳、南岳の3峰からなり、中岳に英彦山神社が
あります。この神社から2、3キロのところに高住神社があって豊
前坊天狗をまつってあります。近くの岩壁の洞くつが豊前坊の住処
ということになっています。

 「彦山縁起」によれば、大昔、神が蒼鷹(あおたか)に姿を変え
て英彦山に降臨し、本体を水晶石(高住宮)になってあらわれます。
のち、役ノ行者が高住宮の旧跡を求めてやって英彦山にきた時、神
は少年の姿であらわれ行者の大願を称賛。こんどは夜叉の姿に変身
して憤怒の相をあらわしました。これが豊前坊天狗の本体だといい
ます。「彦山記」にも蒼鷹の姿でやってきたとあり、岩壁の洞くつ
を鷹栖ノ窟(高住神の窟)、すなわち豊前坊の洞くつだとしていま
す。

 また「天狗さらい」あった人たちはたいてい彦山に連れて行かれ
たといい、豊前坊の仕業だとされていたそうです。そのほか、豊臣
秀吉の朝鮮攻めの時、軍船をつくる材料に英彦山のご神木の杉を切
ろうと登ってきた、毛利元就の子で従三位・権中納言まで登りつめ
た小早川隆景が、豊前坊天狗にこっぴどく脅かされた話も残ってい
ます。

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■天狗の生活

 天狗はどんなものを食べているでしょうか。文政3(1820)
年というから江戸時代も後期、江戸下谷の長屋から天狗にさらわれ、
茨城県岩間山(十三天狗として有名)でしばらく天狗と一緒に生活
したいう少年がいました。寅吉といい、当時、天狗小僧寅吉と大変
評判になったといいます。それを聞いた国学者の平田篤胤が毎日の
ように寅吉のところに通い、話を聞き「仙境異聞」という本にまと
めました。

 それによると、天狗は食いたい時に食いたいものを食っている。
ことに連れて行かれたところの十三天狗は、毎日村々からお膳が供
えられ、弟子までが十分に食べられていた。しかし、人間の目には
供え物はぜんぜん減らず、そのまま残っている。供え物は減らなく
ても、天狗の方では充分に食っている。

 もしウソだと思うなら、オレ(寅吉)が茨城県の岩間山へ行った
あとで、食わせたい物を棚へ供えてみてください。あとで戻ってき
たとき、その食べ物のお礼をいいます。とだいたいそんなことをい
った。のち、寅吉が山から帰ったとき、確かにその時の供え物の名
前を言い当て、お礼をいったといいます。

 天狗も自分で炊事をすることがあって、鍋や釜まで備えてあった
という。食べ物は、魚や鳥を煮たり焼いたり、また生のままでも食
べるが、4本足の動物はけがれがあるので食わない。ネギは臭くて
も食うという。好きなものにタニシ、もち、ミカン、ブドウなどが
あり、保存食として、「アリ」というものがあるそうです。

 「アリ」は、イチゴ、クワの実、ウメ、エビカズラ、カキ、クヌ
ギの実(ドングリ)などのほか、草などの甘い実を集め、固い岩の
くぼみに皮をつけたまま入れる。クリは水気がないので良くないと
いう。

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 こうして雨や雪の入らない所に長い間おいておけば、自然に熟し
てとろりとなってわき上がり水が上に澄んでくる。うわ水は甘いの
で飲み、正味の所はワラビ粉を練ったように底に固まる。それをう
わ水でひたして飴を引き延ばすようにすれば白くなる。

 それを日で乾かし堅めるのだという。それを少し食べれば、20
0日はお腹がすかないというから欲しいものです。「アリ」とは珍
しい名前ですが、仙人食にも大体似た方法で製した丸薬があります。

・天狗の寿命

 江戸時代の国学者平田篤胤が天狗小僧・寅吉に話を聞いえ書いた
「仙境異聞」という本の中で天狗にも寿命があるかと質問していま
す。寅吉は「天狗は二百歳、三百歳、五百歳、一千歳になった天狗
もいるし、岩間十三天狗のひとりで寅吉の師匠・杉山僧正や、同じ
く古呂明兄弟は三千歳を越えていると聞いている。

 また白石左司馬(丈之進の天狗名)は、筑波の神人から天狗にな
ったのは元禄十三年(寅吉の話より120年前)と聞いているが、
今でも二十歳位に見える」などともいっています。

・飛行の仕方
 また天狗が空をどういうふうに飛ぶのかとい質問には、「雲なの
かわからないが、綿を踏んだような気持ちで矢のように飛んだ。風
に吹き飛ばされているたよう感じだった。耳がグ〜ンと鳴ったのを
覚えている」とあります。寅吉は月のすぐ近くまで飛んだときは大
層寒かったが、太陽の間近を通ったときは、暑くてたまらなかった
などとも話しています。

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・羽うちわの使い方
 「羽うちわの使い方は、空をさし目的をきめてから飛び上り、羽
うちわで場所を定めて降りる。空を飛ぶときの梶のようなもの」だ
といいます。これは大天狗だけの持ち物で、寅吉のような者は一人
で飛ぶときは、師匠の物を借りて行くのだそうです。

 羽うちわは空を飛ぶ時ばかりでなく妖魔を打ち払ったり、悪さを
する獣や悪鳥などを打ちつけたりもするそうです。天狗は護身術の
ため相当厳しい修業をしているとのこと。けいこ場は同じ筑波山塊
でも岩間から大分離れた加波山にあって、剣道の棒術に力を注ぎ石
打ちなどの練習もするそうです。

・天狗も夜寝る
「天狗も人間と同じように夜に寝るが、師匠は寝られれば10日も
20日も高いびきで寝続ける」し、「師はどうか分からないが、我
々は夢など家にいる時と変わらずに見る」とか、「ほかの山は知ら
ないが、茨城県岩間山には女の天狗はいない」。

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 また何か教えてもらいたい時に、山へ入って会ってもらえるか、
という問いに「それはできない。そんなに自由に会えるようでは、
仙境(天狗の世界)と俗世との区別がなくなってしまう」などとも
いっています。

そのほかの質問をならべてみますと
▼山中で人間を引き裂いたりさらったりすると聞くが、そんなひど
いことをするのか。
「天狗にも邪あり、正あり、猛烈なるあり、温和なるあり。気性の
激しい天狗は、そのようなはなはだしき行為をすることもあるなり」
▼人に夢を見せたり、夢で何かを知らせたりなどはできるか。
「神通自在なるゆえ、夢を見させる方法もありと聞きたり。ただし
その法は人の夢枕に立つ事故に、さとす方でも、さとそうと思うか
ら苦しく、さとされる方もはなはだ難儀なりとぞ」

▼天狗の姿格好については、「(杉山僧正は)四十歳ばかりに見えて、
髪の毛は生えるままに、腰の辺まで垂れたるに、真ちゅうの鉢巻の
ごときをはめ、山伏の衣袴を着る。緋衣なり。身長は常人より五寸
ばかりも高し、常々座禅を組み内縛の印を結び、呪文を唱え居らる
るなり。また太刀をもさすなり」。これはふつうの天狗とあまり変
わらないようです。

▼お金はどうしているか。
「多く入用なる時は、どこかへか行きて持ち帰るを時々見たり。き
っと海や陸に捨ててあるものを拾って来るなるべし」と答えていま
す。これは平田篤胤が寅吉から聞きただしているのを、門人の松村
完平という人が筆記しものといいます。皆さんはどう思いますか。

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■天狗の仕業?「太平記」の記述

 天狗が一番活躍したのは南北朝時代だといわれます。その証拠に、
世聞をアツといわせた事件がありました。「太平記」巻二十五に「宮
方の怨霊六本杉に会する事」という項があります。南朝きっての忠
臣・楠正行(まさつら)が「四条畷(しじょうなわて)の戦い」で
高師直(こうのもろなお)に殺された1348年、北朝でいえば貞
和(じょうわ)四年、南朝では正平3年の夏のこと。京都右京区に
ある真言宗御室派の総本山・仁和寺(にんなじ)に不思議なことが
起こりました。

 通りすがりの禅僧が夕立にあい、仕方なく仁和寺の六本杉の下で
雨やどりしているうち、夜になってしまいました。夜も更けて雨も
あがり、月明かりで見ると愛宕山、比叡山の方から御簾(みす)を
垂らした輿(こし)が次々に空を飛んできて六本杉の梢に集まり、
幔幕(まんまく)を張って中に座を占めます。

 風で吹き上げた幔幕の間から見ると、一段高い上座には大塔宮護
良親王(おおとうのみやもりながしんのう)がいます。護良親王は
もと建武新政府の征夷大将軍でしたが、足利尊氏排斥に失敗して鎌
倉に閉じこめられ、「中先代(なかせんだい)の乱」のときに尊氏
の弟・直義(ただよし)に殺された皇子です。

 護良親王のわきには、これも後醍醐天皇の外戚にあたる峰僧正・
春雅(元弘の乱の時後醍醐天皇に従っていた画僧だった)。さらに
左右には南都(奈良興福寺)の僧・智教上人(かつては後醍醐天皇
に従っていた西大寺の戒律僧)、浄土寺の忠円僧正、その他居なら
ぶ人たちもこの世にいた時は権勢無比の人たちばかりです。どの人
も眼が金色で、羽のはえたカラス天狗の姿をしており、怨念から天
狗になったとされる人物がならび、酒盛りをしながらなにやら相談
中。

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 やがて峰僧正が口を開きます。「北条家を亡ぼしたのもつかの間、
尊氏の反逆でまた武家に権力を奪われた。足利一族の悪政で天下は
腐り果てている。足利を混乱させる方法はないものか」。天下の困
窮をよそにおごりたかぶる足利一党にひとあわ吹かせようというわ
けです。すると忠円僧正が「良い方法があります」進み出ます。

 まず尊氏の弟・足利直義の妻のお腹に大塔宮が宿り、男の子とし
て生まれる。次に峰僧正が、禅僧の夢窓国師の弟子・妙吉侍者の慢
心の心に入り込み、よこしまな考えを吹き込み政道にくちばしをは
さませる。

 夢窓国師は尊氏の帰依(きえ)厚い人なので効き目がある。智教
上人はやきもち焼きの上杉重能と、畠山直宗の邪心にとりつき、忠
円僧正は師直・師泰兄弟の心と入れ替わって上杉・畑山と争うよう
そそのかし滅亡させる。これで尊氏・直義兄弟は仲が悪くなり必ず
戦いをはじめる。「しばらく見物のネタはなくなりません。」

 これを聞いて大塔宮をはじめ、居ならぶ天狗小天狗までが「いし
くも計らひ申したるかな」と大賛成。こうして相談(天狗評定)は
まとまり、天狗たちは煙のように消え去りました。これを見ていた
禅僧は身も凍る思い。あたりが明るくなって真っ青な顔で六本杉を
立ち去りました。

 翌年(1349年)、都では疫病、干ばつ、豪雨、兵乱と天変地
異がつづき、人々は不安と混乱の中に打ちひしげていました。陰陽
寮からも「慎みあるべし」との警告が出ていました。そんななかで
も貴族たちは流行していた田楽能にうつつを抜かし、あちこちで演
能を催していました。なかでも京都四条河原で行われていた田楽興
行は羽目をはずして目に余るものがありました。

 それを見て、一人の天狗山伏が「まるで狂気だ。肝をつぶしてや
ろう」と見物客満載の桟敷の柱を「えいやえいやと押すと見えける
が、2百余間の桟敷皆天狗倒しにあひてんげり」。見物客は投げだ
され押しつぶされ、川に放り出されておぼれ、河原は見る見るうち
に死人やけが人が山と重なり目を覆うようなありさま。これはただ
事ではない。天狗の仕業に違いないと人々はうわさしあいました。

−124−

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 その6月にも京都愛宕山で大規模な天狗集会が行われたといいま
す。羽黒山伏の雲景という人が、たまたま行き合った老僧に誘われ
て愛宕山の秘所に行きました。

 そこは人の目には入らない魔所で、異様な姿の金の笏(しゃく)
を持った高貴な人や高僧が流れきていました。この世のものとも思
えぬその場の雰囲気に雲景が老僧に「どういう人たちか」と尋ねる
と、上座にいる金の鳶姿の天狗は崇徳院、そばで弓矢を前にしてい
る大男が源為朝、左にならんでいるのは代々の帝王である、淳仁帝、
光仁后、後鳥羽院、後醍醐帝など「次第の登位を逐(お)って悪魔
王の棟梁と成りたまふ、やんごとなき賢帝たちよ」。

 その次の座にも真済、慈恵、仁海、尊雲らの高僧たちも同じ大魔
王となってここに集まり、天下を大混乱に導く評定を行っていたの
でした。

 その時、第一の座にいた長老で僧の衣装を着た愛宕山太郎坊天狗
が、新顔の雲景がいるのに気づき、この間の四条河原の騒ぎについ
て聞きます。雲景は、あれは天狗に仕業だと人々がいっています、
というと天狗の仕業とは限らん。

 天下の難儀を横目に、奢り享楽にふける平家一族には神の怒りも
あろうとのことでした。こんなことがあっての翌々年、まず直義と
師直不和になり結局は師直一族が滅亡。そしてついに評定から四年
後の文和元年(1352)年、尊氏は直義を鎌倉で毒殺し、「観応
の擾乱(じょうらん)」になって現れたのは歴史の語るところです。

 もちろん、これは「太平記」の作者が、年代に合わせて創作した
のに違いありませんが、それにしても細部まで状況が合致している
ことに不思議を感じます。

−125−

 

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■天狗の山移り

 各地の名山や、信仰の山には必ずといっていいほど天狗がすむと
いわれています。そのひとつ神奈川県の丹沢の相模(さがみ)大山
にも伯耆(ほうき)坊という大天狗がいることになっています。伯
耆坊は、いつのころからかいわれはじめた天狗の代表「日本八天狗」
にも入るほどの大物天狗なのだそうです。

 しかし、伯耆坊という名前の通り、もとは鳥取県の伯耆大山(ほ
うきだいせん)に棲んでいた天狗だといいます。かつて相模大山に
は別の天狗・相模坊がいたといいます。それが相当古い昔、讃岐(香
川県)の白峰に移ってしまいました。保元(ほうげん)の乱(11
56年、平安後期)讃岐に流された崇徳院の白峰の配所を毎晩のよ
うに訪れ、崇徳院を慰めたのはこの相模坊だったといわれています。

 相模坊のいなくなった相模大山は、その後、室町時代中期以降に、
伯耆大山から伯耆坊天狗が移ってきました。原因は南北朝の抗争後、
大仙寺の衆徒が宮方と武士方に分かれて憎みあい、坊を焼いたり焼
かれたりで霊山の面影もなく、山が荒廃の一途をたどっていきまし
た。そんなていたらくに伯耆坊が嫌気をさして、相模大山に移って
きたのだろうとのことです。

 相模大山の阿夫利神社下社左わきには、いまでも伯耆坊の石碑が
あります。またケーブルの途中の駅・不動前の大山寺には伯耆坊大
神の祠(ほこら)も建てられてています。いま伯耆大山には、清光
坊とという天狗がまつられています。このように天狗が移住するの
を「天狗の山移り」といっています。

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(第4章終わり)

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